湖底より愛とかこめて

ときおり転がります

初代『金色のコルダ』への誘い

本稿は、発売して20年経った『金色のコルダ』初代シリーズを中心にいまさら紹介、おすすめする記事です。未プレイの方にも、昔やったわ~という方にも、シリーズを振り返りたい方にも。

 

またこの子はSwitchでプレイできないゲームにばかり人を誘って……。(PSP版はこんどゲーム読解実況チャンネルで実況紹介する予定です)

まあぜんぜん今プレイしなくていいのでみどころ話を聞いていってくださいよ いいなとおもったらソシャゲなら新作もやってるんで

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『金色のコルダ』とは

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当ブログの↑上の記事↑では、すでに『コルダ』シリーズを知っている方向けに「アール・デコ」装飾様式とコルダの表現テーマのかかわりについて語ったりしましたが、今回はもうちょっとそもそも論をしゃべろ。

 

金色のコルダ

『金色のコルダ(以下「コルダ」とも)』とは、女性向け恋愛ゲームの元祖・光栄(現コーエーテクモゲームス)のネオロマンスブランドが出した3つめのシリーズ。元祖オブ元祖で洋風ファンタジーめの『アンジェリーク』シリーズ、和風ファンタジー歴史ものの『遙かなる時空の中で』シリーズに次いで、現代日本が舞台の音楽学園ものとしてPS2の時代に生まれました(初出のWindows版が2003年、PS2版が2004年)。

大まかな雰囲気としては「のだめカンタービレ」に少しファンタジー要素を加えて、年代を高校生の青春ものにした感じのものです。

 ざっくり分けて「初代(最初のタイトル〜2の派生作品)」とその8年後世代の「3〜4」、さらに同じくらい経った世代の現在展開中のソシャゲ「スタオケ」があります。3つの区分けでそれぞれ登場キャラクターが違います(特に「3〜4」のキャラクター設定のノリは遊戯王かテニスの王子様か戦国無双かみたいになっててオモロい)が、世界観とメインの学校、音楽を通して個性的なキャラたちが青春を響かせ合っていくテーマは共通しています。

現代日本の話なのもあって、乙女ゲー度っちゅうかイケメソが甘いセリフをささやきこっぱずかしいぜ度は比較的低め。でも「想いの繊細さ、アツさ」の表現や体験は群を抜いているので、コルダに慣れると他の恋ゲーでは満足できなくなり、ゾンビのようにさまよっているのが僕だ

特にPS2かPSPでしかプレイできない『金色のコルダ2 アンコール』は今までプレイしたオールジャンルのビデオゲームの中で最高峰にすごいゲームのひとつだと当方はおもっています。でも初代シリーズの締めくくりのお話でこれだけプレイしてもしゃあないので、初代シリーズを紹介し終わることがあったらいつか動画チャンネルで皆さんとやりたいなあ。

 

全ての人に、音楽の祝福を

 『遙かなる時空の中で』シリーズや『ファイアーエムブレム風花雪月』など、見た目は華やかで人を惹きつけるけど本質的な題材はキャッチーさよりガチめの教養にいざなってくるのが光栄のお家芸。『アイドルマスター(2005~)』『うたの☆プリンスさまっ♪(2010~)』から現在までずっと続くアイドルソングとダンスのポップな大人気があるというのに、『金色のコルダ』が扱うのはあくまでクラシック音楽の世界。

あ、プレイング要素に音ゲーはあったりなかったりします。初代の方にはないしある作品も嫌なら飛ばせる。曲を仕上げていく育成戦略がメイン。

 クラシック音楽は教養性つうか、ちゃんと味わうために身につけなければいけない知識がきわめて高く、しょうじき9割方の日本人はほとんどなんにも知りません。当方自身も9割に入るといっていいし、コルダの用語辞典でいちいち四角ボタン押して勉強することばっかりだよ。

そうでありながら、CM音楽や季節の音楽の原曲、ポップスに取り入れられているフレーズや音楽技法など、日本人の生活の中には西洋のクラシック音楽が浸透しています。何も知識がなくても音楽に囲まれ、無意識に音楽を愛し愛されているのです。

そんな音楽の教養とすばらしさの芯の部分を、イケたメンズと交流する楽しさや情熱をエンジンにしてちょっと学んでいかないか!? 敬遠せず! というのが、『コルダ』です。

もちろんイケたメンズを落とすことを楽しむだけでもいいし、そうしてるうちになんとなくクラシックに親しんでるという光栄の罠。

パリピ孔明のドラマもいつの間にか三国志好きになるようなつくりでよかったよね。徐庶の話とか(別にパリピ孔明は光栄の作品ではない)

 

普通科/音楽科

 舞台となるのは横浜市にある高校「星奏(せいそう)学院」。上のジャケ絵では二人の男子だけ制服の配色が異なっているのがわかるとおもいます。制服の色が上下逆なのは科の違い。普通科と音楽科が併設されているのが特徴で、「全ての人に音楽の祝福を」という建学の理念を持っています。

音楽家や音楽関係者の輩出において名門で、遠方からも生徒が入ってくるし、なかでも約3年に一度開かれる学内コンクールで好成績をおさめた者は音楽の道で成功することが多いといわれています。

しかし、そんなん普通科の生徒にとっては関係ない話で、初代の時間軸では「音楽科のやつらってお高くとまってるよな」「クラシックなんて文字通り古臭くて学内発表イベントだるい」とか思われていました。先鋭化する音楽科と雑草魂な普通科の溝、つまりクラシック音楽と一般人とのあいだの隔絶は広がるばかり。

 初代の主人公、あなたは、クラシックに対して9割方「ふつうの人」であるプレイヤーの導入にふさわしく、普通科に通う普通の横浜女子です。

ある日あなたは音楽の妖精が見えるようになります。学園には音楽の祝福を与える妖精が住んでいて、学内コンクールに出るべき「音楽と縁深い人生を送っていく天与の素質をもつ者」みたいな感じの人にだけその姿が見えるというのです。妖精はあなたに「誰でも弾けるようになる魔法のヴァイオリン」を授け、それを弾いて学内コンクールに出るよう頼みます。普通科と音楽科の溝を埋めるいい機会だとか言って。

かくしてあなたは学内コンクールに出ることになり、このゲームの攻略対象というのは、基本的にその楽器無差別級コンクールでのライバル奏者のことです。一部、先生とかOBとかもいます。

 

 いきなりヴァイオリンかよ〜ッ!? そんな、音を出すのも難しい、ふつう年齢一桁のときからやらなきゃプロにならないような楽器を〜!? 選ばしてくれよ何で出るかくらい〜! おれ声楽ならいけるから〜!

はい、声楽やピアノではだめです。ヴァイオリンであるからこそ、いいんです。
歌やピアノや打楽器は多くの人が触れたことがありますが、ヴァイオリンのような擦弦楽器は金管木管よりもさらに触れる機会がなく、習っていない人なら近くで見たことさえないかもしれません。なのにヴァイオリンはクラシック音楽の中では一番の花形、王道の楽器ですよね。弦楽合奏やオーケストラの中では奏者のリーダーも務めます。

「なんか格調高くてカッコいいし美しいし憧れはするけど、自分のような凡人が触れてはいけない気がする……」と遠巻きにしていたクラシック音楽のまっただ中に、あなたは飛び込まされるわけです。

 

ライバルたち/音楽へのスタンスの擬人化

 攻略対象が「ライバル」であるというのも、『コルダ』のきわだった良いコンセプトです。

特に初代はパラとして親密度ライバル度が分かれており、これは昔のネオロマンスシリーズにしばしばみられるしくみ(「想う心」/「信じる心」や「好意」/「敬意」とか)なんですけど、優れた男性たちが主人公の女の子をいとおしく思うことと「実力を認める」「負けていられないと思う」「尊敬する」といった昔なら「男の友情」と呼ばれていたような気持ちがあえて分けて表現されているのがすばらしい。すごくフェミニズムだしヒューマニズムだよね。もちろん最近のネオロマンス作品にも、パラとしては残ってないけどテーマとしてバリバリ表現されています。

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しかもパラが分かれてるってことはですよ、親密度とライバル度の比率によって違うイベントが起こるってことなので、マジでコルダ初代は一生遊べる。見てないイベント半分くらいある。

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 ライバルたちは、いつもサクリアやら八卦やら『風花雪月』ではタロット大アルカナに対応した紋章やらを根本のモチーフにしたキャラクターを作ってるコーエーだけあって、音楽属性の擬人化色が強くて華やかです。髪の色もファイアーエムブレムめいていますがこれはあくまでイメージカラーだからね。

ちなみに人物の名前には太陽系の惑星を中心とした天体の名前が入っていることが多く、これは西洋クラシック音楽の哲学が惑星の運行になぞらえられた宇宙観をもっていることに由来しています。主人公はデフォ名に太陽の名を持つ女(変更可)。

もちろん、『風花雪月』をご存知の方はそのキャラ表現のことを考えてもらえばわかるように、属性モチーフは華やかで奥深いキャラクターを形成するだけではなく、抽象的に作品テーマの根本を描き出す異なる視点のカメラとなっています……。

たとえば初代のメインキャラクターをご紹介します。(画像はおおむねリメイクの『金色のコルダ2ff』の公式サイトより)

 

月森蓮/ヴァイオリン(CV:谷山紀章)

 初代の「顔」であるメイン中のメイン攻略対象、千秋先輩的存在(先輩じゃないけど)である月森蓮(つきもり・れん)は、唯一主人公と同じヴァイオリニストとしてコンクールに出場します。名門音楽一家に生まれ、物心つく前から音楽家の道を歩む、出場者の中で最も磨き抜かれた孤高のソリストで主人公にもナチュラルにすごく厳しいです。「音楽は調和だ」と言い、すべての項目で高い水準を要求してくるため彼に認められるのは至難。

ストイックに音楽を追求していて浮世離れしている、音楽科の極致にいるような生徒で、「太陽と月」として主人公と対置する存在です。プレイヤーの例の「なんか格調高くてカッコいいし美しいし憧れはするけど、自分のような凡人が触れてはいけない気がする……」の気持ちの擬人化のようなひと。西洋クラシック音楽はちっぽけな個人が神や宇宙の真理や天上をめざす「憧れ」の美の世界だといえて、遠く厳しい音楽の世界の象徴として主人公は月森を追いかけ、月森もまた見果てぬ音楽の天空を目指し続けています。

『コルダ』シリーズの中での「月」の人物は、風花雪月の「蒼月」という章名がそうであったように、主人公が音楽を追いかけるときの憧れや理想、目標になる遠い天空の輝きを意味します。

タロットでいうなら「皇帝」。四大元素でいうなら「風(天)」的なかんじ。フェリクス系。

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ちなみにいわゆる「無印」、一作目の『金色のコルダ』は親密度とライバル度でイベントがいろいろあるだけでなくふつうに難しくて。攻略見ないでプレイしてた当時、月森に「君さえよければ明日からも一緒に帰らないか?」て言われたとこで一周終わった。もちろんそれはまだ全然イベント攻略の途中にすぎなかったんだけど、月森に認められ好意をもってもらったという達成感がすごくてもうそれがエンディングだとおもった。おれたちの戦いはこれからだ――!!

 

土浦梁太郎/ピアノ(CV:伊藤健太郎)

 主人公とはまた違った意味で月森に対置するのが土浦梁太郎(つちうら・りょうたろう)です。音楽科まっしぐらのヴァイオリンと対照的に、主人公と同じ普通科からのコンクール出場者で比較的誰にでも親しみやすいピアノの奏者です。なんといってもピアノは押せば音が出る。猫ふんじゃったも弾ける。

ピアノめちゃくちゃうまいのですが普段はそんなのおくびにも出さずサッカーとかやっており、「別に普段から音楽のことばかり詰め込んでるお偉い音楽科サマじゃなくても音楽はやれるだろ」という余裕と反骨心をもった男っぽい兄貴分です。ちょっと怒りっぽかったり言い方が強かったり体育会系で演奏も力強く荒々しいのですが、あらゆるオーケストラ楽器の音階をカバーし整然と表示するピアノらしく、全体が見えており理論を組み立てるのも得意です。

つまり、こいつもタロットでいうなら「皇帝」かよ。真田系。四大元素でいうなら「土」。身近な生活感や身体感があり、天なる月森と対称をなします。

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実はコルダにはこの二人をはじめとしていつもふたりの対置するタイプ違いの皇帝男がいがち。

 

志水桂一/チェロ(CV:福山潤)

おい!! なんだこのけしからん桂一クンは!! おじさんは許さんぞ!!

 志水桂一(しみず・けいいち)は、見ての通りチョカワな後輩です。音楽を勉強するために田舎から出てきています。

「天使がチェロに背負われて入学してきた」みたいな見た目でいつも眠そうにふわふわポエポエしています。しゃべり方もスローモーで常に音楽のことを夢想している変人天才タイプで、月森以上に浮世離れしています。

チェロのもつ「楽曲のベースでリズムを刻む」性質と「体温を感じさせるあたたかな音色」の性質をあわせもち、メトロノームのように現実離れした正確な技術を要求したかと思えば常人にはとらえられない音楽の霊感をキャッチし音楽で世界や主人公とつながろうとグイグイきたりします。なんとも概念えっちなショタだのう。

タロットでいうなら「女教皇」、四大元素でいうなら「水」。男性だけど巫女性がある。世界からインスピレーションを受け取って出すタイプのアーティストは巫女だよね

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火原和樹/トランペット(CV:森田成一)

 火原和樹(ひはら・かずき)はオーケストラ部の部長をつとめる陽気で活発な上級生。トランペットのあっけらかんと気持ちのいい音色のイメージのままに、純真で屈託がなく誰とでも仲良くなろうとする底抜けの「いいヤツ」です。気持ちよすぎて火原のテーマBGMを目覚ましに設定してた。

音楽科の所属でオケ部長ですが生粋の音楽エリートではなく運動部系の人間で、中学で始めたトランペットにハマり星奏の音楽科に! そのため「音楽はみんなで楽しむもの」という感じのポップなモットーをもち、普通科にも友達が多いです。これもまたトランペットらしい性質ですよね。ピアノのように触って音を出したことがなくても、トランペットは一般人にとって楽しみやすいキャッチーで派手な魅力のある楽器ですから。

女の子との恋♡についてはロマンチストで、「好きな女の子のこと守って大切にしてあげたい!」と夢見ています。リーダーシップの強さをもちながら自由で素直な子供の心をそのまま残し、ときにはペションと濡れたワンコみたいに落ち込んだりするとこもかわいい。

タロットでいうなら「魔術師」や「戦車」の若き英雄だけど温厚で決して攻撃的にはならない、四大元素でいうならマルス神の「火」。

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柚木梓馬/フルート(CV:岸尾だいすけ)

 柚木梓馬(ゆのき・あずま)は学院のアイドル的存在である人望極大の上級生。

華道の家元であるお金持ち名家の息子という生まれ育ちにふさわしく普通の男離れした美しい長髪、総金作りの豪奢なフルートがよく似合い、物腰柔らか、いつも取り巻きの女の子たちに囲まれています。もちろん音楽科様。「木星」も意味の強い惑星で、大神ゼウス、ユピテルの星、王侯や権力者を意味します。

品位を保つよう躾られ、美の教養高く、事業家の視点も持ち、常に注目される身の上のため、「いかに大衆から評価を受けてきたか」を評価します。人から支持されるには実力だけでなく「見せ方」の意識が必要であり、「自分がどうしたいか」だけではいられない、それも芸術の本質のひとつということです。フルートは華麗で華奢なビジュアルの割に3オクターブもの広い音域をもち、柚木のセルフプロデュースも大胆な幅広さをみせます。

火原とはタイプが180度違うけど高校三年間ずっと同じクラスの親友。

タロットでいうなら「法王」。四大元素でいうなら「風」と「水」。

 

 

……のような感じに、それぞれ生まれ育ちや楽器の個性や才能の方向の違いから音楽への向かい方や哲学が違う、ひいては生き方がぜんぜん違う学生たちがライバルとなり、合奏し、友情をはぐくみ、ぶつかり合いながら人生の図を描いていく、教養系王道青春ストーリーとなります。

残りの人(女の子の出場者もいます)は実況する機会に解説しようかなとおもいます。

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近日中にやろうとおもっているのでオッ見てやるかとなった方はチャンネル登録よろしくね。

 

異質を編み合わす金の糸

 まとまらないほど強い個性や、うまく理解し合えない感覚や思想の違いを描くのもコーエーの得意とするところです。

楽曲に対する考えかたや表現方法の違いから、ぶつかり合うふたり。
お互いに真剣だからこそ起きることです。

――『金色のコルダ2ff』公式サイトより引用

『コルダ2』では、合奏することになったかつてのコンクール出場者たちがしょっちゅう「対立」というイベントを起こします。ちょうど風花雪月の支援CとかBみたいなやつ。音楽観の違いによっていちど物別れになった二人は、頭を冷やしてそれぞれ主人公と二人練習をすると考えを整理し和解します。が、別にお互いに妥協して折り合うとか考えを曲げて中間をとるとかではありません。他者との違いを知ることで自らを見つめ、個性の活かし方を考えていくのです。

 

 考えてみれば、合奏というのはそもそも、決して同じにはならない別の個性をもった違う楽器や違う奏者がいるからこそ成り立つものです。どんなにすばらしい奏者がいても、この世にひとりの奏者、ひとつの楽器だけあればいいなんてことにはなりません。強さではなく、美しさの世界だから。美しさはひとつではないし、人が立ってる場所の数だけあり、相容れないようなものでも組み合わせてハーモニーを作るものです。コーエーテクモゲームス制作の『バディミッションBOND』もそう言ってる

ひとつになれない、独立した他者どうしが、他者であることを尊重し合いながら絡まりあってひとつのハーモニーを奏でることは、現代的な恋の理想でもあります。そのハーモニーは音の翼だから、現実の困難を飛び越えて空に響き、ふたりの心を結ぶでしょう。それをコルダでは「ヴァイオリンロマンス」と呼びます。

「コルダ」とは「弦(cord)」のことです。あなたのヴァイオリンの音色が合奏者どうしの心をつなぎ、普通科と音楽科をつなぐ、金色の糸になるのです。

 

PSPをHDMI接続するケーブル出たことだし、初代の実況プレイやりて~~

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近日中にやります(願望)

 

 

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あわせて読んでよ

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涙の湖底に眠れ―遙か7阿国ルート感想

本稿では『遙かなる時空の中で7』の「阿国」個人ルートについて感想を言ったり考察したり八葉「天の玄武」の解釈をみたりしていきます。

他のキャラの記事ではキャラクターデザインやシナリオの見どころの紹介が終わってからネタバレ部分を始めるようにしてるのですが、今回は序盤からネタバレをしていくことになるので未プレイの方はご注意ください。

あと『遙か』シリーズ全体のテーマや背景になっている日本文化解説に力が入っちゃったので幸村の記事より長い。

 

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 未プレイの方向けに『遙か7』をオススメする記事はこちら

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 『遙か』シリーズの中での『遙か7』のテーマ位置づけについてはこちら

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 『遙か』シリーズ全体で「八葉」に共通する核となるイメージについてはこちら

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 好きなものは最後にとっておくほうの照二朗です。なので『遙か7』八葉の攻略も残り2人となり、いよいよまともに好きなタイプのキャラクターにゴーすることとなりました。背が高くて優しいおねえさんの阿国さんです。好きッ! 大柄なお姉さん!

お姉さんが八葉になるのはたぶん初(だよね?)なので発売前からワックワック。その要素は「天の玄武」の卦にもよく合っています。

阿国の読み取りには前提として天の玄武の示す意味が大きく関わってくるので、シリーズを通してプレイしてきた方以外にはちょっとわかりにくいところもあったかもしれません。でも遙か1~3をプレイされてた方には特に刺さるリバイバル&アンサー! そういうとこを主に読解していきたいとおもいます。上の「八卦象意」の記事とあわせて読まれたし。

 

 

阿国のキャラクターデザイン

 阿国のデザインは、もうネタバレですけど遙か7八葉唯一の完全二段構えとなっています(あれっ今までの八葉でも唯一?)。武蔵もコイキングがギャラドスになる変化をみせましたが、阿国はそういうんじゃなくて表と裏のように変化します。すなわち、「女の舞い手(昼)」姿と「謎の青年(夜)」の姿です。サバサバと明るい阿国の「中の人」が実は物静かで沈鬱な青年であるという事実とそのビジュアル自体は、阿国ルートに入らなくてもプレイヤーに知らされるようになっています。

 まず大人気Vtuberのガワである昼の舞い手姿について。ビジュアルデザイン自体の話をする前に、「阿国」という伝説について前提をさらっておきましょう。

「阿国」といえば中学の歴史のテストでも書かされる、そういった意味では「黒田長政」とか「真田幸村」をはるかに凌駕する有名人「出雲の阿国」です。現在の歌舞伎へと続く「かぶき踊り」を広めた人物として習います。

作中では阿国に憧れ自分も舞い手になりたい!と言う少女が「出雲の」阿国になることが示唆されていますが、「阿国複数人説」といって出雲の阿国伝説やかぶき踊り流行のムーヴメントには同時期の複数の舞い手がかかわっていて、その事績や伝説が統合されて「出雲の阿国」として伝わっているのではないかとも言われています。こういうのは平安いちの才媛伝説「小野小町」や、それこそ「聖徳太子」「卑弥呼」などの伝説についても同じ、よくあることです。八葉の阿国もその伝説の流れのひと筋として描かれているというわけですね。

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「阿国」は男装して刀を持ったり大きく手足を動かしたりと男性的で派手(かぶいた)なパフォーマンスで人気を博しました。今回の阿国も腰にイミテーションかもしんないけど大刀をさし、女性と男性の装束をミックスしたド派手ゴージャスな舞台衣装を着ています。

薄紫の小袖の上に、女性ものの派手な色打掛のような衣(袖は小袖サイズ)。その上に武士の男性が着るタイプの胸紐のついた薄紫の直垂(ひたたれ)を片肌脱ぎにして腰でくくっている状態です。首周りの黒いインナーや手袋は、特に見た目に男性的な特徴が出やすい部位をそれとなく隠したものでしょう。知ってるぜ女装のときには首と手をどう隠すかいい感じに見せるかが肝になるってことをよ(経験)……。

のちにこの直垂は生来の武家の男姿のものだったことがわかるわけですが、「異性ものの衣服やアイテムをアレンジする」「片肌脱ぎコーデ」は当時流行っていたワイルドで反体制ヒーロー的な「かぶきもの」ファッションの定番的な要素です。阿国は女性だと思われてるので直垂が異性ものの衣服アレンジってことになってなんだかややこしいですが、とにかく八葉の阿国が旅芸人として興行しているのも「かぶき踊り」っぽいものなんですね。

頭頂部でループさせてふくらみを作る「唐輪髷」の髪型自体は当時の遊女(花街のお姉さんだけでなく芸能者を含む)によくみられた髪型でした。阿国みたいな蝶のような大きな輪が流行るのはおなじみの江戸後期の花魁ですが、もとは室町時代あたりからあります。髪の元結いには金の太陽のような髪飾りをさしています。女姿が明るい昼の存在であることを示すだけでなく、日本古来から遊女や芸能者というのが太陽の神を招くアメノウズメノミコトになぞらえられてきたことをあらわしてるみたいに見えます。

色打掛みたいなのに描かれている派手な羽のような柄は、多くの長い尾羽、鱗のような翼から、鳳凰柄であると推察できます。日本におけるフェニックス、火の鳥的な存在として朱雀以上にポピュラーである鳳凰は華やかなだけでなく、実はいろいろな意味・性質が伝わっていて、阿国と符合する意味深なところもあります。

鳳凰はコーエーテクモお得意の三国志で天才軍師諸葛亮・龐統を「臥龍鳳雛(がりゅう・ほうすう 眠っている龍と鳳凰のひな鳥、まだ世に出ていない偉大な人物の2つのたとえ)」と呼びならわすように偉大な神獣として龍と対をなす存在であり、また日本においては迦楼羅(かるら)や迦陵頻伽(かりょうびんが)といった仏教の浄土的モチーフと同一視されることもあり、浄土信仰の代表である十円玉の裏のお寺、平等院鳳凰堂の屋根に乗っかってます。さらに鳳凰はよき君主のもと世が平らかに治まるときにのみ現れる聖なる瑞獣ともされます。

『遙か7』より後の作品ですが、「平らかな世」の象徴としての瑞獣といえば…………

 

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 夜の男姿のほうも、小袖の上に片方直垂を着かけています。でもこれはワイルドな着こなしというよりは、ちょっと高貴な上流武家の御曹司が世を忍んでカジュアルダウンしているという印象ですね。ちゃんと袴履いてるし、袴に扇をさしているさまも舞い手ではなく武家の貴公子らしい。小袖の右肩に直垂がかかっているという衣装の構成じたいは昼の女姿と同じで、小袖と直垂の色の明度がちょうどネガポジ反転するみたいになっています。同じなのは紫と水色のマーブル胸紐だけ。リバーシブルかなんかか?

黒い直垂の下の水色の小袖は、彼の素性がわかってみると、例の大河ドラマの人が若武者のころよく明るい青や緑の服を着ていたのと同様、明智光秀の水色桔梗旗印になぞらえられていたんだなあ……ってなります。水色じたいは(麒麟がくるでもそう扱われていたように)「木」の気に属する色ですが、薄紫や黒とあわせると清らかで静かな五行の「水」をあらわす色にみえます。水気を司る八葉は代々天の玄武だけで特別です。また、天の玄武のメインカラーである紫色は多く「(何かの事情で身をやつしている)高貴な人」をあらわします。

1~4までの『戦国無双』シリーズでは明智光秀は「水色~紫色を基調とした衣装、暗い色のサラサラストレート長髪の、物静かで品がよく憂いに満ちたたおやかな男性」として描かれており、無双プレイヤーには阿国の男姿は「コーエーの明智概念」のもの憂げな一面をキャラクター化したように見えてさらに秀逸です。

男姿の水色の小袖にひかえめに描かれている柄、かつ個別ルートのメッセージウィンドウに描かれるのはたぶん芍薬唐草です。勇ましかったり堅牢だったりはせず、女性的で美しい曲線の花模様というだけでもピッタリですが、芍薬および牡丹の唐草は鳳凰と同じくやはり仏教の浄土イメージと結び付けて用いられる装飾です。

いや別に作中で仏教の話はしとらんかったやんけという感じなんですが、そこはこう、直接してないですが、概念的に関係してくるんすよ。『鬼滅の刃』とかも直接じゃないけど仏教思想を表現した作品だったし。マジでマジで

 

阿国のシナリオ描写

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 戦いを厭う阿国のストーリーは「運命を血風ド派手に切り開く」のが当たり前みたいな戦国の世において最も異彩を放つ物語といえます。戦を戦わない。戦って守り通さない。しかし、それだからこそ『遙かなる時空の中で』シリーズの本流に戻っている、という逆説的なことにもなっています。

どういうことかは詳しくは下の見出しでお話しします。

阿国の物語のキーになっているのは「涙」「生きながら死ぬ」ことと「逃げる」こと。さわやかな風である幸村やどこまでも上へ燃える炎である武蔵、あるいは天にて輝く聖なる日である長政と真逆をなし、どれも景気が悪すぎ湿っぽすぎるワードですが、この景気の悪さ、沈鬱さ、いわゆる女々しさこそが本来の天の玄武の性質です。天の玄武の「坎」の卦を象徴する動詞(卦徳)は「陥る」、暗くくぼんだ真夜中の水の底に沈んで浮き上がれないでいることをあらわしています。

じゃあ天の玄武の坎の卦は「悪い」ものなのか?っていったら、世界を構成する大きな要素にいいも悪いもないですし、なによりわれわれがルビパの描く天の玄武の人物像に魅力を感じている以上、彼らはすばらしい何かをわれわれに伝えてくれるはずです。

 

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 ていうか、「悪い」ってなんなのか? 景気が悪くて女々しくて何が悪いのか? って話でもあります。

阿国が生きる人生は男性的な明るく強い世界で「よきこと」とされる道の外にあります。幸村や武蔵や長政の物語は華やかに光り輝いており、人の目に映りやすいですが、世界や人間の心は明るく強くあろうとする面ばかりではありません。世界には雨の日があり、夜があります。それを特に現代人は忘れがちであり、それどころか、悪いもの、ないほうが助かる不要なものとすら思ってしまうことがあります。

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阿国の天の玄武の物語や、大和の地の朱雀の物語は、光と影のうち影の面を描いたもので、二人で今作には登場しない黒龍の神子的な役割を担っています。特に天の玄武はアンジェリークシリーズの「闇」や「水」のサクリアに通じますね。闇のサクリアは邪悪や心の弱さではなく、「安らぎ」「癒し」を司ります。

救いのないホラー映画や終始沈鬱な物語には恐怖エンタメだけではなく癒しをもたらす効果があるといわれます。たとえば一人か二人の人間の恨みが井戸の底から影響してものすごい数の人間が連鎖的に死ぬ『リング』シリーズとか、ふだんの生活の中では軽んじられてしまう個人の悲しみや恨みやつらみがそこでは肯定され、無視すべきでない重大事として扱われるからです。

阿国の物語はホラーではないのですが、そうやってわれわれ自身も軽んじている悲しみやつらみの心を肯定し、ていねいに癒す物語です。そしてやっぱり明るい世界に交感神経を刺激されがちな現代人にはいまいち見えにくいのですが、彼が背負った罪と終わらない抑鬱の亡霊は決して戦国時代だけの特殊なものではなく、われわれ現代人みなの背にも同じようにとりついているものです。

そういうある種の怪談話をこの記事ではひもといていこうとおもいます。

 

『遙か』シリーズでは頼久、永泉、彰紋、泉水、景時、敦盛、風早、遠夜、夕霧、竜馬、コハク、秋兵、村雨のシナリオが好きな方にはいいなと思います。特に1~3の伝統的な天の玄武的で、敦盛の再話構造になっています。他ネオロマでいうと『アンジェリーク』のクラヴィス、リュミエール、メル、フランシス、『金色のコルダ』の柚木、冬海ちゃん、七海、ソラが好きな方に。阿国のシナリオに燃えたかたには『パレドゥレーヌ』のエクレールやエヴァンジル、アデライードのストーリーもおすすめです。

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憂き世を捨てて

 いきなりですけど、阿国のストーリーって言いたいことは理解できるが、テーマがマジで腑に落ちるのがかなり難しい話だったとおもうんですよね。それは阿国のストーリーが、われわれが現代社会を図太くガサツに生きていくうえで忘れてしまっているもの、捨ててしまったものこそを描いているからです。

 

 阿国のストーリーを読み解くには、いくつかの「現代のわれわれがあまり意識していない、日本的な文化」についておさらいしておく必要があります。まずは、『遙か無印』『遙か2』に描かれていた、「もともとの遙か」的な国風文化の世界観や美意識です。

知っての通り遙かシリーズは和風ネオロマンスで、和の美意識のそもそも論として平安時代の京の都をモチーフに始まりました。平安時代から続く日本の美意識とは一言でいうと「もののあはれ(物の哀れ)」です。男女を問わず宮廷人から庶民まで何かにつけてしみじみとした趣を感じて詠嘆し、歌を詠み、「エモい(いとあはれ)……」つって乾飯がふやけ枕ベショベショなるほど涙を流すという美意識です。これを表現して、遙か無印の八葉はなんと全員に「泣き顔」の立ち絵をみせるクライマックス的なイベントが用意されていました。その後も全員でないにしろけっこう泣き絵の多いことが特徴的なシリーズでした。最近はそうでもなかったけど、今作の「泣き顔」担当が阿国というわけです。

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そしてなにがそんなに泣くほどエモいのかといったら、根底にあるのは世の無常観です。美しい花は散り、愛しい人とも別れがあり、なつかしい日々は過去へと流れて消えていき、何一つ永遠であってはくれない。それを感受性豊かに悲しんで、どうすることもできず、ただ落涙する……というのが本来「大和魂」と呼ばれていたものです。しかもこれはネガティブなものではなく人間のかけがえない美質とされてきました。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。

――『平家物語』冒頭

世の無常観の美意識が根底にあるのは平安時代のみやびでおじゃるな貴族社会だけではありません。勇ましく合戦に参加する神子を描いた『遙か3』でさえ『平家物語』の「諸行無常」をテーマにしていましたし、江戸時代以降の俳句文化を代表する松尾芭蕉の『おくの細道』も無常観をテーマにしています。夏草やつはものどもが夢のあと。義務教育で必修の古典『竹取物語』『枕草子・春はあけぼの』『平家物語』『おくの細道』はすべて移り変わる無常のあはれを教えるための教材です。ついでに言えば「すべては移り変わり、とどまらない」という世の摂理は白龍の神子の陽の気がずっと象徴していることでもあります。

そのような世の悲しみを豊かに感じ取った日本人が何をしてきたかっていうと、歌を詠み、無念を鎮める音曲や舞をシェアし、そして最終的には遙か1~2の天の玄武がそうしたがっていたように出家、仏の道に入りました。

昔は出家っていうのは単にお坊さんに転職するという意味ではなくて、俗世での自分の人生を捨て去って、ほぼ死んだ扱いになって世のために祈り奉仕するという意味でした。いわば、聖なる社会的自殺です。だから歴史の敗者となった一族の人は自害しなければ出家することが多かったのです(幸村ルートなどでも秀信が出家してましたね)。そして、繰り返すようですがこの社会的自殺はネガティブで悲しいだけのものではありません。「自由になる」、「魂を解放する」すばらしいことでもあったのです。

こうした日本的な美意識や人生観が、天の玄武には特に色濃く表現されてきました。ときとして、まっすぐな道をゆかず迂回することによってのみ自在にふるまえるということがある。「方違え」みたいにね。ここんとこ難しいけど、遙かシリーズが伝えようとしてる日本のあはれ世界観です。

 

 そしてもうひとつ。阿国が「女の舞い手阿国」に扮していることの背景について。

阿国は「出雲の阿国」伝説や当時の芸能者の一つの側面をあらわしたものだ、とすでに述べてきました。「阿国」伝説には民衆の心をつかむにいたった一定の特徴があります。

阿国の特徴として伝わっているのはおおむね以下の2つかな。

  • 男装をして刀を持ち派手な(かぶいた)演劇的舞踊を行った
  • 諸国を回る「歩き巫女」でもあった?

 「男装の女性舞い手」という意味では遙か1~2のシリンが扮していたり遙か3の後白河上皇が大好きで目がなかったりした平安時代の「白拍子」とも似ています。阿国のストーリーでも語られた「義経と別れた悲しみを舞ってみせ人々を感動させた静御前」も白拍子で、似た系譜の存在であると意識されています。

一方、「歩き巫女」あるいは「渡り巫女」とは特に戦国時代に多く伝説がある遍歴の巫女のことです。全国を移動しながら土地土地で祈祷をしたりありがたいアイテムを売ったり、したがって勧進興行として旅の芸能者を兼ねていることも多くありました。穏やかな世であれば田んぼの神様を喜ばせるために舞っていたんでしょうが、乱世においては死者の魂を慰めみんなのどん底テンションを上げるために求められました。

白拍子 静御前

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白拍子と歩き巫女はどちらも遊女を兼ねることが多かったのですが、その当時の「遊女」とは江戸時代の遊郭に囲われた売春女性とはニュアンスが違っていて、「神を憑依させる者」の意味もありました。「あそび」とは歌舞音曲などの芸能のこと。あそびは神をよりつかせるトランス状態を作り出し、「遊」は神をあらわす言葉でもあります。

さらには白拍子や出雲の阿国のかぶき舞いが「性別を越境する」「中性・両性的になる」ことには、神の力をもったものに一時的に変身(トランスフォーム)する効果があると信じられてきました。現代でも歌舞伎の女形には神聖なまでの特別な美があります。能面をつけた舞いとかの神聖さもそうですが、「もともとの自分からはかけ離れた仮面」に表現を託すから、特別な力が生まれるのです。バ美肉おじさんは神力をもつ。

 

 文化のおさらいが長くなりましたが、そういうわけで阿国が本来の自分の名や身分を捨てて両性的な女舞いをしているのは「社会的自殺をして祈りに生きる」もののあはれの出家の文化「芸能によって自分とは違うものに変身する」巫女(シャーマン)の文化をうまくミックスした生き方なんですね。ほんとうまいよ。

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阿国は生きながら死に、死者のために舞う。

それは本人の自認としては逃げと流されの果てに転がり落ちた進路でしたが、知らず知らずのうちに、彼の優しく芯の強い心の声を映し出してきました。

 

「許嫁」の悲劇性

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 阿国のいわば「俗世での生」の名は明智光慶(あけちみつよし)。主人公のかつての許嫁の少年にして、令和の世でも戦国の世でも誰でも知っている「主人公の父織田信長を討った明智光秀」の嫡男が落ち延びたものでした。途中名乗った通り名の「長山十五郎」の十五郎部分は明智光義の通称(織田信長なら「三郎」明智光秀の「十兵衛」にあたる)、あと長山部分はこのせいで「えーっ誰だろ? 知らん人だ、創作かな」ってノホホンしてしまったんですが、よく考えたら明智氏の古くからの居城である明智長山城(長山が地名)のことですね。

男姿の彼は天の玄武の「坎」の卦があらわす「暗い真夜中」に、「涙の水にぬれて」「秘密を隠し」「暗く悩み苦しんで」登場します。アーネストや九段、昼の阿国とあまり湿っぽくない天の玄武が続きましたが、光慶の登場は今までにないほどのパーフェクト天の玄武を突いてきました。

もうさー、遙か7だいたいのネタやテーマは序盤をやればなんとなく読めるけど、これはぜんぜんビックリした。そしてなるほどなァと思いました。上の見出しで説明したような天の玄武のもののあはれで女性的で沈鬱なウェットさは、遙か無印の永泉とあかねのようにはつらつとした白龍の神子と好対照をなす組み合わせだからです。ある意味、幸村ら天の青龍が白龍の神子の性質と似ているから正ヒーローになってるのとは真逆の運命の相手なんですよね。龍と鳳凰のごとくに。

 

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 彼らの父親どうし、すなわち織田信長と明智光秀もまた、真逆の、対立する運命の相手としてうたわれてきました。そこんとこがまたしみるから、長くなるけど書いときますね。

特にコーエーの明智光秀像や大河ドラマ『麒麟がくる』をはじめ近年のフィクションでは、「目的のために摩擦をいとわぬ苛烈な信長」に対する「天下平定のため信長の命に従いながら、これでいいのかと考える優しく思慮深い光秀」という描写が多くなっています。武将としての来歴も対照的でした。もともと尾張の守護代でさえなかった田舎ベンチャー大名から朝廷に天下人たるを認められるにいたった信長と、由緒深い武家の出身でやんごとなき足利将軍家や公家とも通じる知識人でありながら慎ましやかであった光秀。

光秀は主には足利将軍家に仕え、織田家には将軍家方のエージェントっつうか、出向?折衝役?みたいな感じで関わっていたんですが、織田家での戦功や信頼もあつく、なんやかんやありながらまったく違う二人は惹かれ合い、かたく結びつきました。主人公が生まれる2~3年前には光秀はついに足利将軍家を振り切って信長につくことになり、その後信長の天下がキマった、という感じ。

信長はやっと正式に手を結ぶことができた心強いデキる男を喜んだはずです。だから、タイプの違う自分たちの力を結び付けたいと思って遙か7のように自分と性質の似た娘を嫁にやろうとしたとしても不思議はありません。少年の彼や明智一族が住んでいた坂本城は、織田の安土城に次ぐすばらしい城として琵琶湖をはさんだ対岸に築かれました。いわば「光慶となお姫」は、「明智光秀と織田信長」という対岸の概念が和合しようとした夢の結晶だったのです。

ただし、われわれがあらかじめ知っての通り、その美しい夢は結実することなく爆発した……。

 

 かわいらしい、まだ男女の愛も知らないでただ好ましく思い合っていた許嫁ちゃんたちは、不幸にも他人より遠く引き裂かれ、世間的には憎み合うべき仇の間柄ということになってしまいました。

たいへんかわいそうな話ですが、しかし、これは彼らの親が運悪く爆発しちゃっただけの「不幸な事故」ではありません。言い換えればよくある話です。その普遍性が、阿国のストーリーの中では『義高と大姫』の物語を出すことで演出されています。

「義高と大姫」の顛末が「光慶となお姫」に重ねられていることははっきりしています。その似てるとこっていうのはつまり、「親の争いに翻弄され、罪のない子どもが憎み合いを強いられる苦しみ」です。『義高と大姫』は「思い合う許嫁どうしが結ばれることができなかった悲恋」であるのみならず、親の都合で夫婦になれと言われ、また親の都合で敵同士になれと言われ、そのままならぬ苦しみのうえで自分の意思をなんとか貫こうとした子どもの人生の物語です。

これは実は「許嫁」というシステムの構造的な矛盾っていうか脆弱性、哀れをよく表現しているんですよね。木曽義仲と源頼朝の子としての義高と大姫、明智光秀と織田信長の子としての光慶となお姫に限った話ではなく、許嫁の縁組とは親同士の「取引」であることがほとんどで、親同士がいつ激しく滅ぼし合ってもおかしくない間柄だからこそ、和平の証として結ばれるギリギリの空中ブランコの約束だからです。今でも極道フィクションとかで滅ぼし合いそうな組織同士が和平の盃を結ぶために婚姻の約束をする、ていうの見ますよね。

織田信長に斎藤道三の娘・帰蝶姫(お濃の方)が嫁ぐときも、信長の妹・お市が浅井長政に嫁ぐときも、信忠兄上と武田信玄の娘・松姫が許嫁であったこともみーんな、「伴侶になる人が個人的に好ましくても、いつ生家の敵になるかわからない、なんなら現在進行形で警戒すべき存在である」というのが戦国時代の有力武家の婚姻では当然でした。物心つく前から決まっていた結婚相手ってロマンもありますけど、要はそんな年端もいかない子の婚姻カードを速攻で発動させたいほどの緊張感のある取引があったってことです。それが「許嫁」というロマンティックそうな関係性の哀しい本質である……と描いてる、なんともマジレス、歴史のコーエー……。

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そしてこの「許嫁の悲劇」の構造って、許嫁関係を越えてさらに普遍的でどこにでもある、いっそ生きている限り避けえないとさえいえる、運命の悲劇全般の構造なんですよ。だって、たとえば男と女は結ばれて次世代をつくるけど、「男なるもの」と「女なるもの」は運命的に対立し続けてきた一種の敵国のようなものでもありますから。

明智家と織田家や、男と女の対立だけじゃありません。国籍、人種、階級、歴史……。阿国が一族に対する罪の意識から逃れられずに苦しんでいるように、われわれはみんな先祖の痛苦に満ちた歴史の水脈の中に生まれてきて、本当はなんぴともその亡霊たちからフリーであることは不可能なのです。自覚としては感じないタイプの人もいるでしょうが……。

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たとえばそれは、性差別や民族差別などと血反吐を吐いて戦ってきた(あるいは今も戦っている)人たちに救われたかたちで今の自分たちの生活があるのに、その戦いを忘れて気楽に幸せになるなんて許されるのか? 本当は自分も魂をすりつぶしてでも戦わなくちゃいけないんじゃないのか? という罪悪感として、今現在もわれわれをさいなみ続ける牢獄です。

それぞれに戦い苦しんで死んでいった先人の亡霊に背中を押され続け、「そんなことはしたくない、できない」と頑固にも足を止めたことで背中を押す力につんのめって倒れ圧し潰されて、どこへも行けなくなった阿国。

「過去は過去」「親は親」って、言うのは簡単ですし、現代ではよく言われてますよ。実際そう割り切らなくては自分の人生が亡霊に乗っ取られてしまいますから、どこかで割り切るしかありません。でもほんとはさ、そんなの、あまりにかわいそうだ……。

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そうして英霊たちの要請に応えて自分の生きる世を壊そうとしたのが、阿国の相似としての平島です。ターラが大和に共感し「虐げられたのだから力で黙らせ見返してやれ」とそそのかしたように、平島も阿国に気持ちをわかってもらえると思ったことでしょう。平島ももう一人の天の玄武のようなもの、強大な一族の亡霊の無念を背負って生き残ってしまった、自分の人生を殺して戦うことから逃げられなかった心清き子どもだったのです。

阿国ルートのラスボスはその平島に呼び出された父・光秀の怨霊でした。「神との間のへその緒を切り、人として歩き出す」遙か7のテーマの中で、阿国にとっての「神」とは父親をはじめとした死んでいった一族のものたち、しかも武蔵にとっての父や師匠のような「乗り越えるべき強さ」とかじゃなくて、「愛し、救いを願ってやまないもの」「何かを返したいのに返せない美しい秩序」としての亡き父です。

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真夜中の、最も悲しい淵とは、救われ生きていることに何も返せないのを罪だと思う、小さく優しい魂のことです。

 

甕覗きの鏡

 阿国のストーリーには「鏡」の構造が頻出します。固有術「流扇鏡」があらわすように鏡は水に通じます。

水に落ちた自分を自分が引き上げることができないように、自分で自分を救うことは難しいです。しかし、本当に自分の魂を殺すのも助けられるのも自分だけ。阿国ルートのテーマであるこのいかんともしがたさ、どうするつもりなのかなと思ったら「鏡のむこうの自分」である他者を助けることで自分を助けるという方策がとられました。

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夜の男姿の阿国が死を嘆いていた小鳥を、主人公は「助かるかはやってみないとわからんじゃん、もしだめでも死ぬのを待つだけなんて嫌だからやります!」と介抱しました。阿国は男姿では無理だよ……とかたくなにネガりましたが、わざわざ急いで女姿に着替えてきて偶然を装って薬箱とか渡し、いっしょにポジティブに小鳥を看病しました。

阿国は弱弱しく死にゆくばかりの小鳥に自分を重ね映しにしていたので、「自分はこうしてゆるやかに死んでいるしかないんだよ」という主張に「そんなことない! 生きようとしていい!」と返されたかたちになります。そして、自分に生きろー!って応援するのはムリでも、「神子を助ける阿国お姉さんとして、小鳥に対して」ならがんばれ生きて!って言うことができる。

 

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 主人公に「涙を流すのもいい、悲しみや涙は心を癒す」と肯定され、阿国は否定していた自分の悲しみの心を見つめ舞いにのせて表現することに目覚めます。阿国の悲しい舞いの演目は、アゲアゲな演目とは違ったかたちで観衆を感動させました。豊かな悲しみとでもいえるものが表現された舞いに観客は自分の心の悲しみを投影してとっぷりしみじみ悲しんだのです。これもまた、「鏡」の作用です。

最初のほうで話した、「ホラーや沈鬱な物語が心の癒しになる」ってやつと同じで、芸能には感情を描き出す鏡の力があります。戦国乱世では庶民にいたるまで、生きるのに必死で悲しみをちゃんと悲しんであげる余裕がありません。いつしか心はカラカラに乾いて麻痺し、感受性が鈍り、「メソメソして何になる、気持ちがなんの役に立つ」とかって自他の人生を大事にできなくなります。もしかしたら現代だって同じなのかもしれません。それは不幸なことなんだけど、乾いちゃったものは自分ではどうにもできません。だから、もの悲しい芸能がある。

安土桃山時代より前から流行ってたものですけど、「かぶき踊り」と双璧をなす日本文化を象徴する歌舞といえば「能(当時は猿楽といった)」です。能とか織田信長がよく舞ってる哀しい系の幸若舞って「死者の悲劇の人生物語」なんですよね。こうした日本の詫び寂び、もののあはれをあらわした悲しい歌舞は観客が見て心をしみじみさせるだけでなく、現代でも織田信長のように立場のある「強い」人がお稽古事として携わり殺伐とした心に感受性を取り戻していることが多いです。戦うすべての人の心の中に乱世があり、豊かに泣いてくれる鏡としての阿国が必要なのです。実際、遙か7でその立場にある長政も謡(うたい、能の声楽部分)を趣味としています。

結果的に阿国と同じ「女装の舞い手」がやることになった現代の歌舞伎の女形も、「もともと女性ではないからこそ、女性のたおやかで哀れをさそう心を豊かに表現しようとする」鏡としての芸がこのうえなく美しく、人の心をうつものになっています。

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また、阿国自身にも「阿国」という鏡が必要です。昼の世界を生きていく仮の姿、演技である「阿国」は「光慶」という本当の生まれとは違う姿で、しかし仮面だからこそ光慶のままでは表せないさまざまな本心を表すことができるのです。当方も演劇や歌をやるので、こういうのはわかるなあ。

 

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 物語のクライマックスとして、阿国は細川家に嫁いでいた姉・ガラシャ(明智玉子)と互いに「鏡」として救い合うことになります。明智の者はのうのうと女装の舞い手として生きている自分を責めるはずだとずっと苦しんでいた阿国は、姉に正体を見破られてヤバッと思いながらも「息災でよかった」と心から喜ばれてうれしい拍子抜けをします。

お家のために自害せんとする姉を主人公の後押しもあって助けに行ったとき、阿国は姉の「鏡」となって代わりに死んだふりをしてみせました。女の舞い手として生きてきた秘密多き人生、人を感動させてきた悲しい女性の演技の説得力がなければかなわなかったことです。そして、「私を救い出して何になるというのです、私は殿のご恩のため、家のために死ぬべきなのに……」と戸惑う姉に、「姉上はこんなになって生き延びた私に息災でよかったと言ってくださいましたよね」と、姉自身の気持ちを映し出してみせました。

ガラシャと阿国は姉弟で容姿が似ているだけではなく、境遇においても似ています。阿国が滅びた一族から再興を願われて苦しんできたように、ガラシャは大謀反人の娘として処分されてもおかしくなかったところを夫にかばわれ負い目に感じてきました。二人とも、自分自身は何もしていないことについて責任を問われ、重い負い目を背負い、救ってくれた人のためには自分を殺さなければならないのではないか、幸せになってはいけないのではないかと思ってふさぎ込み続けてきた、美しく優しい人でした。でも、幸せになっていい。自分の望む生き方を殺さなくていい。自分の心そのものでない亡霊からは逃げていい。なぜなら、鏡に映っている弟が自分の心を舞っているのが嬉しいから……。

救い合う鏡になるために、自分のためには流せない涙を流すために、他者がいて、物語があって、弔いがあって、芸術がある。

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そうやって人は自分が生きている罪をなんとか許しあっていくんだよ。

 

”敦盛”の示すもの

 阿国の背景には遙か1~3の古式ゆかしき天の玄武がいて……という話をずっとしてきましたけど、今作の時代とも縁が深いのが3の天の玄武、そう、「平敦盛」です。最後にそのへんの話をしようとおもいます。

思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

――幸若舞『敦盛』

 引用の太字の部分は、織田信長が好んで舞ったとされる、しばしば信長という概念を象徴するように使われる一節ですね。「人生はたかだか50年、生きている間のことはほんの一瞬の夢のようなものである。だからいつ死ぬも是非もなし」ていう、信長の豪快な死生観と前進志向をあらわした歌だって? そういう意味で用いられがちですが、本当の意味とか文脈は実は違います。

この舞の詞と遙か3の天の玄武の少年「平敦盛」になんの関係があるのかというと、この話の前提として平家の少年「敦盛」は源氏方の武将熊谷直実に討たれて死んじゃってるんです。この一節はそのあとになって熊谷直実が出家するシーン。じゃあなんでそれがタイトルになってるのかってーと、彼の悲劇の死が熊谷直実の心と人生を動かした象徴的なできごとだったからです。

以下あらすじです。

平家の中でも清盛たちのドンパチが終わってから栄華の中で育った貴公子敦盛。実戦経験もないのに平家の公達として立派な鎧をつけて合戦に出なければなりませんでした。
「オッ立派な鎧だぞ、名のある将に違いない!」と熊谷直実に目をつけられた敦盛は、一騎討ちに負けて捕らえられました。
将の兜の中を見てみると、直実の息子とも似た年端もいかぬかわいらしい少年だったもんだから、命は助けられないかな?と直実は迷います。しかし迷っているうちに「直実は敵将の首をとるのをためらっているぞ! 裏切る気なんだ、あいつもろとも殺せ!」と周りに言われて仕方なしに敦盛の首をとってしまいました。
直実はそのことにたいへん苦しみ、もう同じようなことを起こしたくない……と合戦への参加をやめ、出家を決意しました……。

敦盛の境遇は、光秀の遅くできた息子であり風光明媚な坂本城で暮らした光慶と重なります。世間やお家の目に責められ自分の自然な心を殺した直実もまた阿国やガラシャ、平島と同じ悲劇です。

俗世の悲しい習い、家や社会の亡霊の呪いをふりほどくために、人は「落飾」、鎧や社会階層をあらわす衣装を脱ぎ捨てて仏の道に入ります。上の『敦盛』の詞の最後では「世の無常を感じたこの気持ちを出家のきっかけとしないのは、それこそ情けないことである」と言っています。出家は社会的自殺なだけではなく、逆に真実生きようとすることでもあったのです。

遙か無印の永泉や泉水は生まれのせいで皇族筋とか有力貴族たちの権力争いに巻き込まれることを厭い、それらから自由でいられる仏の道に入ることを望みました。逃げることは偽りの人生ではありません。自分が望んだわけではないしがらみから抜け出すのは、かえって真実の人生を求めることです。出家とは、『敦盛』とはそういうことの象徴なのです。

 

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 阿国はガラシャに「姉上にもご自分の望む生き方があるのでしょう?」と言い、しがらみを脱いで自分の人生を求めてよいと励ましました。作中ではサラッと扱われていますが、細川ガラシャは「キリシタンとして洗礼を受けたいと望んだが、夫がかたくなにそれを許してくれなかったため洗礼を受けられないまま死んだ」という悲劇の伝説でも有名です。

人質にとられそうになったら自害せよ、と言い渡されていた件とあわせて美女ガラシャが夫・忠興にやたらヤンデレ束縛愛を受けていたエピソードとして扱われることも多いですが、背景には豊臣政権下でのキリシタンへの弾圧があります。たとえば長政の父・黒田如水(官兵衛)もキリシタンでしたが名前を見ての通り仏教式に出家したりキリシタンやめましたよアピっています。長政にもダミアンという洗礼名がありますが、ルートに結城司祭が関わる以外はぜんぜんおくびにも出しませんよね。

豊臣政権下でキリシタンになることはそれこそ社会的に死ぬ出家と同じ(かもっと悪い)で、夫が死んでもないご夫人が出家するなんて困っちゃう、信教という個人の内心の問題がお家の都合に縛られることになりました。

天の玄武は女性的な心の問題を描き続けています。『源氏物語』で紫の上が出家して心救われたいと望んでも夫(光源氏)に許してもらえず失意の中で亡くなったように、女性は夫に依存し縛られて生きるしかないから自由になれず、救われることができないのではないか……と紫式部は描きました。縛るものは夫だけに限りません。現代でも「墓守娘」といって、家に縛られてきた母や祖母やすべての女たちの重みを背負い、同様に家に縛られることを期待され応えようとしてしまう女性の人生が問題になっています。

女性でなくとも、優しさゆえに「家」だとか「恩」だとか「みんな苦労してきたのに」とかから自分を自由にすることができずに苦しむ人はみな同じではないでしょうか。生きながらにして死んでしまう。敦盛も直実も殺し合いたいわけではなかった。永泉は兄と皇位を争いたくなどなかった。本当は、みんな、ただ自分としてしあわせになりたい。誰も悪くないそれだけのことが絡み合い、生者を引っ張る亡霊の手になってしまう。

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 でも、亡霊の声にまじめに応えた優しい平島がせっかく収まりかけた世をムチャクチャにしようとしたように、いまを生きる人の心が救われなければ、乱世は終わらないのです。

きっと平島のほかにも、徳川のもと収まった世に対して「一族の無念を晴らさなければ……」とか「みんな今まで苦労してきたのに、自分は安穏と暮らしてていいんだろうか……」とか焦燥感にあぶられて苦しむ人は山ほどいて、そういう乱世の火はみんなの心の中にしばらくくすぶり続けることでしょう。戦争って、戦争じたいで人が死んだり社会が荒れたりするのもダメですけど、人の心にこそ大きな、長く続くやけどをもたらすんです。

寸断された龍脈を循環させ、乱世の根本原因を洗い流す風雲が主人公の乱世の鎮め方ならば、阿国の乱世の鎮め方は人に涙を流させて心にくすぶる乱世の炎を鎮火し、慰める鏡のような湖です。

偉大なるあの綺羅星
地平の彼方より
赦されぬ我を見守る
其は我の幻か

志は今 久方の光
時代のうねりを包みたもう 永久(とわ)に
戦なき天下 それのみを願い
嗚呼 太平が続くよう見つめて往かん

――明智光秀(緑川光)『暁更之光』

何かがどこかで食い違って爆発してしまった、しかし彼らの偉大な父たちがかつてともに、それぞれの願いで目指したであろう天下静謐。

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「弔い合戦」という言葉もありますが、本来「弔い」で最も重要とされてきたのは戦い続けることではなく、一族が根絶やしにされず生き残りの子どもたちが生きて明日の世界をつむいでいくことです。たいへん序盤のはなしですが、阿国がずっと気に病んできた坂本城の明智家中のみんなは、阿国の舞いに弔われ微笑んで天へのぼっていきました。

先人たちが目指した乱世の先は二人なりの、先を生きる子らなりの自分らしいやり方で、きっとかなえられていくでしょうし、それがなによりの答えです。

 

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 次はいよいよ最後になった五月ルートですが、すでに終わってて、すっ……ごい遙か7ロスです。急いでプレイしなくてほんとよかったよ。だってソッコーでクリアしちゃった人はこの感覚をファンディスク出る(よね?)まで何年も味わわなきゃだったんですよね……早く出てくれや……一日でも早く……。

 

 

↓おもしろかったらブクマもらえるととてもハッピーです

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あわせて読んでよ

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幸村と阿国は正反対の性格と生き方のようでいて、テーマは実は同じことの裏表ってかんじでしたね。

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長政とは武家の御曹司どうしマジで正反対の生き方。長政とかの天の白虎は阿国の境遇に置かれても堂々と戦うタイプだな……っていうのが遙か4の布都彦ですね。

仰ぎて天に愧じず―遙か7幸村ルート感想

本稿では『遙かなる時空の中で7』の「真田幸村」個人ルートについて感想を言ったり考察したり八葉「天の青龍」の解釈をみたりしていきます。シリーズのネタはもちろん、特に『遙か7』全体に関係するハチャメチャなネタバレがあります。

 

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 未プレイの方向けに『遙か7』をオススメする記事はこちら

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 『遙か』シリーズの中での『遙か7』のテーマ位置づけについてはこちら

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 『遙か』シリーズ全体で「八葉」に共通する核となるイメージについてはこちら

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 『遙か7』の兄弟作である『ファイアーエムブレム風化雪月』の考察本を書いてたら一年経ってたのでリハビリ状態なのに、「すごい重い」「消化できない」とほうぼうで評判の幸村ルートにいきなりステーキ突入してみました。だって阿国と五月最後に残しといて余韻…て感じにしたくて……。ポンドステーキはデザートに食べちゃダメでしょ……。

しかし正直、天の青龍とはすなわち王道ヒーローのことであり、みんながすごかったと言ってるってことはおれには関係ないってことだなと陰キャそのもののフーンをしていたんですよ。

でも完全に早計だったよね 考えてみたらコーエーテクモに幸村をメインヒーローにされて『無双』ファンがなんも感じないわけがなかったんですわ。それにテーマもどこまでもよくできてて味が深い。遙か7はほんとすごいですよ。

他の感想記事の1.5倍くらい長い話なので注意してください。

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幸村のキャラクターデザイン

 真田幸村といえば、「大名というより武人として」名を残した戦国武将の中では「本多忠勝」や「島津義弘」を上回る最高の知名度をもつ人物です。実際本人が考えていたことはどうであれ、保身のための利害っぽくなく最高権力者に突撃してみごとに散っていった事実は「日の本一の兵(つはもの)」と伝説になり、堺雅人で大河ドラマにもなりました。シブサワ・コウの3Dマップで。

よって、『テニスの王子様』の立海大付属中の真田くんと幸村くんの名前にもなっているように並ぶものなき闘将の代名詞になり、「六文銭の紋」「真田の赤備え」「十文字槍」といった彼のトレードマークはその華々しさもあっていろんなフィクションに繰り返し使われて定着しています。

また、その一騎当千・万夫不当の士ぶりによって、コーエーテクモゲームスの『戦国無双』シリーズを象徴するキャラクターとしてずっとメイン登場し続けています。上記の3つのトレードマークはいつも取り入れられつつ、「無私の義の心をもった、武士の本懐に生きる爽やかな好青年」としてデザインされています。

遙か7の幸村も、その基本要素を踏襲していますね。無双幸村のベースカラーである「赤と白」に天の青龍のカラーである深青を加え、さらに甲冑に西洋っぽいシュッとしたシルエットを取り入れることによって天の青龍らしい清潔な生真面目さと「ナイト」「騎士様」の印象を出しています。

【Switch】戦国無双4 DX

【Switch】戦国無双4 DX

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 幸村・信幸(信之)兄弟の赤い装備や髪型、印象に似ているところはあるが違うたたずまいは、『戦国無双4』をちょっと意識してリフレインさせています。ジャケ絵を見ての通り『戦国無双4』は西軍と東軍に分かれた彼ら兄弟の運命の対決を中心として描いた作品です。別にこの作品をやらんと読み取れることが減るとかではないのですが、テーマにも関わりがあるので知ってると1.2倍くらいおいしい。

あとなんか昌幸パパの顔じゃっかん草刈正雄じゃなかった?(そうやって見ちゃうと幸村は堺雅人に見えてくるし信幸は大泉洋ちゃんに見えてくるしで大変だった)

 

 幸村は兼続とか長政とかと違ってキャラクター化されることが多いですし、武蔵のように今回の変則的な描かれ方でもないため、モチーフの意味はおおむね一般的な真田幸村像と同じと思っていいです。まさに王道です。

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真田幸村の紋として最も有名な「六文銭」は文字通り6枚の小銭であり、これは三途の川の渡し運賃、冥銭をあらわしています。要は緊急時のバス料金的な金額なので、とても財産と言えるものではありません。富貴を望まず、甲冑と死出の旅の最低限の運賃だけを身につけて戦場に出る、という潔い武人の覚悟を示します。

または、緊急時の運賃として常に身につける六文銭は旅人が無事に難所を越えるためのお守りとしても扱われ、困難な道でも前へ進んでいけるようにと願いをこめて旅の衣服に縫い付けられたりしました。

今回の「真田の赤備え(赤を基調とした軍装)」にはファイアパターンが描かれています。和のモチーフにおいては「火焔模様」と呼ばれます。パッと見では幸村の熱い心と、元ヤンっぽさを感じさせます(兄ちゃんは別に元ヤンではないとおもうけど)。『戦国BASARA』など他の作品でも真田幸村と火焔模様が結び付けられていることは多く、その情熱的な生き様と、あとは彼の人生を伝説にした大坂夏の陣で燃える大阪城を背に戦ったイメージが暗示されています。

火焔というモチーフは普段の衣服に大きく使うと派手なのでかぶいた模様となりますが、舞台衣装や神仏の表象にはよく用いられます。生命や感情(特に、憤怒)の燃えさかるエネルギーと、それが常に変化して止まらないこと、そして邪悪を清める神聖さと厳粛さをあらわします。いつもの遙かならば天の朱雀に当てられるモチーフですよね。天の青龍と天の朱雀の卦はこの「噴きあがるエネルギー」「止まらない」「邪を祓う」ということについて似ています。天の青龍の場合「噴きあがる憤怒のエネルギー」の憤怒が自分についての怒りではなく「義憤」的なものであることや、「止まらない」というのがゆらゆらと変化するってより常に前に推進し続けることが特徴です。ジェット噴射で飛んでいくような炎なんだな。

あと『戦国無双』の幸村はデザインコンセプトとして常になんか赤い額当て(鉢金)やハチマキをしててヒーローらしくされてるんですけど、遙か7幸村の場合も赤い頭飾りをしていますね。これは上田の伝統工芸品「真田紐」を示してデザインされているはずです。着物の帯締めやさまざまな梱包に使われているこの緻密な組みひも細工は、真田昌幸・幸村親子が不遇の身である間内職として編み編みしていたとも伝わっています。細い糸を編んで作られるものであるため、美しいだけでなくとてもしなやかで強靭、贈答品のおリボンにも、戦の資材をまとめる縄のようにも使われました。

現在でも真田紐はシンプルな美しさと武人の質実剛健な強さを兼ね備えた和のアイテムとして使われています。特にネモフィラのような「天色(あまいろ)」の糸が使われたものが幸村ルート的にはおすすめですね。和っぽい装いじゃなくてもブレスレットとかにいいよ。

 

幸村のシナリオ描写

 幸村は天の青龍であり、また「戦国の世の終わりを描く作品の真田幸村」である以上、この作品のメインヒーローです。

メインヒーローらしく、彼のルートではひときわドラマティックな運命が描かれます。物語に隠されていた「真相」っちゅうか、そういうものも明らかになるようにできていますから、なるべくなら後半に攻略するとよいでしょう。特に兼続ルートで三成との友情に関する情報量を増やしてからやるといいし、『戦国無双2』『戦国無双4』をやっておくのもおすすめです(ダイレクトマーケティング)。

 「真田幸村」という概念は、「石田三成」と同様にコーエーテクモの『戦国無双』シリーズやその他の戦国時代歴史フィクションの中で無限回の討ち死にをしています。いや、歴史ものなんだから誰だって無限回に死ぬし、ほかの武将がみんな畳の上で死んだわけでもなく非業の死なんていっぱいあるんですけど、歴史のクライマックスで、そこで死んだことこそが歴史に残っているというキャラクターです。

そういう物語は、源九郎判官義経の歴史の悲劇が「判官びいき(もう何も語れない敗北者に対して優しく、ロマンを感じる)」という日本人の性質の名にまでなっているように、日本人の心をとらえて離しません。義経や弁慶にまつわる逸話や歌舞伎とか、『平家物語』とか、南朝への忠義を最後まで貫いた楠木正成の美談など、無数のフィクションで再演され続けてきました。義によって(という名目にすぎなかったとしても)負け戦を最後まで華々しく戦いまっすぐに死んだ真田幸村はまさにそういうロマンと武人の誉れのド真ん中の、ある種神話のような存在です。

しかし、そういう「死んだ王子様」とでもいうべき気高く美しい敗者のロマンは、複雑な気持ちを内包しています。彼らを愛した後世の人間はこう考えます。「かわいそうな彼がここで死なずに生き延びていたらよかったのに……」。しかしそれは「ここで散ってしまった(からこそ)彼の物語はこんなにも胸をしめつけ、美しい」という気持ちがあるから生まれる願いであり、判官びいきはその気持ちが成立した時点で矛盾したアンビバレンツな感情です。戦国無双のファン、毎回「幸村っ……なぜ死ぬっ……」て思う。いや死ぬわいな。幸村なんだから。わかってる。でも思う。

ていうか、判官びいきに限らず、「戦国もの」に対する我々のもののあわれロマンの感情じたいがアンビバレンツなんですよ。幸村ルートには特に顕著ですけど、そもそも「愛する人に危険な戦いをしてほしくない」のであれば、戦国ものになんて接しなければいいのですから。それでも、現代では武力紛争で命を落とすことってどう考えてもいいことじゃないのに、我々は「真田幸村」に、武将たちが戦って生きて死んだことに美しさを感じてしまうのです。この意味で、遙か4の忍人ルートにも通じます。

その、現代のわれわれから歴史の戦いへの、愛の矛盾にひとつのケリをつける、のが幸村ルートです。

言ってしまえば「戦争と暴力と死のロマン」である戦記ものを生業としてきたコーエーテクモゲームスが、その象徴たる真田幸村と恋をすることに本気で向き合ったテーマが幸村ルートにはみごとに描かれています。コーエーテクモの歴史ゲームを愛してきた人だけではなく、戦記ものの小説やゲームを「みんな幸せになってほしいのに」と思いながらも愛してしまうすべての心に届いてほしい物語でした。

 

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 「真田幸村という概念」や「戦記ものへの愛」へのアンサーがあるだけでなく、幸村ルートに描かれている真田幸村物語は遙か7の主人公自身の物語と強くリンクしています

上の記事にも書いたのですが、そもそも天の青龍がメインヒーローの特別な扱いであるのは「若くさわやかなナイト気質の戦士」という卦の人物像がそれに最適であることに加えもうひとつの理由があります。それは天の青龍の「巽」の卦のあらわす「流れる風」「前へ行く」「とどまらない」という性質が、白龍の司る「陽の気」の性質として遙かシリーズで描かれている性質と合致しているからです。(ちなみに、この性質は『アンジェリーク』シリーズのメインヒーローになることが多い「風のサクリア」のもつ性質でもあり、風のサクリアは白龍の神子の位置取りのようにほかの8つのサクリアの中心に位置して表現されます)

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いわば天の青龍は「もう一人の白龍の申し子」です。主人公はプレイヤーのエントリープラグなので主観で描かれ、プレイヤーと完全に分離しませんが、天の青龍は白龍の申し子のテーマを「他者」として見ることができる、鏡のような存在としても描けるのです。今までのシリーズだと遙か3の将臣がそういう役割を果たしてたかな。幸村はその生きざまからして陽の気に愛された人物なので、シリーズの中でも主人公の物語とリンクする性質が最も強い天の青龍です。そこをふまえてプレイすると二重に楽しめますね。

 

 そして、「ナイト気質」である天の青龍ですが、「女性や弱者に優しい騎士様」に「男だろうが女だろうが決意した人間は戦って生きんだよ、守られるばかりではない」と告げるのも天の青龍ルートのルビーパーティーらしい醍醐味です。戦国の世、という戦う男たちの美学、駆け抜ける全力の生命の舞台で、そう宣言して認められるのはロマンそのものです(乙女ゲームのロマンじゃねえかもしれんけど今の時代人間と人間のアツ関係に区別なんてないよな)。

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『パレドゥレーヌ』のアストラッドやヴァルター、エヴァンジル、ヴァン、ユークレース……まいったな、アツい騎士の物語は全部該当するのでパレドゥレーヌの騎士たちのシナリオがおおむね箱推しで好きな人にはおすすめです。『遙か』シリーズでは頼久、天真、イサト、幸鷹、将臣、九郎、弁慶、銀、風早、布都彦、忍人、チナミ、高杉、有馬、秋兵のシナリオ(多い!)が好きな方にはよいかと。他ネオロマでいうと『アンジェリーク』のランディ、ヴィクトール、ティムカ様、ユーイ、『金色のコルダ』の月森、火原、律、八木沢、あとヴァイオリンロマンスの概念が好きな方にはおすすめです。

 

永遠のヒーロー

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 幸村は、主人公と出会った遙か7の作中では完璧なヒーローです。礼節を重んじ、いつも穏やかな笑顔で、乱世の悲しい習いを知っていながらどこまでも正直で素直な善人。それでいて弱者が傷つけられそうなときにはためらわず勇猛に戦います。遙か6の有馬もたいした英傑でしたが、それに人好きのする性質まで加わってまさしく完璧な王子様です。

礼儀正しい天の青龍には珍しく「昔はかぶいていた」「キレるとヤンキー(大和談)」とはいうものの、そのやんちゃな少年時代も関係のない人に迷惑をかける珍走団ではなかったようです。三成、兼続とともに義賊的なヤンキーをやっていたらしいですね。

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礼節を身につけた現在の幸村自身はそのヤンキーな過去を「お恥ずかしい」とか「あのころは不満をもてあましていたのです」とかテヘペロしますが、大阪には当時の彼の無謀なヤンキー行為に助けられた、あるいはともにバカ騒ぎをした名もなき人々がたくさんいるのが描写されています。領地でも民たちの中に入ってともに畑仕事をしたり、作物や酒を持っていってくださいと言われたり。じつに多くの人が幸村の正直さ、まっすぐさを慕い、体を張って助けられたことに同じように心から返そうとします。

兼続はこのことを何かにつけて「幸村は幸せになるべき男だ」「あいつのような善意の塊みたいなやつが幸せになれないんじゃ、世の中のほうが間違ってる」と言います。兼続や三成という計算高いタイプの性格の人間から見ても幸村はどこまでもためらいなくクリアに善すぎて反感とか持てず、三成をはさんで敵同士である長政からさえもあっぱれな男であると高く評価されています。とにかくみんなが「こいつほんといいやつだな」になってしまうのです。

この、人の心にいつの間にか入り込み、善意と好感を与えるという天然タラシ性もまた天の青龍の巽の卦の「風」の性質に関係します。巽の卦の動きをあらわす動詞(卦徳)は「入」。空気の流れはどこにでもするりと入り込み、それが天候を変化させていくという意味です。今作のイメージワードでもある、目に見えぬ無垢な風の流れによって雲が運ばれる「風雲」は、白龍の陽の力に近くもあります。

 

 しかし、兼続の「あいつが幸せにならない世の中なんて…」という言葉は、逆説的にというか、「幸村はその善なる心に見合うようには幸せになれてこなかったし、今後もなれないのではないか、こんな世の中じゃ。ポイズン」という、切ない意味を含んでしまってるんですよね。

あの蒼ざめた海の彼方で
今まさに誰かが傷んでいる
まだ飛べない雛たちみたいに
僕はこの非力を嘆いている
急げ悲しみ 翼に変われ
急げ傷跡 羅針盤になれ

――中島みゆき『銀の龍の背に乗って』

銀の龍の背に乗って

銀の龍の背に乗って

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そもそも、最初にお話しした「判官びいき」の例でいうと、人の心をギュッととらえ幸せを願われずにいられない「いいやつ」というのは、も~~その時点で構造的に「優れているのに、善良なのに、がんばってるのに、かわいそうなやつなんですよね。

「永遠のヒーロー」は平凡に生きながらえることが不可能です。平凡に生きながらえていたらいずれは汚れて醜態をさらすようになるから、その前に死んだおかげで「永遠」になり美化されることができるから、ていうのもおおいにありますが、それだけではありません。平凡に生きながらえることより義をとり、「誰かの平凡な幸せ」をあがなう代わりに戦いに身を投じてしまった人のことを、「永遠のヒーロー」と人は呼ぶからです。

今までの天の青龍の全員に共通する要素がこの「自己犠牲」というか、「己の保身を捨てた、己をむなしくした献身」です。風は、何も自分のもちものを持たず、地上の矮小な利害や臆病につかまることはありません。

幸村は多くを望まず、無欲で、素朴な幸せに満足します。利がなくても、損をしても、人を助け人の幸せを喜びます。『銀河英雄伝説』のキルヒアイスのように、そういう無私のふるまいを本心からできる強い人はめったにおらず、多くの人から愛される英雄となります。天の青龍は幸村や将臣のように朗らかであれ頼久とかのように寡黙であれ、どちらでも高い人徳をもちます。

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その善と強さはある種常軌を逸していて、幸村が「幸村はそれでいいのか?」と聞かれ「いいのです」と答える場面は作品全体を通してめちゃくちゃあります。八葉は基本的に全員かなりの善なる人間なのに、その中でも心配されるほどの善人ぶりは、もはやこの腐敗した世界に落とされているのが不自然なくらいのゴッズチャイルド。彼のカラーやキーアイテムであるネモフィラの花などの「青」があらわすように、「不可能な存在」なのではないか?……と、矮小で小細工でなんだかんだしつつも保身に走る兼続タイプの当方はおもったわけですよ(善人を見ると不可能って言うのやめろよ!)。

 

 なぜ、何が、幸村を……そして、天の青龍たちを、「あらかじめ犠牲になることが定められた存在」、「不可能なヒーロー」にするのでしょうか? 彼らは美しく死んで人の心に爪痕を残したいバカヤローなのでしょうか?

その答えは、今までのナンバリングタイトルでは当方にはいまいちよくわかりませんでした。ふつうの弱い人間である自分にはよくわかんないもんなんだろうな、それでも天の青龍の無私の強さはカッコいい、とおもってきました。

でも、幸村ルートにはその中身が丁寧に描かれていたような気がするんです。

 

義の炎

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 「幸村はそれでいいのか?」「いいのです」を連発する幸村も、炎のように怒りを燃やすことがあります。作中で幸村がとっても怒ったのは、主人公が傷つけられそうなときや日の本の未来じたいを破壊しようとする各種黒幕に向かっていくときはもちろん、おおむね以下のような場面でした。

  • 女子供が無理やり人買いにさらわれそうになっていたとき
  • 秀頼君が何者かに呪詛されたとき
  • 弟が毒殺される原因となった徳川家康に対して
  • 弟の仇である徳川方につこうとする兄に対して

親友である三成が東軍方に捕らえられ処刑されたこととかにももちろん怒りますけど、そのへんは戦国の世の習い、お互いの信念の違いによる仕方のないことである……といつもグッと我慢しています。それさえグッと我慢できる幸村が怒りを我慢しない上記のタイミングの共通点は、「弱く罪のない者が乱世の犠牲となり、顧みられない理不尽への怒り」です。

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大阪時代のかぶいていた幸村が暴れまわっていたのも、「地下人(じげにん)」、つまり身分が低い庶民たちを救うために「危ない橋を渡って」いたからです。当時、京や大阪などの畿内は応仁の乱以降荒れまくっており、足利義昭や織田政権、豊臣政権に建て直されてもまだまだ庶民レベルでは暮らしが再建されていませんでした。身分や財産や仕事による格差も激しかったからです。このへんの時代感は大河ドラマ『麒麟がくる』にもよく描かれていますね。

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幸村はその理不尽に怒り、世に正しき義が行われることを夢みて、手の届くできる限りを助けようとしました。こういう怒りを義憤といいます。「義侠の徒」とはすなわち社会秩序にそむいてでも理不尽に反抗し、弱きを助け強きをくじくもののことです。

幸村が義によって怒り、利なくとも命を張って他人に助太刀するのは、若き日の幸村自身が乱世に翻弄されたことの怒りから発していたと、のちに察せられます。幸村は上杉の人質になるため家族と引き離され、友達はできたけどおうちに帰れず、その間に無辜なるかわいい弟が毒饅頭を食べて苦しみのうちに死んでしまい、おのれの無力と乱世の理不尽にア゛ーーーッってなり、馬を爆走させました。

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馬を飛ばすのは、わずらわしいことが流れ去っていくようだから好きだと幸村は言います。「風になる」ってよく言いますよね。実は、義によって怒り無私の善意を行うこともこれと同じ、「風になる」ことです。

どういうことか?

 

 兄・信幸が家を割って徳川方につくと言い出したとき、幸村は「なぜだ! 兄上は卑劣なやり方で楽丸を死なせたあの男を許すというのか!」と怒りまくり、信幸が出て行ってしまってからもずーっと納得できない!と怒り続けました。普通の人間ならば当たり前の感情ですが、幸村の場合はあまりにも純粋で、身内相手だから駄々をこねて「なんで!なんで!」と泣いてしまっているかのように見えます。

純粋な幸村が「なんで!」と泣いているのは、本当はここだけではなく、いつもです。

……「こんな世界は間違ってる」と強く感じた人がどうするかには、おおむね4種類あるなっておもいます。兼続や宗矩たち社会的な大人なら、「少しずつ世界のありようを変えよう」と考えます。ターラや大和は「思い知らせよう」と感じ、阿国は「世界に極力参加せず離れよう」と諦めました。そしてもう一つが、「世界が間違っているとしても、自分だけでも正しくあり続けよう」とすることです。これが幸村の、いうなれば、意地なんですよ。「善の八つ当たり」みたいなこと。くそったれ!と叫んでみては?

幸村はずっと、不可能なまでの理想を貫いて生きる無私の「風」になることで、自分や乱世への怒りと苛立ちのせつない涙のすべてを、風圧でブッ飛ばそうとしてきたのです。

 

天の風、地の希望

 無欲で無私の「風」として生き、未練を残さずに吹き過ぎていこうとする天の青龍はいつも、「置いて行かないで」「もっと自分自身の望みを大事にして」という寂しさをプレイヤーにもたらします。

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「真田幸村」という物語は、初めから桜の花のごとく、儚く風に吹き散って空に消えてゆくせつなさが約束されています。あとには乱れた草と人の心以外、なんの痕跡も残さないのが風というもの。

べつに風だって好きこのんで人を悲しくさせてんじゃないんですけどね。龍神の申し子である主人公が戦国の世界のすべてを愛し救いたいと願うように、幸村は地にある小さき人々、小さき幸せを穏やかに愛します。死にたがりってわけじゃないんです。ただ、風なんで、行くべきときにはためらいなくヒューッって行ってしまうだけ。

繰り返しているように、天の青龍のこの「風」の性質は白龍の陽の気の性質に通じるので、幸村ルートでは「風である幸村がどうやって地上の幸せとつながっていられるか?」ということと、「主人公がどうやって人としての心で幸村とつながっていられるか?」ということがリンクして描かれています。

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「主人公は白龍の神子ではなく、白龍そのものが人の身に生まれたものである」という真相が幸村ルートで明かされるのはそのあたりのことを描くためです。幸村のイベントで引用される『甲賀三郎伝説』における「龍になったが愛する春日姫のもとに人として戻ってこられた三郎」という筋書きは、「三郎」と「春日姫」のどちらもが相互に幸村であり主人公でもあります。どちらも「行ってしまう側」であり、「愛によってつなぎとめる側」でもある。この双方向性は宗矩ルートと通じますね。

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 「風を地に、神を人につなぎとめるもの」、それはもちろんラブや、写真に切り取ったり強く心に残った「人としての人生の、思い出の積み重ね」です。写真や大事な記憶の思い返しは風のように消えていく一瞬一瞬の「今」をとどめ、いとおしむことができるものです。

 

 加えて幸村ルートでは「風と地がつながる」もうひと側面が丁寧に描かれています。そのカギになったのが「ネモフィラの花」でした。

幸村は美しい花の咲き乱れる現代の主人公の家の暮らしをすばらしいものだと愛しましたが、「じゃあ花の種を持って行ってください、そっちでも植えたら…」という申し出を最初断りました。乱世では、美しい花の芽もいつ戦で踏み荒らされるかしれず、次の季節に咲く花を自分がそこで見られるかもわからないから、と言って。幸村は勇猛な風として前だけを見て駆け抜けるために、地に未練な心を残すわけにいかないと思っていたのです。

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幸村と心を通わせ、彼の弟の墓に詣でた主人公はそこに二人でネモフィラの花の種を植えることになります。「花の種は明日の世界への希望だ」という主人公の心にうたれ、幸村は今を正しく駆け抜けるためだけでなく、明日咲く美しいものを守るために戦うことができるのか……、と思うようになりました。花の種を植えたことは決心を鈍らせる情けない未練ではなく、未来を切り開く理由になったのです。

大阪城落城に際して、幸村は淀殿と秀頼君をかなりダメっぽい状況なのに命を張って逃がしました。秀頼君は、「花の種」なのです。三成との約束を守るためだけではなく、いつか咲くかもしれない、小さくて美しいものの明日を巨人の足から守るために幸村は奮戦しました。

ただ義に生き義に散っていくためにではなく、死ぬまで義を果たし続けるためにではなく、明日咲く花のために戦える。「花の種」は、たとえやっていることが全く同じでも、幸村の心の中を大きく変えたのです。

地に咲いたネモフィラは空の青を、幸村と主人公の澄んだ心を地上に映して、残された人々の心にその可憐な美しさを届け続けるでしょう。

 

咲くや、この花

 弟の死への怒りをおして自分なりの考えで兄が出ていき、家族で争わなければならなくなったことをどうしても納得できない幸村は、こんなときどう考えたらいいのかと五月に聞きました。五月は、「相手の選択が受け入れがたくても、事実として尊重する」と言いました。幸村はそれを胸に刻み、兄の選択を尊重しようとつとめました。

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幸村の「家族で争い合いたくない」という思いは「正しい」ものだし、素朴に兄を思うゆえの気持ちですが、人生の選択はときとして「正しい」「愛する人と平穏無事に暮らす」だけを目指すものではありません。そういう選択が、兄だけでなく幸村の愛する人、主人公の人生にも起こります。

「人としての姫の心と命を保つため、これ以上龍神の力を使ってほしくない」「ずっと平穏無事に生きてほしい」と頼む幸村に、ありがとうわかったよそうするよ、と言ったならば、物語は「真田幸村は友と約束した義を果たし、主人公とみんなを置いて風のように逝ってしまいました~完~」という、まああたりまえ体操なエンドを迎えます。トゥルーエンドへの道は「心配はありがたいけど信念のために必要な時が来たら私は力を使います、すまん」と答えた先に開けます。

ここで注意したいんですけど、あなたが心配してくれるんだから力を抑えて自分を大事にして暮らすよ……というのが、間違っているわけでは決してありません。ていうか、アナザーエンドだと主人公は無事で生きてて、トゥルーエンドだと二人ともこの世の人ではなくなってるわけですから、どっちが「より良い」とかって話ではないんですよねこれは。あえて「どっちが正解」ということにしないために、トゥルーエンドは神域の彼岸で話が終わっているんだと言ってもいいです。これは「生きながらえるかどうかはメインの問題ではない」と描いた遙か4の忍人ルートと同じ構造です。

ではなんの話なのかっていったら、「その人にとって命を懸けるに足る義があるのか、否か」っていう、そこの話なんです。

 

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 主人公が「私は自分の守りたいと思うもののために命をかけたい」という固い決意を示すと、幸村は苦渋ながらそれを尊重することにし、心を決めます。

「あいつを止めてくれ、おまえなら人としてのあいつを守ってくれると思ったのに」と言う五月に、幸村はもはや晴れやかな顔をして「姫は姫の心のままに生きたらいい。私はそれを事実として尊重し、お守りする」とかつて五月自身に教わった考え方で返しました。

かくして、なるべく龍神の力を使ってムリをしないようにがんばりながらも、「その時」が来てしまい、主人公は人としての命を懸けることになりました。しかしやり切った幸村と決意した主人公の顔に悲愴はなく、恋人たちはビックリするほど晴れやかに微笑んでその時を迎えました。

夢が迎えに来てくれるまで
震えて待ってるだけだった昨日
明日 僕は龍の足元へ崖を登り
呼ぶよ「さあ行こうぜ」
銀の龍の背に乗って
届けに行こう 命の砂漠へ
銀の龍の背に乗って
運んでいこう 雨雲の渦を

――中島みゆき『銀の龍の背に乗って』

 

 幸村は兄の道を理解できなくても、悲しくても、尊重することに決めました。固い信念に生きる人に言うことをきかせて手元に閉じ込めても、その人の心を大事にすることにはならないのだと学びました。だから主人公の選択を尊重できました。命は生きても、心が死ぬというときがある。決意した風を閉じ込めようとしても、風の心が死んでしまうだけ。それは幸村も同じです。

人間はなんのために人生を生きているのでしょうか? いや、ただ生きるために生きる、それでぜんぜん十分で尊いです。でも、「それだけ」が大事なのでしょうか?

幸村は淀殿と秀頼君を逃がす説得に、「いずれ秀頼様が己のすべてを懸けるに足る義をみつけるまでは生きるのです。何も恥じることはありません」と言いました。

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真田幸村、ひいては戦記もののロマンって、「死を美化している」と批判されることがありますよね。そこにひとつのアンサーを返したのがこの幸村ルートの大阪城での問答だったとおもいます。命は、粗末にされてはいけません。人の穏やかな暮らしが踏みにじられることは許すべきではありません。だから幸村は弱者を守り、しかし一方で負け戦を駆け抜けます。

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これはどういう矛盾なのか? 清らかな人は死んじゃだめで、自分は死んでいいのか?

大阪夏の陣で武士として誇らしい討ち死にをしようとする幸村たち豊臣忠義の士の命と、武士の頭領としては恥ずべきとされる逃亡をはかって生き延びろと言われた秀頼君の命の間には、なんの差があったのでしょうか?

幸村にとってそこにあったのは、身分や強さや気高さの違いではありません。投げ出されていい種類の命があるとか弱いものはとにかく守られるべきとかいうことではなく、幸村はすでに命を懸ける義をみつけ、秀頼君はまだそうではなかった、というだけです。

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この場面は、「私は龍神の神子なのに、一人でメソメソしてたら私を信じて戦ってくれるみんなに申し訳ない」と涙を我慢していた主人公を「泣いてもいいではありませんか」と優しくかばった場面と対応しています。「龍神の神子だから」「天下人の跡継ぎだから」「立派な人間であれってみんなが期待するし、そうであらなきゃって思うから」なんてやせがまんの理由で、自然な気持ちを我慢することはありません。そういう素朴な心を幸村はそれでいいんだよって守ってくれます。人がムリをすべきなのはそういうときではないからです。

弱くてもただただ生きるために、そして命を懸けるべきものがみつかったときにだけはまっすぐに走るために、人はこの命を授かったからです。だから幸村は「それ」をまだ持たない人を守り、方向は違えど同じように義をもつ人とともに命を張って戦って生きるのです。そして、「守るべき姫君」だった主人公はいつしか、幸村に見守られ、同じ義をもって戦う強い人となった。

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嗚呼 我が人生 ひとかけらの悔いも見えぬ
此の意地貫き通して 命を咲かせたゆえ
幾多の戦と笑いと 共に過ごした面影
胸に抱き 土煙の中 敵前にいざ進もう

――真田幸村(草尾毅)『青冥之鷹』

 われわれが真田幸村の伝説を、戦記ものを愛し、あこがれを抱くのは、「人がいっぱい死ぬのが楽しいから」という残酷な理由でないとすれば、彼ら武将たちのもつ「命を懸ける理由」の輝きを愛しているからです。命を失うこと自体ではなく、命がかげがえなく大事であってもそれを危険にさらすことも厭わない信念がこの世にあることにあこがれるからです。

幸村ルートは戦記もののその側面を主人公の物語と呼応させて純化し、青くきらめくエッセンスとして示してくれました。

 

人生の光明よ

 白龍の姿となってしまった主人公の背に添って、魂を通わせた幸村は、そのまま神域に連れて行ってくださいと言うことだってできたし、エンディングをふまえればそのくらいのことは可能なはずですが、そうしませんでした。自分は自分の人生でやるべきことをするので、それが終わったら迎えに来てほしい、と言ったのです。

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 さっきの「命を懸けるに足る義」の話とも関係するんですけど、平成の時代って、人と人が仲良くやっていくために「心を一つにする」「同じになる」ことが重視されてたっておもうんですよね。上の引用は、今ふたたび孤立をおそれず自分の心に従う「勇気」を見直すときが来ているんじゃないか……っていう話です。

 男と女が添い、家族になるということは、旧来の物語では「どちらかの道をどちらかに添わせる」「ふたりの道をひとつにする」ことだと思われてきました。それこそ幸村に説得されて主人公が折れ、帰らぬ彼の帰りを待つ恋人になるアナザーエンドが「ふつう」です。しかし、もしふたりともが「曲げられぬ義」をもっていたら、どうなるのでしょう?

いや、どうなるっていうか、旧来は「ふたりは愛し合いながらも一緒にはなれませんでした」あるいは「一人は愛のために意地を曲げ道を変えることにしました」というエンドになってたんですけど。

そのどちらでもない、新しい時代の答えがあるのか?

 

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 「男子にとって愛しい女性は人生の光です」と兄・信幸が言ったこのシーンは、ふつうに考えたら「帰りを待っていてくれる、つらいときに思い出せる女性がいるのはすばらしいことだ」とかそんなかんじの意味です。しかし、幸村にとっての主人公はそれだけにとどまりませんでした。先ほども述べたように主人公は「愛しい姫君」であるのと同時に「それぞれの義に命を懸ける、対等に尊重すべきひと」にもなったからです。

これはもう、概念的には、三成や兼続などといった「男の友情」とも似た、距離や時間や生死をも越える戦友の絆です。

日の本を守り白龍になって神域にゆく主人公はいわば「全身全霊を懸けてみごと使命を果たし、彼岸へ行ってしまった友」みたいなものであり、幸村はそんな友に恥じぬよう人生の義を果たしきる、一択です。主人公の志を閉じ込めても心が晴れなくなるだけだろうと尊重したように、もし一緒になれるチャンスが永遠に遠のく結果になったとしても、幸村が義をあきらめることは主人公が愛してくれた心と人生の積み重ねを無にすることだからです。

天に帰る主人公に愧じることのない、やり切った状態になったときに自分たちは結ばれることができるのだと、ていうか、自分の心に刻んだ義をやり切ることこそが本当に主人公とともに生きるってことだと、幸村は自然に悟ったのです。

今生でそう別れがいつ来ようとも
天に愧じるは何もない
目指すものは光る……
黎明の時

――真田幸村(草尾毅)・直江兼続(高塚正也)・石田三成(竹本英史)『仰ぎて天に愧じず』

幸村ルートはすごい、「真田幸村と戦友として固い絆で結ばれ、お互いに恥じぬよう最後まで戦いぬこうぞと約束を交わすゲーム」ですよ。こんなん無双武将じゃん。誓った人生をやり切ったとき約束を果たして天から光になった好きぴが迎えにくるエンディング、戦国無双3のクロカン(長政のパパ)じゃん。おれ、無双武将化決定。竹中半兵衛。

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義を認め合った戦友に、ずっといっしょにいることはそんなに重要ではありません。いつ道が別れても、もし今生でもう二度と会えなくても、ただお互いのすばらしさ、誇り高さにふさわしく、天に向かってそれぞれの生き様を示すのみ。

それが戦友の隣にいるということであり、そうでなければ顔向けができないのです。まして幸村の愛する人は、天にあっていつも日の本を見守っているのですから!

 

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 幸村が人の世で果たすべき義をすべて果たし、天へのぼる風となった大阪夏の陣は、こっちの世界の史実では1615年。上田で戦った天下分け目の戦いから、実に15年後のことです。だから八葉や大人たちのキャラクターの立ち絵はイメージとしてそのままでも、あやめちゃんの立ち絵は表示されません。きっとすっかり素敵な大人の女性に成長していることでしょう。

こっちの世界の史実と年数が同じじゃなかったとしても、あやめちゃんの立ち絵が出ないのに気付いて、ああ、それだけの時が経ったんだな、幸村はずっとがんばり続けてきたんだ……と、しみじみとわかりました。決して「早く姫に連れて行ってほしいから手早く義理を果たして死ぬゾイ!」みたいに思うことなく、まじめに正直に生き抜いたのです。天下分け目の敗戦の直後はややヤケになってて「これで上田の民への義は果たしたことになるしあとはえーっと……」と義の消化試合状態になって早いとこすべてを捨てて風になりたそうだった幸村が。

(こういう自己犠牲的な心の変化の物語は、2021年発売のルビパ制作ゲーム『バディミッションBOND』のとあるキャラクターにも描かれています。オススメ)

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主人公は幸村の胸をあたためる愛しく美しい光であるだけでなく、それだけの年月天から幸村の人生を導くしるべの光ともなったのです。「男子にとって愛しい女性は人生の光」。ネオロマンスシリーズはずっと、「あなたはすばらしい男性に守られ支える愛すべきお姫様であるだけにとどまらず、彼を導く気高い女王でもあれる」という道を女性に示してきました。決意した人同士の絆は、此岸と彼岸をも越えてこうしてお互いを高め合い導き合う光になり、守り、守られ合う心の剣と具足となります。

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嗚呼 我が人生 武士(もののふ)として生きて散ろう
生き様示す其の為に 乱世に生まれたゆえ
幾多の出会いと別れよ 友よ 彼岸(かなた)にて逢おう
晴れやかに亦(また)笑ってくれ 遠き日に逢った如く

――真田幸村(草尾毅)『青冥の鷹』

 主人公と幸村が人としての人生のあいだに結ばれず、神域の彼岸でやっと抱き合ったことは、「あの世で一緒になる」といって旧来ならメリーバッドエンドというか、喜んでいいのか衝撃を受けるエンドになっていたとおもいます。でもこれはそういうものじゃありません。だって、お互いに人として九度山で(幸村が死にに行くまで)仲良く暮らすことだってできたし、何よりこの神域の二人だけの永遠は、人としての人生をあきらめた先ではなく、人生を生ききった先にこそあったのですから

「人生を走り切ったあとじゃなきゃ結ばれない」ってことじゃないです。ふたり、それぞれの義をつらぬき、慕い合って互いの心を守る。青く光る天を地上に映す可憐なネモフィラの花のように、お互いがお互いの澄んだ導きの光となって、離れても相手という光に向かって生きる。それが彼らが「家族になる」こと、つまり「ともに生きていく幸せ」のいちばん大事なところになったのです。

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まだまだ世の男女や家族たちがたどりつくのは困難で、多くの人にえっと思われるような、理解のむずかしい愛のかたちだとはおもいます。でも、これからの時代は、価値観や信念の違いの摩擦を愛だけでなんとかするのは正直ムリだし、愛でなんとかなるって考えるのはそれこそ、相手の心を無視する不誠実でもあります。それぞれがそれぞれの命を咲かせる権利があり、その花のような、炎のような心をこそ、われわれは愛し合うのですから。

「愛する人でも、家族でも、自分と平和にいっしょに暮らせることより大事な信念があるなら尊重する。それは愛や家族をあきらめることにはならない」というのは、難し~~いメッセージです。

でも、それをこのうえなく晴れやかな青と彼らの笑顔に託して描いた幸村エンドは、ルビーパーティーからこれからの時代のわれわれの人生への、祈りと祝福です。あなたはあなたのままで、思うままに生きて、大事にしたい信念を生きていい。いつまでも輝いて、晴れやかに笑っていてほしい。

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それを幸村は尊重し、愛しているんだよ……と。

 

 

 今回タイトルを最初は「走れ正直者」にしてたんですけど、絶対若い子どころかアラサーもわかんないなと思ったんでやめました。いつだってオレは正直さ 近所でも評判さ

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次はいよいよふつうに個人的に好きなタイプの背の高いおねえさん(男性)である阿国さんルートに突入したいとおもいます!! 背が高くてやさしいおねえさん大好き 風化雪月のメルセデスとか

 

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あわせて読んでよ

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鬼子たちのララバイー遙か7大和ルート感想

本稿では『遙かなる時空の中で7』の「佐々木大和」個人ルートについて感想を言ったり考察したり八葉「地の朱雀」の解釈をみたりしていきます。

 

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 未プレイの方向けに『遙か7』をオススメする記事はこちら

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 『遙か』シリーズの中での『遙か7』のテーマ位置づけについてはこちら

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 『遙か』シリーズ全体で「八葉」に共通する核となるイメージについてはこちら

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 『遙か7』の兄弟作である『ファイアーエムブレム風化雪月』の考察本を書いてたら一年経ってたので前回の兼続記事から一年以上のブランクが空いての感想記事となります(びっくりした)。いや別に全部書かなくていいんじゃねえのかという感じですが、アウトプットしないと頭にたまってしまって次のルートを全力で楽しめないんだオラ!

そういうわけで後半戦は大和からです。

八葉デザインと八卦の記事を読んでいただけるとわかりやすいかとおもうんですが、宗矩が地の玄武の集大成や今までのキャラのアンサーであったように大和も地の朱雀の集大成だったんですよね。個人的に地の朱雀の象徴性って大好きなのでベショ泣きでした。

それではいつものように長話してまいりましょう。

 

 

大和のキャラクターデザイン

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 大和のデザインの特徴はとにかく「要素の多さ」ーー!!

おまえ、いくらモデルとなる実際の歴史人物がいない現代っ子だからって、そんなハチャメチャかますことはないだろ、今までにそんないろいろブッこまれた人おらんかったわ、という多さ。立ち絵で確認できるだけでも、大和の戦国服には数多くの伝統モチーフが仕込まれています。ざっと挙げてみましょう。

  • 黄土色の小袖の「三つ巴」
  • 黄土色の小袖の「花菱」
  • 剣帯飾り紐の「斜め棒縞」
  • 藍色陣羽織の肩の「松菱」
  • 藍色陣羽織の襟の「浮線綾桜」
  • 帯の「市松」
  • インナー(襦袢)の「麻の葉」

長年にわたって和の伝統的モチーフを、ちゃんとキャラクターに合わせた意味をもたせて織り込んできたルビパが作っているのですから、「なんか和モノだし、和柄のテクスチャたくさんあったからいろいろ使っちゃった☆」なわけはありません。こんなにいろいろ盛り込まれているのは大和の「いろいろな趣味に手を出してはそこそこ楽しんでやめる」という多芸多才ヒマつぶし人生を暗示していることでしょう。

しかし、そのとっ散らかりをなんてことない風に見事に着こなしているのですから、大和の生来のルックスの良さが際立ちます。プロポーションのいい人って意味わかんない柄のダサTとかも着こなせたりしますよね……。そのように見せるようにうまくコーデを合わせた水野先生もグラフィック班の色塗りもすごいですよ。生まれ持った才能があるから、何をやらせても異様にそつなくうまい、それがビジュアルからも表現されているってわけです。

 

 ちなみにそれぞれの模様も大和に合った意味を持ってるように見えるんですが、当方の知識ではようわからん模様もあり、まだまだ読み取り足りない感があります。特に繰り返されているのは大和が「鬼」であるということです。

 まず一番目立つメイン模様である「三つ巴」、土方歳三の紋として最も有名かな。この「巴」というのは模様の中の勾玉のカタチのことです。漢字のかたちがもうそれでしょ。このオタマジャクシや胎児のようなかたちは「霊魂」をあらわしています。ことに、普段の世界では目に見えない、体の内側にあったりまだ生まれていなかったりすでに死んでいたりする、もの言わないけど荒ぶる力をもつ霊魂のことをさします。

『遙か4』の地の朱雀・那岐の霊具である「御統(みすまる)」や「地反(ちがえし)勾玉」もこのカタチをしていたように、巴型は霊魂の強大なパワーを表しているごく古代アニミズム的なモチーフです。そういうものの声をよく聞くとされた古代の女王卑弥呼の技は「鬼道」と呼ばれました。「もの言わぬ、一見とるに足らないもののもつ畏怖すべきパワー」とは「鬼」であり、地の朱雀の坤の卦のテーマです。

 次に「剣帯の斜め縞飾り紐」はかなり異様な印象を与えるデザインです。東洋より西洋のほうがこの感覚は顕著ですが、「太い縞模様」っていうのは「要注意人物」「被差別階級」を隔離するためのよろしくないスティグマ的記号として使われてきました。しかも大和の縞模様紐は色が「黄色と紫」です。東洋では黄色って金色と同様に扱われるので貴い色なんですけど、この色合わせはさすがに日本でも踏切毒蛇のイラストみたいなヤバでしょうがよ。縞模様と黄色については下の記事も参考にどうぞ。

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 そしてひときわカワイイ陣羽織の襟のまるっこい花模様の繰り返し「浮線綾桜」は、「花菱」もそうなんですけど奈良時代にシルクロードを通して伝わってきたヨーロッパ舶来のお花唐草模様からできたものです。そして浮線綾は日本では宝物のような貴族の衣を彩る有職(ゆうそく)文様です。「舶来(「鬼」と呼ばれる)」である大和の母方の血筋と、大和のもつミョーに貴なる華やかな風格に通じますね。

また、浮線綾桜は中央の桜花をいろんな模様に変えて使われることもあって、そこを「四ツ目」と呼ばれるロの字を四つ正方形に並べたみたいなやつに変えたものは佐々木氏の紋として使われます。大和の襟のやつはふつうに桜のまんまなんですけど。

 帯の「市松」とインナーの「麻の葉」は今や言わずと知れた「炭治郎模様」と「禰豆子柄」ですよね。お、鬼退治やんか~!

鬼滅の兄妹のトレードマークの布柄にこれらの柄が採用されているのは、日本の単純パターンの中で代表的な吉祥柄だからでしょう。特に「麻の葉」は大和のインナーの色である「朱色」とあわせて産着や肌に触れる子供服に多用された、「子供の健やかな成長を守る護符」です。

大和のストーリー進めると麻の葉模様のインナー見るだけで泣けたわ(泣き所がわかりにくい)……

 

大和のシナリオ描写

 大和のストーリーはある意味「大人、強く上に立つものの政治」の物語であった長政ルートの対極に位置する「子供、小さく弱いもの個人の人生」の物語であるといえます。

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多くの人を統べる大きな理想や世に示すような正しさではなく、「大事の前の小事」と片付けられてしまいがちなひとりひとりの生活者の繊細な息苦しさとか、それぞれが十人十色の自分の人生と向き合い違うものどうしがそれでも支えあって生きてゆけることとか……。八卦の象徴物がそうであるように、長政は「天の日」で大和は「足元の土」です。こういう二種類の物語を「大説」と「小説」といったりもします。どちらがより大事とかではないですよね。どっちがなくても世界は成り立たない。

そして、足元の個人の十人十色な問題ってかなり現代にいたるまで無視されてきました。世の中の大きな流れの求める人物像や、「強さ」「ただしさ」から外れた人や気持ちは、型にはめて矯正されたり、あるいはどうでもいいものとしてのけものにされ放逐されてきました。そういう、今までは弱さや些事とされてきたような多様さや違和感を無視しないでいこうぜ、というのが、近年SDGs的にも重視されている「包括的(インクルーシブ)」「多様性(ダイバーシティ)」の流れです。

SDGsとかでけえこと言いましたけど、大和ルートに描かれているのは人生のほんとに基礎的な、個人的な、だから普遍的な問題です(まあSDGsもそういうものでもあるんですけど)。

よしながふみ『きのう何食べた?』やヤマシタトモコ『違国日記』などの作品に描かれているような、個人的生活の中にある他者の他者性、それが容易には解決しないこと……という、小さなささやき声のような問題のどうしようもない積み重ね。「マイノリティ(少数者)に向き合う」という意味で宗矩ルートとも対をなしており、たいへん令和の世な現代的テーマを描いてもいます。これは令和ですよ。

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アンジェリーク ルミナライズ

アンジェリーク ルミナライズ

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対人関係の間合いや社会的考え方が令和だ!!と話題になった『アンジェリークルミナライズ』の令和い(れいわい)(形容詞)ところが味わい深かったなあ~と思う人にはぜひ大和ルートをやってもらいたいなとおもわれました。

『パレドゥレーヌ』のエピドートやグイード、レミー、ユークレースのシナリオが好きな人には一見の価値あり(当方は全員好きで大和ルートやりながら彼らを思い出していました)。『遙か』シリーズでは地の朱雀らしさが好きな方、特に那岐!を好きな方、あとリズヴァーン、知盛、忍人、桜智、ダリウス、歴代の黒龍の神子のシナリオが好きな方にはよいかと。他ネオロマでいうと『アンジェリーク』のクラヴィス、メル、アリオス、フランシス、『金色のコルダ』の柚木、吉羅、響也、土岐が好きな方にはおすすめです。衛藤とは似てそうで似てない。

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 でも感覚的には今までのネオロマにあまりなかったタイプの話かもです。那岐ルートが近いですけど、あれは電光石火の速さで話が進んじゃったんで、そこを丁~~寧にやるという感じです。あとは大和は(今回黒龍の神子が単体で登場しないこともあって)黒龍の神子性が強くて、主人公たち兄弟しか友達がいない幼馴染キャラでもあるので、遙か5の都の語り直しでもあるなと感じました。どちらも描写がもっと欲しかったシナリオなのですごくうれしかったですね。

 

少数者たち

 大和は「異国の血の入った容貌」「強い霊感」「”ふつう”でない家庭事情」のトリプルパンチのマイノリティであり、天野家以外の周りの人たちから、親からさえも遠ざけられてきました。それでも彼なりに楽しみを見つけつつ、人を呪わずそれなりに生きている優しいやつです。

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 地の朱雀をあらわす「坤」の卦は婦徳、すなわち「耐える女性」をあらわしています。女性とはいいますが、概念的には「弱い方」「下に見られる方」「メインではない方」「耐えるしかない方」「問題にされない方」の者――つまり、実際にまだまだ女性という属性がそうであるように、「世俗と大衆の理不尽に踏まれるマイノリティ」を意味しています。

そしてそのマイノリティ性、踏まれどころのことを、日本では古くは「鬼」と呼びました。坤の卦は裏鬼門を示し、ガチ鬼門である地の玄武とセットでシリーズ通して「鬼」的なキャラクターが当てられてきました。地の玄武はストレートに人ならざる神仙のごとき力をもつ「鬼」ですが、地の朱雀には少しひねりがあります。詩紋や彰紋は色素の薄い容貌のために鬼と関係あるのではと勘違いされて忌避され、那岐は生まれた直後に示した規格外の霊力のために王族でありながら捨てられました。日本語の「鬼子」とは牙や角のようなものが生えて生まれた子供だけでなく、「親や周りに似ていない容貌や性質を持った子供」のこともさします。つまり、本人が鬼っぽいことではなく、「ふつうではない」と勝手に恐れられ遠ざけられることそのものが坤の卦の「鬼」なのです。

 

 「ふつうじゃない」ってみんなに勝手に判断されて、話を聞かれもせず扱いを変えられるのはつらいことです。大和は小さい頃は周りと違う容姿や感覚を変だと言われ、高校生になった今ではカッコいいと女子からもてはやされ、マジなんなの、です。この「結局『みんなと違う』ってことを都合よく勝手に使われて、ほとんど誰も自分のこと見ようとしてないじゃん」という苦しみは『ペルソナ2罪』のギンコにもみられました。いやマジで大和ルート、ペルソナシリーズのペーティーメンバーコミュの豪華版みたいなやつじゃん。

多様さ、マイノリティって、よく話題にのぼる性にまつわる少数者(セクシャルマイノリティ)のことだけではなくて、身体や精神の障害(と、今の社会ではされているもの)だとか、人種や民族的に差別される属性とか、広く言うと「その社会での"ふつう"の扱いに当てはまらないこと」すべてを含んでいます。弱さや不足とされていることだけでなく、強すぎることや過剰もそうです。ていうか何が強さで何が弱さかっていうのも考え方によるもんにすぎませんからね。まさに大和は「霊感が強い」ということが「弱み」「障害」にもなってしまってるわけですから。

 

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 同様に「強すぎた」せいでマイノリティになってしまった、大和と相似の存在として出てくるのがターラです。だから大和ルートはターラの物語であるともいえます。だからターラも呼応してハッピーエンドする! すごい!

ターラは強すぎ美しすぎのために忌避された鬼の一族の中でもさらに際立って強すぎ美しすぎで、同世代にかなう者はおらず孤独に高慢に育ちました。その美しさのために権力者への貢ぎ物に差し出されることになり、その強さのために抗い続けて守ってくれる人たちを失いました。「ふつうでない」者は、「ふつう」の者の安寧を守るための犠牲になるしかないのか? そんなのはばからしくないか? というのが同類である大和へのターラの叫びです。

これはあまりにも普遍的で、われわれ自身の問題でもバリバリある、痛い叫びです。誰もがどっかしらでターラや大和であり、別の場面では彼らを排斥し続ける愚かな人々でもある……。

 

力の価値は

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 「鬼」である地の朱雀は多く異才をもっています。逆か。異才をもっているから鬼にみられるのか。それはストレートな「強さ」というより大和の霊感のように「ふつうと違う力」です。大和は何をやらせてもサラッとものにするし、特に剣術に異様な才能を発揮します。

誰にでもっていうと言いすぎかもですが、才能がある分野ってありますよね。問題(?)は、虐げられてきた、無視されてきた人が自分の力を使うチャンスをみつけたときにどうするのかってことです。

大和は剣の腕を磨くうちに、「強さを示せば文句を言ってくるやつに自分を認めさせられる、黙らせられる」と思うようになります。ずーっと心から離れない重圧である、自分を踏んできたものたち、自分の存在を認めない父親の目を、スッキリ跳ね除けて自由になることができる、と。

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 これ、大和の危うさとして描かれてますしその描写は正しいですけど、われわれ未熟な人間たちが「強くなりたい!!」と切望するときって、じっさい「誰かに認められたい」「誰かを見返したい」とか「馬鹿にされないように、自分の意見が尊重されるようになりたい」とかが半分以上じゃないですか? 大和だけの危うさじゃないんですよ。自分も「黙らせたい」って思ってるんですよ。特に自分を認めてくれない親族に対してはね。おれもそうだからわかるよ。

力についてのそういう考え方って、世界に害をなす憎しみや呪いにつながってるし、大和やターラの心に巣食う負の瘴気なんですけど、でも……それがどうして生まれてしまったかってよくよく自分の胸に手を当てて考えてみるとさ、「踏まれたから」なんですよね。

人種差別に反対する運動でも、フェミニズムでも、「踏んでくる足」をはねのけようとするとき過激で危険なパワーが爆発します。そりゃそうなんだよ。それはさ、誰が悪いかっつったらそりゃ踏んでた側が悪いんですけど、踏まれた屈辱で誤った力の使い方をした人自身も傷ついてしまうし、力で相手を黙らせてもその人の人生はぜんぜん幸せになれないという、悲しい問題につながってしまいます。社会はもちろん変えていかなきゃいけないとしても、そういう呪いを、その人個人の人生の中ではどうしてったらいいのか……を描いたのが、大和ルートです。

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 人が「鬼」の力を恐れ潰そうとするのは、自分たちがそれを「踏んでる」ことをうすうすわかってるからです。「踏まれた」者がどんなに悔しくて今に見てろって思うか、その怨みの力がどんなに強いか知ってるからです。それは「怨霊」についても同じです。怨の気とは踏まれた悔しさであり、だから大和やターラにはそれと同調する才能があるのです。

そしてそれは、今までのシリーズ作品では黒龍の神子にあらわされてきた「誰かの悲しみを感じ取る」「明るい世界に無視された、声なき声の訴えを聞く」という、優しい力でもあります。

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現代帰れねえー!となり、どうしようもないことに沈みまくっていてもみんなに心配かけるだけだ……と耐えている主人公に、大和は「俺ヘッドホンしてるし正面にもいないから何も聞こえないし好きなこと言えば」と言いました。明るい世界、"ふつう"の世界にはじかれてしまう、自分でも認めがたくて誰にも見せたくない、どうしようもない人の悲しみと弱さを、大和は聞き流してそばにいてくれました。個人ルート外でも、大和はキツいことを無理して我慢するなと何かにつけて気遣ってくれます。

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正論を言えば「悲しんでても仕方ない」ことってたくさんありますけど、悲しみ痛むことを無視しちゃうのはもっと悲しくてつらいことです。

一見明るく見えて「世の悲しみ」そのものである阿国の舞を大和が好んでいるのも、なんかそういうの感じてウルッときます。

 

痛み合い、近づけるなら

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 わりと序盤に、大和が怨霊になりかけている動物霊をかばうシーンがあります。

大和はその動物霊に自分を重ね合わせています。もう死んじゃって同類の親族もない、「"ふつう"の世界に組み込まれることができない"鬼の子"」として共感していただけではなく、「"ふつう"でないもの、その悲しみをもったものは、ただそこにいるだけで人に迷惑をかけて、だから存在が許されないのか? いてもいいだろ別に!」と悲しんだからです。

"ふつう"じゃないものだって、俺だって、ささやかにうれしいことや楽しいことや好ましいやつらがいたりして、ただ、ここに生きてる。たったそれだけのことが"ふつう"の社会の中にあるのは人の迷惑なのか、認められないことなのか?……と。

 

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 大和が人に心を開けず、好きなことができてもそのコミュニティに入っていかないのは、実際受け入れられなかった経験からです。居場所になると思った場所に期待したように受け入れてもらえるかわからない……という不安はいつだって誰にだってありますけど、大和の幼少期の場合、父親に「わからない、気味が悪い」と言われ、同級生に「嘘つき」「あそこのお母さん出て行ったんだって」と言われただけでなく、最初は好意的だった相手でも、大和の異能や家庭の事情を知れば驚いて腫れ物に触るように接するようになったでしょう。大和は繊細で優しいので、そういうのも感じ取り、嫌がります。

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宗矩の感想記事では「差別の解消の際には、被差別者が割を食って多くのコストを払わされる」問題について話しましたが、大和ルートには「マイノリティと共に生きていくことは、"ふつう"の世界にとっても苦しいコストとなる」という問題が描かれています。

大和の心に寄り添うことは彼の瘴気と付き合うことであり、彼の抱えるつらい問題、彼が気づいてしまう世界の悲しみともいちいち付き合っていくことです。遙か4の那岐はその力の異様な強さゆえに生まれた瞬間から産屋を焼いてしまいました。

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これは多様性や包括をとなえるときに必ずついて回る、しかし美しいお題目の前にごまかされがちな裏面です。そこをこそちゃんと描くのは、ルビパ誠実やな~!ポインツ。

 

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 ターラや動物霊と同じく大和と重ね合わされているのが「妖刀」です。妖刀の呪いは大和のマイノリティ性、踏まれた怨みの気持ちをそのまま拡張したものといえます。

大和は大事な人を守るための力として妖刀を手にし、共鳴してものすごく強く、自分の力をフルに使えるようになりました。これは自分の中のマイノリティ性、怨の気という「鬼」を認めて力にしたということです。しかし、妖刀を手にしてすこぶる調子がいい大和の周りではみんなが調子悪くなっていきます。しかも捨てようとしても捨てられない。この妖刀の呪いは、「"ふつう"でないことを自覚し、表明して生きる"鬼"は、周りに苦しいコストを払わせる」ということを強くデフォルメしたものです。

妖刀じたいがそうやって捨てられたものたちの念の集合体だから効力がさすがに極端なことになってますが、構造自体は現実にも多くあることです。子供や友達にセクシャルマイノリティであることを打ち明けられた人が受け入れがたくて寝込んだり、複雑な家庭の事情を知ると今までふつうに付き合ってきた友達との接し方に困ったり、いくらでもある話じゃないですか。

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主人公たちが大和を受け入れようとしたように頭も心もその人を受け入れたいと思ってたとしても、いろんな都合の悪さや気遣いが積み重なってコストとなります。大和が離れていくととたんに元気になったみんなの体調のように、"ふつう"の世界の規格に沿って「生きづらさ」とか表に出さないで暮らしている人たちとだけ生きるのは、結局「ローコスト」で「ラク」で「効率的」なんです。これはもちろん、大和のことをみんなが好きか嫌いかの問題でもないし、みんなの心が広いか狭いかの問題でもありませんでした。受け入れる心で解消できるものじゃないってことです。だからわれわれの社会はなかなか多様性を包括できないんです。

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そして何より、介護問題でよく聞かれるように、「マイノリティ側」「包括される側」の優しさや自尊心が、「迷惑をかけて嫌われたくない」「面倒に思われるくらいなら一緒にいないほうがいい」と感じてしまうのです。

 

 じゃあどうすんの、っていうひとつの答えが、大和ルートに描かれました。主人公と大和はお互いに心を離れさせずにいたうえで、「ゆっくり、慎重に、めんどくさく近づいた」のです。互いを傷つけない、あるいは無理せず耐えられる範囲や方法を試行錯誤しながら近付きたいと思い合い続け、ついに手をつないだのです。

宗矩ルートのエンディングで宗矩が主人公の魂を龍神から切り離そうと世と剣を磨いた日々のように、二人が少しずつ近づいていくえっちらおっちらとした歩みはちょっととぼけて間延びして、長く感じるように描かれています。しみる。

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ここなんかすごくいいよね、糸電話してるみたいで。エモ。

本当は一人一人ぜんぜん違う人と人の間にある距離や障害物は、「いったれ!そこだ!チューしろ!」のドラマティックな一発でなんでも縮まるものではありません。ないはずです。平成の時代はわりとすべての男女の恋をチューしろ!でなんとかしてきたとこがあるので、大和と主人公の近づき方はもどかしくてなにこれ?はよ異性として意識しろやもう離さないって言えやと思う人もいたかもしれませんが、これが令和の若者の正統派の恋や(知らんけど)ーーー!

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令和……

 そして、妖刀の呪い、すなわちマイノリティ性や人に受け入れてもらえなかったことへの怨みの呪いは、「自分は、本当はどんな誰でも、めんどくさくても、大事な人にゆっくり受け入れてもらえる存在なんだ」と信じられたとき、そう信じることができた大和が主人公と手をつなげたときに、解呪され災いを止めるのです。

 

”親”なる他人、新しい家族

 大和ルートのさらなる新しい時代っぽい功績は、「親との問題に”和解”でない折り合いをつけたこと」です。

従来よくある物語では、青少年と親との関係性問題の決着は「和解」か「(死んだ親の呪縛との)決別」あたりで描かれてきました。しかしながら、「お互い生きていればいつか分かり合える」というのは、残念ながら、「必ず」ではなく「だったらいいね」の世界です。現実的にはさ。

よしながふみ『愛すべき娘たち』にいわく、「母というものは要するに 一人の不完全な女のことなんだ」。父親ももちろん同じです。大和の父親が大和を理解できず受け入れられなかったのは、大和を受け入れられなかった他のたくさんの人たちとまったく同じことで、肉親だから理解できるはずだなんてことは全然ないんですよね。

肉親だから、身近な人だから、責任がある対象だからって、わかんないものはわかんないし、受け入れられないものがあることは罪というほどのものではありません。だって「親ガチャ」という言葉が昨今流行ったように、親と子は互いを知り合って選んだわけじゃない完全ランダム制なんですから。むしろ、先天的な家族に自分の人生を受け入れてもらおうっていうほうがムリがあるのかもしれない、まであります。

 

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 大和は、自分を受け入れてくれるとは思えない父親、自分を追い出して別の家族を作った父親に、それでも「自分が今何をしているか」という報告と、「これからどう生きていきたいと思っているか」という進路、そして別れの挨拶の話をしました。

それは「認めてほしい」「和解したい」からではありません。そのアホみたいに気まずくていたたまれない状況も、話しても結局荒唐無稽で受け入れてもらえないことも、そのめんどくささ全部を受け入れてくれる人がいると信じられた今ならば耐えられるからです。決着をつけることから逃げずにすむからです。自分を否定するものを本当にはねのける力は、「黙らせる強さ」ではなく、「ここで否定されても自分は大丈夫」と信じられることだったのです。

「愛してくれるはず、わかってくれるはずの親」ではない、痛みを分け合ってくれる人を自分で選び、自分の居場所を自分で作る。

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自分の人生に全身でダイブすることは、ヒマつぶしではない本気で打ち込むこととして剣術を選んだことや、格好悪かろうが勝てなかろうが主人公を守るために素手でターラに挑みかかったことのように、不格好であてもなくて怖いことです。「親のせいで、運命のせいで」とか「こんなんヒマつぶしだから」とか言っていられた方が、それ以上の挫折も怖い思いをすることもありません。

感じたままに描く
自分で選んだその色で
眠い空気纏う朝に
訪れた青い世界
好きなものを好きだと言う
怖くて仕方ないけど
本当の自分
出会えた気がしたんだ

群青

群青

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でも、「親に認められたい、自分を拒絶したものたちを見返したい(そうでなければ自分の価値を認められない)」という親や過去への怨の気持ちを卒業して、親という「神」「定められた運命」のようなものから切り離されて、泣き伏していた地べたから立ち上がって自分の人生のハンドルを握るのが、大人になるということです。これが大和の、「神との間のへその緒を切って、人として歩き出す『遙かなる時空の中で7』」テーマです。

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YOASOBI『群青』じゃん……現代っ子青春ド真ん中じゃん……

 

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 そして、大和を受け入れずエイリアンのように扱ってきた大和父ですが、話してみるとそこまで話の通じん邪悪な人間とかではありません。マイノリティと周囲の人の摩擦って別に周囲の人の性格が特別悪いからおこることではないんですよね。大和父は善人でも悪人でもない、ふつうの男の人。

大和父は息子に寄り付かないにしても家を与え、さまざまなヒマつぶしに興じていられるだけの自由になるマニーを与え、よくわからん異世界の話も最後まで聞き、彼なりにわかんない子供の親になった最低限の責任は果たしてきました。そんで、最後までわからなかった、と言って、大和の門出を送り出しました。

この「"和解"ではない親子の折り合い」の話は、大和が大人になる物語でもありますし、大和父のための物語でもあります。

自分と違う、どうにも理解できなくて怖いような子供をもった親だって苦しみます。親ならば子供を愛せて当然なはずじゃないかって、この難しい子を妻なしで一人でどうやって育てていこうって大和父もかつては悩んだはずです。それはね、それで、いいんだよ。人間は弱いものだって大和は知っています。わが子のことだって、親だからって、なんでも受け入れてあげられなくても、いいんだよ。

ただ、未成年の間を保護してあげて害さず、ただ、適切に送り出せばいい。どうしても傷つけてしまいそうなら里親制度とかだってある。それで十分とまでは言わないけど、そういうこともあっていいじゃないですか。世の中。

だって、親と子供は、別の人間なんだから。別の居場所を作り、別の人生を歩いてくんだから。

 

 大和父は別れ際に、冗談めかして(なんと冗談みたいな言葉が出てくるほどの他人っぽい適切な距離感になったんですね!)「剣士になるなら小次郎とでも名付けておけばよかったか」と言いました。息子との折り合いと、永い別れに際して、この軽口を言いながら彼は息子が生まれたときのことを思い出していたはずです。大和の命が始まったとき、彼と当時の妻は大和の人生の幸せを願い、考えて名前をつけたはずです。

そして大和は新しい名をみずから名乗り、戦国の世での名とします。それは大和がそこから新しく生まれたということ、親にも過去の怨みにも支配されない、自分の責任で選んだ人生を始めたということです。それは新しい呪いや苦しみのはじまりかもしれないけれど、痛みを分かち合える誰かを選んでいくことができます。

大和七章のタイトル「隠れ鬼」は彼が「鬼のこども」であることと、かくれんぼ、つまり「誰かに探してもらえる、みつけてもらえるこどもになれた」ということを暗示しています。

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名をはなむけにして、親は子の人生を送り出しました。子は一人で、そして愛する新しい居場所を選び選ばれて、きっと歩いていけるでしょう。

 

そうだね、わたしあのとき分かったんだ。わたしは見つけてもらえる子供になれたんだって。だから嬉しくて泣いたの。
どんなに遠くはぐれてしまっても晶ちゃんと冠ちゃんがきっとわたしを見つけてくれる。誰かに見つけてもらえるって幸せな事だね。
わたし晶ちゃんと冠ちゃんと一緒にいられて嬉しくて楽しかった。ありがとう。

――『輪るピングドラム』第23話

それがおまえたちのピングドラムだ……!

(照二朗なんでもピングドラムって言う)

(いやまじで大和ルートはピンドラだよ 大和は陽毬で七緒は晶馬だよ 運命の果実をいっしょに食べようで選んでくれてありがとうだよ……)

 

 

 次、一年ぶりにプレイ再開するんですけど幸村ルート食べて胃もたれおこさないですかね!?!?

 

 

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あわせて読んでよ

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『金色のコルダ』とアール・デコの世界

本稿では、『金色のコルダ』シリーズと装飾様式「アール・デコ」の関係についていろいろしゃべっていきます。

シリーズ作品ストーリーの大筋に関するネタバレを含む可能性があります。

starlight-orchestra.gamecity.ne.jp

 

 

アール・デコ様式の星奏学院

金色のコルダ4 - PS Vita

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 ゲーム『金色のコルダ』シリーズのメインの舞台となっている「星奏学院」の建築・装飾には「アール・デコ」という様式が多く取り入れられています。上『金色のコルダ4』のジャケットの背景に描かれている星型や円形を組み合わせた飾り図形もそれです。つまり、校舎だけではなくゲームグラフィックなどの装飾のベースにもなっています。

このことは学院の校舎や装飾を見てわかるだけでなく、たぶん無印『金色のコルダ』だったとおもうのですがサブキャラ生徒のくれる「場所の情報」ポイントのたまるメッセージでもはっきりと述べられています。恥ずかしながら当方はそこで初めてアール・デコがどんなものなのか知ったんですよね。

そんで、この「アール・デコ」様式が校舎やゲームグラフィックに採用されていることは、『金色のコルダ』シリーズのテーマを表現するうえで効果的であり、かなり関係の深い要素でもある、っていうような話をします。

 

アール・デコ様式とは

 「アール・デコ(フランス語)」とは日本語に訳してしまえばそのものズバリ「装飾美術」の意味となります。

これだけだと意味が広すぎてよくわかりませんが、「トレンディドラマ」が語義的には「最新流行のドラマ」という意味だけど実質日本バブル期のテレビドラマっぽいやつのことをさしているように、装飾様式の名前として一定の時代に流行ったものをさします。

特徴は、幾何学的な直線でできた図形や円形を規則正しく反復すること。幾何学図形の反復は美しく、かつ建築の柱や窓のつけ方として丈夫で実用的でもあり、アメリカのクライスラービルやエンパイアステートビルの合理的な美を形成しています。

金色のコルダを象徴する「星」型は一定の角度で交わる直線の規則的反復でできていますね。『金色のコルダ2ff』のホームページの装飾にもアール・デコ装飾が多用されています。

www.gamecity.ne.jp

星奏学院の校舎の装飾を間近で見ることはできませんが、わかりやすいところでは校舎前の敷石の模様がそういう図形ですし、その他、『100万人の金色のコルダ』時代の汎用楽譜の画像や、新作『金色のコルダ スターライトオーケストラ』の演奏中エフェクトなどもアール・デコの装飾図形です。

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アール・ヌーヴォーとアール・デコ

 アール・デコと対比すべき装飾様式が、ひとつ前に流行った様式「アール・ヌーヴォー」です。言葉としてはこちらのほうが有名でしょう。代表するデザインの中で日本で最も有名なのはアルフォンス・ミュシャです。ちがいを見てみましょう。

「アール・ヌーヴォー」と「アール・デコ」はこのように並び称されることも多く、完全にぜんぜん違うものというわけではなくむしろ延長線上にあるともいえるのですが、大きなちがいはアール・ヌーヴォーはすごく有機的・生物的でやわらかい自由曲線で描かれていてアール・デコはそうではなく定規やコンパスでシステマティックに描かれている無機的な図形だってことです。

このちがいが、だから何かっていうと。

アール・ヌーヴォーの有機的な自由曲線は芸術家が依頼人のために作った一点ものなんですよね。ミュシャなどのグラフィック・デザインはこの自由曲線の植物と女性のやわらかい絵を版画や広告ポスターとして無数に印刷してたから完全に一点もの路線ともいえないんですけど。たとえば家の門にアール・ヌーヴォーの唐草装飾をほどこしたら、自然に草が生えてからみついたようにランダム的でアシンメトリーなものになるでしょう。世界にふたつとないナチュラルなゴージャスさがアール・ヌーヴォーのウリで、当然ながらこれは基本的に富裕層のためにフルオーダーメイドされるものでした。

そしてそれは19世紀までの美術の世界では当たり前のことだったんですよね。歴史の中でなが~~~~いこと美術っていうのは富裕層のものか、教会でしか見ることのできないものだった。

それに対して、アール・デコの無機的・幾何学的な図形は設計図を決めれば何度でも再現することができるし、同じ小さなユニットを無数に並べるので工業的に生産することができるんです。「美しい自由曲線を描く」のは才能と感覚にかかっていますが、「決まった場所に定規やコンパスで線を引く」なら計算を律儀に守るだけでいいのです。アール・デコはシステマティックな法則性の美が生む、みんなが同じものを楽しめる装飾だったんです。

これって星奏学院の音楽性と似てませんか?(あとで詳しく話します)

 

 アール・ヌーヴォー時代とアール・デコ時代を経て、その後の大量生産社会は「そもそも生産規格に華やかな装飾とかいらんくね? 時代はツルッとシンプルな四角」という感じになっていき、アール・ヌーヴォーやアール・デコの装飾は古臭いゴテゴテした悪趣味っぽいやつ、と数十年顧みられなくなりましたが、アール・デコは確かに芸術と大衆消費が融合した、芸術史でもまれな瞬間だったのです。現代ではすっかりその芸術性・デザイン性・実用美が再評価され、定番の様式の一つとなっています。

ネオロマンスブランドの他作品で言えば、「緑のサクリア」と「鋼のサクリア」の融合地点みたいな感じといいましょうか。

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横浜とアール・デコ

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 星奏学院は無印では伏せられていましたがどっからどう見ても横浜にあります。実は、横浜自体にアール・デコの都の側面があります

横浜は歴史的に日本の開国最初期(幕末)から西洋文化に向けて開かれていた土地であり、フィクションの中でも西洋古典音楽を教える星奏学院が横浜に立っているのは偶然ではありません。モデルのひとつとされるフェリス女学院も、西洋からキリスト教が入ってきたことで建てられた学校ですね。

かつ、横浜は最初から要衝都市だったのではなく、開国当初外国人と関東の日本人が多数接触してしまうのを避けるためにわざとちょっと辺鄙な海辺の村を開港したために、あんまり大きな道や建物がないところからの都市計画がさかんに行われた町でもあります。よって、日本初の西洋式の建築街路(現在の日本大通り)がドーンと築かれることになりました。それらの建物が次々にできあがったのが昭和初期。関東大震災などもうけて大正末期から作られたレトロモダンなロマンあふれる建物たちはアール・デコ様式でデザインされています。星奏学院もそのころの建物がベースになっているということですね。

また、『金色のコルダ3』とコラボしたティーカップが老舗陶磁器メーカー「ノリタケ」から発売されたことがありましたが、これもオールドノリタケがアール・デコの代表的ブランドであることとも関連していますね。

 

 で、このように大正・昭和モダン的な装飾に使われるアール・デコは、たんに「そのときアメリカとかで流行ってたから取り入れた」というだけでない、日本文化によくなじむ様式でもあるんですよね。だからこんなになんともいえず美しいんだ。なぜならばアール・デコ自体が、日本の美術の影響を受けているものだったからです。

伝統的な西洋の装飾は植物の曲線美の姿を図案化したものが多く、だからアール・ヌーヴォーはその流れをくんでダイナミックな自由曲線や新素材などを使い新しくしたものという感じでした。そんでそのころの西洋やアメリカって日本の美術がめっさ流行、その中にある目新しい個性が学習された時期で、その中に日本のテキスタイル・デザインなどの幾何学模様がありました。

上の本の表紙の「鹿の子模様」や、今どこでも見る「炭治郎模様」こと市松模様「禰豆子柄」こと麻の葉柄などの多くの和柄は柄の細かい要素を極度に削ぎ落として小さなユニット化し、それを同じペースで反復する美しさをもっています。

日本的なシンプル美といえば「家紋」もあります。多くの家紋もコンパスで描かれるきれいな円形や菱形などの中に、幾何学的に図形を配置したものです。例えば下の本の表紙の家紋は「覗き梅」が3つですが、この中にある「360度の円の中心角を三等分して120度ごとに梅を配置」「梅の5つの花弁を360度÷5=75度でぴったり配置」とかそういう角度の数学的製図技法も、コピー&ペーストのない古来から日本の図柄職人さんに伝えられてきたものです。

このように、数学・幾何学のシステムを反復することで装飾にする「数学は美しい」「宇宙の法則にかなったことは美しい」みたいな感覚が日本文化にはもともとそなわっており、それがアール・デコというかたちで逆輸入されてさらに融合した日本の大正・昭和モダン建築の不思議な魅力として発露しているのですね。

ルービーパーティの新作『バディミッションBOND』でも、日本古来の職人文化と西洋近代的都市文化の融合として作られた時計塔の建築様式は大正・昭和モダンのアール・デコ調に近いものになっていました。ルビーパーティにとって横浜のモダン建築は「日本と西洋」「芸術と大衆」「伝統と革新」「美と理」の融合や調和を象徴するものなのです。

 

星奏学院建学の精神とアール・デコ

 見てきたように、星奏学院の校舎が建てられた時代の横浜の文化からして星奏学院がアール・デコ調なのは街の雰囲気にとてもマッチしていていい感じなんですが、アール・デコは星奏学院の学校としてのコンセプト、そして『金色のコルダ』のゲームコンセプトにもよく合致してくれています。

 星奏学院の、そして『金色のコルダ』の特徴は「音楽学校に普通科が併設されている」という点です。無印の主人公が「それまでクラシック音楽にほとんど触れたことがなかった普通科の一般人」であったことからも、この点は最も重視されているギミックだとわかります。

音楽の妖精と親しくなった学院の創始者が何を思ってそんな学校を作ったのかというと、「すべての人に音楽の祝福を」与えたかったからです。クラシック音楽を専門に学ばない生徒たちにもひろく音楽に触れてほしかったということです。

クラシック音楽を専攻して仕事にしていく若者というのは実際問題、月森蓮のように物心つく前からその世界にいたような一握りの人間がほとんどですが、世界にはその何千倍の人間がいます。放っておけば一握りの音楽人間と何千倍の「ふつう」の人間は、世界が違うかのように隔絶されて青春期をすごすかもしれません。

実際、無印『金色のコルダ』および『金色のコルダ2』の物語では音楽科と普通科の確執や壁、分離が描かれ、それをつなぎとめ和合させることがテーマとなっていました。新作『スターライトオーケストラ』のメインキャラにもさまざまな事情から楽器を手放していた普通科の生徒たちや、自分の望む音楽を披露する場に立てない他校生たちが登場し「音楽の世界に選ばれなかったはぐれ者」たちが「世界一のオーケストラ」を目指すというかけ離れた二つの岸の融合が目指されています。

その異質な、相容れないように思える二種類の人間を融和させることで豊かになるのは、美しい音楽の世界に触れる普通科の生徒だけではありません。音楽科の生徒たちもです。

芸術の美とは専門領域の技を磨くだけのものではなく、それを見る人や、見せている自分との関係、社会、世界のすべてとの出会いの調和だからです。特に、音という目に見えない波が人の心をつなぐ音楽の芸術では。

 

クラシック音楽とアール・デコ

 そもそも、実はクラシック音楽の美しさ自体とアール・デコにもけっこうな共通点があります。

西洋古典音楽にもいろんな時代や形態がありますが、特にヴェートーベンの作風に代表的な小さなモチーフ(日本語名「動機」、曲を構成する特徴的な単位のうち二小節程度の最小のもの)や主題をアレンジを変えつつ反復するというものがあります。「かえるのうた」の輪唱のように同じ旋律を追いかけるように反復したり繰り返し演奏していくことで全体の統一感と水の波紋のような幾何学的美しさを出すことができます。

無印~2のテーマ曲で3のBGMにもなっていた「金色のコルダ」がまさしく同じ動機の異アレンジを4回繰り返すものです。かつ、1,2,4段めと3段めではテクスチャを変化させるという小学校の音楽でも習う基本構成(かえるのうたとかと同じ)にのっとっていますね。

 

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 また、『金色のコルダ』シリーズの人物の名づけ(太陽系の惑星や天体に関する名前)がまさに表しているように、西洋音楽の理論や法則性は宇宙の惑星にも通じているといわれ、横浜天音学園にはそれをあらわす天球儀が飾られています。一定の音の組み合わせが人間皆におおむね似た感情を喚起するのは考えてみるととても不思議なことですが、西洋古典音楽はこうした世界に流れる天の音の法則性を天文学のように観測し、体系化し、読み取った宇宙の法則性を利用して配列する一種の科学技術みたいなものでもあるのです。

惑星や天体の軌道は目で見ることができませんし、とほうもない年月の関わる一個の人間の命を超えた「永遠」のようなものですが、線として表すととても幾何学的で美しいです。西洋古典音楽は永遠に繰り返す宇宙の調和をちょっとつまんできてわれわれの周りに広げて見せてくれる、プラネタリウムのような存在です。

 

 そして、天体の動きと同じように目では見る事のできない「音」の配列とかたちを、システマティックなルールに基づいて記述したものが西洋式の楽譜です。五線譜に白と黒のきわめて単純化された図形が規則通り反復されているさまはそれだけでとても美しく、アール・デコ的な概念だと当方はおもいます。

なんといっても楽譜は目で見て音の組み合わせや流れがわかるのです。当方は「聴力がまったくない人にも『コルダ』の音楽の美しさは楽しめるだろうか」と考えることが多いのですが、わりと楽しいな、っておもいます。「音楽以外のところが楽しい」ってことではなく、「音楽の、音楽的な美しさ」が、随所にほどこされたアール・デコ的な装飾やエフェクトやシナリオで感じとれるからです。特に『スタオケ』ではサイレントでプレイする機会もあると思いますが、演奏中のアール・デコ調のエフェクトの色や図形でそれがどんな感覚の美なのか表現されているのです。

 

オーケストラとアール・デコ

 「クラシック音楽にはアール・デコ的な性質がある」と述べましたが、実はそのなかでも、「アール・デコ的なクラシック音楽」「アール・ヌーヴォー以前(古典)的なクラシック音楽」とでも言うべきものがあります。なんの話かっていうとさっき述べた「アール・ヌーヴォーは富裕層向け一点ものの美」「そこから発展したアール・デコは大衆向け量産可能ものの美」という点についてです。

デザインの世界でアール・ヌーヴォーやそれ以前の王侯貴族・富裕層のための芸術が先にあって、大衆向け装飾の可能性があるアール・デコが発展していったように、古典音楽ももともとは「一点もの」の世界でした。いや、楽譜があれば別の場や別の奏者でも再現性はあるのですが、教会音楽を除けばもともと音楽家というのは王侯貴族の個人宅に雇われた、お抱え料理人たちのようなお抱え演奏家たちだったのです。王侯貴族の宴やサロン、くつろぎタイムに「こういう感じの曲よろしく」とその場に合った曲を流し彼らだけを楽しませる数人の楽団です。なので当時は芸術家というよりなんだろ、使用人とパフォーマーの間みたいな感じで地位が低かったりもしたのですが、その後「大衆向けではない一点ものの美を追求し、研ぎ澄ます」方向に発展したものが「室内楽」の由来になっています。アール・ヌーヴォー以前の古典寄りの音楽ですね。

 

 一方、室内楽が古典寄りならアール・デコ寄りなのは「オーケストラ」ということになりますよ。クラシック音楽をよく知らん人からすると、「オーケストラ」というと高尚で壮大なおゲージツ様の代表みたいに思えたりもするのですが、実はオーケストラは無数の大衆向けに音楽を届けるために生み出された、比較的新しい音楽の形態なのです。

考えてみてくださいよ、オーケストラならではの音の重なりの要素ってのもあるにしても、なんで第一ヴァイオリンだけで10人も20人もおんねん、全部のパートを半分にしてもハーモニーじたいは同じじゃないですか。地方の教会のコーラス隊や合唱コンクールなら一人一人の実力はプロ級じゃなくても合わせることでなんちゃらかんちゃらですが、オケはソロですごいプレイヤーでも混じったりする。なんでそんなに人数を多くするのかっていったら、音をホールいっぱいに響かせる音量と厚みが必要だったからです。

個人的室内楽団が演奏していた貴族の個人宅の部屋の広さは、おもしれーオペラを観にくるそのへんの民衆が詰めかける活気ある大劇場の広さにはとうていかなわないからです! つまり、たとえそれまで音楽を楽しんでいた貴族や教養人からしたらとても「高尚」とはみえないような世俗的なエンターテインメントを通してであっても、それまで限られたほんの一握りの人のぜいたく品であった「美」が、世界のほとんどを占める大衆にも物理的に手の届くものになったのがオーケストラだったのです。

アール・デコもそうした装飾様式だったわけですが、かたちのあるものを所有するために人数分の個数がいる物品と比べて「音楽」はホールに入った人みんなに届くものだから、ひと足もふた足も速かったんですね。音楽にはそういう性質があります。「みんなで楽しむことができる」っていう性質が。

この目的の違いが、「音楽の純粋な高みを求める」天音学園の「室内楽部」と、「すべての人に音楽の祝福を」与える星奏学院の「オーケストラ部」のちがいに、部活の名前からしてありありとあらわれているってわけです。

「オーケストラ」そのものが主題となった『金色のコルダ2』でオケの仲間を集めていく中心メンバーたちの演奏服に共通した「金色の紐が規則的に編まれている幾何学模様」もアール・デコ調の意匠であり、「オーケストラの『金色のコルダ(絆、弦)』が音楽をつむぎ、人々の心を結び織りあげる」というテーマを表示しています。そしてそれは『スタオケ』の演奏服にも通じていますね。

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すべての人に、音楽の祝福を

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 音楽をやっていたからこそ『金色のコルダ』シリーズに惹かれるという人ももちろん多いですが(当方もそうです)、それでもやはり、音楽一本に一生を捧げていく人というのは、ほんの少しです。無印『金色のコルダ』の学内コンクールのメンバーたちとは最初、「全員力のあるソリスト(主役の独奏者)として」出会いますが、それでさえ、そのままソリストとして生きていくのは月森ひとりだけです。

世の中の人口の、つまり『金色のコルダ』シリーズに触れる人のほとんどは、音楽エリートではありません。そしてたとえエリートとして育ち、プロとなって、周囲からは成功したように見られても、道は孤独で、険しく、いつ膝が折れるともしれない。「音楽の道のド真ん中にいない自分」はすべての人の中にあって、とても普遍的なものです。

しかし当然ながら、「音楽に祝福されて生きていく」生き方が主役級のソリストだけなわけはありません。土浦は指揮者、志水は作曲家となり、音楽で生きていきます。でも、「一流の音楽家」と呼ばれる職についていなければ音楽の祝福とともに生きているとはいえないのかというと、どうでしょう。火原は音楽教師として音楽を楽しむことを教え子に伝えていきます。それもまた音楽と生きるということです。

一度は音楽の祝福を憎んだ吉良は学院を経営することで「学院という楽器を奏で」てゆくことになるし、音楽の妖精を感じる才をもたない加地も「音楽を愛し支援する政治家」となり、腕を壊した律も「ヴァイオリン職人」となります。和菓子屋の跡継ぎの八木沢は和菓子屋になるでしょうし。和菓子屋など芸術性のある伝統的職人の跡継ぎは教養や感性を磨くためにもと家に応援されて音楽やその他の芸術で大学まで行ったりすることも珍しくありません(柚木もそれに近かったのですね)が、それでも家やお菓子を愛しているなら家に戻り、お菓子作ります。お菓子作るその心に、美しい音楽を鳴らして。

『金色のコルダ』シリーズには、「音楽とともに生きる生き方」が無数に描かれています。それは門が狭いから妥協点をたくさん用意しているってことではありません。そのすべての生き方が、『金色のコルダ』の音楽の祝福だと描いているのです。

星奏学院はホールいっぱいの音楽科と普通科の全校生徒に音を届けるオーケストラ部だから。幾何学の理が美しい図形を大衆向けに量産可能にしたアール・デコだから。

 

才能がなかろうが、エンタメやイケメンの消費から入ったんだろうが、結局クラシック音楽のことはよくわからなかろうが、そんなことはいい。『金色のコルダ』を愛するプレイヤー自身が、音楽の祝福に包まれてないなんてワケある?

 

ほかならぬルビーパーティが、星奏学院の校舎やユーザーインターフェースを通して、アール・デコの「日本と西洋」「芸術と大衆」「伝統と革新」「美と理」「楽しさと正しさ」の融合と調和で、われわれを包んで見守っています。

 

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(写真は横浜市日本大通りの建築と同時期に建て直された旧帝室林野局木曽支局庁舎(長野県)。アール・デコの意匠で知られています。廊下とか菩提樹寮に似てる)

 

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