湖底より愛とかこめて

ときおり転がります

鬼子たちのララバイー遙か7大和ルート感想

本稿では『遙かなる時空の中で7』の「佐々木大和」個人ルートについて感想を言ったり考察したり八葉「地の朱雀」の解釈をみたりしていきます。

 

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 未プレイの方向けに『遙か7』をオススメする記事はこちら

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 『遙か』シリーズの中での『遙か7』のテーマ位置づけについてはこちら

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 『遙か』シリーズ全体で「八葉」に共通する核となるイメージについてはこちら

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 『遙か7』の兄弟作である『ファイアーエムブレム風化雪月』の考察本を書いてたら一年経ってたので前回の兼続記事から一年以上のブランクが空いての感想記事となります(びっくりした)。いや別に全部書かなくていいんじゃねえのかという感じですが、アウトプットしないと頭にたまってしまって次のルートを全力で楽しめないんだオラ!

そういうわけで後半戦は大和からです。

八葉デザインと八卦の記事を読んでいただけるとわかりやすいかとおもうんですが、宗矩が地の玄武の集大成や今までのキャラのアンサーであったように大和も地の朱雀の集大成だったんですよね。個人的に地の朱雀の象徴性って大好きなのでベショ泣きでした。

それではいつものように長話してまいりましょう。

 

 

大和のキャラクターデザイン

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 大和のデザインの特徴はとにかく「要素の多さ」ーー!!

おまえ、いくらモデルとなる実際の歴史人物がいない現代っ子だからって、そんなハチャメチャかますことはないだろ、今までにそんないろいろブッこまれた人おらんかったわ、という多さ。立ち絵で確認できるだけでも、大和の戦国服には数多くの伝統モチーフが仕込まれています。ざっと挙げてみましょう。

  • 黄土色の小袖の「三つ巴」
  • 黄土色の小袖の「花菱」
  • 剣帯飾り紐の「斜め棒縞」
  • 藍色陣羽織の肩の「松菱」
  • 藍色陣羽織の襟の「浮線綾桜」
  • 帯の「市松」
  • インナー(襦袢)の「麻の葉」

長年にわたって和の伝統的モチーフを、ちゃんとキャラクターに合わせた意味をもたせて織り込んできたルビパが作っているのですから、「なんか和モノだし、和柄のテクスチャたくさんあったからいろいろ使っちゃった☆」なわけはありません。こんなにいろいろ盛り込まれているのは大和の「いろいろな趣味に手を出してはそこそこ楽しんでやめる」という多芸多才ヒマつぶし人生を暗示していることでしょう。

しかし、そのとっ散らかりをなんてことない風に見事に着こなしているのですから、大和の生来のルックスの良さが際立ちます。プロポーションのいい人って意味わかんない柄のダサTとかも着こなせたりしますよね……。そのように見せるようにうまくコーデを合わせた水野先生もグラフィック班の色塗りもすごいですよ。生まれ持った才能があるから、何をやらせても異様にそつなくうまい、それがビジュアルからも表現されているってわけです。

 

 ちなみにそれぞれの模様も大和に合った意味を持ってるように見えるんですが、当方の知識ではようわからん模様もあり、まだまだ読み取り足りない感があります。特に繰り返されているのは大和が「鬼」であるということです。

 まず一番目立つメイン模様である「三つ巴」、土方歳三の紋として最も有名かな。この「巴」というのは模様の中の勾玉のカタチのことです。漢字のかたちがもうそれでしょ。このオタマジャクシや胎児のようなかたちは「霊魂」をあらわしています。ことに、普段の世界では目に見えない、体の内側にあったりまだ生まれていなかったりすでに死んでいたりする、もの言わないけど荒ぶる力をもつ霊魂のことをさします。

『遙か4』の地の朱雀・那岐の霊具である「御統(みすまる)」や「地反(ちがえし)勾玉」もこのカタチをしていたように、巴型は霊魂の強大なパワーを表しているごく古代アニミズム的なモチーフです。そういうものの声をよく聞くとされた古代の女王卑弥呼の技は「鬼道」と呼ばれました。「もの言わぬ、一見とるに足らないもののもつ畏怖すべきパワー」とは「鬼」であり、地の朱雀の坤の卦のテーマです。

 次に「剣帯の斜め縞飾り紐」はかなり異様な印象を与えるデザインです。東洋より西洋のほうがこの感覚は顕著ですが、「太い縞模様」っていうのは「要注意人物」「被差別階級」を隔離するためのよろしくないスティグマ的記号として使われてきました。しかも大和の縞模様紐は色が「黄色と紫」です。東洋では黄色って金色と同様に扱われるので貴い色なんですけど、この色合わせはさすがに日本でも踏切毒蛇のイラストみたいなヤバでしょうがよ。縞模様と黄色については下の記事も参考にどうぞ。

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 そしてひときわカワイイ陣羽織の襟のまるっこい花模様の繰り返し「浮線綾桜」は、「花菱」もそうなんですけど奈良時代にシルクロードを通して伝わってきたヨーロッパ舶来のお花唐草模様からできたものです。そして浮線綾は日本では宝物のような貴族の衣を彩る有職(ゆうそく)文様です。「舶来(「鬼」と呼ばれる)」である大和の母方の血筋と、大和のもつミョーに貴なる華やかな風格に通じますね。

また、浮線綾桜は中央の桜花をいろんな模様に変えて使われることもあって、そこを「四ツ目」と呼ばれるロの字を四つ正方形に並べたみたいなやつに変えたものは佐々木氏の紋として使われます。大和の襟のやつはふつうに桜のまんまなんですけど。

 帯の「市松」とインナーの「麻の葉」は今や言わずと知れた「炭治郎模様」と「禰豆子柄」ですよね。お、鬼退治やんか~!

鬼滅の兄妹のトレードマークの布柄にこれらの柄が採用されているのは、日本の単純パターンの中で代表的な吉祥柄だからでしょう。特に「麻の葉」は大和のインナーの色である「朱色」とあわせて産着や肌に触れる子供服に多用された、「子供の健やかな成長を守る護符」です。

大和のストーリー進めると麻の葉模様のインナー見るだけで泣けたわ(泣き所がわかりにくい)……

 

大和のシナリオ描写

 大和のストーリーはある意味「大人、強く上に立つものの政治」の物語であった長政ルートの対極に位置する「子供、小さく弱いもの個人の人生」の物語であるといえます。

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多くの人を統べる大きな理想や世に示すような正しさではなく、「大事の前の小事」と片付けられてしまいがちなひとりひとりの生活者の繊細な息苦しさとか、それぞれが十人十色の自分の人生と向き合い違うものどうしがそれでも支えあって生きてゆけることとか……。八卦の象徴物がそうであるように、長政は「天の日」で大和は「足元の土」です。こういう二種類の物語を「大説」と「小説」といったりもします。どちらがより大事とかではないですよね。どっちがなくても世界は成り立たない。

そして、足元の個人の十人十色な問題ってかなり現代にいたるまで無視されてきました。世の中の大きな流れの求める人物像や、「強さ」「ただしさ」から外れた人や気持ちは、型にはめて矯正されたり、あるいはどうでもいいものとしてのけものにされ放逐されてきました。そういう、今までは弱さや些事とされてきたような多様さや違和感を無視しないでいこうぜ、というのが、近年SDGs的にも重視されている「包括的(インクルーシブ)」「多様性(ダイバーシティ)」の流れです。

SDGsとかでけえこと言いましたけど、大和ルートに描かれているのは人生のほんとに基礎的な、個人的な、だから普遍的な問題です(まあSDGsもそういうものでもあるんですけど)。

よしながふみ『きのう何食べた?』やヤマシタトモコ『違国日記』などの作品に描かれているような、個人的生活の中にある他者の他者性、それが容易には解決しないこと……という、小さなささやき声のような問題のどうしようもない積み重ね。「マイノリティ(少数者)に向き合う」という意味で宗矩ルートとも対をなしており、たいへん令和の世な現代的テーマを描いてもいます。これは令和ですよ。

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アンジェリーク ルミナライズ

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対人関係の間合いや社会的考え方が令和だ!!と話題になった『アンジェリークルミナライズ』の令和い(れいわい)(形容詞)ところが味わい深かったなあ~と思う人にはぜひ大和ルートをやってもらいたいなとおもわれました。

『パレドゥレーヌ』のエピドートやグイード、レミー、ユークレースのシナリオが好きな人には一見の価値あり(当方は全員好きで大和ルートやりながら彼らを思い出していました)。『遙か』シリーズでは地の朱雀らしさが好きな方、特に那岐!を好きな方、あとリズヴァーン、知盛、忍人、桜智、ダリウス、歴代の黒龍の神子のシナリオが好きな方にはよいかと。他ネオロマでいうと『アンジェリーク』のクラヴィス、メル、アリオス、フランシス、『金色のコルダ』の柚木、吉羅、響也、土岐が好きな方にはおすすめです。衛藤とは似てそうで似てない。

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 でも感覚的には今までのネオロマにあまりなかったタイプの話かもです。那岐ルートが近いですけど、あれは電光石火の速さで話が進んじゃったんで、そこを丁~~寧にやるという感じです。あとは大和は(今回黒龍の神子が単体で登場しないこともあって)黒龍の神子性が強くて、主人公たち兄弟しか友達がいない幼馴染キャラでもあるので、遙か5の都の語り直しでもあるなと感じました。どちらも描写がもっと欲しかったシナリオなのですごくうれしかったですね。

 

少数者たち

 大和は「異国の血の入った容貌」「強い霊感」「”ふつう”でない家庭事情」のトリプルパンチのマイノリティであり、天野家以外の周りの人たちから、親からさえも遠ざけられてきました。それでも彼なりに楽しみを見つけつつ、人を呪わずそれなりに生きている優しいやつです。

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 地の朱雀をあらわす「坤」の卦は婦徳、すなわち「耐える女性」をあらわしています。女性とはいいますが、概念的には「弱い方」「下に見られる方」「メインではない方」「耐えるしかない方」「問題にされない方」の者――つまり、実際にまだまだ女性という属性がそうであるように、「世俗と大衆の理不尽に踏まれるマイノリティ」を意味しています。

そしてそのマイノリティ性、踏まれどころのことを、日本では古くは「鬼」と呼びました。坤の卦は裏鬼門を示し、ガチ鬼門である地の玄武とセットでシリーズ通して「鬼」的なキャラクターが当てられてきました。地の玄武はストレートに人ならざる神仙のごとき力をもつ「鬼」ですが、地の朱雀には少しひねりがあります。詩紋や彰紋は色素の薄い容貌のために鬼と関係あるのではと勘違いされて忌避され、那岐は生まれた直後に示した規格外の霊力のために王族でありながら捨てられました。日本語の「鬼子」とは牙や角のようなものが生えて生まれた子供だけでなく、「親や周りに似ていない容貌や性質を持った子供」のこともさします。つまり、本人が鬼っぽいことではなく、「ふつうではない」と勝手に恐れられ遠ざけられることそのものが坤の卦の「鬼」なのです。

 

 「ふつうじゃない」ってみんなに勝手に判断されて、話を聞かれもせず扱いを変えられるのはつらいことです。大和は小さい頃は周りと違う容姿や感覚を変だと言われ、高校生になった今ではカッコいいと女子からもてはやされ、マジなんなの、です。この「結局『みんなと違う』ってことを都合よく勝手に使われて、ほとんど誰も自分のこと見ようとしてないじゃん」という苦しみは『ペルソナ2罪』のギンコにもみられました。いやマジで大和ルート、ペルソナシリーズのペーティーメンバーコミュの豪華版みたいなやつじゃん。

多様さ、マイノリティって、よく話題にのぼる性にまつわる少数者(セクシャルマイノリティ)のことだけではなくて、身体や精神の障害(と、今の社会ではされているもの)だとか、人種や民族的に差別される属性とか、広く言うと「その社会での"ふつう"の扱いに当てはまらないこと」すべてを含んでいます。弱さや不足とされていることだけでなく、強すぎることや過剰もそうです。ていうか何が強さで何が弱さかっていうのも考え方によるもんにすぎませんからね。まさに大和は「霊感が強い」ということが「弱み」「障害」にもなってしまってるわけですから。

 

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 同様に「強すぎた」せいでマイノリティになってしまった、大和と相似の存在として出てくるのがターラです。だから大和ルートはターラの物語であるともいえます。だからターラも呼応してハッピーエンドする! すごい!

ターラは強すぎ美しすぎのために忌避された鬼の一族の中でもさらに際立って強すぎ美しすぎで、同世代にかなう者はおらず孤独に高慢に育ちました。その美しさのために権力者への貢ぎ物に差し出されることになり、その強さのために抗い続けて守ってくれる人たちを失いました。「ふつうでない」者は、「ふつう」の者の安寧を守るための犠牲になるしかないのか? そんなのはばからしくないか? というのが同類である大和へのターラの叫びです。

これはあまりにも普遍的で、われわれ自身の問題でもバリバリある、痛い叫びです。誰もがどっかしらでターラや大和であり、別の場面では彼らを排斥し続ける愚かな人々でもある……。

 

力の価値は

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 「鬼」である地の朱雀は多く異才をもっています。逆か。異才をもっているから鬼にみられるのか。それはストレートな「強さ」というより大和の霊感のように「ふつうと違う力」です。大和は何をやらせてもサラッとものにするし、特に剣術に異様な才能を発揮します。

誰にでもっていうと言いすぎかもですが、才能がある分野ってありますよね。問題(?)は、虐げられてきた、無視されてきた人が自分の力を使うチャンスをみつけたときにどうするのかってことです。

大和は剣の腕を磨くうちに、「強さを示せば文句を言ってくるやつに自分を認めさせられる、黙らせられる」と思うようになります。ずーっと心から離れない重圧である、自分を踏んできたものたち、自分の存在を認めない父親の目を、スッキリ跳ね除けて自由になることができる、と。

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 これ、大和の危うさとして描かれてますしその描写は正しいですけど、われわれ未熟な人間たちが「強くなりたい!!」と切望するときって、じっさい「誰かに認められたい」「誰かを見返したい」とか「馬鹿にされないように、自分の意見が尊重されるようになりたい」とかが半分以上じゃないですか? 大和だけの危うさじゃないんですよ。自分も「黙らせたい」って思ってるんですよ。特に自分を認めてくれない親族に対してはね。おれもそうだからわかるよ。

力についてのそういう考え方って、世界に害をなす憎しみや呪いにつながってるし、大和やターラの心に巣食う負の瘴気なんですけど、でも……それがどうして生まれてしまったかってよくよく自分の胸に手を当てて考えてみるとさ、「踏まれたから」なんですよね。

人種差別に反対する運動でも、フェミニズムでも、「踏んでくる足」をはねのけようとするとき過激で危険なパワーが爆発します。そりゃそうなんだよ。それはさ、誰が悪いかっつったらそりゃ踏んでた側が悪いんですけど、踏まれた屈辱で誤った力の使い方をした人自身も傷ついてしまうし、力で相手を黙らせてもその人の人生はぜんぜん幸せになれないという、悲しい問題につながってしまいます。社会はもちろん変えていかなきゃいけないとしても、そういう呪いを、その人個人の人生の中ではどうしてったらいいのか……を描いたのが、大和ルートです。

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 人が「鬼」の力を恐れ潰そうとするのは、自分たちがそれを「踏んでる」ことをうすうすわかってるからです。「踏まれた」者がどんなに悔しくて今に見てろって思うか、その怨みの力がどんなに強いか知ってるからです。それは「怨霊」についても同じです。怨の気とは踏まれた悔しさであり、だから大和やターラにはそれと同調する才能があるのです。

そしてそれは、今までのシリーズ作品では黒龍の神子にあらわされてきた「誰かの悲しみを感じ取る」「明るい世界に無視された、声なき声の訴えを聞く」という、優しい力でもあります。

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現代帰れねえー!となり、どうしようもないことに沈みまくっていてもみんなに心配かけるだけだ……と耐えている主人公に、大和は「俺ヘッドホンしてるし正面にもいないから何も聞こえないし好きなこと言えば」と言いました。明るい世界、"ふつう"の世界にはじかれてしまう、自分でも認めがたくて誰にも見せたくない、どうしようもない人の悲しみと弱さを、大和は聞き流してそばにいてくれました。個人ルート外でも、大和はキツいことを無理して我慢するなと何かにつけて気遣ってくれます。

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正論を言えば「悲しんでても仕方ない」ことってたくさんありますけど、悲しみ痛むことを無視しちゃうのはもっと悲しくてつらいことです。

一見明るく見えて「世の悲しみ」そのものである阿国の舞を大和が好んでいるのも、なんかそういうの感じてウルッときます。

 

痛み合い、近づけるなら

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 わりと序盤に、大和が怨霊になりかけている動物霊をかばうシーンがあります。

大和はその動物霊に自分を重ね合わせています。もう死んじゃって同類の親族もない、「"ふつう"の世界に組み込まれることができない"鬼の子"」として共感していただけではなく、「"ふつう"でないもの、その悲しみをもったものは、ただそこにいるだけで人に迷惑をかけて、だから存在が許されないのか? いてもいいだろ別に!」と悲しんだからです。

"ふつう"じゃないものだって、俺だって、ささやかにうれしいことや楽しいことや好ましいやつらがいたりして、ただ、ここに生きてる。たったそれだけのことが"ふつう"の社会の中にあるのは人の迷惑なのか、認められないことなのか?……と。

 

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 大和が人に心を開けず、好きなことができてもそのコミュニティに入っていかないのは、実際受け入れられなかった経験からです。居場所になると思った場所に期待したように受け入れてもらえるかわからない……という不安はいつだって誰にだってありますけど、大和の幼少期の場合、父親に「わからない、気味が悪い」と言われ、同級生に「嘘つき」「あそこのお母さん出て行ったんだって」と言われただけでなく、最初は好意的だった相手でも、大和の異能や家庭の事情を知れば驚いて腫れ物に触るように接するようになったでしょう。大和は繊細で優しいので、そういうのも感じ取り、嫌がります。

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宗矩の感想記事では「差別の解消の際には、被差別者が割を食って多くのコストを払わされる」問題について話しましたが、大和ルートには「マイノリティと共に生きていくことは、"ふつう"の世界にとっても苦しいコストとなる」という問題が描かれています。

大和の心に寄り添うことは彼の瘴気と付き合うことであり、彼の抱えるつらい問題、彼が気づいてしまう世界の悲しみともいちいち付き合っていくことです。遙か4の那岐はその力の異様な強さゆえに生まれた瞬間から産屋を焼いてしまいました。

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これは多様性や包括をとなえるときに必ずついて回る、しかし美しいお題目の前にごまかされがちな裏面です。そこをこそちゃんと描くのは、ルビパ誠実やな~!ポインツ。

 

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 ターラや動物霊と同じく大和と重ね合わされているのが「妖刀」です。妖刀の呪いは大和のマイノリティ性、踏まれた怨みの気持ちをそのまま拡張したものといえます。

大和は大事な人を守るための力として妖刀を手にし、共鳴してものすごく強く、自分の力をフルに使えるようになりました。これは自分の中のマイノリティ性、怨の気という「鬼」を認めて力にしたということです。しかし、妖刀を手にしてすこぶる調子がいい大和の周りではみんなが調子悪くなっていきます。しかも捨てようとしても捨てられない。この妖刀の呪いは、「"ふつう"でないことを自覚し、表明して生きる"鬼"は、周りに苦しいコストを払わせる」ということを強くデフォルメしたものです。

妖刀じたいがそうやって捨てられたものたちの念の集合体だから効力がさすがに極端なことになってますが、構造自体は現実にも多くあることです。子供や友達にセクシャルマイノリティであることを打ち明けられた人が受け入れがたくて寝込んだり、複雑な家庭の事情を知ると今までふつうに付き合ってきた友達との接し方に困ったり、いくらでもある話じゃないですか。

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主人公たちが大和を受け入れようとしたように頭も心もその人を受け入れたいと思ってたとしても、いろんな都合の悪さや気遣いが積み重なってコストとなります。大和が離れていくととたんに元気になったみんなの体調のように、"ふつう"の世界の規格に沿って「生きづらさ」とか表に出さないで暮らしている人たちとだけ生きるのは、結局「ローコスト」で「ラク」で「効率的」なんです。これはもちろん、大和のことをみんなが好きか嫌いかの問題でもないし、みんなの心が広いか狭いかの問題でもありませんでした。受け入れる心で解消できるものじゃないってことです。だからわれわれの社会はなかなか多様性を包括できないんです。

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そして何より、介護問題でよく聞かれるように、「マイノリティ側」「包括される側」の優しさや自尊心が、「迷惑をかけて嫌われたくない」「面倒に思われるくらいなら一緒にいないほうがいい」と感じてしまうのです。

 

 じゃあどうすんの、っていうひとつの答えが、大和ルートに描かれました。主人公と大和はお互いに心を離れさせずにいたうえで、「ゆっくり、慎重に、めんどくさく近づいた」のです。互いを傷つけない、あるいは無理せず耐えられる範囲や方法を試行錯誤しながら近付きたいと思い合い続け、ついに手をつないだのです。

宗矩ルートのエンディングで宗矩が主人公の魂を龍神から切り離そうと世と剣を磨いた日々のように、二人が少しずつ近づいていくえっちらおっちらとした歩みはちょっととぼけて間延びして、長く感じるように描かれています。しみる。

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ここなんかすごくいいよね、糸電話してるみたいで。エモ。

本当は一人一人ぜんぜん違う人と人の間にある距離や障害物は、「いったれ!そこだ!チューしろ!」のドラマティックな一発でなんでも縮まるものではありません。ないはずです。平成の時代はわりとすべての男女の恋をチューしろ!でなんとかしてきたとこがあるので、大和と主人公の近づき方はもどかしくてなにこれ?はよ異性として意識しろやもう離さないって言えやと思う人もいたかもしれませんが、これが令和の若者の正統派の恋や(知らんけど)ーーー!

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令和……

 そして、妖刀の呪い、すなわちマイノリティ性や人に受け入れてもらえなかったことへの怨みの呪いは、「自分は、本当はどんな誰でも、めんどくさくても、大事な人にゆっくり受け入れてもらえる存在なんだ」と信じられたとき、そう信じることができた大和が主人公と手をつなげたときに、解呪され災いを止めるのです。

 

”親”なる他人、新しい家族

 大和ルートのさらなる新しい時代っぽい功績は、「親との問題に”和解”でない折り合いをつけたこと」です。

従来よくある物語では、青少年と親との関係性問題の決着は「和解」か「(死んだ親の呪縛との)決別」あたりで描かれてきました。しかしながら、「お互い生きていればいつか分かり合える」というのは、残念ながら、「必ず」ではなく「だったらいいね」の世界です。現実的にはさ。

よしながふみ『愛すべき娘たち』にいわく、「母というものは要するに 一人の不完全な女のことなんだ」。父親ももちろん同じです。大和の父親が大和を理解できず受け入れられなかったのは、大和を受け入れられなかった他のたくさんの人たちとまったく同じことで、肉親だから理解できるはずだなんてことは全然ないんですよね。

肉親だから、身近な人だから、責任がある対象だからって、わかんないものはわかんないし、受け入れられないものがあることは罪というほどのものではありません。だって「親ガチャ」という言葉が昨今流行ったように、親と子は互いを知り合って選んだわけじゃない完全ランダム制なんですから。むしろ、先天的な家族に自分の人生を受け入れてもらおうっていうほうがムリがあるのかもしれない、まであります。

 

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 大和は、自分を受け入れてくれるとは思えない父親、自分を追い出して別の家族を作った父親に、それでも「自分が今何をしているか」という報告と、「これからどう生きていきたいと思っているか」という進路、そして別れの挨拶の話をしました。

それは「認めてほしい」「和解したい」からではありません。そのアホみたいに気まずくていたたまれない状況も、話しても結局荒唐無稽で受け入れてもらえないことも、そのめんどくささ全部を受け入れてくれる人がいると信じられた今ならば耐えられるからです。決着をつけることから逃げずにすむからです。自分を否定するものを本当にはねのける力は、「黙らせる強さ」ではなく、「ここで否定されても自分は大丈夫」と信じられることだったのです。

「愛してくれるはず、わかってくれるはずの親」ではない、痛みを分け合ってくれる人を自分で選び、自分の居場所を自分で作る。

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自分の人生に全身でダイブすることは、ヒマつぶしではない本気で打ち込むこととして剣術を選んだことや、格好悪かろうが勝てなかろうが主人公を守るために素手でターラに挑みかかったことのように、不格好であてもなくて怖いことです。「親のせいで、運命のせいで」とか「こんなんヒマつぶしだから」とか言っていられた方が、それ以上の挫折も怖い思いをすることもありません。

感じたままに描く
自分で選んだその色で
眠い空気纏う朝に
訪れた青い世界
好きなものを好きだと言う
怖くて仕方ないけど
本当の自分
出会えた気がしたんだ

群青

群青

  • YOASOBI
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でも、「親に認められたい、自分を拒絶したものたちを見返したい(そうでなければ自分の価値を認められない)」という親や過去への怨の気持ちを卒業して、親という「神」「定められた運命」のようなものから切り離されて、泣き伏していた地べたから立ち上がって自分の人生のハンドルを握るのが、大人になるということです。これが大和の、「神との間のへその緒を切って、人として歩き出す『遙かなる時空の中で7』」テーマです。

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YOASOBI『群青』じゃん……現代っ子青春ド真ん中じゃん……

 

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 そして、大和を受け入れずエイリアンのように扱ってきた大和父ですが、話してみるとそこまで話の通じん邪悪な人間とかではありません。マイノリティと周囲の人の摩擦って別に周囲の人の性格が特別悪いからおこることではないんですよね。大和父は善人でも悪人でもない、ふつうの男の人。

大和父は息子に寄り付かないにしても家を与え、さまざまなヒマつぶしに興じていられるだけの自由になるマニーを与え、よくわからん異世界の話も最後まで聞き、彼なりにわかんない子供の親になった最低限の責任は果たしてきました。そんで、最後までわからなかった、と言って、大和の門出を送り出しました。

この「"和解"ではない親子の折り合い」の話は、大和が大人になる物語でもありますし、大和父のための物語でもあります。

自分と違う、どうにも理解できなくて怖いような子供をもった親だって苦しみます。親ならば子供を愛せて当然なはずじゃないかって、この難しい子を妻なしで一人でどうやって育てていこうって大和父もかつては悩んだはずです。それはね、それで、いいんだよ。人間は弱いものだって大和は知っています。わが子のことだって、親だからって、なんでも受け入れてあげられなくても、いいんだよ。

ただ、未成年の間を保護してあげて害さず、ただ、適切に送り出せばいい。どうしても傷つけてしまいそうなら里親制度とかだってある。それで十分とまでは言わないけど、そういうこともあっていいじゃないですか。世の中。

だって、親と子供は、別の人間なんだから。別の居場所を作り、別の人生を歩いてくんだから。

 

 大和父は別れ際に、冗談めかして(なんと冗談みたいな言葉が出てくるほどの他人っぽい適切な距離感になったんですね!)「剣士になるなら小次郎とでも名付けておけばよかったか」と言いました。息子との折り合いと、永い別れに際して、この軽口を言いながら彼は息子が生まれたときのことを思い出していたはずです。大和の命が始まったとき、彼と当時の妻は大和の人生の幸せを願い、考えて名前をつけたはずです。

そして大和は新しい名をみずから名乗り、戦国の世での名とします。それは大和がそこから新しく生まれたということ、親にも過去の怨みにも支配されない、自分の責任で選んだ人生を始めたということです。それは新しい呪いや苦しみのはじまりかもしれないけれど、痛みを分かち合える誰かを選んでいくことができます。

大和七章のタイトル「隠れ鬼」は彼が「鬼のこども」であることと、かくれんぼ、つまり「誰かに探してもらえる、みつけてもらえるこどもになれた」ということを暗示しています。

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名をはなむけにして、親は子の人生を送り出しました。子は一人で、そして愛する新しい居場所を選び選ばれて、きっと歩いていけるでしょう。

 

そうだね、わたしあのとき分かったんだ。わたしは見つけてもらえる子供になれたんだって。だから嬉しくて泣いたの。
どんなに遠くはぐれてしまっても晶ちゃんと冠ちゃんがきっとわたしを見つけてくれる。誰かに見つけてもらえるって幸せな事だね。
わたし晶ちゃんと冠ちゃんと一緒にいられて嬉しくて楽しかった。ありがとう。

――『輪るピングドラム』第23話

それがおまえたちのピングドラムだ……!

(照二朗なんでもピングドラムって言う)

(いやまじで大和ルートはピンドラだよ 大和は陽毬で七緒は晶馬だよ 運命の果実をいっしょに食べようで選んでくれてありがとうだよ……)

 

 

 次、一年ぶりにプレイ再開するんですけど幸村ルート食べて胃もたれおこさないですかね!?!?

 

 

↓おもしろかったらブクマもらえるととてもハッピーです

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