湖底より愛とかこめて

ときおり転がります

【ⅩⅩ 審判】ラミーヌの紋章―FE風花雪月とアルカナの元型⑭

本稿では、『ファイアーエムブレム 風花雪月』の「ラミーヌの紋章」とタロット大アルカナ「ⅩⅩ 審判」のカード、キャラクター「メルセデス=フォン=マルトリッツ」「イエリッツァ(エミール=フォン=バルテルス)」の対応について考察していきます。全紋章とタロット大アルカナの対応、および目次はこちら。

以下、めっちゃめっちゃネタバレを含みます。

 

 

紋章とタロット大アルカナの対応解説の書籍化企画、頒布開始しております。現在

書籍のみ版、再販してます。

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「聖セイロスの紋章」「ブレーダッドの紋章」「炎の紋章」とかDLCで登場した紋章とかは書籍版のかきおろしとなるので、この「ラミーヌの紋章」の記事が当ブログに掲載する最後の紋章タロット対応読み解き記事です。まさしく「最後」にふさわしいアルカナなので、これをトリにすることはあらかじめ決めていました。

Ⅹ(じゅう)月Ⅹ(とお)日なので今日アップするぜ! ⅩⅩ(にじゅう)番のアルカナをよ!

 

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紋章、十傑ラミーヌ。

対応するアルカナは審判

対応するキャラはメルセデス=フォン=マルトリッツと、その弟イエリッツァ(エミール=フォン=バルテルス)です。

 

タロット大アルカナで本当に最後の番号は炎の紋章に対応する「世界」のカードなのですが、ラミーヌの紋章に対応するカードはそれに限りなく近い、実質グランドフィナーレのラストシーンを描くカードなんです。

「太陽」あたりは映画のラスト周辺のクライマックス、「審判」は穏やかな音楽と明るい光が流れて静かに「Fin...」ってシーン、「世界」のカードはエンドロールのテーマソング(西川貴教)ですね。(映画刀剣乱舞をイメージしている)

そんな特別な紋章に、あの似てない姉弟がどう対応しているのでしょうか? 今回も読み解いてまいりましょう。今回はいつもにも増して長~~~~いので数日に分けて読んでくれ

 

 

「審判」の元型

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 「審判」のカードです。

 カードに描いてあるのは「空」から「赤十字の旗」のついた「ラッパ」を吹く「巨大な天使」、その音を聴いて「棺から蘇って天を仰ぐ裸の人たち」。棺はしばしば「海」に箱舟のように浮かんでいます。

ど~~う見てもキリスト教の終末の予言「最後の審判」が連想される寓画です。神の堪忍袋の緒が爆発して世界が一度メタメタに滅び、異教徒や罪深い者はそのままジ・エンドしキリスト教の教えに仕える善なる者の魂が天の国に入場を許される、というものですね。こうした「終末に魂が選別される」という概念を「公裁判」といい、キリスト教だけでなく多くの宗教や文化の死後の世界に存在する普遍的な筋書きです。

だから、「審判」のアルカナが中心的にあらわすのは、

「これまでのすべての裁きを待ち、すべてを捨てて生まれ変わる」

という段階です。以下、審判アルカナの意味は赤字であらわします。

 

 『風花雪月』と同様にタロット大アルカナがキャラクターやストーリーのガイド線になっていることでたびたび引用する『ペルソナ』シリーズでは、「審判」アルカナは特別なカードです。初代『女神異聞録ペルソナ』のキャラクター「エリー」に対応している以外では「特定のキャラクター」というより「ストーリー終盤の総仕上げ」をあらわす、「愚者」や「世界」と同様の特殊で壮大なアルカナとして扱われているのです。『ペルソナ』3~5のシリーズは一年間(という名目だけど実際はだいたい4~12月)の学園生活となんらかの特殊活動の二重生活をフル充実で過ごすスパンの長いゲームであり、その長い日々の少しずつの積み重ね、たくさんの人との出会いや思い出、自分のしてきたことの功罪が総決算され、もはや「人事尽くして天命を待つ」ように粛々と歩を進めるのみ、というときにこのカードが現れ、エンディングに向かって自動的にレベルが上がっていきます。

『ペルソナ』シリーズで最終盤にさしかかっているということはつまり世界が終末にさしかかっちゃってるということで、カードに描かれている場面がかなり衝撃的でドラマティックなのにも合致します。しかし、幸いなことに『風花雪月』の作中時間では世界じたいは終末っぽくならないですし、現実の観測史上でもたぶん最後の審判は起こったことがないわけで、この「終末」や「復活」は抽象的な意味でとらえるべきです。このカードが出たらその都度具体的に世界が滅んでたらたまったもんじゃないわいな。

「新しい世界に生まれ変わる魂」とは、人生の中のどんなことの比喩なのでしょうか?

 

 

イエリッツァの「審判」―メタモルフォーゼの棺

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 イエリッツァ=エミール=死神騎士(そういうフルネームみたいになった)はDLCを経てもなお描写が少なくいろいろと謎めいた存在です。彼には「審判」の中でも多分に逆位置的なところがあらわれています。

「死神」ゴーティエの紋章の記事でも述べましたが、死神騎士モードの彼は髑髏の仮面に黒衣、馬に乗って大鎌を持つといういかにも死神イメージのフルコン状態の姿をしています。しかし、持っている紋章は別に死神ではない。審判。

実は「死神」と「審判」はともに「死」「新たな人生へ」というイメージを共有しているので、この「死神と呼ばれてるのに死神じゃない」ズレは別にズコーッなことではないのです。似てるので正しい。

では、「死神」であらわされている死や生まれ変わりと、「審判」であらわされているそれにはどういうニュアンスの違いがあるのでしょうか?

 

地獄の天使

 イエリッツァとその姉メルセデスの家庭の事情は込み入っていてプレイしてもいまいちよくわからんかったりするので、ここで情報を整理しておきましょう。

 まず、彼らのもつラミーヌの紋章はおそらくファーガス地方の部族長であった十傑ラミーヌを祖とするものですが、彼らとラミーヌ本家は近い親戚ではありません。もちろん千年の間に紋章をもつ貴族は他家との婚姻を繰り返しているので、十傑本家に近い親戚でなくとも紋章を持っていることはそんなに珍しいことではありません。しかし、ラミーヌの本家あるいは紋章の血筋は絶えようとしているのか、ラミーヌの紋章は作中時点では珍しいものとなっているようです。

そんな珍しいラミーヌの紋章をもつ一人が、メルセデスとイエリッツァの母でした。彼女は帝国貴族マルトリッツ家にふつうに嫁いだのですが、メルセデスが母のおなかにいるときにマルトリッツ家は取り潰され(理由は不明ですが、そのころにはもう帝国はきな臭くなってきていたのでしょう)、メルセデスを抱えた母はやむなく別の貴族の家と再婚することになります。それが帝国貴族バルテルス男爵です。母とバルテルス男爵の間に父親違いの弟エミール(のちのイエリッツァ)が生まれました。

ここまでならふつうの再婚話なのですが、この帝国貴族バルテルス男爵家というのが実はドエライおうちでした。男爵家という盤石でない爵位のせいもあるのか、当主である父が珍しい紋章を持った跡継ぎというステータスに異様に固執していたのです。貴族社会が紋章主義の弊害に満ち満ちていることはエーデルガルトやシルヴァンなどを通してちょくちょく語られますが、「バルテルス男爵家」や「ハンネマンの妹(聖インデッハの紋章の記事を参照)」はとりわけ紋章主義の地獄みの強いエピソードです。

紋章持ちのエミールが生まれたことによって、すでにバルテルス家に生まれ育っていた母親違いのきょうだいたちは父親にゴミ扱いされたのでしょう。彼らの嫉妬を受けたエミールとそれを守ろうとする母やメルセデスはよってたかっていじめられました。つまり大量のマイクランが発生してしまったような状況でした。母とメルセデスとエミールは針のむしろで、お互いだけを頼りにつらい暮らしを送りました。そしてついに母とメルセデスは家を逃げ出し、エミールは家に残ったのです。

しかし、地獄はそれでも終わりませんでした。数年後母とメルセデスが身を寄せている教会をつきとめた父が、「まだ珍しいラミーヌの紋章持ちの娘息子が欲しい。母親のほうはもう子どもを産める歳ではないが、娘のほうを娶って産ませよう」とかそういうことを言ってメルセデスに追っ手をさしむけようとしたのです。メルセデスが18か19になったころです。あかちゃんのときからの自分の義理の娘に対してですよ。

それを聞いたエミールは心のなにかがプツンと切れてしまい、父親やきょうだいたちのことごとくを一夜にして殺し、「死神」の人格を宿すようになったのです。そして、滅ぼした家から行方をくらました彼はちょうど野望のため動き始めていたころの皇女エーデルガルトに拾われ、すでに彼女と結託していた「闇に蠢くもの」たちの預かりとなって「死神騎士」が生まれたのでした。

 

 めっちゃ複雑だし、それ以上にものすごいつらい話です。こうして見ると、死神騎士イエリッツァの生い立ちと「死神」ゴーティエの紋章のシルヴァンにはかなり似たところがあるのがわかるとおもいます。メルセデスにも共通しますが、「悲劇的な運命のジェットコースター」「深い心の傷」が「審判」のもつつらい側面です。

バルテルス家地獄は、エーデルガルトが変革したいと望んだ紋章主義の社会の弊害が生む地獄の代表例です。背景事情を考えると似たような家は他にもあるでしょうし、そう珍しいことではなさそうなのがまたゾッとするところです。そういう考えの貴族たち(主にフェルディナント父)が「強力な紋章が次期皇帝に宿ったら帝国が再びフォドラの支配者になる名分が立つよね! どうせ傀儡政治だしやっちゃえやっちゃえ」とか考えて主家である皇帝の家の子供たちさえ闇うごの紋章付与実験に差し出したくらいですからね。

人間を紋章の入れものとしてしか見ない人権侵害の暴力からなんとかサバイヴした者として、バルテルス家の姉弟とエーデルガルトもかなり似た存在だといえるでしょう。彼らは生き延びて体が自由になっても心の傷やきょうだいたちがまだ暴力を受け続けるかもしれないことに苦しみ続けており、ずっと解放されず、ずっと地獄に生きています

 

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 イエリッツァ……エミールくんはぶっきらぼうだけど繊細でおとなしく心の優しい賢い子であり、母とメルセデスが家から逃げ出したときも「自分までいっしょに逃げたら父はなにがなんでも追ってきてしまい、母とメルセデスまで連れ戻されるだろう」と考えて母に自分のことは置いて逃げるように頼んだのだといいます。まだ当時8歳の子供がですよ……。

それから10年以上が経った作中時点でも彼は母と姉、幼いころ仲良くしていたコンスタンツェを愛しており、自分の破壊衝動からも人を遠ざけて守ろうとします。劣悪な環境で虐待を受けたにもかかわらず、自分を傷つけた社会構造の汚濁に染まらない、孤独で心の清い彼は地獄の中の天使です。

カードに大きな天使が描いてあるとおり、『ペルソナ』シリーズでは「審判」のアルカナには「審判」を代表する強力な天使のペルソナが当てられています。しかし、それはただの天使ではなく、骸骨の顔をした「黙示録の天使」……すなわち、「死神」のカードに描かれた髑髏の騎士のイメージの元である、終末の災厄を始めるラッパを吹く天使なのです。

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イエリッツァの専用武器「サリエルの大鎌」もまた、実は「天使」の持ち物です。サリエルは「死を司る」とされる天使であり、しばしば人の魂を正しく刈り取る大鎌をもつとされています。大天使でありながら、その不吉な役割や魔眼をもつことから人からは堕天使であると怖れられることがあります。

ちなみに、ラミーヌの紋章に対応する英雄の遺産「ラファイルの宝珠」は「金鹿の学級の大天使ラファエルくん」がいるので少しもじってありますが、非力な回復役であるメルセデスにぜひ持たせたい性能から考えると「癒しの天使ラファエル」が由来だと考えられます。ラファエルは神に最も近い四大天使のひとりであり、天使サリエルはラファエルの部下であるといわれます。日本神話でも大黒さん(大国主神)が死の神と医療の神を兼ねるように、死と癒しとはある意味とても近いものなのです。

 

汚れたこの星を捨てて

 イエリッツァは心を傷つけられ続けたことで精神の均衡をむしばみ(トラウマやPTSD)、解離性同一性障害(いわゆる二重人格)の状態となっています。

「精神的ダメージに対する防衛や異議申し立てとして、無意識から異なる人格が生み出される」ということに関してはコンスタンツェの二重人格のなりたち(書籍化のかきおろしで述べています)とも似ています。『ペルソナ』シリーズにも登場する「シャドウ(影)」が人格化したものですね。イエリッツァの場合、長年虐待され母と姉を案じながら孤独に生きてきた日々の中で「周囲との間の防壁」として「死神騎士」の土台が作られたのでしょう。「死神騎士」の装束は仮面と鎧に覆われています。「死神騎士」の人格そのものが、「エミール」の魂を覆い、守る棺なのです。

まあ、防衛反応としての精神の変調がより社会生活を営みづらくさせることが多いように、魂を守った結果「普通」には生きていけない状態になってしまったのですが。裏のコンスタンツェがコンスタンツェ本人の誇りを害する(大問題ですわ~!)以外はまあ無害なのに対し、彼の中の「死神騎士」はふつうの社会にとってはあまりにも危険です。「死神騎士」は血と殺しと命のやり取りを好み、そのうえ「エミール」には制御がきかず記憶さえあいまいだからです。作中ではエーデルガルトおよび闇うごに任務や戦場を与えられることで社会との関わり(?)を持っている状態です。私は皇帝に感謝している……死神騎士にならなければ猟奇的殺人者になっていたからだ(もうなってる)(クラウザーさんパロしているような場合ではない)……。

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しかし、よくよく見てみると「死神騎士」は「死線を見たりくぐり抜けたり定期的に摂取しないと渇きが癒されない」という特性があるだけで、べつにニンゲンを滅ぼしたいとか、邪悪で残忍な人格だとかというわけではありません。近付かない限り見逃してくれたり、理不尽な闇うごの大量破壊兵器を警告してくれたりするようなむしろ清廉な性格。

そして「剣術」や「主人公先生との戦い」に対する関心が非常に強いのも特徴ですが、このふたつを楽しんでいるときの彼は「死神騎士」でも「エミール」でもどちらでもある、わりと人格が統合されて安らかでさえあるように見えます。イエリッツァは「死神騎士」という人格をもつことで、「死によって癒やされている」のです。

 

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 つらくて仕方なくて、未来もきっとつらいことが起こって、救いが見えないとき、人間は「消えたい」「死んでしまいたい」と思い、苦しみのない天の国を想います。

「審判」のカードで復活した人の魂が「生まれ変わる」というのは、「ハッピーエンドなパラダイスに行く」という意味ではありません。棺から立ち上がっている人々は裸です。彼らが解放されて出ていく「棺」や「墓」とは俗世での財産や権勢の象徴です。審判でいう「生まれ変わる」とは、「世俗のすべてを捨てることができる」という意味です。

エミールの心の殻を真っ黒な髑髏の鎧に変えた家族たちの虐待も、珍しい紋章持ちの貴族嫡子だという地位も、家をそんな地獄にした貴族社会の紋章主義の常識も、世俗の身分も常識も社会制度もすべて彼を閉じ込める華やかな棺です。彼の魂の本質とは関係ないはずのものたちですが、まとわりついてきます。棺というさなぎから蝶が羽化するように、エミールの魂はまったく違うものになってそこから飛び立ちたかった。そんなことは、できないんだけれど。

そんなことは「現実的には」「社会的には」できないけれど、剣に限界まで没頭しているときには、「死合う」ときには、すべてを忘れて純粋になることができます。

できてるんですよね。

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フェリクスも言うように剣には本来体裁も誇りも関係ありません。イエリッツァは、自分を傷つけ続けた社会のわずらわしい事情を塗り替えるだろう主人公先生の剣に直観的に逸楽を見出したのです(ここのところもまたシルヴァンと好対照です)。

そして「死線」の前では、身分も、紋章も、家も、常識も、誰でも脱ぎ捨ててしまいますよね? 平等に、生きるか、死ぬかしかない。「生死の狭間」にいる瞬間、みんな俗世の虚飾を捨てて裸になる。このすがすがしくあっけらかんとして、いっそ静かなスッポンポン性こそが、「死神」のカードとの大きな違いです。

「生死の狭間の純粋さ」なんて、一般的な人間社会の基準からすれば危険なだけで一文の得にも幸せにもならない、理解しがたいものです。でもそれはイエリッツァにとって美しくて、真実で、漂流する小舟で飲む水のように救われ、なんとも心癒される瞬間なはずです。そりゃ逸楽プハァ……って声も出ます。その水が、イエリッツァには必要なのです。

いつか、彼を守った黒い棺が彼を放してくれる日が、生まれ変われる日が来るまで。

棺と言えばウテナだぜ!! アンシーは「魔女」という黒い棺に閉じ込められることでどうしようもない運命に傷ついた自分の心を守っていたので実質エミールは姫宮アンシー

(マリアンヌにも同じこと言うとったやろ)

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メルセデスの「審判」―海にたゆたう象牙の小舟

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 メルセデスもまた「棺の中」的な女性です。

弟のように他者に対して心を閉ざすことはありませんでしたが、「弟を地獄に置き去りにしてしまった」という罪にずっと囚われ続け、だからといって迎えに行く力も、家族を守る力もない自分を責めました。そのこともあって、「女神さまが定める運命に従うしかない」と自由になることをあきらめたのです。

慢性的に抑圧されたとき、「こんな有害な箱なんかブチ壊してやる!」となるのか、「箱はあるけどなんとかやっていこう」となるのか、どちらにもいいところと悪いところがあります。前者は破壊的で急進的で、後者は気休め的で具体的解決を遅らせます。これはエーデルガルトとディミトリの思想の対立そのものですし、また「弱者」や「女性」が現実の抑圧と戦うときの対照的な二つの態度として「エーデルガルトとメルセデス」という二人の女性の正反対さを浮き彫りにします。

メルセデスは青獅子の学級の中で唯一ディミトリの運命とも王国の騎士社会とも直接関係がありませんし、それどころか王国出身者ですらありません(「メルセデスの養父」は物語上必ずしも王都の商人である必然性はなく、メルセデスを金鹿学級にすることだってできます)が、だからこそ「ディミトリの、王国の戦い」をあらわす伴奏として青獅子の学級にいるのです。

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エーデルガルトの急ぎ足な生き方と違って、とろくてホワホワなメルセデスの生き方は鮮烈さに欠けるし、迂遠で抽象的で、いまいち何をどうしたいのか不明瞭です。メルセデスの生き方、戦い方とは、どういう強さだったのでしょうか? それはそのまま青獅子-蒼月ルートのテーマの不鮮明にしか見えない深遠さ複雑さともつながっています。

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聖者の受難

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 メルセデスは「金鹿の大天使ラファエル」と並び「青獅子の聖メルセデス」とも称されるようなどこまでも寛容な善人です。そして、プレイヤーが彼らの聖性に感動させられる部分は実は似通っています。自分に降りかかった悲運を決して呪わず恨まず、世界のみんなの幸いを祈っているというところです。

 ラファエルは突然の事故で父母を亡くし生活が一変してしまいましたが、苦労を感じさせないほどいつもニコニコモグモグしています。その事故死を「押しつけてきた」ようなかっこうになった幼馴染イグナーツの家族を(イグナーツのほうはめちゃくちゃ気にしているけど)恨んでおらず変わらず愛しています。また、それが事故でなくローレンツの父の関わる「仕組まれた事件」であるかもしれない疑惑と出会っても、「親のことは親のことだ、オデたちには関係ねえ」「イグナーツもローレンツくんも友達だ」と言い切りました。

関係ないこたない、その事故だか事件だかがなければ、ラファエルの人生からは父母も、財産も、ただおいしく飯を食い筋肉と対話する素朴な日々も失われなかったはずです。今まさにラファエル自身がその理不尽のツケをこうむっちゃってるわけですから関係も不利益もあるんだよ。

イングリットが「私が領主の跡継ぎでさえなかったら……」シルヴァンが「紋章なんぞなけりゃ……」クロードが「異質な相手との間に分厚い壁なんてなくなれば……」としょっちゅう過去現在の運命にグギギっているように、運命の苦痛を背負ったキャラクターはほとんど運命や世界の何かしらの仕組みを恨み憎みます。恨み憎むことじたいは、人間としてごくふつうのことです。それでも、ラファエルは自分のところで恨みを断ち切ります。

 

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 同様に、メルセデスもイエリッツァの項目で述べた悲運の出生や生育をしており、しかもいまだに抑圧が続行中だというのに、一見するとノホホンと浮世離れしてのんきに見えるほどにふわふわニコニコしています。「頼ってくれていいのよ~?」じゃないよ。あんたが助けてくれって頼れよ。

聖人や善人が「受難」するというイメージは西洋の宗教にも東洋の宗教にもあります。特に有名なのは『旧約聖書』の中の『ヨブ記』の義人(ぎじん、ただしいひと)ヨブの受難です。

ざっくり要約すると。

昔ヨブさんという特に信仰篤くりっぱなおじさんがいて、その正しさを神に祝福されたように幸せに暮らしていました。ヨブさんについて神様とサタンが話をしていました。

神様「わたしを信ずるヨブはこんなに正しい魂なのだ」
サタン「ぐぬぬ。ヨブは今幸せだから神を愛しているのであって、不幸になれば間違いを犯すかもよ。ひとつ俺がヨブに災難を与え財産とかとりあげてみるわ」
神様「ほー、わたしのヨブは大丈夫だから別にいいよ。ただし命はとらないように」

そしてサタンはヨブさんの財産を奪い、愛を奪い、それでもヨブさんが正しい人だったのでついに社会的に死ぬような病にかからせました。妻さえ「あなた、こんなひどい状況死んだ方がましですよ。こんな運命を与えた神を恨みます」と呪うようになりましたが、それでも正しさを失わないヨブさんは「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言っていっさい神を呪う言葉を口に出しませんでした。

その後、友達3人がやってきて「おまえこんな次々と災難に見舞われてるってことは何か悪いことした神罰なんじゃないのか」「神に謝って許してもらったら助かるかもよ、家族のためにもはやく罪を認めろ」と心配して諭してくれましたが、そんなのって「利益のために神を信じているふりをしている」だけの偽りの信仰です。それにヨブさんが応じていたらサタンの勝ちでした。何も悪いことしてないヨブさんは自分と神を信じ、友達の現世利益的な忠告をつっぱねます。そんで、神と対話したりなんやんかんやありまして、ヨブさんはやはり「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」という結論に満足しました。

神はヨブさんの正しさにウンウンしました。逆に3人の友達のほうが「おまえたちはわたしについて間違ったことを言ったよね。許してもらって利益を得ようとする懺悔なんてダメに決まってるんだけど」と怒られましたが、ヨブさんの祈りによって友人たちの罪は清められました。

ほんでこれは最終的には神がヨブさんの病気を治し財産を10割増しで戻してくれてわかりやすいハッピーエンドになったのですが、この話の重要なとこはそういう利益じゃなくて、ヨブさんが「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と考えて運命を呪わなかったこと、ついでに自分を悪いと決めつけてきてめちゃくちゃケンカした友達のために祈ったことです。

人間にとって自分の人生はひとつしかない特別な経験で、ほとんど誰もが、たとえマリアンヌのように自分の人生に絶望している人だったとしても、自分は世界の主人公で正しい行いや努力には幸せがついてくるはずだと無意識に感じています。むしろ、そのはずだと感じているから不運に遭うと絶望しちゃうのではないですか? しかし現実には運命は不可解で物語のような因果応報性がしっかりはたらいているわけでもなく、ヨブさんやメルセデスの人生のように、なんの罪も犯していないのに、次々と避けがたい災難に見舞われることもあります。

そんな理不尽な苦しみのときに運命を呪いもがくのは、「自分の人生はうまくいってしかるべきだ、自分で操縦できるはずだ」と思っている(ほとんどの)人間です。こういう少年マンガの主人公的な英雄人格の代表が、「人生を操縦し勝利する」戦車のイングリットです。

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メルセデスがイングリットにな~んとはなしに身の上話をしてため息をつくと、イングリットは即座に「解決策を考えよう!!」とキラーンしてきて、メルセデスはポカーン、というシーンがあります。この支援Bでは二人が自分たちの正反対さについて語りますが、それは女性としてのタイプや趣味嗜好だけの話ではなく、生き方の問題です。つまり、「人生を操縦できると思っている」イングリットと正反対なメルセデスは、「人生は操ることができないと思っている」のです。

これは一見するとマリアンヌが陥っていたような「どうせ何もできない」という不幸な無力感と同じようにも思えますし、メルセデスが「私の運命は私じゃなく女神様が決めることだから~……」とか言っていると「解決策を考えよう!」「諦めんなよ!」「できるできる絶対できる!!」(イングリット=修造=ガラテア)のほうが明らかに建設的で前向きであるように現代人には思えます。しかし、「人生は変えられる!」というのは自分を奮い立たせるスローガンとしてはいいものでも、本当に人生を思い通りにできるはずだと思っているのは、じっさい傲慢です。

 

 人間は生存戦略の一環として、いろいろ状況を合理化して人生を「正しい物語」として解釈しようとします。それによって生きる気力を奮い立たせています。しかし、もし世界や神様の正しい予定があったとしても人間にそれを理解することはできないとおもいますし、むきだしの「生(なま)の運命」は不可解で無秩序なものとして襲い掛かってきます。そもそもいかに「ハッピーエンド」を目指したとしても人間は必ず死によって終わります。「なんとかなるばず」「人生は変えられるはず」には絶対に限界が訪れるのに、みんな見ないふりをして普段過ごしているだけです。

そういう恐ろしい「どうにもならなさ」と向き合い、納得し、受け入れるための方法として、宗教というものはあるのです。それが「審判」のカードとメルセデスがもつ厳かで穏やかですがすがしい宗教性のおおもとです。

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宗教は「人生のどうにもならない部分を受け入れる」ということのために、精神的にだけでなく実質的にもはたらいてきました。それが多くの宗教団体のもつ「慈善」の活動です。メルセデスは修道女となって慈善を行うことに強い関心と適性があり、士官学校時代からあのヒルダが心配するほどヒマさえあれば「みんなのため」に際限なく奉仕活動をしています。しかも、それに対して「報われたい」と思っていないどころか、特別「がんばっている」とすら思っていません。メルセデスにとって慈善と奉仕は自然なことです。

マザー・テレサなどの慈善活動で高名な聖人もそうですけど、これって途方もないことですよ。さっきから言っているように、人間はふつう「人生は操縦できる」と思って戦っている、言いかえれば「いい操作をしたらいい結果が返ってくる」と思っているからです。慈善とは、少なくとも俗世の利益的な見返りを求めるものではありません。だってメルセデスの慈善を頼る人は基本的に社会の中の弱者(孤児、寡婦、病人、老人、失業者など)であり、彼らは支払える俗世的な見返りを持ってないからこそ弱者だからです。

しかも「人生は操縦できる」という感覚からすると、そういう弱者は目をそらしたい存在でもあります。イングリットがグレンを失った恨みコミとはいえダスカー人に偏見をもっていたのも、「悪い扱いをされている人は、実際に悪いことをしたのだ」というヨブさんの3人の友達が考えたような合理化がはたらいていたからです。だから、普段いっしょうけんめい自分の人生を操縦しようとしてがんばっている人は、うっかりすると「困っている人はかわいそうだけど自分でなんとかすれば?」と悪気もなく感じてしまい、弱者のために見返りなく働くことになーんか抵抗を感じてしまうのです。

これはまあ、ごくごく普通の心の動きですよ。悪い人なのではない。「戦って勝って得るモード」の人はそう簡単にスイッチを切り変えられないだけ。メルセデスにとっては「戦わなくていい、勝たなくていい、何も返さなくていいのよ~」というモードが自然体で、だから特別がんばるでもなくみんなのために奉仕ができるのです。

 

 「自分の払った苦痛に、労力に、別に『ふさわしいもの』が返ってこなくてもいい」と笑えることが、聖メルセデスと聖ラファエルの徳の高さです。

 

流転する運命、変わらない女

 ただし、先に述べたような「運命を受け入れる」審判の性質は、もちろん「運命と現実的・直接的に戦わない」という非現実性と表裏一体でもあります。これが、ディミトリの戦いのテーマに寄り添うメルセデスのテーマが「現実的・直接的に世の中を変えようとした」エーデルガルトのテーマと正反対であるところです。特に「エーデルガルトとメルセデス」を対比すると「女性」が抑圧とどう戦うのかの対立が見えます。

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ラミーヌの紋章姉弟とエーデルガルトは、先程も述べたように境遇がよく似ています。「理不尽な抑圧を生き残り心に深い傷を残した、同じ目にあいかねない人々を案じている人間」であり、どちらも「受け継がれてきた先天的な運命と、それに抗えなかった無力」によってひどい目にあったわけです。これはラミーヌの紋章に対応する「審判」とエーデルガルトのもつ聖セイロスの紋章に対応する「女教皇」のどちらにも含まれる、「運命や社会の差別に翻弄され苦しみ続ける『女性』なるもの」のイメージです。「審判」のカードは「永遠性」をあらわしますが、母から娘へ、性別を問わなくとも弱者である親から弱者になってゆくしかない子へ(たとえば被差別身分とか、貧困とか)永遠に受け継がれるように思える苦しみに耐えることもまた暗示します。ここにはメルセデスの母も入っているってことですね。

女性は人類の長い歴史の中で、多くの文明において「一人前の自己決定権」を制限されてきました。そういう文明における女性はメルセデスが悟るまでもなく「自分の運命を自分では操縦することができない」ように社会のしくみとして定められ、「社会の再生産(こどもを産むとか)を担う、意思をもたない資源として存在する」ことを当然とされました。フォドラでいえば、メルセデスの母やメルセデス、ハンネマンの妹などの紋章の遺伝子を持った女性、あるいはエーデルガルトのおうちである皇家じたいがそのような産む機械扱いを受けています。

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紋章の遺伝子を持った女性はその「生物的な価値の高さ」によって「大切に扱われ」、「衣食住に困らず」、「つがいの異性をあてがわれ」ます。それは庶民からは「玉の輿」「将来安泰」だと羨まれますが、よくよく見てみるとそれは貴重な家畜がいい扱いを受けているようなものです。「個人としての幸せ」とかではありません。

王室の姫君が国に望まれたのではない相手と結婚しようとするや「一般人よりずっと尊重されているのに」と非難する声がまきおこったり、女性が権利を訴えると「女は男よりちやほやされ求められるのに」という憎しみがぶつけられたりもします。しかし、「特権がある」「天性の美貌や資本で評価される」「お金をかけられている」などのことと「自由な権利が尊重されている」こととは完全に別問題であり、メルセデスのように貴族の夫人になることを望まれる紋章持ちはきらびやかな棺に入れられているようなものです。

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「紋章」のところにどんな「値打ち」を代入しても同じようなことでしょう。それは「一人の人間ドロテアではなく、"神秘の歌姫"の外面の値打ちばかり愛した貴族の男たち」問題ともつながっています。ドロテアのこのあたりの話は↓の記事でも。

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 こういう女性の抑圧にも通じる紋章社会の弊害に対して、エーデルガルトは「打ち砕かれるべきだ!」とはっきりとした行動をおこし、自他の血を流しました。メルセデスはその真逆に、流されるまま誰も傷つけず、自分に不当な圧力をかけてくる養父のことさえ「困ったものよね~(眉下げ)」ぐらいに言います。メルセデスはもう棺の中で、苦しみと後悔のあまり、置いてきてしまった小さなエミールといっしょに死んでしまって骨になっているのです。

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乾いた白い骨はもう血を流すことはないし、我を通すために誰かを傷つけることもなく、ただ天に祈るのみです。

女性差別にあらがう流れの中にも、「不当な差別に対して怒り、ときに苛烈に行動していかなければ現実は変えられず未来に苦しむ人も増えるのだ」という方向性と、「クソなことの多い世の中だけど、なんとか対処してお互いなぐさめ合って、どっこいやっていこう」という方向性とがあります。エーデルガルトは前者の代表、メルセデスは後者の代表といえるでしょう。

↑「どっこいやっていこう」系の社会派シスターフッドコミックです

 

 では、「クソなことの多い世の中だけど、なんとか対処してお互いなぐさめ合って、どっこいやっていこう」派のメルセデスは、いくじなしで気骨がなくて根本解決する気がない他人任せの愚痴だけ言いなのでしょうか?

まあ場合によってはそういうとこもあるかもしれませんけど、それだけではありません。

なぜなら、メルセデスは状況や外圧と戦って変える根性を発揮しない代わりに、流されても決して心までは侵されないというタイプの根性がめちゃくちゃ強いからです。

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先ほど述べたようにメルセデスは悲運にあって傷付いても世界を呪うダークサイドのベイダー卿になったりしません(※弟はわりとなってしまった)し、養父ということになってる金持ちの商人が有力貴族と見合いしろ!結婚しろ!そうじゃないと母親の暮らしてる修道院をキュッてしてブンかもだぞ!と圧をかけてきているのにのらりくらりとかわしてごまかして何年も引き延ばし、何をどう言ったのか家を出て従軍修道女みたいな仕事をしはじめました。つまり、メルセデスはドンパチ戦ってないだけで静か~~に自分を貫き通してるんですよね。非暴力・非服従

養父の身になって考えてみると(なんで顔なしモブ悪人の身になって考えにゃならんのだ……)資源や家畜への投資みたいなつもりで買った紋章持ちの無力そうな若い女のはずなのに、従順そうでいてぜんぜん言うこと聞かないわ、「ええ~」「そうね~」とか言いながら適当にごまかすわ、うっかり死んだらこれまでの投資がパァな戦場にまで平気な顔でノホホンと出かけていくわで、メチャクチャやっかいな理解しがたい存在ですよ。「貴族と縁戚になるためにメルセデスを金で買った商人の養父」とは「審判」のアルカナで魂が解放されていく「世俗での利益や栄達の棺」そのものであり、メルセデスにとってはそんなものはど~~でもいいのです。

メルセデスの養父も「やり手」ではあるのでしょう。しかし、人生を自分の手腕とカネとチカラと戦略で泳ぐ自信に満ちた人間ほどに、メルセデスの損得勘定で動かないっぷり理解不能で空恐ろしくさえ感じられます。メルセデスの養父、大変な女に手を出しちまったよな(エーギル家と結婚するときさえ絶縁されちゃうし……)

 

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 メルセデスや母や弟がひどいめにあったのは、それから完全に逃げ出すことができず別の手に捕まってしまうのは、弟を置いてきてしまった地獄の苦しみは、メルセデスの何かの罪の罰でしょうか? わかりやすい因果応報で世界ができているというのなら、ひどいめにあっているヨブさんは必ず悪いことをしたのでしょうか? そんなことは決してないはずです。だから、苦難に遭っても本当はもがく必要などなく、静かにまっすぐに自分の道を歩めばいいのかもしれません

「人生は変えられるはず」という思い込みは「変わらない人生と自分を許せない」という苦しみと表裏一体であり、仏教でも悪しき執着のひとつとして扱われます。「人生を操ってやろう」という執着を手放し、やるだけやった運命に対する謙虚さをもつことが、メルセデスなりの自分の運命との戦いです。

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ウェイト版の「審判」のカードでは、復活する人々をおさめていたたくさんの棺が何もない海のど真ん中にプカプカと浮いています。メルセデスの、われわれの人生は大海に小舟のように浮かんだ棺のようなものです。船のような推進力もオールもなく、無理に自力で進もうともがけば転覆するばかりな部分もある。棺とよみがえる人々はセピア色をしていて、もはや世俗的な肉体ではないことをあらわしています。ただ、海と空だけが静かに、どうすることもできない青。彩度を抑えたメルセデスの色合いの中の、深い青の瞳のように。(だからメルセデスの見た目のデザインはかなり「審判」のカード的な印象を与えます)

人事を尽くし、もはや世界の中の自分たちの小ささをゆるし、流される先が指定できないこともゆるすという心だけが、最後の「救い」となるのです。

 

永遠のもの

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 メルセデスは「怪談が好き」「幽霊に会ってみたい」という珍しい性格をしており、彼女と「死」あるいは「死しても残る何か」のつながりの深さを感じさせます。メルセデスの「審判」らしさは「死んで白骨なので腐ることなく永遠」という、小麦粉や油脂などのお菓子材料ともつながった性質だと『FE風花雪月と中世の食』のシリーズでも述べました。

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「永遠」とは難しい概念です。少なくとも物質が永遠にそのままの状態を続けることは不可能で、この世のすべては変わっていくし、死にゆきます。むしろメルセデスの「審判」はシルヴァンの「死神」と並んで王国ルートに「すべてのものは必ず死ぬよ」「先人たちもみんな死んできたよ」と伝え続ける役割を担っています。では、「永遠」は(あるとすれば)どこにあるのでしょうか?

シルヴァンの「死神」の場合、「永遠」というより「死の運命が次の命に引き継がれ更新されていくこと」をあらわしていました。

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一方、メルセデスを見ていると、「審判」が示す「永遠」とは、人の心の中にあるもの……、しかも、「残された人」の中にあるもの、のようです。

 

VSドゥドゥーくん

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 ドゥドゥーとメルセデスの支援会話では、「ダスカーの文化や神話をドゥドゥーが教える」「マルトリッツ家に伝わるお菓子のレシピをメルセデスが教える」ということが中心となります。

ドゥドゥーはもともと物静かな性格ではありますが、あそこまで寡黙なのは「もはや滅びた、憎まれている文化の人間が、自分の話をしても無益だ」と判断しているからでもあります。しかしメルセデスは「個人的な恨みなんて何もない」「家や国が本当に滅びるのは、それが人に忘れられたときだと思う」と言うのです。

メルセデスはドゥドゥーとの支援会話でもしょっぱなから女神に祈っているように女神を信仰することたいへん篤いですが、異教の神と距離をおくどころかダスカーの信仰に興味しんしんです。もともとセイロス教は異教徒に寛容なんですけどね。

「審判」のアルカナは強い宗教性を示します。そして、人間の共同体にみられるじつに多様な「宗教」というものには、ほぼ例外なく入っている要素があります。それは、葬送の儀礼……すなわち、死んだ人に生きている人がどうやってサヨナラし、なんと語り継ぐかということです。

葬送や弔い、祖霊祭祀の行為というのは、死んだ人の魂のためのものでもありますけど、生きていて残された人や、これから死にゆく人が、死んだ人の思い出を正しく心の中にしまい、そのことで安らぎを得るためのものです。死んだ人や、家や、国や文化が忘れられてしまうのは、それ自体が悲しいことである以上に、「死んだら、勢いが衰えてオワコンになったら、誰も覚えていてくれなくてこの世からすっかり消えてしまうのだ」という世の中の流れが悲しくむなしいのです。昨今のソシャゲも打ち切りになってもちゃんとアーカイブとか残ってほしいよなマジで……。

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この世には、確かな実体をもち栄華を誇っているものだけが「ある」のではありません。なんの力も持たず、利益にもならず、誰かの心の中にしかなくても「ある」ものを信じられるなら、人は最終的に死んで無に還るしかない人生のむなしさを受け入れることができます。そこに、心の永遠があるのです。

 

VSイグナーツくん

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 イグナーツ坊ちゃんはヒルダとの支援会話などでも「周りを過剰に気にしている」ところが指摘されています。メルセデスの「審判」は「世俗の枷を気にしない」ので、イグナーツのその性質がより浮き彫りになってきます。イグナーツが自由になれないでいた「世俗の枷」とは、「自分は社会からずれていないか?」「親の希望通り生きなければいけないのでは?」「自分の才能では成功できないのでは?」という、まとめるとドロップアウトすることへの恐れです。

メルセデスはというと、逆に「養父の意向に流されているようでかわしまくり」「不自由のない貴族の夫人になれと言われても世俗を捨てた修道女になりたがる」とまあ、同じ流され系でもどえらい違いでなかなかロックであり、イグナーツはメルセデスを尊敬します。

その違いがどこからきていたのかというと、現実がどうであれ、心が夢を捨てなければどっこいやっていける」というメルセデスの信条からでした。

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ままならない現実を変えるために努力することはすばらしいことです。しかし、たとえ変えられない現実に生きるはめになったとしても、夢を見る事をやめなくていいし、現実とかけはなれた美しいものを見上げることは悪い逃避ではない

メルセデスがつらいときに見上げた「神を描いた天井画」というのは、現実のキリスト教の教会にも多く存在します。教会の天井画とは、地にある民衆にまるで天の国がそこに広がっているように見せ、救われた気持ちになってもらうための一種の「だまし絵」としてつくられているものです。世界遺産・奥州平泉など日本の浄土信仰の寺院も「浄土体験テーマパーク」としてつくられています。「神様」とは、「天の国」の永遠とはつきつめるとそういうことのために思い描かれるのではないでしょうか? イグナーツが志す、武力でも権力でもないし食べられるものでもない、「ただただ美しく、心を豊かにする芸術」というものもまた……。

イグナーツの支えとなったメルセデスの姿は、女神の似姿としてイグナーツの描く絵に残り、人の心に永遠の心の自由を伝えていくのです。

 

 

生まれ変わって、また会えたなら

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 メルセデスとイエリッツァは敵対戦闘することになってもいがみ合うことなく、静かに、「他の人にあなたは殺させないからね」「来世はきっと仲良く暮らそうね」という感じで、いたわり合うように話します。いっしょにいられるならいられるでうれしいけれど、お互いがどの勢力にいてどういう立場かなど、姉弟には関係のないことだからです。

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紅花ルートでの支援会話では、メルセデスは命を投げ出して弟を抱きしめます。それまで愛する姉をいつ傷つけるか知れない自分に緊張していたイエリッツァは、「殺されたってかまわない」とすべてを捨てて愛を示すメルセデスを見て、安らいだ笑みを見せます。

愛ににせものもほんものもないですけど、そういう愛こそが黒い鎧の中のエミールくんを癒すものだったのです。

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 イエリッツァは、メルセデスとのペアエンドでのみ罪を償うために自ら獄中の囚人となります。家族の命も、傷つけられた過去の理不尽も、人生の大きな傷は何ももとには戻らないけれど、そうして罪を償い「みそぎ」「ケジメ」をしてきたエミールがメルセデスのもとに帰ってきたとき、ふたりはもうおばちゃんとおじちゃんになっていたことでしょう。

みずみずしい若さと青春はもはやなく、失った時間は還らず、華やかな栄達も、生産性もないかもしれない。そんな後まで会えないなんて悲しいよ~ってみんな思うかもしれない。それでもふたりには、「ただ愛する家族といられる」という、それだけがずっと得がたかった幸せが、やっと訪れます。

…生きるという事は 男と女という事は!
ただ女の腹に種を付け 子孫を残し家の血を繋いでいく事ではありますまい!

――よしながふみ 大奥 6 (ジェッツコミックス)右衛門丞

「持っているもの」である紋章に振り回され離れ離れになったふたりは、時に洗われ、しらじらとした骨のように、何も持たない漂白されたただのおばさんとおじさんになれた日に、

あるいは、また新しい人生でただのきょうだいとして生まれ変われたときに、手をつないでゆっくりと歩き出すでしょう。

 

 

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