湖底より愛とかこめて

ときおり転がります

この子の七つのお祝いに―『遙か』ナンバリングの中の『7』

本稿では、『遙かなる時空の中で』シリーズ各ナンバリングタイトルにおけるそれぞれの「神と人の関係性」および「数」の寓意について考察っていうか、いろいろ述べます。『遙か』シリーズでプレイしていないタイトルがある方向けにも少し各作品のテーマの紹介になればとおもいます。

まだ『7』は一回しかクリアしてないですけど各タイトルについてのネタバレを含みます

 

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 遙かなる時空の中でも『7』にまでなり、まあ同コーエーテクモの『三国志』シリーズなんかその倍の14なんですけど、それにしてもえらいことなりましたな~とおもいまして。ここまでくると「シリーズの流れ」「文脈」「ナンバリングどうしの対比構造」のようなものがはっきり生じてきますよね。

ことに日本の伝統文化や歴史観、宗教感覚では「数」というものにはそれぞれ呪術的シンボルとしての意味がありますから、そこんところをコンセプトとした『遙か』シリーズにおいては地味に意識されてきたんだなあ~~と『遙か7』でバッチリ示されることになったので、今のうちに覚書きとして書きとめておくものです。それは今作『遙か7』では「神と人の関わり方」に深い関係があります。だから同時に各ナンバリングの「神と人の関わり」テーマの変遷もみていきます。

『遙かなる時空の中で7』の主人公が「七」緒で、あの時代が舞台で、あのテーマであることには、はっきりした意味の符合があるのです。

 

 

数と文字の呪術性

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「三山神三魂を守り通して、山精参軍狗賓去る」

 今作序盤で五月が繰り出す神言(かむ(ん)ごと)です。

これは山の怪異よけの神言として一般にも知られているバリバリ実用のまじないであり、「三」という数字が力あることばとして使われているのがわかるとおもいます。「五月」「七緒」という名前に「五」と「七」(そして「三」も)を両親がつけたのは、彼らが神職の中でも特にまじないの知識のある人たちであることからして、意識的に「祝福」「聖別」的なお守りとして数を与えたのだと考えられます。彼らのもつ各数字については後で詳しく話しますね。

西洋の各文化にも「聖なる数」というものは多く存在しますが、日本においては「数」を実行したり口にすることはそれだけで呪術性・聖性があります。神に参拝する際は「二礼二拍手一礼」や「四拍手(出雲大社等)」といった数の作法が実行されます。

「十種神宝(トクサノカムダカラ)」をもちいて

ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、

ふるべ ゆらゆらと ふるべ

と「十まで数えて宝を振る」ことで死者さえよみがえらせることができるとする「ひふみ神言」も有名ですね。「かぞえうた」のたぐいにもしばしば日本人は呪術性を感じます。

 また、『遙か4』の序盤で同様に那岐が使った鬼道の言葉「遠神恵み給え、八十禍事を祓い給い、断たしめせ」も有名な神言が入っていました。

「八十禍事」の「ヤソ」「八」という数字とそれに十とか百とかつけた数たちは「無限にいっぱいある」を意味し、「八百万(ヤオヨロズ)の神」という言い回しは実際のはっぴゃくまんという数をあらわすのではなく無限いっぱいのことです。「八十禍事」はいっぱいあるのは悪いことですけど、だから「八十神(ヤソガミ)」という言葉も「八百万の神」と同じ意味であり、日本神話をモチーフとした『ペルソナ4』の学校名にも使われていましたね。

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「遠神恵み給え」と那岐が言った言葉は「ト・ホ・カ・ミ・エ・ミ・タ・メ」として有名です。この言霊は意味もいいんですが「八文字」であることに意味があります。「八」というのは東洋において神なる無限の調和を表す特別に神とかかわりのある数なんです。だから八葉は世界の神的な調和をあらわす「八卦」によってさだめられているし、『遙か7』で日本の五行の龍脈が集い天や神とつながっている場所として富士山、つまり「究極の『八』の字」が出てくるわけです。

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山というのはそれだけで神聖なものですが、富士山はこの美しい八の字、末広がり型においても崇拝されてきたのですね。富士の山が「人が天や神とのつながりを祈る」場であることはあやめが『竹取物語』の話をすることでも暗示されています。

御文、不死の薬の壺ならべて、火をつけて燃やすべきよし仰せたまふ。

そのよしうけたまはりて、士どもあまた具して山へのぼりけるよりなむ。
その山を「ふじの山」とは名づけける。

その煙、いまだ雲の中へ立ちのぼるとぞ、いひ伝えたる。

 

(引用者訳:
帝は、かぐや姫への手紙と不死の薬の壺をともに富士山で燃やせとお命じなさった。

命令を受けた勅使が、武士たちを多く連れて山へ登ったことから、その山を「富士の山」と名付けたものだった。

手紙と薬壺を燃やした煙は、今も雲の中へ立ち上り続けているといわれている。)

 

奇数と偶数

 東洋の数思想では奇数は「陽」偶数は「陰」をあらわします。すなわち『遙か』においては白龍と黒龍に象徴されるものですね。当方は偶数タイトルは黒龍の存在感が強いと考えています。

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 「陽」の力と「陰」の力についておさらいをしておきましょう。

「陽」の力があらわすもの

男性性、明るさ、剛の力、火、上方や前方、昼の時間、動物性、変化、進行

「陰」の力があらわすもの

女性性、暗さ、柔の力、水、下方や後方、夜の時間、植物性、安定、蓄積

 

「陰」「黒龍」というとあまりよくないイメージかもしれませんが、陰の気は安定を意味する大事な気で、陰と陽のどちらが「良い」というものではありません。バランスが大事です。『遙か』シリーズでは黒龍の陰の気は「留める力」、白龍の陽の気は「進む力」としばしば呼ばれています。留める力がなければ水を溜めたり思い出をふりかえったりすることはできず、逆に進む力がなければ水は濁って腐り新しいものに出会えないというかんじです。もうちょっと詳しいことは下記事でも。

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基本的に偶数は左右対称に配置されて「2n」で安定しており、奇数はそこから「2n+1」となって一歩踏み出したかたち、というイメージです。

余談ですが、陰の気は「安定」「蓄積」するものなので黒龍の神子のほうが霊力がめっちゃ高いのは当然です。また龍神の神子が選ばれるのはほとんど社会に陰の気の「留まる力」が蔓延し血行不良となった状態にバランスを取り戻すべきときなので、ますます黒龍の神子は力が強く、先に選ばれることになります。このルールは『遙か6』と『遙か7』、またそもそもルール制定前の『遙か4』ではすこし変則なようですが。

 

神と人の踊り―各タイトルの神-人関係テーマの変遷

 『遙か』シリーズは日本の宗教観・自然観によって「神・自然との調和」をベースとしています。「調和」「均衡」というのはゆれるものであり、前述のように黒龍の「留まる」力がいきすぎているときには白龍の力で「進める」し、逆に白龍の「進む」力に暴走がある時には黒龍の力で「留める」という振り子のような動的なバランス・メイクをしていくものです。

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上記事は同じくコーエーテクモの「正しさとはゆれる天秤のことである」という描写の参考記事です。

同様に「神との関係」も、神にもっと向き合わねばならないタイミングもあれば、逆に神から歩み去らなければならないタイミングもある。それはその時代の流れと転換ごとに違うテーマであり、たえず振り子運動をくりかえします。一歩踏み出しては、ふた足並みをそろえ、また一歩前に踏み出しては、ふたつのシンメトリーを整え……、奇数、偶数、奇数、偶数です。

「数」は神と人をつなぐコミュニケーションツールではありますが、それ以上に作品ごとのテーマとしても、神と人との間でくっついては離れ、くるくるとまわるこのリズムをとる『遙か』はまるで歴史というゆったりと流れながらもめまぐるしい一曲のダンスです。

 

『遙かなる時空の中で(無印および八葉抄)』の平安盛期

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 完全なる無印『遙かなる時空の中で』は2000年に発売した『遙か』シリーズ第一作です。2000年は今からは想像しづらいほど盛り上がったミレニアム・イヤーであったことから「千年」という歴史のひと塊への意識が高まっていた時代でした(これもまた「数」の力のはなしですね)。

2000年の千年前といえば平安時代、ちょうど世界最古の大長編物語小説である『源氏物語』が連載されたころであり、2000年代は「源氏物語千年紀」として記念作品がさまざまに発表され、皮切りのように2000年には記念札「二千円札」の裏に源氏物語絵巻と紫式部の絵図が採用されました。つまり、「平安京」しどきだったのですね。

そういうわけで『遙か無印』は西洋風ファンタジー世界である『アンジェリーク』シリーズとは趣を変えた「和風」の舞台に「およそ1000年代ほどの平安京」風の時代感を選びました。

『無印』は無印であるので数字はない、あるとすれば「一」であり、これは当然はじまりをあらわし、何もないところからとりあえず何かがポンと生じることをあらわします。

2000年代以前から夢枕獏の小説および岡野玲子コミカライズの『陰陽師』によって平安時代と陰陽道とのかかわりはおなじみになっていました。平安京というものは日本の歴史においては、「陰陽道」「風水」「四神相応」などの当時最先端の呪術的立地・建築システムをほぼはじめて実現した理学とテクノロジーの粋を極めた都であり、その「碁盤の目」と呼ばれる縦横の条道は1000年経った現在の交通常識からみてもめちゃくちゃシステマティックに整然としているほどですよね。

「首都」「大都市」というものはけっこう世界じゅうでチョコマカ動くもので、日本でも奈良の都・平安京以前には大王の朝廷はほんとチョコマカ移動していましたし、後には織田信長が安土に平安京に代わる首都を構想するもかないませんでした。政治の実権が武家社会に移るといえども京は特別な都であり続けました。千年続く都というのはほんとにすごいものです。日本における平安京は西洋でいうローマ、永遠の都であり、平安時代はその永遠の理が始められた時代なのです。

 

 平安京に住む皇族貴族たちは陰陽道によって都を流れる五行の力を整え、利し、わざわいを避けていました。これが『無印』および『2』平安京二部作の独特のシステム「物忌み」「方忌み」に表現されています。この時代の陰陽道って数学、統計学などを駆使した科学の計算による未来予知システムに近いイメージのもので、

「〇〇をするなら何日のどのくらいの時刻がいいよ」

「あなたはこの日にこの方角の道を移動しないほうがいいよ」

「この日は家から出るとまずいよ」

などを教えてくれる専用の暦がありました(こうした暦を読み駆使することができる「従軍陰陽師」のような存在が、遙か7でも登場した役職「軍配者」です)。平安京は日本人が神のものであった運命を、システマティックな手続きで操作・利用できるようになった最初の大きな成功例といえます。

平安盛期の貴族の宗教観・神仏との関わり方として代表的なものは「加持祈祷」「密教」です(まあ密教の中に加持祈祷もあるんすけど)。古文を読んでると病気した人のとこに僧や修験者を読んできて祈祷をさせるシーンすげえありますよね。衛生や医学が発達してない時代、病気は悪しきものがとりついたせいだと考えられますから、病気を治すために神仏の力を利用する。病気のとき以外で貴族の信奉をあつめたのが、「出世」「恋愛成就」などを密教の祈祷でお願いすること、すなわち「現世利益」です。悪く言えば神仏の力を利することができるという「棒」を手に入れてワーイと振っている「一」の状態が平安盛期です。

そして『無印』ではとりあえずポンと「龍神の神子」「八葉」という「棒」、理が提示されたばかりであり、続く『2』と比べるとまだ「白龍」「黒龍」などの設定や表現がフンワリしていたことが明確になってきます。

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『遙かなる時空の中で2』の院政期

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 『遙か無印』の一時代を築くようなヒットの第一波もひいていない2002年(PC版はほんの一年後の2001年)に発売され、逆に存在感が薄いのがこの『遙か2』です。キャラクターの概形が『遙か無印』の八葉の印象を踏襲しつつ少々地味目になっているのもパッと見「焼き直しか~い」感があるため不遇です。しかし、『遙か2』は『遙か無印』にまさしく二枚一体の裏地をつけるかのようなディティール豊かな裏拍であり、『遙か』世界の土台をみごとに完成・表現した教科書のような作品です。

今述べたように、『遙か2』は「無印と2とで完成」という、「二」のあらわす偶数のシンメトリーと対立軸を明確に意識されて作られている作品です。時代は平安後期の院政期、「ふたつの太陽」とも呼ばれる「帝(現天皇)と院(譲位した上皇)」という性質の違う対立政権が京の社会の軸となっており、「天地の四神」が帝政側と院政側の立場に完全まっぷたつに割れています。そういった意味で『遙か7』の「西軍と東軍」に割れがちな八葉のメンツ、特に「社会的大人」をあらわす白虎の「長政と兼続」の関係の原型のようなものでした。まっぷたつに割れてギスギスしてて、幼馴染もなく一人でトリップしてきた神子のこと全然気遣ってくんねーの。このキツさも『遙か2』の人気の地味さに拍車をかけるものかもしれません。ほぼ全員長政と兼続でもついてこれる神子だけついてこい。

オモテの政治的なところ以外でも「二」のシンメトリー概念は多用されています。神子を支える星の一族の占者も「男女の双子」、勝真とイサトは「貴族と庶民の乳兄弟」、彰紋と和仁という「ふたりの皇子」、そして和仁と泉水の「とりかえ子」、アクラムを想うはずなのに神子を助けてしまうシリンの「コントロールできないふたつの心」、そして何より見目は似ている『無印』の八葉と『2』の八葉の「似ているようで違う、違うようで同じ」鏡写しのような物語。これらはすべて「二」、すなわち「陰陽の対立」という『遙か』シリーズの基礎の基礎テーマが『遙か2』ではっきりと描かれることにつながっていきます。

「陰と陽の二」はこの世の理の基礎となり、完成した理をあらわす八卦・八葉の「八」は「二」の対立軸を三次元的に交差させたもの、えーーとむずかしいけど「二の三乗」で八になってるんですよね。

 

 さきほど「偶数ナンバリングは黒龍の存在感が強い」と述べました。もちろん、偶数オブ偶数である『遙か2』もそうです。『遙か無印』では「破壊を司る」というふうに単に悪玉の龍であるかのように見え、アクラムに利用されていて描写が少なかった黒龍および黒龍の神子が『遙か2』では強い意思をもって重大なキーパーソンになります。白龍と黒龍という「究極の二者」の力の違いと、世界にはどちらも並立して必要なことが『遙か2』では強く描写されます。

『遙か無印』の暦はおおむね3月~5月、平安時代には4・5月は「夏」に数えられますが3~5月は現代日本の感覚ではおおむね桜咲いたりとかするのどけき「春」の物語と感じられます。対して『遙か2』は「秋」そして冬へ向かう物語です(こういったカラーが全体をパッと見たときの「地味さ」のもとで、テーマを表現するほどにポップさがなくなり玄人好みに目立たなくなっていくのが難しいですね。)。春と秋は「春分」「秋分」と言う通り日本の一年を二分する対の概念です

詳しいシナリオはぜひプレイステーション・アーカイブスなどで実際に一周くらいはプレイして確かめられたいところですが、とにかく『遙か2』では黒龍の力の意味、陰と陽、「黒龍の力で留めたものを、白龍の力で流し清める」という対の概念がみごとに説明されます。黒龍の神子である「千歳(ちとせ)」(これも「数」であり、「永遠」を意味します)は「永遠の都」たるべき京が溜まった穢れにより遠からず滅んでしまうことを知り、黒龍の力でその「時を留める」ことによって延命をはかるのです。千歳とは対立もありましたが、結果的に千歳が時を秋のまま止めて延命しているあいだに主人公白龍の神子が中小の問題を解決し力をたくわえ、最終的な穢れの大爆発を浄化することができました。

  平安後期の宗教観・神仏感では「末法思想」「浄土信仰」が有名です。世には災害が続いており、藤原摂関家の政治にもなんだか閉塞感がありました。京の都もしだいに荒廃していき、無法者や胡乱な者が増えたり、平安盛期は貴族の護衛使用人だった都の武士、あるいは地方武士が力をつけていき貴族層と対立したり、まあ、雰囲気は暗い時代です。身分が高い者も低い者も、もう御仏の救いはおしまいだ~と思ったり、この世での栄達ではなくつらい「憂き世」を離れた美しい浄土に生まれ変わることを願うようになったりしました。その「浄土」への憧れは10円玉の裏の「平等院鳳凰堂」や世界遺産「奥州平泉・中尊寺金色堂」など壮大ですばらしい芸術世界へ人を駆り立てもしましたが、基本こう、多くの貴族たちは自分の運命に対してただ無力に嘆いてたんだな。

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その社会不安や、跋扈する盗賊たち、恨みや嘆きや恐怖が「鵺」(刀剣乱舞の獅子王が斬った肩のモフモフです)などの怪物や「酒呑童子」「茨木童子」などの鬼、『遙か2』にもずばり登場する恨みをもった高貴の怨霊である「御霊」といったホラーとして平安京の人々に襲いかかり、それは「気のせい」「病は気から」だったのかもしれませんが、それでもその頃の人々を実際にブッ倒れさせ、ときには死においやりました。平安後期は京の都を大掃除して清めるべき閉塞のなかにあった時代であり、しがらみをすべて清めた浄土、新しい世界に生まれ変わりたいと神仏に願っていました。「院政」というものじたい、外戚藤原家に政治の実権を握られ自分は儀式をおこなうばかりで何も実行力をもてない帝がみずから位を譲り、「出家した上皇」というまったく新しい身となってこれが私の新しい力!皇位を生贄に捧げ北面の武士召喚!ってやるものだったのです。

実際の歴史ではもちろん、この世に浄土がやってくることはなかったわけですが、『遙か2』ではその逆の「穢土」が「百鬼夜行」というかたちをとって京にやってきそうだったのを、黒龍の神子がカオスを押し入れの中に閉じ込めて時間を稼ぎ、白龍の神子が年末大掃除し、無事清らかな新しい年を迎えることができました。それが、『遙か2』の「浄土」です。

 

『遙かなる時空の中で3』の源平合戦

 『遙か2』から3年ほど、2004年末にのちに伝説的ビッグタイトルとなる『遙か3』が発売されました。キャラクターデザインは『無印』『遙か2』で似通わせたことによって安定した「八葉なるもの」のそれぞれのデザインを大きく変えてきたかたちになり、「この八葉はこういうのもアリなんだ!」という驚きをもたらしました。『無印』で始めたものの裏面を『遙か2』で描き関係性と安定を築き、そしてふたたび奇数の「三」で大きく一歩を踏み出したかたちになります。

『遙か無印』『遙か2』で形成された「八葉」の中心的なイメージはじつに『遙か7』にいたる現在まで同じ核を保っていますが、その中でも最も変則的に冒険をしたキャラクターデザインをしているのが『遙か3』であることもまた、今でも変わりません。『遙か』シリーズにおける八葉のそれぞれのデザインの核イメージについてはまた別の記事のときにお話しできたらなとおもいます。

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「三」は奇数の踏み出しでありつつも、「二」ではっきりした「二者の対立軸」に「三者」があらわれ、そのことで社会的な調和がとれることをあらわす数字です。日本神話で「日、月、海」をあらわすアマテラス、ツクヨミ、スサノオの「三貴子」がおり、住吉の底筒・中筒・表筒の海の三神がいるように、世界各地の神話には「過去」「現在」「未来」をあらわすウルズ、ヴェルザンディ、スクルドや、「運命の糸を紡ぐ」「測る」「断ち切る」クロト、ラケシス、アトロポスなどの運命の三女神がいたり、キリスト教には父と子と聖霊の「三位一体」の考え方があったりと、3というのはとにかく強い。棒も三本あったら自立するもんな。

棒三本で自立できる、「二」ではない「三」になることで「あなたとわたし」「京とわたし」ではない「広い社会」と関わる強度を得た『遙か3』は一気にその舞台を広げます。時代は平安末期の源平ドンパチ期、『遙か7』でも何度か話題になるように「現世の対立のひとつの勢力に思いっきり肩入れしてもう片方と戦った龍神の神子」は珍しく、ゲームの主人公の中では3のみです(4は「龍神の神子ではない」ので別カウントで)。ゲーム上正確にいえば「平家」の勢力はすでに怨霊の勢力となり果てており現世のヒトの勢力とは言いがたかったのですが、ともあれ『無印』『遙か2』で物忌みで厳重に穢れを避け、清浄で浮世離れした特殊な存在であった神子は「社会」の戦いの中に身を投じることになります。

「三」という強い数字は二者の関係を動かし、人と運命の動かしがたい位置関係を動かします。「運命を変える力」です。『遙か3』の最も特徴的なところはなんといってもいまだに同じくらい良質な追随者はないんじゃないのかと思うほど大規模で緻密な「運命上書きシステム」です。過去にさかのぼって俺だけ記憶を保持し、なんとかしてえ出来事を変えて文字通り「運命を変える」という「セーブ&ロード」「強くてニューゲーム」をシナリオの中に組み込んだのです。よく「遙か3は主人公が無双」と言いますが腕っぷし的に無双なのはこの「運命上書きシステム」に付随してるだけの要素です。

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この「過去にさかのぼって運命を変える」ということには近年の「歴史修正」にまつわるいろいろなどでもよく「それってやっていいの?」という議論になるところですが(このあたりのことも別記事にしたいとおもってるんですけど~~)、とにかく『遙か3』の白龍の神子は「運命を変える力」を持っています。この「運命を変える力」、『遙か7』の織田信長がある種「先代の白龍の神子」的な存在として「ならばそなたが乱世を鎮めてみせよ」と言っているように、実は『遙か3』の、というか源平期の歴史においては源頼朝も「運命を変える力」を持っていました

何言ってんの?

何言ってんの?(リフレイン)

源頼朝と織田信長は400年も違う時代の人物で逸話上の性格もぜんぜん違うのですが、不思議に似通った印象もある歴史人物です。それは彼らが「今までにあるものを活用しつつも、今までとは違う理のシステムを作ろうとした」風雲児だからではないかと、これは個人的におもっています。信長が風雲児であることはイメージ上もそうですが、実は源頼朝もまた「歴史上の白龍の神子」といっていいような特別なことをしています。ちなみに、『遙か7』の信長の声は『遙か3』で頼朝を演じた石井康嗣さんその人であり、これは毎度恒例の出演ではなく『遙か3』以来の出演で、しかも『遙か』は5以降声優陣が全交代していますから、あえて似た印象を持たされたゲスト出演といえます。

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『遙か3』の中でも強調して描かれていましたが、平家は武家から身を立てて清盛が太政大臣の位を極め、藤原摂関家のように帝の外戚となり、「扇で沈みかけた太陽を招き返す」ようなことまでなして、「貴族・皇族と同じ権威」を「永遠」のものにしようとしていました(といううふうに、『平家物語』や『遙か3』では描かれていました)。

この平家のあり方は「武士」が「貴族」化することで強くなろうという方法だったのですが、頼朝のやったことはそれとはまったく違いました。頼朝は清盛のように太政大臣になるのではなく、帝がトップであるという権威はそのままに、武士が武士のまま政権をつくり世の実権を握る、というまったく新しい世のかたち、バラダイムシフトの「三」を実現したのです。これは少しずつかたちを変えながら江戸時代の近世まで続いたシステムです。頼朝は「貴族皇族」と「武士」という二者の関係の運命に新しい第三の選択肢をぶっこみ、みごとその「運命を変えた」バランスを成してのけたわけです。

そういうわけで頼朝は歴史上の白龍の神子みたいなもんであり、彼と「半身」と称する北条政子(に化けた蕃神)が白龍の神子になりかわろうとしたシナリオもそう考えると「歳は大丈夫!?」とか心配している場合ではありません。わりとマジだ。

 

 源平合戦期の後の鎌倉初期に特徴的な宗教観・神仏観のキーワードは「諸行無常」です。これは『遙か3』のベースとなった『平家物語』の大テーマであり、「沙羅双樹(の花)」を象徴物とする主人公・望美のあらわす理です。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。

おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。

たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 『平家物語』によって平家の怨霊が鎮魂されると信じられたのは、全編に通じる「諸行無常」「盛者必衰」によって「永遠に栄えるものなどない」と言い聞かせ、恨み悲しみに「留まる」魂を輪廻転生の輪に「進ませる」力があるからです。「進む」ことで苦しみに留まってしまう妄執から解き放つというのが、白龍の神子のもつ「封印(=浄化、五行の流れに還す)」という力の意味です。『遙か3』は「なぜ白龍の神子だけが封印の力を持つのか?」「封印と浄化が同じ意味なのはなぜか?」という疑問に答えが出たかたちになります。

 

『遙かなる時空の中で4』の神代

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 実はこの『遙か4』の項目、書き終わったときにデータが吹き飛んでマジ失意にくれたので、消える前より内容を充実させるためにここだけやけに分厚い構成になることをお許しください。いちおう、『遙か4』は『遙か』シリーズの中でもきわめて特殊で難解な作品なのでっていうエクスキューズをつけて……。

「四」という数

 強度があり、社会的で、「二者」をまったく新しいステージに進ませる「三」が大暴れしたあとの「四」は、また偶数に戻り「きわめて安定的」なようすをあらわします。「四神相応」によって四方にふさわしい自然物をもった京が永遠の都となったように、「四」は変わらない理をあらわします。自然の理をあらわすことは陰陽をあらわす「二」や八卦をあらわす「八」も同様なのですが、「四」はもっと原始的で「人間には動かしがたいもの」、「人間の内にも外にも組み込まれていて、手出しができない神秘の基礎システム」のようなものをさします。

日本には「四季」があり、それを無視しては農耕してごはんを食べていくことさえできませんし、いかなるものも「四」に通じる「死」からのがれることはできません。そして「四季」や「死(命のはじまりとおわり)」は人間の意思をよそにときに理不尽に乱れ、人を轢き潰しながらいつまでも循環するものです。

神秘の美しい力の中で生かされながら、その中でちっぽけに生きていくほかない、無慈悲で不可解、理不尽で巨大な自然の運行を動かせないというのが「四」という数の意味といえます。

悪い意味のことを言っているように聞こえるかもしれません。

しかしこれこそが本来的な「自然の美しさ」「神の恵み」のありようであり、われわれ現代人が傲慢にも忘れたがってしまうことなのです。

 

神代の「神と人」

 『遙か4』の舞台は神話の時代で、シリーズ唯一「はっきりした考古学的歴史」にもとづかない時代です。『古事記』『日本書紀』に語られる「神武東征」をモチーフにしています。1~3まで平安時代を順に時代を下っていったのが終わり、まだ「龍神の神子」「八葉」というシステムが存在していなかったころの、それが存在するようになる「はじまり」の物語に大きくバックステップしました。「そもそもの理」を描くのに「四」はよい数字です。

しかし逆に言えば、『遙か4』の時代は現代まで続く「世の中には気の流れがあって、神仏がそれを見守っており、人間の祈りや行動で動かせる方法がある」というザックリとした宗教観がまだ成立しておらず通用しない、段違いに常識が異なる時代だといえます。人と神や運命が関係するための方法が整備されたのが『遙か無印』の時代であったと先に述べました。「龍神の神子」も「陰陽道」も「仏道」もなかった『遙か4』の時代はまだ、外国からやってきた四神に名前すらついておらず、背景にあるさらに太古の神話にも不明瞭なところが多く、神とは「よくわからないけど畏怖すべきもの」でした。

なぜそういう受動的な態度になるのか、もっと自分たちの意思でなんとかできんのか、という疑問には、シリーズ中『遙か4』だけにある長所がヒントになってくれます。『遙か4』に特徴的なシステムは3Dモデリングによるマップの景色の中の移動です。人間の動きはややカクカクが気になりますが、背景の景色の雄大さ、常時森林浴をしているような自然の神秘の霊力がそこかしこにあふれているマップの美しさは『遙か4』の美点です。あんなに広大な緑の中に、人間の集落がポツンポツンと存在するなどというのは現代日本のほとんどの人が体感したことのない景色ですし、1~3の平安期の「京」や鎌倉、平泉などの市街からさえ想像しづらいものです。神代(実在の歴史でいえば弥生~古墳時代)には人間は自然(=神)という無限の世界にチマチマと間借りしている、人家に迷い込んだアリ、大きな海の中の魚のような存在だったのです。

恵みをもたらしてくれる、しかしまったく自由にならずときに荒れ狂う自然(=神)に、神代の人間はそれこそ「四方」を囲まれ畏怖して生きていました。「神」や「運命」に相対する方法も、ご機嫌を少しばかり察知できる特殊能力をもった人間がたまにあらわれるくらい。それが主人公の血筋である中つ国の王族のもつ「龍の神様の声を聴く」という力です。人間は自然や神や運命を無視して生きることは絶対にできず、方法が限られている以上「神の声を聴く王族」というのは死活問題でした。『遙か4』の「四」の不自由さはこうした「自然・神・運命が人間の存在の小ささに対して絶大すぎた」神代という時代の神秘をよくあらわしています。

マップの景色だけでなく、「基本的に四方を敵(荒魂)に囲まれた状態で戦闘が開始する」という『遙か4』独特の戦闘システムもこうした感覚・自然観の表現となっています。

 

神に「あらがう」こと

 主人公は「国を取り戻す」という戦に「王」として参戦していくことになり、もともと「龍神の神子として、もとの世界に戻るために、京の平和を取り戻すぜ!」とかをやっていたプレイヤーたちには戸惑いも多くありました。「あなたは王族として王位を勝ち取り……」とか言われて即雄叫びをあげる乙女ゲープレイヤーはパレドゥレーヌプレイヤーくらいです。

(『パレドゥレーヌ』というのは『遙か4』より前に出たヨーロッパ版遙か4みたいなゲームです(雑))

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戦争をしていたのは『遙か3』でも同じだったのですけど、あっちは「大切な人を今度こそ助けたい」という目的で動き、「龍神の神子として平家の怨霊を封印する」という大義があり、そしてわかりやすい実効力をもって「運命を変える」ことができました。

それなのに『遙か4』では「そんなに覚えていないし全土で暴政をされているというわけでもない生まれ故郷を取り戻すこと」が目的で、「民と兵の命を預かる王」という重責があり、そのうえ主人公が持つ特別な力は「心の天秤が見え、動かせたり動かせなかったり(!)する」というだけ、それだけです。動かせないときだって全然あるし、だいいち動かせても「心」であって実際のできごとを直接ゴリッと変えるのではありません。あまりにもささやかで、不自由です。だって自然と神と運命の前で、神代のヒトはあまりにも小さいのだから。

主人公は王であらなければならず、那岐は一度殺された子どもであることから、布都彦は不名誉な兄をもつ一族であることから、柊は未来のどうしようもない循環がわかってしまうことから、忍人は命を削る剣を使って戦い続けることから、みんなみんな、逃げることができません。みんな、自分をとりまく運命を捨てて生きることはできないのです。そしてそれは神代だけのことではありません。人間には『遙か3』のように「運命を変えていく」ことができる、しかしまったく同時に、運命に四方を囲まれて、その摂理に運ばれるように生きていくことからは、のがれられないことも多くあるのです。『遙か4』はそういう『遙か3』の裏拍テーマをとっています。

では、もし運命が強大すぎてどうせ変えることができないのなら「どう生きたって同じ、何をしたってムダ」なのでしょうか?

『遙か4』のキャッチフレーズである、「神にあらがい、恋をつらぬく」。これは神を「乗り越える」ことや「助けを借りる」こと、はたまた「逆に神を救う」ましてや「神から卒業する」ことなど『遙か4』の世界ではできず、せいいっぱいがんばっても「あらがう」程度だということも示しています。しかし、「結末が決まった運命」に対して、人間がすべきことは「何をしてもムダだと無気力になること」でしょうか? それは違います。「あらがう」ことです。苦しい運命を受け入れたうえで、心であらがい、何度でも天に問いかけ続けることです。もし運命に四方を縛られ身動きがとれなくとも、自由に動くのは心の天秤です。

主人公の戦闘コマンド上の特徴としておそらく最もプレイヤーが多く使うであろうものが、「誓約(うけい)」です。ウケヒとは「こうであれば当たれ、でなければ当たるな」と行動の成否で結果を問う日本神話の原始的な占い、神や運命への問いかけの方法です。これはかなりムチャクチャな方法ですよ、同種の方法に「盟神探湯(くかたち)」というものがあり、無罪を誓った者が熱湯に手を突っ込み、本当に無罪なら無傷、うそついてたらヤケドするとかそういう神命裁判、ツッコミどころしかない「神に問う」神コミュニケーション法を神代には使ってたのです。そういう方法しかねーんだ! 絶大な神とコミュニケーションをとる方法が整備されていなくとも、主人公「千尋(これも「数」であり、「尋」という深さの単位を千回繰り返す、あるいは千度くりかえし尋ねることを意味します)」は戦闘システムの中で無数に「誓約」を放ちました。

結果が変わらなかったとしても、望んだ結末が得られなくとも、願い、呼びかけ続けること。それが本当に「恋をつらぬく」ということです。途方もないその繰り返しだけが神の心を動かし、ついに龍の神は「龍神の神子」と約束を結びました。それぞれのルートで主人公が髪を切るシーンは、どれもどうにもならない、大したことはできない状況でも心の自由や気高い気持ちを示すものでした。『遙か4』の主人公が不自由で無力でちっぽけな、そしてつらく苦しい王であることは、古代のヒトが自然や運命の理不尽さと長いこと戦ってきた歴史の象徴です。

どんな運命の中でも、気高く立つ心の動きだけは自由。心と心が認め合い、憧れ合い、ともに立ち向かう。それが「ネオロマンス」です。

時代感にド誠実に向き合った『遙か4』は「乙女ゲーム」としては手厳しいですが、テーマの結果的には『遙か3』と対となって「ネオロマンス」のど真ん中を射抜く作品です。

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(↑「ネオロマンス」というジャンルの意味については上記事にて)

 

『遙かなる時空の中で5』の幕末期

コーエーテクモ the Best 遙かなる時空の中で5 - PSP

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  • 発売日: 2013/04/02
  • メディア: Video Game
 

 『遙か5』は八葉やサブキャラたちの声優陣が総入れ替えとなり、大きな区切りとなりました。八葉のキャラクターデザインはバランスのいいものですが、シナリオの演出的にやや「糖度」「乙女ゲームっぽさ」の方向に振っており、また「奇数で一歩踏み込んだ」作品となります。声優の層が新しくなったことを含め「乙女ゲーム」としての新規顧客層を獲得はしたのですが、「ネオロマンス」性のファンには苦い顔をされがちという、『遙か3』とは別の意味で『遙か4』と真逆の作品であり、いい感じに振り子運動してるな~~と感心してしまうんだぜ。

「五」は一桁のちょうどまんなかの数字であるため、「中心」「間」「結び」をあらわす数です。また、『遙か』の四神は青龍が木属性、朱雀が火属性、白虎が金属性、玄武が水属性で、「五行」の属性なのに4つしかないですよね、実はこれ余っているように思える「5つめ」の土属性は東西南北の「中央」をあらわすんです。『遙か4』でも風早が「土は黄にして央の力、我がもとに来よ(土属性攻撃)」ってやってましたよね。

『遙か5』の舞台のモデルは江戸時代幕末期。しかし、これが『遙か5』のシナリオをスゲーわかりづらくしているところでもあるのですが、いつもの「現代」と「日本の歴史風異世界」のほかにもうひとつの世界、「合わせ世」というのが登場してきます。いわく、「現代」と「日本の歴史風異世界」などの「間」にいつもある異なる時空の間のスペースありますよね、あそこにはスペースを支えている神がいて、それが異世界の江戸幕府を守護する力になるために引っこ抜かれて呪縛されてしまったもんだからさあ大変。柱を失ったスペースは時間をかけて徐々にペチョンとなり、しかも騙された主人公が最後の引き金を引くことによって、「現代」と「異世界」は互いに重なって「合わせ世」となり、どっちの世界に生きていた命も滅びてしまったのでした……。という、『遙か3』をゆうに超える一周目の鬱エンドから話ははじまります。

この「合わせ世」「時空の狭間の神・天海」というキーワードが「間」をあらわす「五」らしいシナリオの特徴です。これは舞台となる時代のテーマとも結びついています。

幕末期は長きにわたった鎖国体制がくずれ、日本は安定していたガラパゴス社会と迫りくる近代国家化の間で揺れに揺れていました。そもそも「江戸時代」自体が、「日本古来」長く続いた中古代・中世の時代と、われわれの生活に近い近現代の間にはさまる過渡期的な社会体制だったのですよね。「近世」っていうんですけど。

そしてその「間」のゆがみがついに差し迫ってきて、いかんともしがたいことになったのが幕末期です。江戸時代幕末期は「幕府の屋台骨が腐っていた」としばしば描写されるような時代で、討幕派はもちろん佐幕派もその巨大で歴史の長い組織の腐敗を今一度洗濯いたし候(坂本龍馬)って思って戦ってる人が多くいました。維新志士、とよく呼ばれる人たちです。江戸幕府はひらかれた当初何十年は「戦乱の世を泰平にする」という機能をよく果たし、徳川三代や綱吉が築いた幕府の屋台骨は乱世を終わらせるには必要な「間」となりましたが、「間」というのは永遠に続くもんではないし、また続けるべきでもないんですよね。「ふたたび戦乱の世に戻らないため」といって正統な血を繋ぎ人柱となっていくことを強いられた徳川家の苦しみなどはその歪みのひとつです。よしながふみ『大奥』は『遙か5』の副読本にたいへんいいですね。幕府の永遠のために呪縛された天海は『大奥』の将軍たちやそれに関わる人物たちの何代もの苦しみの象徴のような存在です。

大奥 3 (ジェッツコミックス)

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そして幕末期の情勢いかんでは「屋台骨」がもっとも無残なかたちで倒壊するか、それより早く欧米列強に踏みしだかれるかして、いまのような「日本」という国体が保てていなかった可能性もじゅうぶんにありました。「間」が守ってきたなにもかもが押し流され、歴史は忘れ去られ、何も残らなくなったかもしれない。「合わせ世」の無機物しかない死の砂漠は幕末が激動の過渡期をうまく進めなかった場合の世界のメタファーだといえます。

また、『遙か5』では初めて「白龍の力の悪い側面」が描写され、「黒龍の力のよい側面」に具体的に助けられることになり、『遙か6』で黒龍の神子が主人公となることへ「五」の結び、橋渡しをしたかたちになりました。キーアイテムである主人公の命の「砂時計」も間のくびれを通して砂を行き来させる道具であり「五」の性質があります。『遙か5』の「命の砂」などについてはいつか別に記事をたてたいですね。

 

 江戸期の宗教観・神仏観は、幕府の政策としての檀家制度がととのい、かつ寺社仏閣に詣でることとかをレジャーとしても楽しむようになり、おおむね現代日本の一般的な宗教観と似たものになりました(逆にいえばそれ以前は現代とは感覚が違います)。ただし『遙か5』的に特筆すべきなのが「神君家康公」「東照大権現」への信仰です。『遙か5』のラストバトルの前には必ず日光杉並木を通り、そのラストバトルの地は家康公を祀った日光東照宮、天海に使役される中ボスは「見ざる聞かざる言わざる」「眠り猫」などの日光東照宮の有名な彫刻です。

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したがって『遙か5』は日光東照宮を打ち倒す……っていうとアレですね、天海に象徴される「日光東照宮が呪縛してきたもの」を解放し、前に進ませる話なのです。

日光杉並木は、徳川三代にずっとそばで仕えたことで有名な松平正綱が20年をかけて植樹し日光東照宮へ寄進したものです。「徳川」という屋台骨への長い情熱、執念の象徴のような景色です。「死しても消えない武士たちの情熱と執念」が『遙か5』では「陽炎」と呼ばれました。同じような杉や松の並木は徳川幕府が世のかたちの整備としてもうけた「五街道」などの「間をつなぐ道」にも植えられました。

「徳川信仰」は正綱の昔には戦乱を終わらせてくれた救いであり、必要なものでした。しかし人は救われた信仰から自由になっていいし、なにより、人は神を、神だと思っている何かを、自由にしてあげることができる

それが『遙か5』の、神と人との「間の橋」です。

 

『遙かなる時空の中で6』の大正期

遙かなる時空の中で6 - PS Vita

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  • 発売日: 2015/03/12
  • メディア: Video Game
 

 『遙か』15周年に発売された大正時代を舞台とする『遙か6』の特徴はなんといっても黒龍の神子が主人公となったことです。今まで白龍の神子である主人公の「対の神子」として影のような女の子であり続けた黒龍の神子がはじめて物語の中心となりました。確かに、今までのタイトルの中でも蘭、千歳、朔、一ノ姫、都にもスピンオフにできるようなドラマティック(かつ、悲劇的)な物語があり、「主人公」としてカメラワークされていなかっただけでした。「六」の数字で、「偶数ナンバリングは黒龍の存在感が強い」の代表となったタイトルです。特に『遙か6』は『遙か無印』で鬼の首領アクラムに破壊の力を利用された黒龍の神子・蘭の物語の再話構造となっています。

 白龍の神子と黒龍の神子、そしてなぜ白龍の神子が主人公となることが多いのかについておさらいしておきましょう。

白龍は陽の力、すなわち変化、前進、改革をあらわします。黒龍は陰の力、すなわち滞留、停止、保守をあらわします。まず第一に、変化前進改革のほうがわかりやすくおもしろい話を作りやすいですよね。

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そして龍神は世の五行の気の流れが乱れいかんともしがたくなってきたときに神子を選びます。『遙か7』で武蔵が五行の気の異常を龍神の体の体調不良にわかりやすくたとえてくれましたが、体調不良の症状というのはほとんど「全身の血行不良」や「異常があったところに力が集まりすぎている」、あるいは「老廃物が十分に出せてない」などの「流れ」不全、つまり黒龍の力過多、白龍の力不足でおこります。物語は不足を解消する方向で作ることがふつうですよね。これが第二の理由です。

第三に、黒龍は「留める」力をもっているので力を「蓄える」性質があり、人類の富の蓄積とか歴史文化の蓄積の部分を担っています。なので黒龍の神子はその身に満々と力をたたえて必ず白龍の神子より先に選ばれ、「留まるもの」である怨霊の声を聴き、穢れにも強く、穢れから身を守るための八葉を必要としません。その性質が『遙か6』の主人公「梓(儀式で弦を鳴らす「梓弓」、霊的な力のある巫女の名です)」が身に着けている小銃にも表現されています。小銃は小さく美しくさえあるかたちの中に人間の技術と火薬という莫大なエネルギーを凝縮して、いつでも破壊力を放てるものだからです。そういう「最初から強い影のある美人」というのはサブヒロインやライバルポジションだというのが物語の定石です。

このあたりが白龍の神子が主人公となりやすい理由ですが、同時に「黒龍の神子はまったく主人公になることはない」というわけでもないことも見えてきます。最近悪役令嬢ものとかも流行ってるしな。(梓は悪役ではない)

上の悪役令嬢作品なんか梓とカラーリング似すぎかよ(「ライバルポジ」のデザインだということですね)

 

 「六」という数字は「自然界の神秘」をあらわします。自然の中でも人間や肉食動物とかからは遠い植物的・静的な世界では、高度に化学的・数学的なバランスの結果として美しい六角形があらわれます。雪の結晶の六角形、ハチの巣のハニカム構造や虫の複眼の六角形、がたくさん並んだときや植物の細胞壁が整然と詰まっているときの六角形、岩が垂直に割れるとき六角形となる不思議さなど……。人間の手を加えない自然のバランスがもつ神秘の知恵と美しさを象徴するのが「六」という数字です。黒龍の陰の力はまさに「植物的・静的」であることをあらわすので、黒龍の神子主人公を『遙か6』でもってくるのはおあつらえむきです。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7f/Giants_causeway_closeup.jpg

「植物的」モチーフは『遙か6』に意識的に使われています。軍は強兵計画のため「アダバナ」なる植物っぽいものから神の力を人間に投与する実験を行っており、その失敗作で自我を失い人を襲う「憑闇」の人間の肌にはボタニカル柄みたいな植物的アザがうかびあがります。『遙か無印』のアクラムの再話である鬼の首領ダリウスはダリアの花、主人公はその花に遊ぶになぞらえられます。物語のターニングポイントである政治デモを行った市民団体は「結実なき花」という名乗りで軍部のアダバナ利用をほのめかし、のちに「結実党」という市民政党を作ります。め、めっちゃ植物~~。

『遙か6』の不満点として戦闘システムがカード・パズル方式になっちゃってキャラの動きの楽しさとかが消滅したことがしばしばあげられますが、「植物的・静的」イメージの落ち着いた作品としてはみんなが元気よくチョコマカ動いてるとこ見せてもしょうがなかったのかもしれません(ということにしておこう)。

 

 『遙か5』でのべたように、江戸期ごろに現代日本一般の宗教感覚はおおむね成立しました。なので『遙か6』の大正期も一般民衆の感覚はだいたい今っぽいかんじなんですが、近代日本の「神と人」観で注目すべきなのは軍国主義(ファシズム)が国家神道などを利用することです。これは現代にも続いてる問題なので慎重を要すんですけど。つまり「神国日本」「現人神である天皇陛下が帝国大元帥」なので「神風で勝てる」「散った命は英霊」だから「正しき神国日本の威光を世界に知らしめるために、命を惜しまず強く前進あるのみーーッ」みたいなやつのことですよ。

それは「神の利用・消費」であり、「進む力の暴走」であり、強兵計画は「神への畏敬を忘れ、その力を安易に工業的に消費しようとした愚かで急進的な人間が、大いなるしっぺ返しを受ける」というシナリオだったのです。神の力の消費的利用と急進的すぎる政治は人から神や自然や運命への畏敬を奪うだけでなく、蓄積してきた文化を奪い、思い出や周りの大切な人たちを大事にするゆったりと豊かな暮らしを奪います。こりゃ黒龍の神子の活躍が適任でしょう。主人公のデフォ苗字「高塚」も黒龍の神子らしい言葉で、「死者や思い出のための墓が多く、大きく積み重なっていること」を意味します。「蓄積」「結実」は死を意味するため、黒龍の神子は破壊を司ると言われますが、花が蝶によって実を結んで死ぬのは不幸なことではありません

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明治・大正時代は欧米列強に追いつけ追いこせと急ぐ歩みのあまり『女工哀史』とかの資本主義工場の労働問題が出たり、「神=自然の安易な利用による大いなるしっぺ返し」という点では「足尾銅山鉱毒事件」などの公害事件が出はじめたり、そして『遙か6』の時代の直後、実際には関東大震災を皮切りに軍部はファシズムをあらわにして第二次世界大戦へと「進んで」いってしまいました。『遙か6』では実際の歴史ではその軍靴に踏み潰されてしまった大正デモクラシーの「草の根」的な民主主義市民運動を黒龍の神子の助けで「結実」させているのです。

 

『遙かなる時空の中で7』の戦国乱世

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 『遙か』シリーズ20周年記念作品として発売された『遙か7』はこれまでで最もナンバリング発売インターバルが長く、かつコーエーテクモがホームとする戦国時代を舞台とする記念碑的作品です。ネタバレのあまりない紹介はこちらの記事で。

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今回の話題のメインとなる最新作なので、ぜひ、詳しくみていきましょう(一周しかクリアしてない)

 

「七」という数

 「七」はもとは「骨を切った形」の象形文字で、「切る」を意味する漢字でした。「七」と「切」はピンインで「qī(チー)」と「qiē(チィェ)」、日本語の音読みで「しち」と「せつ」と音が似ていますね。昔は「切る」こともチーといっていたようで、数字に漢字を当てるとき「音似とるし書きやすいからコレでええやろ」とこの字を当てたのです。本来切るって意味だった「七」が7って意味になっちゃったので、切るという意味には「刀」を追加して「切」という字が作られたことになります。だから「七」は字形からも「断ち切る」ことと縁があります。

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字形以外にも、「七」というかなりハンパなはずの数は人間の生活の単位を「切ること」に多く使われています。ヤハウェの神が世界を創造したとされる一週間は七日であり、日本ではあかちゃんが生まれたら「お七夜」を祝い、「七五三」を祝い、逆に人が死ぬと「初七日」「四十九(7×7)日」に法要をおこないます。人間の脳がひとかたまりとして記憶しやすい数字の数は7つまでだから、というメカニズムも関係しているはずです。「六」が2でも3でも割れる神秘の聖なる数なので、その安定をスパーーン!して終了!という性質は西洋で不吉と死神をあらわす「13」の鎌とも似た性質です。奇数、素数はそもそも踏み込んで断ち切る性質があり、「七」は一桁最大の素数でもあります。

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また「七」は「人間」を意味する数でもあります。ちょっと単純すぎて意味わからないので言いかえると、「六」が「自然の神秘」を意味し、「八」は八葉や八卦があらわすように「神の理」を意味するので、「七」は自然(地)と神(天)のはざまにある「天・地・人」の「人」だという意味ですね。天地人といえば直江兼続です!

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「七つまでは神の内」

『遙か7』で長政が言ってくる「七つまでは神の内とも言うしな」という説は実は柳田邦夫がとなえるまでいつから言われていたことかははっきりしないのですが、よく人口に膾炙しています。これは長政しか出てこないのに長政のイベントではなく共通ストーリーとして配置されています。そして今更ですが主人公の名前は「七緒」であり、主人公のデフォ名前にナンバリングの数字が直接入っているのは初めてですから、『遙か7』は「七」の物語なのだということは明らかに主張されています

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いい煽り顔が撮れました。

日本で「七歳までは神の内」「七つまでは神の子」というふうに古くから言われていたかはあやしいにしても、じっさい儒教の「礼記」に有名な言葉にも「男女七歳にして席を同じうせず(七歳ともなれば男女の別のあるいっぱしの人間として慎みなさい)」と言われたり、律令の刑法など古くからある法律でも六歳までは一人の人間としての責任能力を問わない、七歳から人間扱いの勘定に入れますよ、というものが多いです。つまり『遙か7』は「人間が神や自然とつながったへその緒を断ち切り、神と自然の間に自立して関わっていく」ことをめざす物語です。

 

断ち切って立つということ

 主人公は同じく白龍の陽の力に愛された父信長との約束「乱世を鎮める」ため、すなわち乱世の宿縁のどうどう巡りを根本から断ち切るために戦います。断ち切る力とは、『遙か4』で主人公が黒き神の手に髪をつかまれたのを髪を切ることでふり切ったように、恨み苦しみに留まろう、留めようとするものを解放する白龍の力です(そして今作の富士山頂でおこったように急に巡り出す流れを「鎮める」のは黒龍の力とのバランスでもあります)。

意思の自立とは「自分で選ぶ」ことであり、『遙か7』では主人公が重要な行動の選択、しかもどちらを選んでもいいことも悪いこともある選択をする場面が目立ちます。いい選択肢と悪い選択肢があるのではありません。東軍と西軍のように。「童女」でなくなり「大人になる」とは「どっちのケーキのほうが大きいかな」ではなく「ショートケーキとチョコケーキ、俺はチョコケーキを選ぶぜ」という選択なのです。

(下は「自分だけのものを選ぶ」ことで「大人になる」という魂の発達段階についてのタロットとFE風花雪月からの参考記事です)

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「二者択一」といえば『遙か2』ですが、あれは神の出してくる心理テストの質問みてーのに答えていたら最初のパートナーが選ばれたりだとか、帝側とか院側とかよく事情がわかってないうちになんか選択したりだとかそういう不可抗力的な部分が多かったです。それと対比するように、『遙か7』は「この世界で起きていることをよく知って選択したい、話はそれからだ」という展開が目立っています。

 

 『遙か7』に描かれた戦国時代の宗教観・「神と人」観はなかなか複雑です。事実、戦国時代には宣教師(バテレン)たちがキリスト教という新しい神、新しい教えを輸入してきました。日本古来の神々と仏教は接して溶け合って定着しており、「高僧にして将」である本願寺顕如や、「毘沙門天の化身」上杉謙信ほか武将たちはそれぞれ守り仏や参る神社をもち、あるいは「キリシタン大名」もいました(黒田家もキリシタン大名でした)。信長の比叡山焼き討ちや宗教を支えとする一揆など戦乱の原因にかかわることもありました。この時代はなんの神仏を拝むかだけでなく、キリシタンとなるかならないかという宗教を「選ぶ」選択肢が浮かび上がった時代といえます。キリシタン大名になるか?ならないか? 西軍につくか?東軍につくか?……

『遙か7』では歴史に思慮が深いコーエーテクモらしく、「南蛮怨霊」という外患の象徴のようなものを敵として出しつつも「宣教師や南蛮商人がキリスト教を広めることを介して日本を植民地化しようとしてたから悪いんだよ~」みたいな安易かつ政治的にヤバそうな話には持っていかないところがうまいです。今作きなくさい存在は「南蛮商人カピタン・モロ」と「鬼の女ターラ」と「謎の軍配者平島義近」の三本柱に分けられています。「裏で動いている思惑がひとつ、または対立するふたつではない」というのは複雑な乱世の事情をうまく表現しており、かつ、彼らのそれぞれ異なる動機とその共通点について考えさせます。

三人ともがおおむね主人公の「断ち切る」「人間の自立」の力で解放されるべき妄念にとらわれていますが、ことに「神と人」ということではわかりやすいのがカピタン・モロです。カピタン・モロは「信仰」という言葉を口にしますが、彼の信仰は歪みました。その歪みは「神の理不尽を否定したい」という動機であるにもかかわらず「自分が神的なものになる」という手段をとったことにあらわれました。神から自立するのではなく、神と同化しようとしたのです。カピタン・モロはそういったアンチ・テーマです。

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保護者から暴力や理不尽な教育を受けてきた子供は、本当はその親から自立して自分だけの人生を選んで生きていくべきです。しかし受けてきたダメージが深いと、しばしば子供は「暴力や権力と一体化した大人」になることでその傷に対処しようとしてしまい、暴力を再生産することになります。神や運命に対しても同じです。人は運命に屈するのではなく、運命を支配しようとするのでもなく、自分の足で運命の線を「越えて」いくことができる。それが自立、かつて『遙か』シリーズの主人公を演じた故・川上とも子氏の声でピンクの髪の戦う女の子、『少女革命ウテナ』でいう「世界の果てを越えた」ということなのです。

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  • アーティスト:TVサントラ
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ネオロマンスの「祝福」

 さきほど「天地人といえば直江兼続!」と突然の大河ドラマ宣伝をしましたが、天地の白虎は伝統的に「人間的な政治・社会にかかわる大人(あるいはそうなっていく若造)」なので、兼続、長政はストーリーのドラマ部分のメインを担う天地青龍とはまた別に今作の「人間の自立」というテーマを体現する存在となっています。

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今回の白虎ども、ことあるごとに「おとなしくしてるとカワイイね~」「まあかわいいだけじゃ俺の相手にはならんけど」と乙女ゲーの壁ドン姫抱っこ的定石を崩してくる。自立

ネオロマンスは「対等な人と人との信頼と尊敬」や「すぐ恋愛だけの話にもっていかれない」などフェミニズム-ヒューマニズム的なつくりをしているので男性にもありがたい世界でオールジェンダー向け、恋のユニバーサル・デザイン賞や~!なのですが、もともとの動機としては「女性がはばたく翼のため」に作られたブランドです。女性は箱に押し込められ、愛されるお人形さんや、家族をケアする役割から出ていかないようにずっと抑圧されてきましたし、今だってまだそれは残っています。

そんな女性が、ひとりの「人間」として大事にされ、そして「世界や仲間や信念のことを考え、戦う気高さ」を持てる世界を、と、ネオロマンスはいつもコンセプトに置いています。そんなネオロマンスが、「人間の自立」をテーマとした物語の主人公に「七」の名をつけて、あなたたちは会社がいちばん好きな「織田信長」の娘だよと言い、会社が一番得意な戦国時代をひっさげて、「七歳おめでとう」と言いに来てくれた。

われわれはちゃんと「人」として立てているでしょうか?

ネオロマンスがいつも信じてくれている、気高い人になれているでしょうか?

遙かなる時空の中で7 乱世の運命を越えるBOX

遙かなる時空の中で7 乱世の運命を越えるBOX

  • 発売日: 2020/06/18
  • メディア: Video Game
 

ちょっとこの誕プレの箱はデカすぎ(三万円)にしても、『遙か7』にこもった祝福を胸に持って、令和の世、自分の人生という乱世を鎮めていきたいもんだぜ。

 

よーし、二周目の乱世を鎮めに行ってきますわ! 次回「歴代八葉と八卦の意味の対応関係」に関するザックリ記事もよろしくお願いします!

 

↓おもしろかったらブクマもらえるととてもハッピーです

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