湖底より愛とかこめて

ときおり転がります

涙の湖底に眠れ―遙か7阿国ルート感想

本稿では『遙かなる時空の中で7』の「阿国」個人ルートについて感想を言ったり考察したり八葉「天の玄武」の解釈をみたりしていきます。

他のキャラの記事ではキャラクターデザインやシナリオの見どころの紹介が終わってからネタバレ部分を始めるようにしてるのですが、今回は序盤からネタバレをしていくことになるので未プレイの方はご注意ください。

あと『遙か』シリーズ全体のテーマや背景になっている日本文化解説に力が入っちゃったので幸村の記事より長い。

 

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 未プレイの方向けに『遙か7』をオススメする記事はこちら

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 『遙か』シリーズの中での『遙か7』のテーマ位置づけについてはこちら

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 『遙か』シリーズ全体で「八葉」に共通する核となるイメージについてはこちら

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 好きなものは最後にとっておくほうの照二朗です。なので『遙か7』八葉の攻略も残り2人となり、いよいよまともに好きなタイプのキャラクターにゴーすることとなりました。背が高くて優しいおねえさんの阿国さんです。好きッ! 大柄なお姉さん!

お姉さんが八葉になるのはたぶん初(だよね?)なので発売前からワックワック。その要素は「天の玄武」の卦にもよく合っています。

阿国の読み取りには前提として天の玄武の示す意味が大きく関わってくるので、シリーズを通してプレイしてきた方以外にはちょっとわかりにくいところもあったかもしれません。でも遙か1~3をプレイされてた方には特に刺さるリバイバル&アンサー! そういうとこを主に読解していきたいとおもいます。上の「八卦象意」の記事とあわせて読まれたし。

 

 

阿国のキャラクターデザイン

 阿国のデザインは、もうネタバレですけど遙か7八葉唯一の完全二段構えとなっています(あれっ今までの八葉でも唯一?)。武蔵もコイキングがギャラドスになる変化をみせましたが、阿国はそういうんじゃなくて表と裏のように変化します。すなわち、「女の舞い手(昼)」姿と「謎の青年(夜)」の姿です。サバサバと明るい阿国の「中の人」が実は物静かで沈鬱な青年であるという事実とそのビジュアル自体は、阿国ルートに入らなくてもプレイヤーに知らされるようになっています。

 まず大人気Vtuberのガワである昼の舞い手姿について。ビジュアルデザイン自体の話をする前に、「阿国」という伝説について前提をさらっておきましょう。

「阿国」といえば中学の歴史のテストでも書かされる、そういった意味では「黒田長政」とか「真田幸村」をはるかに凌駕する有名人「出雲の阿国」です。現在の歌舞伎へと続く「かぶき踊り」を広めた人物として習います。

作中では阿国に憧れ自分も舞い手になりたい!と言う少女が「出雲の」阿国になることが示唆されていますが、「阿国複数人説」といって出雲の阿国伝説やかぶき踊り流行のムーヴメントには同時期の複数の舞い手がかかわっていて、その事績や伝説が統合されて「出雲の阿国」として伝わっているのではないかとも言われています。こういうのは平安いちの才媛伝説「小野小町」や、それこそ「聖徳太子」「卑弥呼」などの伝説についても同じ、よくあることです。八葉の阿国もその伝説の流れのひと筋として描かれているというわけですね。

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「阿国」は男装して刀を持ったり大きく手足を動かしたりと男性的で派手(かぶいた)なパフォーマンスで人気を博しました。今回の阿国も腰にイミテーションかもしんないけど大刀をさし、女性と男性の装束をミックスしたド派手ゴージャスな舞台衣装を着ています。

薄紫の小袖の上に、女性ものの派手な色打掛のような衣(袖は小袖サイズ)。その上に武士の男性が着るタイプの胸紐のついた薄紫の直垂(ひたたれ)を片肌脱ぎにして腰でくくっている状態です。首周りの黒いインナーや手袋は、特に見た目に男性的な特徴が出やすい部位をそれとなく隠したものでしょう。知ってるぜ女装のときには首と手をどう隠すかいい感じに見せるかが肝になるってことをよ(経験)……。

のちにこの直垂は生来の武家の男姿のものだったことがわかるわけですが、「異性ものの衣服やアイテムをアレンジする」「片肌脱ぎコーデ」は当時流行っていたワイルドで反体制ヒーロー的な「かぶきもの」ファッションの定番的な要素です。阿国は女性だと思われてるので直垂が異性ものの衣服アレンジってことになってなんだかややこしいですが、とにかく八葉の阿国が旅芸人として興行しているのも「かぶき踊り」っぽいものなんですね。

頭頂部でループさせてふくらみを作る「唐輪髷」の髪型自体は当時の遊女(花街のお姉さんだけでなく芸能者を含む)によくみられた髪型でした。阿国みたいな蝶のような大きな輪が流行るのはおなじみの江戸後期の花魁ですが、もとは室町時代あたりからあります。髪の元結いには金の太陽のような髪飾りをさしています。女姿が明るい昼の存在であることを示すだけでなく、日本古来から遊女や芸能者というのが太陽の神を招くアメノウズメノミコトになぞらえられてきたことをあらわしてるみたいに見えます。

色打掛みたいなのに描かれている派手な羽のような柄は、多くの長い尾羽、鱗のような翼から、鳳凰柄であると推察できます。日本におけるフェニックス、火の鳥的な存在として朱雀以上にポピュラーである鳳凰は華やかなだけでなく、実はいろいろな意味・性質が伝わっていて、阿国と符合する意味深なところもあります。

鳳凰はコーエーテクモお得意の三国志で天才軍師諸葛亮・龐統を「臥龍鳳雛(がりゅう・ほうすう 眠っている龍と鳳凰のひな鳥、まだ世に出ていない偉大な人物の2つのたとえ)」と呼びならわすように偉大な神獣として龍と対をなす存在であり、また日本においては迦楼羅(かるら)や迦陵頻伽(かりょうびんが)といった仏教の浄土的モチーフと同一視されることもあり、浄土信仰の代表である十円玉の裏のお寺、平等院鳳凰堂の屋根に乗っかってます。さらに鳳凰はよき君主のもと世が平らかに治まるときにのみ現れる聖なる瑞獣ともされます。

『遙か7』より後の作品ですが、「平らかな世」の象徴としての瑞獣といえば…………

 

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 夜の男姿のほうも、小袖の上に片方直垂を着かけています。でもこれはワイルドな着こなしというよりは、ちょっと高貴な上流武家の御曹司が世を忍んでカジュアルダウンしているという印象ですね。ちゃんと袴履いてるし、袴に扇をさしているさまも舞い手ではなく武家の貴公子らしい。小袖の右肩に直垂がかかっているという衣装の構成じたいは昼の女姿と同じで、小袖と直垂の色の明度がちょうどネガポジ反転するみたいになっています。同じなのは紫と水色のマーブル胸紐だけ。リバーシブルかなんかか?

黒い直垂の下の水色の小袖は、彼の素性がわかってみると、例の大河ドラマの人が若武者のころよく明るい青や緑の服を着ていたのと同様、明智光秀の水色桔梗旗印になぞらえられていたんだなあ……ってなります。水色じたいは(麒麟がくるでもそう扱われていたように)「木」の気に属する色ですが、薄紫や黒とあわせると清らかで静かな五行の「水」をあらわす色にみえます。水気を司る八葉は代々天の玄武だけで特別です。また、天の玄武のメインカラーである紫色は多く「(何かの事情で身をやつしている)高貴な人」をあらわします。

1~4までの『戦国無双』シリーズでは明智光秀は「水色~紫色を基調とした衣装、暗い色のサラサラストレート長髪の、物静かで品がよく憂いに満ちたたおやかな男性」として描かれており、無双プレイヤーには阿国の男姿は「コーエーの明智概念」のもの憂げな一面をキャラクター化したように見えてさらに秀逸です。

男姿の水色の小袖にひかえめに描かれている柄、かつ個別ルートのメッセージウィンドウに描かれるのはたぶん芍薬唐草です。勇ましかったり堅牢だったりはせず、女性的で美しい曲線の花模様というだけでもピッタリですが、芍薬および牡丹の唐草は鳳凰と同じくやはり仏教の浄土イメージと結び付けて用いられる装飾です。

いや別に作中で仏教の話はしとらんかったやんけという感じなんですが、そこはこう、直接してないですが、概念的に関係してくるんすよ。『鬼滅の刃』とかも直接じゃないけど仏教思想を表現した作品だったし。マジでマジで

 

阿国のシナリオ描写

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 戦いを厭う阿国のストーリーは「運命を血風ド派手に切り開く」のが当たり前みたいな戦国の世において最も異彩を放つ物語といえます。戦を戦わない。戦って守り通さない。しかし、それだからこそ『遙かなる時空の中で』シリーズの本流に戻っている、という逆説的なことにもなっています。

どういうことかは詳しくは下の見出しでお話しします。

阿国の物語のキーになっているのは「涙」「生きながら死ぬ」ことと「逃げる」こと。さわやかな風である幸村やどこまでも上へ燃える炎である武蔵、あるいは天にて輝く聖なる日である長政と真逆をなし、どれも景気が悪すぎ湿っぽすぎるワードですが、この景気の悪さ、沈鬱さ、いわゆる女々しさこそが本来の天の玄武の性質です。天の玄武の「坎」の卦を象徴する動詞(卦徳)は「陥る」、暗くくぼんだ真夜中の水の底に沈んで浮き上がれないでいることをあらわしています。

じゃあ天の玄武の坎の卦は「悪い」ものなのか?っていったら、世界を構成する大きな要素にいいも悪いもないですし、なによりわれわれがルビパの描く天の玄武の人物像に魅力を感じている以上、彼らはすばらしい何かをわれわれに伝えてくれるはずです。

 

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 ていうか、「悪い」ってなんなのか? 景気が悪くて女々しくて何が悪いのか? って話でもあります。

阿国が生きる人生は男性的な明るく強い世界で「よきこと」とされる道の外にあります。幸村や武蔵や長政の物語は華やかに光り輝いており、人の目に映りやすいですが、世界や人間の心は明るく強くあろうとする面ばかりではありません。世界には雨の日があり、夜があります。それを特に現代人は忘れがちであり、それどころか、悪いもの、ないほうが助かる不要なものとすら思ってしまうことがあります。

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阿国の天の玄武の物語や、大和の地の朱雀の物語は、光と影のうち影の面を描いたもので、二人で今作には登場しない黒龍の神子的な役割を担っています。特に天の玄武はアンジェリークシリーズの「闇」や「水」のサクリアに通じますね。闇のサクリアは邪悪や心の弱さではなく、「安らぎ」「癒し」を司ります。

救いのないホラー映画や終始沈鬱な物語には恐怖エンタメだけではなく癒しをもたらす効果があるといわれます。たとえば一人か二人の人間の恨みが井戸の底から影響してものすごい数の人間が連鎖的に死ぬ『リング』シリーズとか、ふだんの生活の中では軽んじられてしまう個人の悲しみや恨みやつらみがそこでは肯定され、無視すべきでない重大事として扱われるからです。

阿国の物語はホラーではないのですが、そうやってわれわれ自身も軽んじている悲しみやつらみの心を肯定し、ていねいに癒す物語です。そしてやっぱり明るい世界に交感神経を刺激されがちな現代人にはいまいち見えにくいのですが、彼が背負った罪と終わらない抑鬱の亡霊は決して戦国時代だけの特殊なものではなく、われわれ現代人みなの背にも同じようにとりついているものです。

そういうある種の怪談話をこの記事ではひもといていこうとおもいます。

 

『遙か』シリーズでは頼久、永泉、彰紋、泉水、景時、敦盛、風早、遠夜、夕霧、竜馬、コハク、秋兵、村雨のシナリオが好きな方にはいいなと思います。特に1~3の伝統的な天の玄武的で、敦盛の再話構造になっています。他ネオロマでいうと『アンジェリーク』のクラヴィス、リュミエール、メル、フランシス、『金色のコルダ』の柚木、冬海ちゃん、七海、ソラが好きな方に。阿国のシナリオに燃えたかたには『パレドゥレーヌ』のエクレールやエヴァンジル、アデライードのストーリーもおすすめです。

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憂き世を捨てて

 いきなりですけど、阿国のストーリーって言いたいことは理解できるが、テーマがマジで腑に落ちるのがかなり難しい話だったとおもうんですよね。それは阿国のストーリーが、われわれが現代社会を図太くガサツに生きていくうえで忘れてしまっているもの、捨ててしまったものこそを描いているからです。

 

 阿国のストーリーを読み解くには、いくつかの「現代のわれわれがあまり意識していない、日本的な文化」についておさらいしておく必要があります。まずは、『遙か無印』『遙か2』に描かれていた、「もともとの遙か」的な国風文化の世界観や美意識です。

知っての通り遙かシリーズは和風ネオロマンスで、和の美意識のそもそも論として平安時代の京の都をモチーフに始まりました。平安時代から続く日本の美意識とは一言でいうと「もののあはれ(物の哀れ)」です。男女を問わず宮廷人から庶民まで何かにつけてしみじみとした趣を感じて詠嘆し、歌を詠み、「エモい(いとあはれ)……」つって乾飯がふやけ枕ベショベショなるほど涙を流すという美意識です。これを表現して、遙か無印の八葉はなんと全員に「泣き顔」の立ち絵をみせるクライマックス的なイベントが用意されていました。その後も全員でないにしろけっこう泣き絵の多いことが特徴的なシリーズでした。最近はそうでもなかったけど、今作の「泣き顔」担当が阿国というわけです。

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そしてなにがそんなに泣くほどエモいのかといったら、根底にあるのは世の無常観です。美しい花は散り、愛しい人とも別れがあり、なつかしい日々は過去へと流れて消えていき、何一つ永遠であってはくれない。それを感受性豊かに悲しんで、どうすることもできず、ただ落涙する……というのが本来「大和魂」と呼ばれていたものです。しかもこれはネガティブなものではなく人間のかけがえない美質とされてきました。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。

――『平家物語』冒頭

世の無常観の美意識が根底にあるのは平安時代のみやびでおじゃるな貴族社会だけではありません。勇ましく合戦に参加する神子を描いた『遙か3』でさえ『平家物語』の「諸行無常」をテーマにしていましたし、江戸時代以降の俳句文化を代表する松尾芭蕉の『おくの細道』も無常観をテーマにしています。夏草やつはものどもが夢のあと。義務教育で必修の古典『竹取物語』『枕草子・春はあけぼの』『平家物語』『おくの細道』はすべて移り変わる無常のあはれを教えるための教材です。ついでに言えば「すべては移り変わり、とどまらない」という世の摂理は白龍の神子の陽の気がずっと象徴していることでもあります。

そのような世の悲しみを豊かに感じ取った日本人が何をしてきたかっていうと、歌を詠み、無念を鎮める音曲や舞をシェアし、そして最終的には遙か1~2の天の玄武がそうしたがっていたように出家、仏の道に入りました。

昔は出家っていうのは単にお坊さんに転職するという意味ではなくて、俗世での自分の人生を捨て去って、ほぼ死んだ扱いになって世のために祈り奉仕するという意味でした。いわば、聖なる社会的自殺です。だから歴史の敗者となった一族の人は自害しなければ出家することが多かったのです(幸村ルートなどでも秀信が出家してましたね)。そして、繰り返すようですがこの社会的自殺はネガティブで悲しいだけのものではありません。「自由になる」、「魂を解放する」すばらしいことでもあったのです。

こうした日本的な美意識や人生観が、天の玄武には特に色濃く表現されてきました。ときとして、まっすぐな道をゆかず迂回することによってのみ自在にふるまえるということがある。「方違え」みたいにね。ここんとこ難しいけど、遙かシリーズが伝えようとしてる日本のあはれ世界観です。

 

 そしてもうひとつ。阿国が「女の舞い手阿国」に扮していることの背景について。

阿国は「出雲の阿国」伝説や当時の芸能者の一つの側面をあらわしたものだ、とすでに述べてきました。「阿国」伝説には民衆の心をつかむにいたった一定の特徴があります。

阿国の特徴として伝わっているのはおおむね以下の2つかな。

  • 男装をして刀を持ち派手な(かぶいた)演劇的舞踊を行った
  • 諸国を回る「歩き巫女」でもあった?

 「男装の女性舞い手」という意味では遙か1~2のシリンが扮していたり遙か3の後白河上皇が大好きで目がなかったりした平安時代の「白拍子」とも似ています。阿国のストーリーでも語られた「義経と別れた悲しみを舞ってみせ人々を感動させた静御前」も白拍子で、似た系譜の存在であると意識されています。

一方、「歩き巫女」あるいは「渡り巫女」とは特に戦国時代に多く伝説がある遍歴の巫女のことです。全国を移動しながら土地土地で祈祷をしたりありがたいアイテムを売ったり、したがって勧進興行として旅の芸能者を兼ねていることも多くありました。穏やかな世であれば田んぼの神様を喜ばせるために舞っていたんでしょうが、乱世においては死者の魂を慰めみんなのどん底テンションを上げるために求められました。

白拍子 静御前

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白拍子と歩き巫女はどちらも遊女を兼ねることが多かったのですが、その当時の「遊女」とは江戸時代の遊郭に囲われた売春女性とはニュアンスが違っていて、「神を憑依させる者」の意味もありました。「あそび」とは歌舞音曲などの芸能のこと。あそびは神をよりつかせるトランス状態を作り出し、「遊」は神をあらわす言葉でもあります。

さらには白拍子や出雲の阿国のかぶき舞いが「性別を越境する」「中性・両性的になる」ことには、神の力をもったものに一時的に変身(トランスフォーム)する効果があると信じられてきました。現代でも歌舞伎の女形には神聖なまでの特別な美があります。能面をつけた舞いとかの神聖さもそうですが、「もともとの自分からはかけ離れた仮面」に表現を託すから、特別な力が生まれるのです。バ美肉おじさんは神力をもつ。

 

 文化のおさらいが長くなりましたが、そういうわけで阿国が本来の自分の名や身分を捨てて両性的な女舞いをしているのは「社会的自殺をして祈りに生きる」もののあはれの出家の文化「芸能によって自分とは違うものに変身する」巫女(シャーマン)の文化をうまくミックスした生き方なんですね。ほんとうまいよ。

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阿国は生きながら死に、死者のために舞う。

それは本人の自認としては逃げと流されの果てに転がり落ちた進路でしたが、知らず知らずのうちに、彼の優しく芯の強い心の声を映し出してきました。

 

「許嫁」の悲劇性

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 阿国のいわば「俗世での生」の名は明智光慶(あけちみつよし)。主人公のかつての許嫁の少年にして、令和の世でも戦国の世でも誰でも知っている「主人公の父織田信長を討った明智光秀」の嫡男が落ち延びたものでした。途中名乗った通り名の「長山十五郎」の十五郎部分は明智光義の通称(織田信長なら「三郎」明智光秀の「十兵衛」にあたる)、あと長山部分はこのせいで「えーっ誰だろ? 知らん人だ、創作かな」ってノホホンしてしまったんですが、よく考えたら明智氏の古くからの居城である明智長山城(長山が地名)のことですね。

男姿の彼は天の玄武の「坎」の卦があらわす「暗い真夜中」に、「涙の水にぬれて」「秘密を隠し」「暗く悩み苦しんで」登場します。アーネストや九段、昼の阿国とあまり湿っぽくない天の玄武が続きましたが、光慶の登場は今までにないほどのパーフェクト天の玄武を突いてきました。

もうさー、遙か7だいたいのネタやテーマは序盤をやればなんとなく読めるけど、これはぜんぜんビックリした。そしてなるほどなァと思いました。上の見出しで説明したような天の玄武のもののあはれで女性的で沈鬱なウェットさは、遙か無印の永泉とあかねのようにはつらつとした白龍の神子と好対照をなす組み合わせだからです。ある意味、幸村ら天の青龍が白龍の神子の性質と似ているから正ヒーローになってるのとは真逆の運命の相手なんですよね。龍と鳳凰のごとくに。

 

【Switch】戦国無双5

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 彼らの父親どうし、すなわち織田信長と明智光秀もまた、真逆の、対立する運命の相手としてうたわれてきました。そこんとこがまたしみるから、長くなるけど書いときますね。

特にコーエーの明智光秀像や大河ドラマ『麒麟がくる』をはじめ近年のフィクションでは、「目的のために摩擦をいとわぬ苛烈な信長」に対する「天下平定のため信長の命に従いながら、これでいいのかと考える優しく思慮深い光秀」という描写が多くなっています。武将としての来歴も対照的でした。もともと尾張の守護代でさえなかった田舎ベンチャー大名から朝廷に天下人たるを認められるにいたった信長と、由緒深い武家の出身でやんごとなき足利将軍家や公家とも通じる知識人でありながら慎ましやかであった光秀。

光秀は主には足利将軍家に仕え、織田家には将軍家方のエージェントっつうか、出向?折衝役?みたいな感じで関わっていたんですが、織田家での戦功や信頼もあつく、なんやかんやありながらまったく違う二人は惹かれ合い、かたく結びつきました。主人公が生まれる2~3年前には光秀はついに足利将軍家を振り切って信長につくことになり、その後信長の天下がキマった、という感じ。

信長はやっと正式に手を結ぶことができた心強いデキる男を喜んだはずです。だから、タイプの違う自分たちの力を結び付けたいと思って遙か7のように自分と性質の似た娘を嫁にやろうとしたとしても不思議はありません。少年の彼や明智一族が住んでいた坂本城は、織田の安土城に次ぐすばらしい城として琵琶湖をはさんだ対岸に築かれました。いわば「光慶となお姫」は、「明智光秀と織田信長」という対岸の概念が和合しようとした夢の結晶だったのです。

ただし、われわれがあらかじめ知っての通り、その美しい夢は結実することなく爆発した……。

 

 かわいらしい、まだ男女の愛も知らないでただ好ましく思い合っていた許嫁ちゃんたちは、不幸にも他人より遠く引き裂かれ、世間的には憎み合うべき仇の間柄ということになってしまいました。

たいへんかわいそうな話ですが、しかし、これは彼らの親が運悪く爆発しちゃっただけの「不幸な事故」ではありません。言い換えればよくある話です。その普遍性が、阿国のストーリーの中では『義高と大姫』の物語を出すことで演出されています。

「義高と大姫」の顛末が「光慶となお姫」に重ねられていることははっきりしています。その似てるとこっていうのはつまり、「親の争いに翻弄され、罪のない子どもが憎み合いを強いられる苦しみ」です。『義高と大姫』は「思い合う許嫁どうしが結ばれることができなかった悲恋」であるのみならず、親の都合で夫婦になれと言われ、また親の都合で敵同士になれと言われ、そのままならぬ苦しみのうえで自分の意思をなんとか貫こうとした子どもの人生の物語です。

これは実は「許嫁」というシステムの構造的な矛盾っていうか脆弱性、哀れをよく表現しているんですよね。木曽義仲と源頼朝の子としての義高と大姫、明智光秀と織田信長の子としての光慶となお姫に限った話ではなく、許嫁の縁組とは親同士の「取引」であることがほとんどで、親同士がいつ激しく滅ぼし合ってもおかしくない間柄だからこそ、和平の証として結ばれるギリギリの空中ブランコの約束だからです。今でも極道フィクションとかで滅ぼし合いそうな組織同士が和平の盃を結ぶために婚姻の約束をする、ていうの見ますよね。

織田信長に斎藤道三の娘・帰蝶姫(お濃の方)が嫁ぐときも、信長の妹・お市が浅井長政に嫁ぐときも、信忠兄上と武田信玄の娘・松姫が許嫁であったこともみーんな、「伴侶になる人が個人的に好ましくても、いつ生家の敵になるかわからない、なんなら現在進行形で警戒すべき存在である」というのが戦国時代の有力武家の婚姻では当然でした。物心つく前から決まっていた結婚相手ってロマンもありますけど、要はそんな年端もいかない子の婚姻カードを速攻で発動させたいほどの緊張感のある取引があったってことです。それが「許嫁」というロマンティックそうな関係性の哀しい本質である……と描いてる、なんともマジレス、歴史のコーエー……。

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そしてこの「許嫁の悲劇」の構造って、許嫁関係を越えてさらに普遍的でどこにでもある、いっそ生きている限り避けえないとさえいえる、運命の悲劇全般の構造なんですよ。だって、たとえば男と女は結ばれて次世代をつくるけど、「男なるもの」と「女なるもの」は運命的に対立し続けてきた一種の敵国のようなものでもありますから。

明智家と織田家や、男と女の対立だけじゃありません。国籍、人種、階級、歴史……。阿国が一族に対する罪の意識から逃れられずに苦しんでいるように、われわれはみんな先祖の痛苦に満ちた歴史の水脈の中に生まれてきて、本当はなんぴともその亡霊たちからフリーであることは不可能なのです。自覚としては感じないタイプの人もいるでしょうが……。

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たとえばそれは、性差別や民族差別などと血反吐を吐いて戦ってきた(あるいは今も戦っている)人たちに救われたかたちで今の自分たちの生活があるのに、その戦いを忘れて気楽に幸せになるなんて許されるのか? 本当は自分も魂をすりつぶしてでも戦わなくちゃいけないんじゃないのか? という罪悪感として、今現在もわれわれをさいなみ続ける牢獄です。

それぞれに戦い苦しんで死んでいった先人の亡霊に背中を押され続け、「そんなことはしたくない、できない」と頑固にも足を止めたことで背中を押す力につんのめって倒れ圧し潰されて、どこへも行けなくなった阿国。

「過去は過去」「親は親」って、言うのは簡単ですし、現代ではよく言われてますよ。実際そう割り切らなくては自分の人生が亡霊に乗っ取られてしまいますから、どこかで割り切るしかありません。でもほんとはさ、そんなの、あまりにかわいそうだ……。

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そうして英霊たちの要請に応えて自分の生きる世を壊そうとしたのが、阿国の相似としての平島です。ターラが大和に共感し「虐げられたのだから力で黙らせ見返してやれ」とそそのかしたように、平島も阿国に気持ちをわかってもらえると思ったことでしょう。平島ももう一人の天の玄武のようなもの、強大な一族の亡霊の無念を背負って生き残ってしまった、自分の人生を殺して戦うことから逃げられなかった心清き子どもだったのです。

阿国ルートのラスボスはその平島に呼び出された父・光秀の怨霊でした。「神との間のへその緒を切り、人として歩き出す」遙か7のテーマの中で、阿国にとっての「神」とは父親をはじめとした死んでいった一族のものたち、しかも武蔵にとっての父や師匠のような「乗り越えるべき強さ」とかじゃなくて、「愛し、救いを願ってやまないもの」「何かを返したいのに返せない美しい秩序」としての亡き父です。

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真夜中の、最も悲しい淵とは、救われ生きていることに何も返せないのを罪だと思う、小さく優しい魂のことです。

 

甕覗きの鏡

 阿国のストーリーには「鏡」の構造が頻出します。固有術「流扇鏡」があらわすように鏡は水に通じます。

水に落ちた自分を自分が引き上げることができないように、自分で自分を救うことは難しいです。しかし、本当に自分の魂を殺すのも助けられるのも自分だけ。阿国ルートのテーマであるこのいかんともしがたさ、どうするつもりなのかなと思ったら「鏡のむこうの自分」である他者を助けることで自分を助けるという方策がとられました。

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夜の男姿の阿国が死を嘆いていた小鳥を、主人公は「助かるかはやってみないとわからんじゃん、もしだめでも死ぬのを待つだけなんて嫌だからやります!」と介抱しました。阿国は男姿では無理だよ……とかたくなにネガりましたが、わざわざ急いで女姿に着替えてきて偶然を装って薬箱とか渡し、いっしょにポジティブに小鳥を看病しました。

阿国は弱弱しく死にゆくばかりの小鳥に自分を重ね映しにしていたので、「自分はこうしてゆるやかに死んでいるしかないんだよ」という主張に「そんなことない! 生きようとしていい!」と返されたかたちになります。そして、自分に生きろー!って応援するのはムリでも、「神子を助ける阿国お姉さんとして、小鳥に対して」ならがんばれ生きて!って言うことができる。

 

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 主人公に「涙を流すのもいい、悲しみや涙は心を癒す」と肯定され、阿国は否定していた自分の悲しみの心を見つめ舞いにのせて表現することに目覚めます。阿国の悲しい舞いの演目は、アゲアゲな演目とは違ったかたちで観衆を感動させました。豊かな悲しみとでもいえるものが表現された舞いに観客は自分の心の悲しみを投影してとっぷりしみじみ悲しんだのです。これもまた、「鏡」の作用です。

最初のほうで話した、「ホラーや沈鬱な物語が心の癒しになる」ってやつと同じで、芸能には感情を描き出す鏡の力があります。戦国乱世では庶民にいたるまで、生きるのに必死で悲しみをちゃんと悲しんであげる余裕がありません。いつしか心はカラカラに乾いて麻痺し、感受性が鈍り、「メソメソして何になる、気持ちがなんの役に立つ」とかって自他の人生を大事にできなくなります。もしかしたら現代だって同じなのかもしれません。それは不幸なことなんだけど、乾いちゃったものは自分ではどうにもできません。だから、もの悲しい芸能がある。

安土桃山時代より前から流行ってたものですけど、「かぶき踊り」と双璧をなす日本文化を象徴する歌舞といえば「能(当時は猿楽といった)」です。能とか織田信長がよく舞ってる哀しい系の幸若舞って「死者の悲劇の人生物語」なんですよね。こうした日本の詫び寂び、もののあはれをあらわした悲しい歌舞は観客が見て心をしみじみさせるだけでなく、現代でも織田信長のように立場のある「強い」人がお稽古事として携わり殺伐とした心に感受性を取り戻していることが多いです。戦うすべての人の心の中に乱世があり、豊かに泣いてくれる鏡としての阿国が必要なのです。実際、遙か7でその立場にある長政も謡(うたい、能の声楽部分)を趣味としています。

結果的に阿国と同じ「女装の舞い手」がやることになった現代の歌舞伎の女形も、「もともと女性ではないからこそ、女性のたおやかで哀れをさそう心を豊かに表現しようとする」鏡としての芸がこのうえなく美しく、人の心をうつものになっています。

女形の美学: たおやめぶりの戦略

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また、阿国自身にも「阿国」という鏡が必要です。昼の世界を生きていく仮の姿、演技である「阿国」は「光慶」という本当の生まれとは違う姿で、しかし仮面だからこそ光慶のままでは表せないさまざまな本心を表すことができるのです。当方も演劇や歌をやるので、こういうのはわかるなあ。

 

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 物語のクライマックスとして、阿国は細川家に嫁いでいた姉・ガラシャ(明智玉子)と互いに「鏡」として救い合うことになります。明智の者はのうのうと女装の舞い手として生きている自分を責めるはずだとずっと苦しんでいた阿国は、姉に正体を見破られてヤバッと思いながらも「息災でよかった」と心から喜ばれてうれしい拍子抜けをします。

お家のために自害せんとする姉を主人公の後押しもあって助けに行ったとき、阿国は姉の「鏡」となって代わりに死んだふりをしてみせました。女の舞い手として生きてきた秘密多き人生、人を感動させてきた悲しい女性の演技の説得力がなければかなわなかったことです。そして、「私を救い出して何になるというのです、私は殿のご恩のため、家のために死ぬべきなのに……」と戸惑う姉に、「姉上はこんなになって生き延びた私に息災でよかったと言ってくださいましたよね」と、姉自身の気持ちを映し出してみせました。

ガラシャと阿国は姉弟で容姿が似ているだけではなく、境遇においても似ています。阿国が滅びた一族から再興を願われて苦しんできたように、ガラシャは大謀反人の娘として処分されてもおかしくなかったところを夫にかばわれ負い目に感じてきました。二人とも、自分自身は何もしていないことについて責任を問われ、重い負い目を背負い、救ってくれた人のためには自分を殺さなければならないのではないか、幸せになってはいけないのではないかと思ってふさぎ込み続けてきた、美しく優しい人でした。でも、幸せになっていい。自分の望む生き方を殺さなくていい。自分の心そのものでない亡霊からは逃げていい。なぜなら、鏡に映っている弟が自分の心を舞っているのが嬉しいから……。

救い合う鏡になるために、自分のためには流せない涙を流すために、他者がいて、物語があって、弔いがあって、芸術がある。

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そうやって人は自分が生きている罪をなんとか許しあっていくんだよ。

 

”敦盛”の示すもの

 阿国の背景には遙か1~3の古式ゆかしき天の玄武がいて……という話をずっとしてきましたけど、今作の時代とも縁が深いのが3の天の玄武、そう、「平敦盛」です。最後にそのへんの話をしようとおもいます。

思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

――幸若舞『敦盛』

 引用の太字の部分は、織田信長が好んで舞ったとされる、しばしば信長という概念を象徴するように使われる一節ですね。「人生はたかだか50年、生きている間のことはほんの一瞬の夢のようなものである。だからいつ死ぬも是非もなし」ていう、信長の豪快な死生観と前進志向をあらわした歌だって? そういう意味で用いられがちですが、本当の意味とか文脈は実は違います。

この舞の詞と遙か3の天の玄武の少年「平敦盛」になんの関係があるのかというと、この話の前提として平家の少年「敦盛」は源氏方の武将熊谷直実に討たれて死んじゃってるんです。この一節はそのあとになって熊谷直実が出家するシーン。じゃあなんでそれがタイトルになってるのかってーと、彼の悲劇の死が熊谷直実の心と人生を動かした象徴的なできごとだったからです。

以下あらすじです。

平家の中でも清盛たちのドンパチが終わってから栄華の中で育った貴公子敦盛。実戦経験もないのに平家の公達として立派な鎧をつけて合戦に出なければなりませんでした。
「オッ立派な鎧だぞ、名のある将に違いない!」と熊谷直実に目をつけられた敦盛は、一騎討ちに負けて捕らえられました。
将の兜の中を見てみると、直実の息子とも似た年端もいかぬかわいらしい少年だったもんだから、命は助けられないかな?と直実は迷います。しかし迷っているうちに「直実は敵将の首をとるのをためらっているぞ! 裏切る気なんだ、あいつもろとも殺せ!」と周りに言われて仕方なしに敦盛の首をとってしまいました。
直実はそのことにたいへん苦しみ、もう同じようなことを起こしたくない……と合戦への参加をやめ、出家を決意しました……。

敦盛の境遇は、光秀の遅くできた息子であり風光明媚な坂本城で暮らした光慶と重なります。世間やお家の目に責められ自分の自然な心を殺した直実もまた阿国やガラシャ、平島と同じ悲劇です。

俗世の悲しい習い、家や社会の亡霊の呪いをふりほどくために、人は「落飾」、鎧や社会階層をあらわす衣装を脱ぎ捨てて仏の道に入ります。上の『敦盛』の詞の最後では「世の無常を感じたこの気持ちを出家のきっかけとしないのは、それこそ情けないことである」と言っています。出家は社会的自殺なだけではなく、逆に真実生きようとすることでもあったのです。

遙か無印の永泉や泉水は生まれのせいで皇族筋とか有力貴族たちの権力争いに巻き込まれることを厭い、それらから自由でいられる仏の道に入ることを望みました。逃げることは偽りの人生ではありません。自分が望んだわけではないしがらみから抜け出すのは、かえって真実の人生を求めることです。出家とは、『敦盛』とはそういうことの象徴なのです。

 

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 阿国はガラシャに「姉上にもご自分の望む生き方があるのでしょう?」と言い、しがらみを脱いで自分の人生を求めてよいと励ましました。作中ではサラッと扱われていますが、細川ガラシャは「キリシタンとして洗礼を受けたいと望んだが、夫がかたくなにそれを許してくれなかったため洗礼を受けられないまま死んだ」という悲劇の伝説でも有名です。

人質にとられそうになったら自害せよ、と言い渡されていた件とあわせて美女ガラシャが夫・忠興にやたらヤンデレ束縛愛を受けていたエピソードとして扱われることも多いですが、背景には豊臣政権下でのキリシタンへの弾圧があります。たとえば長政の父・黒田如水(官兵衛)もキリシタンでしたが名前を見ての通り仏教式に出家したりキリシタンやめましたよアピっています。長政にもダミアンという洗礼名がありますが、ルートに結城司祭が関わる以外はぜんぜんおくびにも出しませんよね。

豊臣政権下でキリシタンになることはそれこそ社会的に死ぬ出家と同じ(かもっと悪い)で、夫が死んでもないご夫人が出家するなんて困っちゃう、信教という個人の内心の問題がお家の都合に縛られることになりました。

天の玄武は女性的な心の問題を描き続けています。『源氏物語』で紫の上が出家して心救われたいと望んでも夫(光源氏)に許してもらえず失意の中で亡くなったように、女性は夫に依存し縛られて生きるしかないから自由になれず、救われることができないのではないか……と紫式部は描きました。縛るものは夫だけに限りません。現代でも「墓守娘」といって、家に縛られてきた母や祖母やすべての女たちの重みを背負い、同様に家に縛られることを期待され応えようとしてしまう女性の人生が問題になっています。

女性でなくとも、優しさゆえに「家」だとか「恩」だとか「みんな苦労してきたのに」とかから自分を自由にすることができずに苦しむ人はみな同じではないでしょうか。生きながらにして死んでしまう。敦盛も直実も殺し合いたいわけではなかった。永泉は兄と皇位を争いたくなどなかった。本当は、みんな、ただ自分としてしあわせになりたい。誰も悪くないそれだけのことが絡み合い、生者を引っ張る亡霊の手になってしまう。

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 でも、亡霊の声にまじめに応えた優しい平島がせっかく収まりかけた世をムチャクチャにしようとしたように、いまを生きる人の心が救われなければ、乱世は終わらないのです。

きっと平島のほかにも、徳川のもと収まった世に対して「一族の無念を晴らさなければ……」とか「みんな今まで苦労してきたのに、自分は安穏と暮らしてていいんだろうか……」とか焦燥感にあぶられて苦しむ人は山ほどいて、そういう乱世の火はみんなの心の中にしばらくくすぶり続けることでしょう。戦争って、戦争じたいで人が死んだり社会が荒れたりするのもダメですけど、人の心にこそ大きな、長く続くやけどをもたらすんです。

寸断された龍脈を循環させ、乱世の根本原因を洗い流す風雲が主人公の乱世の鎮め方ならば、阿国の乱世の鎮め方は人に涙を流させて心にくすぶる乱世の炎を鎮火し、慰める鏡のような湖です。

偉大なるあの綺羅星
地平の彼方より
赦されぬ我を見守る
其は我の幻か

志は今 久方の光
時代のうねりを包みたもう 永久(とわ)に
戦なき天下 それのみを願い
嗚呼 太平が続くよう見つめて往かん

――明智光秀(緑川光)『暁更之光』

何かがどこかで食い違って爆発してしまった、しかし彼らの偉大な父たちがかつてともに、それぞれの願いで目指したであろう天下静謐。

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「弔い合戦」という言葉もありますが、本来「弔い」で最も重要とされてきたのは戦い続けることではなく、一族が根絶やしにされず生き残りの子どもたちが生きて明日の世界をつむいでいくことです。たいへん序盤のはなしですが、阿国がずっと気に病んできた坂本城の明智家中のみんなは、阿国の舞いに弔われ微笑んで天へのぼっていきました。

先人たちが目指した乱世の先は二人なりの、先を生きる子らなりの自分らしいやり方で、きっとかなえられていくでしょうし、それがなによりの答えです。

 

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 次はいよいよ最後になった五月ルートですが、すでに終わってて、すっ……ごい遙か7ロスです。急いでプレイしなくてほんとよかったよ。だってソッコーでクリアしちゃった人はこの感覚をファンディスク出る(よね?)まで何年も味わわなきゃだったんですよね……早く出てくれや……一日でも早く……。

 

 

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幸村と阿国は正反対の性格と生き方のようでいて、テーマは実は同じことの裏表ってかんじでしたね。

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長政とは武家の御曹司どうしマジで正反対の生き方。長政とかの天の白虎は阿国の境遇に置かれても堂々と戦うタイプだな……っていうのが遙か4の布都彦ですね。