湖底より愛とかこめて

ときおり転がります

つるぎロマンティックー王と騎士

本稿はゲーム『パレドゥレーヌ』に表現された「いわゆるRPG的ヨーロッパ世界観」の社会構造における「王と騎士の関係」部分に関して紹介します。

 中世の王と騎士の関係についての記事としても、『パレドゥレーヌ』の紹介記事としてもお読みいただけるかなと思います。

工画堂スタジオ パレドゥレーヌ 通常版

工画堂スタジオ パレドゥレーヌ 通常版

 

 

youtu.be

中世騎士社会文化の読み解きに重点を置いた実況、2周ぶん完結してます

 

 

 あなたはお姫様(権謀術数も槍試合もアリ)になる

 この作品『パレドゥレーヌ』は2006年に発売されたいちおう女性向けゲームではあるのですが、しばしば『淑女シミュレーションゲーム』と呼ばれ、恋愛シミュレーションにとどまらない「中世~近世の淑女」、つまりわれわれが「王国」の「お姫様」としてイメージするものの生き方を体験できるゲームとして作られています。

 ちょうど「戦国大名」の生き方を体験できるゲームとして『信長の野望』があるのと同様ですね。

 ですので、実はかなり「中世~近世の政治形態・価値観」の要点をおさえて、かつわかりやすくアレンジして作られており、超楽しく感覚を体験できるのです。ちょうど「いわゆるRPG的ヨーロッパ世界観」で採用されている

  • 王国・王家とそれに仕える騎士・貴族階級が存在する
  • 広い土地に都市や町、農村がぽつぽつと離れてそれぞれに存在する
  • 戦士・領主としての騎士の力が現役であり、別文化世界への遠征(現実では十字軍遠征にあたる)による諸侯の地位の下落・王の権威の絶対王政化や、大国同士の大規模な戦争(現実では百年戦争などにあたる)による国境・国民意識の形成がまだ起こっていない
  • 上記の特徴により「封建制(中世)」の社会体制だが、「大臣」「宰相」という日本語で呼ばれるような官僚貴族はちらほらいるため、やや「中央集権制(近世)」の萌芽がみられる

という特徴をそなえた社会のありようです。

 というかプレイしてるときは全然勉強になる〜とか思ってなかったのですが、あとでちゃんと中世の社会について調べてみたら「あれあのゲーム内だけの設定じゃなくて実際そんな感じだったの? マ?」て勉強になっていたのだと知った……。俺は高校時代まで日本史も世界史も赤点野郎……。

 

 あらすじを説明しますと、

 主人公フィーリア姫(あなた)は騎士の国「ターブルロンド」の王女。何不自由なく育ってきましたが、兄である王子が突然失踪、父王も亡くなり、女性は王位を基本継がない男社会の国の王として立つことになってしまいます。

 ターブルロンドでは初代国王「騎士王」協力士族の長から忠誠の剣を受け取った故事に従い、新王は国内とみなされる各領を治めている当代の有力者たちから「剣の誓約」を捧げられることで即位の承認とされるしきたりがあります。

 フィーリア姫も諸侯から剣の誓約を受けるための場に出ていくのですが、その晴れの場で諸侯の筆頭である宰相が叛意をあらわし、複数の自派の諸侯とともに剣の誓約を拒否! 「王女を妻とし、私が王となる」とか言い出します。もちろん王女のこと愛してるからとかではないしそもそもこっちは15あっちは50なのでヤバい。

 結局心ある騎士たちのとりなしでその場は収まったのですが、剣の誓約は一年後に延期となり、そのときに過半数の諸侯からの信任をとりつけた者が新たな王となるという、事実上の内乱冷戦状態「王の試練」がはじまります。

 フィーリア姫は王家直轄領の内政、および配下として雇用した騎士たちの運用、コネづくりなどによって、支持者を増やしていかねばなりません。

(が、恋に生きてもいいし、ぜいたく三昧を尽くし民に殺されてもいい!)

 

 

 ちなみにこのゲーム10年ちょっと前にメッッッッチャメチャやったので公式ガイドブック(これも本体か?ってくらい中世~近世騎士の史実土台の世界観資料にあふれている)(でも部屋の樹海に消えた)とか公式ホームページとか何もなしで↑のあらすじ文熱弁ですよ(全然あらくないんだよ)

パレドゥレーヌ公式ガイドブック (B’s LOG COLLECTION)

パレドゥレーヌ公式ガイドブック (B’s LOG COLLECTION)

 

  本編にない騎士全員の剣やら馬やらの資料ついてるとかマジ本体か?

 

「騎士社会」とは何か?

 当方が何十周したとかは関係ないのでいいとして、さっき

かなり「中世~近世の政治形態・価値観」の要点をおさえて、かつわかりやすく作られており

って言いました。時代区分が中世~近世と判断できる根拠は上で述べたのですが、現代の常識と比べてどのへんが中世っぽい要点なのか、あとわかりやすくするためにどのへんを現実の歴史と違うふうにしてあるかというところも注釈として、まず箇条書きにします。

 

(現代の常識と違って)中世史実っぽい点
  • 王、領主、貴族っぽい人などの為政者階級はそれ以前に全員騎士。戦いに備えず官僚をもっぱらの仕事とする「いわゆる貴族」的な者はあまりいないし、尊ばれない。(貴族の騎士としての価値が相対的に下落したのち、結果として中央集権が進み中央で官僚や常備軍の軍人になる貴族がメインになります。それが近世です)
  • 現代のように「国」全域にかけられる大々的かつ定期的な国税はない。王とそれぞれの領主たちは経済基盤を異にし、基本的に自分の所領のみから収入を得ている。
  • 「王」の権威は神話的英雄性のある血統に裏付けされた人気はあるが、現在「王国」とされている地の中にも「わが国」「われらが王」という意識が薄い土地が多い。伝統的風土や領主の方針に多分に影響される。
  • 王やそれぞれの領主に仕える騎士たちや王城兵・私兵はいるが、職業軍人による常備の国軍はない。もし戦争があれば、王は契約関係にある領主騎士や親衛騎士あるいは自分を総司令官(将軍)に任じ、諸侯に呼びかけてそれぞれの騎士たちの軍団を寄せ集めた軍で戦うことになる。
  • 王と契約し大きな領地を任じられた領主騎士と、王や領主と個人契約あるいは短期雇用関係にある騎士、縛られるほどの領地も主も持たず冒険や手柄を求めて旅する遍歴騎士がいる。
  • 主と騎士との関係の誓いは互いに「守り・守られる」ある種対等なものである。
  • 騎士に最も重要なものは名誉であり、平民には許される逃げや卑怯、嘘、二言、ケチなどは名誉を傷つけるので勇敢に堂々と気前よく振る舞う(これがノブレス・オブリージュ)。騎士界での社交や社会的立場から追われたくなければ名誉は死活問題。
わかりやすさのため現実と違う点
  • 騎士の家に生まれた者しか基本騎士になれない制度があることになっており、身分が固定されている。(新しい騎士叙任はかなり珍しいこととされており、近世・近代の貴族制のイメージに近くなっている。史実の中世の騎士は世襲ではなく、従士として見習い騎士経験を積み、騎士としての作法などの教育を受けたうえで、自分の装備や馬、従士などをそろえられる者が騎士として活動できた。ただし騎士としての教育を受け、装備や馬や従士をそろえるための財力を確保できる者となると事実上世襲に近くなったことは確かなので、わかりやすい変更といえる)
  • キリスト教がなく、死後の概念と騎士王信仰と技術知識の伝達組織が別々にある。(技術知識の伝達組織がいろいろオーパーツを持ってるため生活水準は史実の中世よりかなり高い)
  • 「闇の者」と呼ばれる具体的に存在する人外の勢力がある。
  • 明らかにターブル(卓)ロンド(円)というアーサー王伝説をモチーフにした伝説のある国だが、風土的にはフランスをモチーフにしている。

 

 この中でも、一番最初に挙げた「王も領主も貴族みたいに見える人もみんな騎士」ということが、中世世界では重要なところです。

なぜなら日本の皇族や貴族は平安時代以降戦わず、戦う者は武士という別の身分として分けられていて、ここに大きな違いがあるからです。武士と騎士を対応させて考えると、貴族と騎士は完全別物のように思われますが、むしろヨーロッパでは王侯貴族であるために騎士(あるいはかつての騎士の家柄)であることは必要条件なのです。

「騎士(サー)」という言葉は現在でも貴族階級の最下位として使われていますが、語義的には「馬に乗った戦士」をさします。古代ローマでも市民は戦うから政治に対して発言力と責任を持ちました

 

中世領主騎士は独立独歩

 また、「国」に属している領主騎士たちのナワバリを合わせた勢力範囲とか、クマと人間の行動範囲がかぶる(それは俺のうちです)みたいに勢力範囲が隣国とかぶるエリアとしての国境地帯とかはありますが、「国境線」「国税」「国内領域経済」がまだないため「国への帰属意識」が形成されてないのも中世社会のポイントです。

「隣国」というのも主に民族や風土文化の違う諸侯連合のことで、場合によっては一人の領主が二つ以上の国の王から領地の承認(安堵)を得ている場合もあります。主従契約は必ずしも一主:多従ではなく多主:多従ということもありました。国への帰属意識、愛国心のようなものがあるとこれは不可能なことです。

現実世界で中世が終わり中央集権と国境の画定がはっきりとするきっかけのひとつ、ジャンヌ・ダルクとかの出てくる百年戦争も、イングランドの王がフランスの王位継承権?逆?どっちだっけ?もあって、みたいな感じに、「〇〇人」という意識では当時の社会が動いていなかったことを示しています。農奴の娘なのに「フランスのために」とか言って戦ったジャンヌ・ダルクの当時における異常性は確かに「神の啓示」としか言いようのないものだったのです。

 『パレドゥレーヌ』の場合はそこは、「ここは騎士王が闇の者に勝ってうち立てた国」という伝説がある程度共有され、領主たちも基本その伝説に登場する騎士たちの血筋にかかわる名門なので、ちょっぴり国民国家意識のようなものはあるんですけれど。

 重要なのは騎士が王や国家からも独立した自由身分だということです。

これが騎士が騎士であるロマン、すなわち『パレドゥレーヌ』でもメインテーマになっている主への忠誠ということに重要なファクターになってきます。主や国に忠誠を捧げている騎士は自分がそのように決めたからそうしているのであって、そこには(たとえ名目上としても)自由が存在しています。

 『パレドゥレーヌ』のターブルロンド国ではみんな「騎士」という階級名で呼ばれていますが、史実では戦う力を持ったもの、皇帝や王という代表に大きな戦力を供出できる騎士の一族が(騎士であることを前提に)貴族とされました。あるいは勝利に貢献した者が敵から奪った領地を与えられれば領地を任せられた「〇〇伯」という職名がつきます。

領地に農地農村があり(なければ開墾をつのり)、防衛と居住のための城壁や城をつくり、城下に必要なインフラを自力で整えれば、騎士は領地からどのように税をとるも、それをどう使うも自由なものでした。フランス革命前夜に財政破綻したルイ16世が貴族にも平民と同様の税をかけようとして猛反発をくらいましたが、それはつまり貴族が特権的に税を免除されていたということですね。官僚として王から給料をもらう中央貴族中心のルイ16世の時代にはもはや根拠のないことなのですが、貴族はもとは騎士であり戦力供出と経済的自立をしていたから税を徴収されていなかったのです。

そういった自立状態が各領地に整い、何世代かを重ねて王から預かった(実質的には所有物である)・あるいは武力と経済力をもって新たに開発した領地の経営が安定的になったものが「領主」と呼びならわされるようになった、と序盤で説明されているのも『パレドゥレーヌ』の親切なところです。事実、領主と呼ばれるもののおこりはそういう感じなのです。

 

 たとえばドラクエ11において「かつてデルカダール王国より移り住んだ騎士の末裔で、ソルティコを治める名家の当主」であるジエーゴはこの状態にあたることになります。彼は世界的に名高い騎士でありながらも主にソルティコとデルカダール王国の者に騎士修行や剣術を授けて軍事的リソースを供出しているので、領主として経済的に自立しつつデルカダール王国に騎士として助力する立場であることになります。また、彼の服に刺繍された家の紋章はデルカダール王国(の君主)の紋章から王冠を抜いて剣の図柄に似せたフルール・ド・リス(アイリスの花。王権のほかには信頼、知恵、騎士道精神の三位一体などを表す)をあしらったもので、主従筋を示しています。

ジエーゴにあたるような領主はパレドゥレーヌにはいませんね。由緒正しさと軍事力、領地の豊かさの点で近いのは将軍シルヴェストルですが、彼と違って王家から領地的にも心情的にも(内心のところは描写がないので自由解釈ですが政治上は)独立しています。ジエーゴさまとソルティコがパレドゥにあったらどうなってしまうんだ……。たぶんフィーリア姫をいじめる宰相をぶっ飛ばしそうになるが王の試練が始まったらガチバトルを承認して領地ソルティコは中立状態、あるいは官僚的な宰相より主家騎士王の覇道の血筋を好んで王女支持から始まるな……。

決闘でもまず勝てないし経済的に困ってもないし、統治にめだった問題もなく心も強く、外患もない。おまけに位置的には外様です。情報戦と交渉、後継者問題の点にはややスキがあるかもですが、そんな強く独立した領地と領主はターブルロンドにはいないですね(ターブルロンドの領主たち三分の一くらいは後継者問題にヤバがあるもんな!)。ジエーゴは先述の通り作中で特にデルカダールに軍事的協力をしているためデルカダール王家との主従筋を守っていることがわかりますが、これはパレドゥレーヌのヴェンツェルが王家の正義を愛するので王女支持であるのと同じでほとんど単に慣例的・心情的なものといえ、臣従を続けなければ生き残れないような大きな理由はありません。デルカダール王国は王城近くに貴族専用居住地があり貴族の中央化が進んでいる(近世に近付いている)ことが示されていますが、ソルティコのジエーゴは中世の領主騎士としては本来的・理想的な姿といえます。

 

 ドラクエ11の例はこのあたりにしますが、「一国一城の主」とはよく言ったもので、そうして防衛力と経済力で自立した単位はひとつの「国」と同じです。領主は自分の「国」である領地の中での経済が大事なので関所をおいてよその領地からの出入りに税をとるかもしれない。それで王国全体の経済が滞っても、領主にそんなもん守る必要も動機もありません。

領主は騎士として王に仕えているので、王に騎士としての力が必要とされれば(基本的には・利害関係が許すかぎりは)馳せ参じますし、王という人や血筋のもつ物語に個人的な忠誠心をもつことは当然ありますが、「国家への忠誠」のような意識は薄いか、ないのです。王国というものがまず王と契約関係にある騎士のナワバリの寄せ集めなので、そこまで連帯感はなく、それを均質な「自分たち〇〇国民」の領域だとは思えなかった。兵庫県ですよこれは。

 

自立した者同士の信頼と愛

 「国家への帰属意識」「国民意識」がないということは、逆に言えば「自分は自分のものである」ということです。

 騎士に「先祖が誰か」という血筋や由緒は存在しますが、「何者であるか」と問われたときに生まれつき押しつけられる「〇〇国民」という所属はなく(まあまだ誰にもそういうものはないのですが)、何に心を捧げるか、捧げないかということが自由意思にまかされています。自由意思は人間の尊厳です。この自由さこそが騎士の人生の貴さであり、また主に信頼の剣を託す「剣の誓約」の貴さの源泉となっているのです。

 では、これがたとえば生まれつき耕すべき農地と税を納めるべき領主に縛られた農奴であればどうでしょう? 農奴には主を選ぶ自由はおろか、自分が選ぶべき何かを知るため広い世界に出ていく自由もありません。たとえ奴隷化されていない農民や商人でも、外敵やさまざまな災いになすすべがなければ、そういうとき頼るべき有力者をもたないわけにいきません。

森の危険な動物、魔物、野盗、海賊山賊のたぐいが跋扈する世界においては、「自分で自分の身を守れる武力とそれを保つ財力を持っている」ということが、そのまま誰の支配も受けないこと、自由であることになります。もちろん外敵の心配が減ればそういう「野蛮」な力がすべてではなくなるのですが。

 そして領主は「王の持つ唯一絶対の権力に守ってもらう」王の領民になるのではなく防衛的にも経済的にも自立していることで、王の一方的な支配から自由を保ちます。王からしてみれば「支配が盤石でない」という弱点ともなりますが、一方的な支配ではないということは、協力体制だということです。軍事的・経済的に自立されているから、王も諸侯の言い分を聞かざるを得ない。つまりチカラがあるから意見を言える(マッチョ的価値観でもある)のであり、さまざまな意見が出て折り合っていくことは面倒でもありますがすばらしい恩寵なのです。

領主だって、じゃあもっとチカラがあれば完全に独立して王など戴かなければ煩わしくなくておトクなのかといったら、まあそういう側面だってあるのですが、名誉と光輝あふれた王を主と戴き、それを守らなければならない自分を誇りに思うことで騎士のパワーは増すのです。そういう誓約が騎士のパワーを増すために有効だというライフハック(?)は、中世騎士物語で代表的な「特定の貴婦人に崇拝を捧げ恋愛ごっこをする」ことで強く美しく活躍する騎士の話でもさらなるパワーブーストとして利用されています。

 このようにお互い関わり合うことで面倒を抱えつつ、互いに高め合い、補い合う、恋のような、理想の王と騎士の関係が生まれるのです。

そして、教師と小学生、とかのアンバランスな力関係のもとでは恋愛と呼ぶべき恋愛が成立しないように、お互いに力を持ち、一方的でない「守り・守られる」関係を前提としなければ、「あなたが好きだから、あなたを信頼しているから、忠誠を捧げる」という誓いは成立しません。

力を持つことで自由意思を持つ。これが騎士が「剣を持つ」ということです。

 『少女革命ウテナ』で胸から抜き放たれる心の剣が胸にさした薔薇の棘になぞらえられていたように、剣は力を持ち痛みを負う覚悟で、誇りであり、魂です。

馬上槍試合が決闘の常道となったパレドゥレーヌの世界でも、このような自由意思の象徴として「騎士の剣」は尊ばれています。

 

ロマンティック

 以上で述べたように、本来の王と騎士の関係というものは、別に切実に契約する必要性がないものです。

いや、外敵だったり過酷な世界と戦うためにぜひ共同戦線を組んで戦わなければならないとかの必要性はバリバリあるのですが(その結果として王を中心とした中世の諸侯連合≒国というのはできたのですし、日本の弥生時代の集落だってみんなでコメ作らなきゃだから発展したのですが)、

必要ではないというのは一方的に守ってください、導いてくださいという関係ではないということです。

 基本、生きることが過酷で過酷でしゃあないならば、そこには必要なことしかありません。「鳥はいいなあ、自由で」とかいうのが鳥はエサを探し回って日中ずっと必死なんだよという誤解であることはよく言われますが、人間の生活もかつてはそのように「必要」を集めた単純なものでした。文明が発生してからも、しばらく(3000年くらいかな)は人々は必要なことを必然的に行い、神代の宗教も暮らしに必要な科学のような必然的儀礼であり、誰もかれも特段の理由なく神の気まぐれに死んでいく、淡々とした生活が当たり前でした。

 『パレドゥレーヌ』ではターブルロンド建国以前に該当します。騎士王が熱心に説き伏せるまでは人々は団結というものを知らず、過酷な環境で生きていくために自部族のことだけを考えていました。

そこに、人の心の願いや意思の力が大きくなったのが古代ローマ時代であり、ローマ=ロマンとは人が人を愛する願いの象徴であるという枠組みを大胆に提示したのが『Fate/Grand Order』の第一部です。

「――――――その通りだ。ローマとは浪漫であり―――
 神代より卒業し、人として人を愛す心を得た、人間的なるもの、その全ての象徴である。」

――『Fate-Grand Order』アルトリア・ペンドラゴン(ランサー)幕間より ロムルスの言葉 

(この神祖ロムルスはいつも外伝で重要なこと言いやがる)

 古代ローマの華やかなりし文明は人類史の「あこがれ」であり続けています。ざっくり言うと古代ローマがなくなってしまったことが「中世」のはじまりであり、古代ローマを思い出したことが「近世」のはじまりといえます。古代ローマの市民たちは人として人を愛する心、人間的なるもの、ずなわち自由意思を得ました。それを可能にした豊かさは多数の奴隷たちの奉仕の上に立ったものではあったのですが、先述した「(ローマの)市民は戦うから政治に対して発言力と責任を持ちました」ということとも関連しています。

娯楽として人の心をワクドキさせる中世騎士物語(しばしば恋物語)は「ロマンス」と呼ばれ、それらのロマンスは「ロマンティック(ロマン主義的)」というイメージを形成しています。

 

 だれかの奴隷になる必要もなく、自由だから、恋ができる。

『パレドゥレーヌ』は中世の王と騎士の関係のロマンティックを見せてくれます。

ぜひ、とりどりに自由な30本超の騎士のつるぎをその胸に捧げられてみてください。

 

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