湖底より愛とかこめて

ときおり転がります

治世活人、剣禅一如―遙か7宗矩ルート感想

本稿では『遙かなる時空の中で7』の「柳生宗矩」個人ルートについて感想を言ったり考察したり八葉「地の玄武」の解釈をみたりしていきます。

 

遙かなる時空の中で7

遙かなる時空の中で7

  • 発売日: 2020/06/18
  • メディア: Video Game
 

 

 未プレイの方向けに『遙か7』をオススメする記事はこちら

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 『遙か』シリーズの中での『遙か7』のテーマ位置づけについてはこちら

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 『遙か』シリーズ全体で「八葉」に共通する核となるイメージについてはこちら

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 3周目は宗矩にしました。本当はとっておきたかったんですけど、このへんから全部明らかに好きなので全員とっておきたくて、しょうがないからラスボスがカピタン→平島ときましたんでターラのことをよく知ってテーマを三方から固めておこうとおもって宗矩です。

自分、Fate/Grand Orderの「柳生宗矩」様好きなんですよォ~~~~。

兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事 (岩波文庫)

兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事 (岩波文庫)

  • 作者:柳生 宗矩
  • 発売日: 2003/04/16
  • メディア: 文庫
 

そのほかにも柳生石舟斎・柳生宗矩・柳生十兵衛の三代は「宮本武蔵」並に後世の兵法やフィクションに語られ、「兵法」「江戸時代の武家哲学」の概念のような存在です。『遙か7』では独自のテーマをもちつつもそこらへんにうまく調和して一本の話として成り立っており、ヤバい。『遙か7』みんなそうなんですけど3人ぶんくらいのシナリオテーマを一人にぶっこんで圧縮してあるで。

 

 

宗矩のキャラクターデザイン

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 宗矩のデザインは武蔵と同じく、「柳生宗矩」と聞いて一般に想像される像に比べて「おっさんじゃない」ということは明らかです。そんなこと言ったら武将や政治家ってみんなおっさん状態が最盛期なので早死にしたやつ以外全員おっさんになっちゃうんですけど、特に「柳生宗矩」はわりと武将を青年~お父さんくらいの状態で描くことが多い同コーエーテクモゲームス『戦国無双』でもノソン…としたおじさんキャラとして描かれているなどおっさんのイメージが強いです。(↓左のおじさんです)

戦国無双 Chronicle 2nd クリーナークロス 藤堂高虎&井伊直虎&柳生宗矩

戦国無双 Chronicle 2nd クリーナークロス 藤堂高虎&井伊直虎&柳生宗矩

  • 発売日: 2013/05/30
  • メディア: おもちゃ&ホビー
 

これは同じく各メディアでおじさん~じいさんキャラとして描かれがちなギリワン(松永久秀)などと同じく、長生きかつ名をあげ活躍した年齢がけっこう晩年に偏ってる、そして老獪な戦術家としてのイメージによるものです。「柳生宗矩」は『遙か7』作中で描かれたように徳川家康に仕えたのちその跡取り秀忠に仕え、作中で描かれてないそれ以降も三代将軍家光の剣術指南役として仕えます。このへんがFGOの但馬守様です。

一般には家光に剣術指南して大名上がりした頃がいちばん有名なので、おっさんの印象が強いのですね。宗矩はそのくらい長生きをし、剣と禅の道を究めて静かな大悟へいたる人物だというのが、史実や逸話やフィクションからの前提イメージです。玄武の示す年代感は「隠居の老爺」、なかでも地の玄武は「達人、先達」をあらわすので、まず地の玄武に「柳生宗矩」を持ってきたのはすごくふさわしい配役なんです。

そしてこれも武蔵と同じく、関ヶ原の戦いくらいのときには宗矩もまだ若者でした。ふつうに二十代後半、アラサーの年齢だったはずで、『遙か7』の宗矩の年代はおよそ合っています。

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 史実の意匠からのモチーフは盾に描かれた家紋です。鎖がかかっていますが、これは柳生氏のユニーク家紋「地楡(吾亦紅)に雀」ですね。地楡(われもこう)は止血などの薬効のある植物として珍重され、キーアイテム「柳生の塗り薬」を連想させます。

柳生氏が大和の国(奈良県)北の山里の一族で、宗矩が幼少のころ太閤検地によって隠し田の罪にあたり所領を没収され没落したというのは史実の記録通りです。もちろん柳生の山里に住んでいた人たちが「鬼の一族の末裔」であったというのは今作のフィクションということになりますが、「戸隠山の鬼」伝説など現実で鬼の伝説が残っているプレイスが鬼の里として描かれ、『遙か3』で「鞍馬山の天狗」が鬼の一族リズヴァーンと処理されたように、柳生にも少しそういうゆかりがあります。

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宗矩の父・「柳生石舟斎」は若いころ天狗相手に剣術修業をした(そんで巨石を一刀両断した)という伝説があるんですよね。これがターラの使う鬼の「天狗の呪法」にもつながってるのかな。なんにせよ「山里」に住む人々は平野部の農民や市民からみるとマイノリティであり、それはときに差別につながってきました。

 

 宗矩のデザインの独自性は「呪文様」「鎖」です。

メッセージウィンドウの地模様でもある呪文様は呪詛を受けた者の肌に浮かび上がるようなまがまがしい気配のデザインで「鬼の宿命」を思わせつつ、また先述の『遙か3』のリズ先生のマスクに書かれていた「傀」の文字のフォントと似たデザインでもあります。また、主人公を包み守る黒いマントも地の玄武らしい、宗矩とリズ先生に共通した服飾キーポイントです。

さらに宗矩のシュッとした体に沿った黒衣「美剣士」とキャラ説明に書かれているような硬質でありながらちょっと可愛らしく色っぽいほどの美貌はも~~~~~明らかに『遙か4』の葛城忍人を重ねざるを得ません。(↓左上です)

宗矩は性格的にも地の玄武の中ではこの二人の個性の中間くらいに位置して作られています。このあたりのリフレインについてはまたシナリオの感想のほうで詳しく述べますね。

「鎖」も地の玄武的な象徴アイテムです。今までのシリーズでは『遙か3』の敦盛(天の玄武)に鎖(と手枷)がデザインされていました。敦盛における鎖が罪と罰と獣性の抑制であったように、鎖は重く沈む緊縛、罪と罰、抑制を意味します。天の玄武だったら水の底に沈んでいくような重い落ち込みと嘆き、地の玄武だったらそれは「心の枷」をあらわしているでしょう。「心の枷」は宗矩自身が自罰しているということでもあり、戒める鎖が固すぎてやわらかな心が蕾に閉ざされているということでもあります。

 

宗矩のシナリオ描写

 宗矩のストーリーの柱は「求め合う心のぬくもり」「被差別民の融和問題」、そして「神的な運命を断ち切る」という三本です。三本もあんのかよ!!しかも全部でかいテーマじゃん!!

最後の「神的な運命を断ち切る」ことという柱は、さきほどキャラクターデザインが似ていてリフレインを思わせるとのべた『遙か3』のリズヴァーンと『遙か4』の忍人と関りがあります。同じ地の玄武なのでデザインが似ているのはふつうのことなのですが、この二人は地玄武の中でも特に「神的な、変えがたい運命」について描き、何より多くのプレイヤーたちを長い間悶絶させてきた特別なキャラクターだ……ともいえます。なかでも物議をかもしまくってきた忍人の物語の「再話」、物議の果てにある2020年現在の令和のアンサーを、宗矩ルートは誠実丁寧に描き出しました。だからこの記事はけっこう忍人の話を含みます。

まあ「これ、〇〇の再話じゃん!!(´;ω;`)」と読み取るのは見てる側の勝手でなんでも見出したらいいんですけど(たとえば今ジブリ映画の再公開によって「アシタカとサンはナウシカの再話だったんだなぁ」とかよく見出されてるみたいな)、「3」と「4」についての再話ともうひとつの答えが「7」で示されるとしたらそれはアツいことじゃないでしょうか?

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「被差別民の融和問題」については現在アメリカが黒人差別撤廃運動に揺れていて、日本だって移民労働者や技能留学生の扱いがやばく、異質なものへの恐れや残酷な差別っていう意味でなんにも他人事ではないことが突き付けられている現代の時流では重要なテーマです。「いかに被差別民は穏やかに、ふつうに暮らしていけるようにできるか?」「そのとき、どんな苦しみがあるのか?」ということの一端が丁寧に描かれています。こうやってさりげなく政治的な見識っていうか考えを広め深めてくれるのもネオロマンスのすばらしさですよね。「踏みつけられるマイノリティ」をあらわす地の朱雀・大和と対になって差別問題を描いているのも立体的な視点です。

そしてそういう歴史的・文脈的な物語テーマの燃えだけでなく、宗矩は地の玄武共通の「心の花の蕾がひらく」という萌え……固く閉ざされていた蕾がほころぶように、カタブツのラブが甘く匂いたつセクシーがいつもの地の玄武にもまして盛り盛りになっています。乙女ゲーの甘いシーンはやっぱり恥ずかしいので(なんでやってるんだ?)何回も照れてそのへん走り回ってしまいました。なんか……安元洋貴さんって……ほんとすごいな……ネオロマンスを愛してくださってありがとうございます……。

『遙か』シリーズでは頼久、頼忠、リズ先生、敦盛、銀、忍人、ナーサティヤ、瞬、桜智、ダリウスのシナリオが好きな方にはいいなと思います。こう見てみると天の青龍寄りでもあるみたいな感じですね。ダリウスに関しては宗矩とターラ二人に関してです。特に忍人のことでいろいろ考えたことのある方には、一度やっていただけたらなと思います。他ネオロマでいうと『アンジェリーク』のクラヴィスやアリオス、『金色のコルダ』の月森、律、ハルが好きな方に。宗矩のシナリオに燃えたかたには『パレドゥレーヌ』のディトリッシュやオーロフ、ヌシャトーのストーリーもおすすめです。

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オーガ・ライヴズ・マター

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 さきほど宗矩のキャラデザと史実ネタを対照させたとおり、柳生の庄は事実山里です。「鬼の末裔が隠れ住んでいる」「里の血筋の者は常人よりちょっと身体能力が高い」というのは『遙か7』の設定での創作でしたが、「山里の民」というものがマイノリティであり、しばしば差別にさらされてきたということ自体は日本の歴史上実際にあったことであり、土地によっては今でも続いていることでもあります。いわゆる「被差別部落」「同和問題」というのもそのひとつだし、日本の山地ジプシー「サンカ」の民などは『遙か』シリーズの「鬼」の伝承と通じるものがあります。

日本古来の鬼退治伝説などでは、強くて悪逆な鬼を英雄が征伐しますが、それは実際には「容姿や文化習慣が違うコミュニティを攻め滅ぼしてしまった」といういきさつだったのかもしれず、確かめるすべはありません。「鬼ヶ島」が柳生の庄や信濃の鬼の隠れ里のようなものでなかったとははっきりといえないのです。

宗矩のストーリーでは、「自分たち柳生の里の者たちは、人間にとけこむよう何代にもわたって努力を重ねてきた」ということが何度となく言われます。これは、本当にすごいことです。『遙か無印』から鬼と人間の対立はずっと描かれてきました。まして直前の『遙か6』では鬼の隠れ里が人間の権力に利用され迫害され必死に平穏を守ろうとしているところを見せられたのです。『遙か3』のリズ先生は人間の協力者としてフツーにしていましたが、それは状況が状況なのと彼が超然として一人でいるからです。宗矩もまた周りと個人的な関係を深めようとしません。マイノリティは、他人とうまくやっていくいために距離を保ち、慎重に関係を築かざるを得ません。それは被差別民や外国人だけでなくセクシュアル・マイノリティなどでも同じことです。

しかし、宗矩や柳生の里のこういうあり方には、いくつかのもやもやがついてまわります。

「鬼の一族は強いのに、なぜマジョリティの人間に合わせて力を抑えなければいけないのか? 生まれ持った個性や多様性を否定するのか?」

(このことについてはハリハリさんの『遙か7』感想記事にも記述があります)

「なぜ、自分も踏みつけられたマイノリティの側である宗矩が、人間との融和のため世のために努力を払わなければならないのか?」

「この社会のほうが悪いのであって、宗矩もターラも悪くないのに争わされ、マジョリティである人間はそれをのうのうと見下ろしてるだけか?」

こういったもやもやは差別構造の解消を目指そうとするときに、マジでどこでも頻発する現象です。テストに出ますというかんじ。だからこれはすごく……政治的でデリケートな話題になります。

 

 たとえばさきほども述べた現在アメリカを中心におこっている、「ブラック・ライヴズ・マター(黒人の命は今もずっと「ノットマター(どうでもいい、たいしたことではない)」とばかりに軽んじられているが、黒人の命は「マター(たいしたこと、案件)」なのだという主張)」をスローガンとした黒人差別撤廃の活動。フランスやアメリカ、南アフリカなどいろんな肌の色、いろんな文化習慣が昔から混在していた国では、差別との戦いがそれこそ何代にもわたって戦われてきました。そういう差別の中で「名誉アーリア人」とか「名誉白人」とかいうものが登場してきます。

「名誉人種」といわれるこれらは、差別する側の制度になんから都合がよい差別されるカテゴリの人、たとえば経済的に力があって有色人種差別する政権に実益のあるアジア人とかが、「じゃあこの国の人は白人として遇するね」といわれたり、ナチスに協力した枢軸国日本の人を「名誉アーリア人」であるとして話の矛盾をなんとかしたり、みたいなことです。これは人種や国籍全体に都合適用されることもあれば、「役に立つ・懇意な個人」に適用されることもあります。近年では「積極的に男尊女卑社会を応援することで、男社会の中にイスを得ている女性」を「名誉男性」と呼ぶなど、被差別側なのに差別側の体制を利するように動く人、たとえていうなら「牧羊犬」「肉屋を支持する豚」のようなことを「名誉なんとか」といって揶揄したりします。

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ターラから見た宗矩はこれでいえば「名誉人間」とでも呼ぶべきもので、自分と同じ先祖返りの鬼の特徴をもつのに数で勝る人間に認めてもらおうとして自分を追う裏切り者の犬、というわけです。先ほどの「名誉なんとか」「肉屋を支持する豚」の類義語に「奴隷の鎖自慢」というものもあります。宗矩のデザインに特徴的な「鎖」は彼の心を戒めるものであるだけでなく、彼の強い力を封じている象さんの鉄球つき鎖のようなイメージでもあります。宗矩はいつでもくびり殺せる人間の支配者に里を人質に取られて仕え、そのうちに餌に手なずけられて牙を失い恩義さえ感じるようになってしまった、滑稽で憐れな犬だとターラは思っています。

 

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 差別構造のある社会との戦い方は一方向ではありません。「社会で勝つ」か、「社会に勝つ」か、という見方があります(フォロワーさんが言ったのを聞いたように思うのですが元発言が見当たりません。ともかく当方が思いついたことではありません)。このふたつはもとは似たことを目指していたようにも見えるのにすごく対立することになります。

たとえばすごく法を蹴倒しまくるブラック企業にいたとしたら、「上司にゴマをすり犯罪の片棒をかついだとしてもこの企業で上に行ってこの待遇を抜け出したるーッ」というのが「社会勝つ」ということ、「こんなあり方の会社は間違っている、交渉したり告発したりするし、ムチャな命令になんて従ってやらないぜ!」というのが「社会勝つ」ということをめざしているっていえます。「で」の人にしたら「に」の人が会社を告発したりしたら邪魔極まりないですし、「に」の人は「で」の人は同じことに苦しんでるはずなのに敵の味方をするクソヤローに思えます。

こう言うと「社会に勝つ」のほうがちゃんと戦ってるように見えますが、これも過激になると「会社を爆破」とかになってしまい、それがターラです。それに比べると宗矩は「社会で勝つ」のほうにいて、ふたりは対立します。そして精神面においては逆に、ターラは「敵にやられたことをやり返して何が悪い」と自分たちを迫害してきた人間と同じ土俵に乗ってしまっています。ターラは幾度となく宗矩に「私の味方になれ、ならないというのなら殺せばいい」と言ってきます。ターラには「敵は攻撃し黙らせる」「味方は協力・利用する」という選択肢しかなく、しかし宗矩は家康の導きによって世の中をとらえる尺度を転換しました。「敵も味方もなく万民が善く暮らせる世に変える」と。

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こういう対立は、いつも被差別側を分断し苦しめます。ターラは人種差別に耐えかねてテロをおこす被差別者でもあるし、長きにわたる女性差別にブチキレた声をあげる荒ぶるフェミニズムだったり、そのほかいろんな被差別者の怨嗟と怒りのパワーの象徴です。ずっと踏みつけにされてきた被差別側が「もう我慢できん!!踏んできたやつら全員ぶっ〇すぞ!!」と叫んで暴れたとして、悪いのはその人でしょうか? そこで差別側に与している者が「まあまあ、ぶっ〇すとか言うのはやめて落ち着いて話し合おうよ」などとノホホン言ってしまうのは強者のトーンポリシング(発言の背景や意味ではなく、言葉や口調にケチをつけて封殺すること)であり、ことによるとそっちのほうが邪悪なことです。だから立ち位置が「被差別側の中でも差別側寄り」のような宗矩はターラのあり方を全否定したくなくてモゴモゴになるし、主人公などは完全に人間で龍神の神子という祝福されたお役目の「社会的強者」なのだから、その「清らかでいられる強者の口」から出るきれいごとはなおさら同じ「少女」であるターラを苛立たせます。

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たぶん、差別側の社会の光の部分である「主人公の浄化」や「社会との融和」と、被差別側の中でも闇中の闇にいるターラとでは、互いに手をつなぐことはできません。その間には差別側と被差別側のあいだを善の心で結ぶ宗矩が必要です。しかし「あいだ」にいる宗矩は苦しみから逃避するために「名誉人間」「牧羊犬」になったのではありません。本当は穏やかな暮らしを望んでいるのに、ターラの助けになってやれず責められることに苦しみ、家康に隠し事をすることに苦しみ、神子を守りきれぬことに苦しみ、冬に弱って死ぬ者も出るほどの里の者の暮らしを憂えて苦しみ、どっちを向いても板挟みに苦しいことに耐えて、「重き荷を負いて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」(徳川家康の遺訓)とばかりに歩いていきます。

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差別はそれだけでとほうもない分断と暴力と苦しみをもたらしますが、差別を解消しようと戦う偉大な過程にも、これまでの歴史でずっとずっと、ターラと宗矩の戦いのような被差別側に強いられた対立、そして宗矩の歩みのような差別側と被差別側を融和させるためにひたすら耐えて歩んだ人が存在してきたはずです。宗矩の歩みを見届けたわれわれは、その無数のやりきれない苦しみと努力に恥じぬよう考えて生きていかなければなりません。

最近映画館公開されている先述の『もののけ姫』なども室町時代後期の「女性や病人」を代表するエボシ御前、「渡来系マイノリティの隠密」を代表するジコ坊、「人間に搾取される山の自然」を代表するモロの君たちなど宗矩やターラのようなマイノリティが、マジョリティである都の人間たちの利害の影響で争い合うさまが描かれています。そしてアシタカはターラの罪業を斬った宗矩のように、理不尽な呪いを背負わされた不幸の身でありながら、危険をかえりみず「人の手で返したい」とシシ神の首を運んでいくのです。

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隠した心、止まった時間

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 宗矩の悲しそうに胸をおさえる姿勢は、何やら叱られた子供のように突然幼げで印象的です。また、ターラも一見妖艶な成熟した女のように見えるのに、その表情や話し方をよくみると「生意気で才走った少女」のようです。これは『遙か無印』『遙か2』に登場する妖艶な女鬼シリンが実は両親が年齢がいってから授かった一人っ子でたいそう甘やかされて育った、幼女的な全能感をもっている女性だったことを連想させます。事実、宗矩の話を聞くにかつてターラは同世代の子供が誰もかなわない女ガキ大将のような少女だったということです。

主人公が夢に見た宗矩の心象は「逃げるターラを見逃した夜」のことでした。少女ターラの声は大人のターラと同じで、しかし話し方は絶望し追いつめられた獣のような少女のものでした。絶対に復讐してやる、やつらの喉笛を噛み切ってやる、という少女の怒りは美しく輝くようで、無力な宗矩はターラに草履を渡すくらいのことしかできませんでした。「いらないわ。私の足には合わないもの」とターラは言いました。きっとターラは発育がよくて、同年代の子供のものはサイズが合わなくてすぐ脱げてしまう――ターラの才と力では、人間に融和していこうとする柳生の里はきゅうくつで暮らしづらい――と、思っていたということでしょう。この夜のことは宗矩の心にずっと鮮明に残ってきました。

今作には「時空のかけら」を通して主人公が土地に刻まれた記憶を読み取ることがありますが、この回想は宗矩の心から伝わってきたものです。なのに時空のかけらと同じくらいはっきりとしていてまとまりがありました。この鮮明さは実はたいへんなこととも読めます。なぜなら、人間の正常な心(脳)のはたらきは情報をそのまま記憶しておくよりもむしろ適切に忘却するように機能するからです。「思い出」というのは動画記録のようにそのまま残るのではなく、だんだん細部の情報が削ぎ落とされて「整理」された単純な絵のようになってデータ容量を減らしていくもので、記憶は時間によって都合よく整理されたり書きかえられたりするのが正しいんですね。「脳が書きかえを拒む記憶」があるとしたら、そのことを「トラウマ」や「PTSD」、ものすごい簡単にいうところの「心の傷」というのです。

人間は人生を生きるなかで「変化していく」ようにできています。宗矩やターラのように少年少女期から青年期の人間であればなおさらです。しかしトラウマはその部分で人を「釘付け」にし、変化成長を許しません。時間が止まるのです。強いトラウマをもつ人は心がその話題にいってしまうと精神年齢が退行することもあります。宗矩は心を閉ざし「影の化身のような男」となることでとりま傷を乗り切りましたが、その心には自分の無力を悲しむしかない少年がずっと大人になれずに住んでいます。そしてターラもまた、「合わない小さな草履」をずっと懐に抱えて、手負いの獣のような少女のままでいます。

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宗矩は家康に天下国家の治世の話をされて「どうして内府様は俺にあんな話をしたのだろう」と例の子供のようなシュンとした戸惑い顔をしました。家康の大きな話はやがて、宗矩を「差別する側-される側」の軸から解放しただけでなく、「何もできなかった無力な子供」の時間から前に進ませました。本当は、時間はずっと流れており、家康の言葉もずっと宗矩の近くにありました。長い時間と修練、そして主人公がそばにあることによって、やっと治世の精神は宗矩の中でつぼみをほころばせるに至ったのです。

花がひらくときは来ました。

 

「生太刀」活人剣

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 『遙か無印』『遙か2』のアクラム、『遙か6』のダリウスの身に着ける「鬼の頭領の仮面」と今作のターラが使う「鉄輪」は似たものといえるでしょう。ダリウスは仮面をつけると力が倍増するが歴代の鬼の一族の怨念に意識を支配されそうになるといいました。ターラは過去の傷に縛られ続けている怨の気ゆえに鉄輪と同調し、その報いとして怨霊と同化してしまいました。

宗矩にしてもターラにしても、「過去の傷に縛られる」ということは、現在そばにいる人たちのことが見えず孤独になるということです。ターラは「私はひとりぼっち」と言いながら人の手を跳ね除け続けてきました。これは大和にも通じます。それもまた、心を守ることです。過去の傷を軽んじて誰かの手をとったら、傷ついていた当時の自分を殺すことになるように思えるからです。その葛藤を乗りこえて、宗矩は主人公と愛し合いました。

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神子の浄化ではなく、同族の宗矩に罪業を斬られることでターラは「もうひとりじゃないのね…」と言って天に昇り、ターラを過去の傷から解放したことは宗矩にとっても解放でした。「断ち切る」ことで傷ついた子供だった自分を浄化し、やっと自立した大人の人間になることができる、というのは「断つ」「人間」をあらわす『遙か7』らしいテーマです。

 

 ターラと宗矩の孤独で過酷な戦いと、心を開き魂を浄化するというテーマは、『遙か4』の忍人で描かれたことに通じます。ここから、宗矩の物語の結末までを忍人と対応させてみていく記述が増えるので、忍人に興味ないとか逆に忍人ネタバレを踏みたくないとかの人は注意してください。

忍人の使うチート武器「破魂刀」は「魂を砕き、うなれ漆黒の刃」という口上で放たれる威力の高いものでした。しかし実は砕いてるのは敵の魂じゃなく忍人自身の魂で、忍人はそれを知りながら自分の寿命が削れることを省みずにホイホイ使って戦っていたのです(システム上も使うとHPが減ります)。彼のルートでは主人公と大切に思い合うようになり、そのままじゃ死ぬから破魂刀使うのヤメれ!と言われて一度は封印、それでも彼女を守るためどうしても使わなければ!という状況で破魂刀は「生太刀(いくたち、生命力を司る生きるための剣)」という真の姿に変化します。

「自分の心や命を省みず、その身を武器として戦う」という点は忍人と宗矩、ターラにも共通していることです。ターラの鉄輪、ダリウスの仮面は忍人にとっての破魂刀と似ており、使えば使うほど破壊の力にむしばまれてしまいます。忍人は国のため戦えるなら、ターラは復讐できるなら自分の命は捨ててもよく、その先のことを見ませんでした。善なることに向かっているとはいえ前半の宗矩も大差はなく、父や里の者たちから心配されています。

ここで、「鬼が力を制限して生きることは、個性や多様性をおさえつけることなのではないか?」という件のモヤモヤポイントについても考えてみます。『遙か4』には鬼以外の異民族・有翼人である「日向の民」サザキが登場します。彼のルートにはまさしく、差別の中で主人公といっしょに生きていくために彼の「翼を切る」か否かというイベントが発生します。翼を切ってしまうと自由で溌剌としていたサザキは衰弱していってしまいます。このように個性や能力は人の心や命と不可分のものであり、無理矢理失わせるのは手足をもぎ血を流させるようなものだと『遙か』シリーズは洞察しています。

宗矩やターラの先祖返りした鬼の異能も、そういうものなのでしょうか? 象徴的な場面があります。ターラに主人公が「人を殺すことになんて協力はできないよ、人としてだめだと思う」と言うと、ターラが「人ならそうかもしれないわね。でも私は人ではなくて鬼だもの」と言うのです。

ここには「言葉の意味の混乱」があえて隠されています。「鬼」という言葉には事実複数の意味があります。「ターラは人間じゃなくて(宗矩と同じ、柳生の里生まれの)鬼だ」ということは「人種」「民族」の問題であり、「私はヤマトンチュ(本土の民族)ではなくシマンチュ(沖縄の民族)」というようなレベルの話です。しかし、主人公が「人としてそれはだめだよ」と言ったことに「人じゃなく鬼だから関係ない」と答えるなら、そこで言われている「人ではない、鬼」の意味は「人の倫理を外れた、非道の暴虐者」ということになるのです。ターラが鬼の力を振るうことは、彼女の意識のうえでも倫理を吹っ飛ばしたことだということです。

宗矩もターラのように先祖返りの鬼の強い力を持っていますが、その力を発揮したとき「以前にこの姿になったのはずいぶんと前」だと言いました。当然宗矩は人間に溶け込んでいけるよう力を抑えている側面がありますが、「なくても普通に生きていける力」だということは間違いありません。鬼の力が必要となるのは、どれも「暴力」が求められるときです。

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「暴力」を求めることは、単純に良い悪いを言えません。力から何かを守るためにそれをしのぐ力が必要なことはありますし、宗矩も神子のために鬼の力を使っています。しかし、ターラの家が志向していたような力は「弱い相手を黙らせ、支配する」ためのものです。ターラやその一家は「なぜ弱くて愚かな人間どもに好き勝手させていなければならないのか? 思い知らせてやるべき」として鬼の「個性」を追求していました。

ターラが気高く美しく、同世代の子供の中で際立って輝いていたこととともに、この「暴力の魅力的でカッコいい側面」のことを心に刻む必要があります。ターラの強さと気高さ、愚か者の維持する世界を壊してすべてを手に入れてやるという野心の輝きは『銀河英雄伝説』のヒーロー「金髪の孺子(こぞう)」ラインハルト様みたいなものです。「誰より強く気高くなって、馬鹿どもを黙らせる」ことを、われわれはカッコいいと思ってしまうのです(こういう心が「ターラルート」とも呼べる大和のイベントでも描かれています)。

宗矩と柳生の里は、人間たちの社会の中での自分たちの多様さを殺したいのではありません。柳生の里が人と融和するように生きてきた忍耐を誇らしげに語る宗矩は「神がすべてを決める時代はとうに過ぎた」と言います。長政と同じく、宗矩は一人一人の小さな人間の力と意思を尊重し、絶大な力がそれを覆って沈黙させることを拒みます。「先天的な力の強さによって相手を黙らせることができる」という幼児的な暴力の誘惑に、柳生の里と宗矩は辛抱強く耐えてきたのです。とても難しく、目立たない、終わりのない戦いです。宗矩が「抑えている力」はなにも鬼の一族の具体的で固有な個性ではなく、われわれ皆にあるものではないでしょうか?

 

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 先述の『遙か4』の忍人は終盤になって、ただ相手を沈黙させ戦いの中で死ぬために剣を振るうのではなく、「俺の王である君が生きる未来のために」、生き、生かすために剣を振るう道を見出しました。それによって黒い破魂刀は黄金に輝く生太刀に変わり、使ってもHP消費しなくなりました。宗矩が捕縛されたとき自分の身への無頓着さが痛々しかったように、「身を捨てて戦う」というのもまた視野の狭さであり、未来を見なければ命を削るだけです。剣は、誰かのための戦いは、新しい未来をひらき、そしてそこへ自分も他人も、敵でさえも皆で行くために振るわれるものであるべきです。

柳生宗矩の剣の道は「無刀取り」「活人剣」として有名です。それはまさしく「力で殺して黙らせるためではない」生太刀の再話のすがたでしょう。

けっして、自分や他人を排除するための剣ではなく。

 

迷い呪いを断つ刀

 

 『遙か3』の地の玄武リズ先生と宗矩には「心を隠した鬼」「幼少期の無念で止まった時を動かすこと」というテーマのリフレインがありました。「生太刀」の忍人と「活人剣」の宗矩が似通った見目で同じ地の玄武であることにもリフレイン構造があります。さきほど述べた「何のために剣を振るうのか」ということ以外にも。

忍人は『遙か』シリーズの中でも特別なキャラクターです。メインキャラクターの中で唯一、主人公と死別するエンディングを迎え、その後蘇ったりする展開もないからです。

この、忍人の死別一択エンドが十年以上のあいだ『遙か』ファンに何度も議論?され、答えのない問いや理不尽だという怒りが繰り返されてきたことを、宗矩のシナリオの持っていきかたを語る前にはおさえておきたいです。それこそ「忍人 死ぬ」て検索すればたくさん戸惑いや否定や悲しみや受容のさまが出てきます。「なぜネオロマンスは忍人を蘇らせて主人公と幸せにさせてくれないのか?」「忍人が死んだことはバッドエンドなのか?」「結ばれて末永くいっしょにいることだけが幸せなのか?」「忍人の死の描写は無駄なのか?」……

……当方の考えを言えば、忍人は「死んだ」のではなく「生きた」のです。死ぬために戦っていたような忍人が、主人公の治める国の未来を守るために戦うようになり、彼女を悪い運命から守ってその中で結果的に死んだのです。「私のためとかいいからそれ以上戦うなコラ!」と言って遠ざけて療養でもさせてれば寿命は少しのびるかもしれませんが、人間はいつか死ぬんですよ。望む生き方をして死ぬか、しないで死ぬかというだけではないでしょうか。

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宗矩も同じで、自罰行為のように働くのをやめ世を治めるために働くようになったとしてもその中でやらねばならん危険なムリはあるはずです。終盤の忍人と宗矩は同じタイプの人間で、同じように生きて死ぬやつらです。「そのとき」が回ってくるのが忍人は少し早かった、それだけの話です。逆に言えば運命に阻まれ末永くいっしょに暮らさなかったとしても、彼との恋、彼の人生は実ったといえるのだと、「神/運命にあらがう」人と人との出会いの本質を示してくれたのが忍人ルートだといえます。

しかし、そのめぐりあわせの悪さに嘆いたファンも多くいたわけです。「どうして忍人はもっと自分自身を大切にしてくれなかったのか」「せめてもう少し長生きして主人公の治める国を見届けてくれたら」「忍人は破魂刀を生太刀に変えられたのに、それでも死んでしまうのか」……。そういった経緯があり、人の命を破壊せず、罪業を斬り離し鬼も人もともに生きるための活人剣という「生太刀」を会得した宗矩は、「忍人とは違う忍人の物語の結末」を、この令和の世の新しい昇華のかたちをわれわれに見せてくれるのではないかと、当方には期待が高まったのです。

 

 忍人の物語が至らないものだったとは当方はおもっていません。だから、違う物語の結末を提示するというのがどういうものなのか、ネオロマンスがこれ以上どうするつもりなのかかたずをのんで見つめました。そしてネオロマンスが予想通り繰り出してきたアンサー、物語の仕掛けにお口アングリで驚きました。

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「自分にしかできないこと、心からすべきだと思う高い信念、大事な人のために、身を捧げて遠くへ行ってしまう」という生き方を選ぶのは、リズ先生や、忍人や、高杉、村雨たち地の玄武たちの専売特許ではなかったのです。この『遙か7』で愛する人たちを守るために神に身を捧げ「行ってしまった」のは主人公のほうでした。それも、物語が終着しようというところで、宗矩に大丈夫だと笑って。リズ先生と主人公、忍人と主人公の立場が、『遙か7』では主人公と宗矩に入れ替わったかたちです。

この「入れ替わり再話」によって、大きく2つのいいことがありました。ひとつは「置いていく側の気持ちがわかりやすくなった」という点です

置いていかれた側は自分を責め、「犠牲にしてしまった」「幸せにしてやれなかった」みたいな後悔から置いていった側を責めてさえしまいがちです。しかし無理のないシナリオで自分から「私が宗矩さんたちを守る!」という気持ちになり、選択肢や行動に持っていかれると、置いていった側がいかに誇らしく静かな気持ちだったかを体感できました。

主人公は戸惑う宗矩を安心させるように、決意した顔で微笑んでみせました。忍人が今わの際に主人公の姿を幻視しながら「君を愛していた」とつぶやいた気持ちはたぶんそういうものだったのです。「自分が見込んだ、愛したあなたならきっとやれる、大丈夫だ」「あなたの心の力と、ゆく道を信じている」という気持ちで、「われわれ」はずっと忍人に、ネオロマンスに愛され信じられていたんだなと感じられる仕掛けでした。主人公が宗矩を信じたように。

 入れ替わり再話のいいところふたつめは「『置いて行かれた年月』が宗矩の不断の努力として描写され、ついに彼の剣がそれを断ち切ってくれた」という点です

宗矩のシナリオは、ラスボスを倒してからも長い長い。特に柳生の里が復興し、宗矩が家康の跡継ぎの指南役になって出世し、という地道な年月感が入っているのでさらにものすごく長く感じるように書かれています。その地道で長い時間の間宗矩は心と剣を磨き続け、「剣術には禅の精神が必要」「戦のない時代の剣や武士は剣術を通して心を磨くものになっていく」という方向づけを広め、彼の剣の道もまた世を治めていく大事な一助となりました。長い長い、亀の歩みの戦いです。

ターラの罪業を断ち切っただけでも人間技ではない精神に至った剣なのに、宗矩は「神と一体化した人を切り離す」という意味のわからん事業に挑みました。終盤で宗矩の剣に取り入れられていると武士たちがうわさしている「禅の精神」とは心を研ぎ澄まし、一見不可能に思える問いの中に真理を見出すことです。禅の言葉には「百尺竿頭(300メートルの竿の先に立って)一歩を進む」「仏に逢うては仏を殺せ、父母に逢うては父母を殺せ」「両手を打てば音がするが、片方の手には何の音があるか」というようなものがあり、常識的な答えのない無理難題のぎりぎりを考え抜くことで執着や迷いを脱し、静かで新しい境地へ至る(Fate/Grand Orderの柳生宗矩の宝具「剣術無双・剣禅一如」が言うところの「剣は生死の狭間にて大活し、禅は静思黙考のうち大悟へ至る」)のです。あるいは忍人の死についてずっと問うてきたわれわれもまた、この12年の年月、何かの修行をしてきたのかもしれない、その果てに新しい時へ進むことができるときが来たのかもしれないと、ひたむきな宗矩を見ておもわれました。

そして宗矩は、白龍の神の概念から人としての主人公を切り離し、ついに二人のハッピーエンドが結ばれました。これは宗矩の努力ひとつで叶った展開ではありません。『遙か』シリーズのナンバリングの数字の意味の記事でも触れたように、『遙か4』で忍人の死をはじめどうにもならない展開が多いのはあの神代という時代の人が神/運命/自然に対してあまりに小さく、それを離れて立つことができず抗うことしかできなかったからです。対して『遙か7』の時代テーマは神/運命/自然のへその緒を断ち切り、人が自立して歩いていけるようになることです。つまり「そういう時代」なのです。

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宗矩が柳生の里に生まれ、ターラを救えず苦しみ、人間と共存していこうと育ち、活人剣を磨き治世に尽力するようになったのは、「そういう時代」に向かってきた、宗矩の父や家康を含む先人たちの苦悩と努力の果てです。その先人たちの無数の努力が「そういう時代」を作り、ついに人が神の水辺からあがり立って歩いていく時が来たのだということを、主人公を取り戻せた宗矩の剣は示しています。「今はそういう時代なのだ」と、平成に忍人の死を悩んだわれわれ、令和の新しい物語を生きていくわれわれに重ねて示されているようにも感じました。

 

 龍神の神子のパワースポット神泉苑や、呪詛された鐘でおびき寄せられた巨椋池など、龍には水がつきものです。主人公は神泉苑の水の中からあらわれ出でた白龍から分離され、泉の水に濡れて宗矩に抱えられて目を覚ましました。

はるか太古に哺乳類が水から陸にあがり、そして今も人間はこの世に生まれ来るとき母の羊水の中から出てくるように、「水からあがる」ことはひとつの生命として生まれること、母なる自然と無意識の甘い揺りかごから立ち上がることを意味しています

魂とは何だ
魂とは何処にあるのだ
そう己に問うていることが不可思議でならない

どうしたというのだ、瞳から落ちた雫
私は泣いたのか、人は泣きながら生まれると聞いた
おまえの涙、その清らかな羊水(みず)に包まれ
私は人になれたのか

(永泉/安倍泰明「碧の子宮」)

当方のデータでは、宗矩が白龍から切り離した主人公は表示名が「天野〇〇」ではなく「?????」になっていました。もしバグでないのなら、これは主人公が一度白龍と存在を融合させて「天野〇〇」でなくなり、そして新しい人間として生まれ直したことを意味しているとおもいます。玄武のもつ水気は「母の子宮」を意味し、『遙か無印』の地の玄武である安倍泰明は神子の心に触れたことで心を得、「人として生まれることができた」キャラクターでした。

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神子の心のぬくもりはいつも、長い冬が終わるころの春風のように地の玄武に流れ込み、そして今度はその人の心を受け取った宗矩が、龍神と神子の間の「へその緒」を切り、人として生まれ直させるというお返しをしてくれたのです。オギャー!

 

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 宗矩の好きな時間は朝、夜が明けて新しい日がきて、新しい神子の笑顔と出会えることを喜べるころです。これはさきほど述べた「長い冬が終わるころの春風」(早春の梅の花を愛する高杉の諱は「春風」です)と意味がひとしく、地の玄武のもつ艮の卦の示す時間です。長い苦難の冬を耐え、耐えきれず消えてゆく命に何もできぬ無力感を耐え、先人が思い悩んだ果ての果てに、小さな花のつぼみがほころんだのです。

 

せっかくなので『遙か4』や愛蔵版をお持ちの方は、宗矩のあとに忍人の桜関係のシナリオを見直してみてほしいなっておもいます。余談ですが忍人といっしょに見る約束をした「桜」というのは日本神代のころの桜なのでわれわれが一般的に桜とおもっているほんのりピンクのソメイヨシノ(けっこう新しい品種)ではなく、ささやかでも清らかに白く凛と咲く、そう、『遙か7』主人公の象徴物「山桜」のことです。

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 次は兼続のルートも終わらせて、今大和ルート(ターラルート)やっています。また兼続がさあ……書くことが……書くことが多い……おれ、越後人だから……。

『FE風花雪月』の中世ヨーロッパ食文化本の原稿もしているので、気長にみてたまに覗いていただけるとうれしいです。

 

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