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ゲーム『ペルソナ』シリーズとユング心理学①

本稿は、ゲーム『ペルソナ』シリーズとユング心理学タロットカードの世界観と同作の共通したテーマキャラクター造形とタロット大アルカナの対応について整理・紹介していく記事シリーズの第1弾です。

今回はタロットの話の前にまず、大前提となる「『ペルソナ』シリーズと、ユング心理学との関わり」について、いまさらだけど紹介していきたいとおもいます。

『女神異聞録ペルソナ』『ペルソナ2罪』『ペルソナ2罰』『ペルソナ3』『ペルソナ4』『ペルソナ5』およびこれらの派生タイトルのネタバレを含みます。

ちなみに筆者はシリーズナンバリングタイトルはやってるけど派生作品はQとかウルトラスープレックスホールドとかはやってない、くらいの感じのフンワリライト食感なプレイヤーです。

 

今やっとスクランブルやっとるんだわ このシリーズで土台を固めたらまた感想書く

 

 

ペルソナシリーズの骨子

 まず『ペルソナ』シリーズとは、1996年にアトラスから発売された『女神異聞録ペルソナ』を最初のタイトルとするRPGです。「女神異聞録」というサブタイからも察せられるように、ファミコン時代からのアトラスの名門RPG『女神転生(メガテン)』シリーズ(最近新作も出た!!)の派生作品として作られました。

作品の特徴は、『女神転生』シリーズと同様に「エネミーとして神話や民間伝承・都市伝説などに伝わる神や妖精、悪魔が登場し、倒すだけでなくその力を借りることもできる」というオカルト系エンタメな点と、

逆に『女神転生』シリーズとは違って「人間の心理の奥深さや成長、自他を理解しつながり合うこと」というナイーヴなテーマに注目した「ジュブナイル(青春物語)RPG」だという点です。

シリーズ作品は共通して現実・現代の日本の都市を舞台としており、ファンタジックな要素として「ペルソナ能力」「ペルソナ使い」という超常の力が登場します。

『ジョジョの奇妙な冒険』における「スタンド使い」みたいなもので、ペルソナ使いは本人の傍らにすごい力をもった非実体のなんかああいうアレを召喚することができます。能力としては似てる。スタンド能力との違いは、ペルソナは「本人自体の能力もアップさせる」、「伝説の神や悪魔の名をもつ」「ペルソナ使いの『心の仮面』」であるというところです。

スタンド能力も本人の精神性が大きく関係するものですが、ペルソナは「外界に対する仮面の鎧」であるとはっきりと位置付けられています。いわば神の名前という「役柄の仮面」なんですね。神話を演じる劇で神の仮面をつけた人間はそのとき神の権能をを持っているということになり、気分的にも普段の自分とは違ったふるまいができるようになります。ペルソナ能力はそれを拡大したものです。『女神転生』シリーズでは「神や悪魔を仲間(仲魔と呼ぶ)にする」システムでしたが、ペルソナシリーズでは「神や悪魔の力を、人間の能力としてふるう」ようになってるんです。

ほんで、多数あるペルソナを分類する枠組みとして『女神異聞録ペルソナ』からずっと使われているのが、90年代当時若者にもカッコいい神秘の占いカードとして広まっていた、タロットカードの大アルカナ22枚ってわけです。これについては今後の記事でお話ししていくので、今回は置いときます。

 

ペルソナシリーズとユング心理学

 そもそも、ペルソナシリーズの「ペルソナ」という用語とか、『3』以降明確に名付けられた「シャドウ」とか、さまざまのキーワードやテーマはカール・グスタフ・ユングの分析心理学、いわゆる「ユング心理学」の用語や考え方をモチーフにしています。

なんで若者向けゲームを作るのにそんな学問を合体材料に選んだかっちゅうと、「メガテンシリーズがもともと持っていた神話・オカルトモチーフの魅力」と「ジュブナイル(青春物語)」を結び付けるのにたいへん適していたからです。

ユングの代表的な学説に「自我と無意識」があります。人間の心が「こういうものが自分だ」と定義して意識している姿(自我)は実は心全体のほんの狭い一部にすぎず、普段スポットライトの当たっていない広大な暗い海のような部分(無意識)の中には自我を脅かすような「認めたくない自分(シャドウ)」が潜んでいてそれを認めて統合することで心は本当の自己に近付いていく……というようなものです。

特に『ペルソナ4』をプレイした方は、これがペルソナシリーズにおける「シャドウ」の扱いまんまであることがわかるとおもいます。このようにペルソナシリーズはユング心理学のけっこうそのまんまを、ゲームエンタメ的にわかりやすい寓話として描いてるんですね。

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PSP版女神異聞録ペルソナのオープニングは自我の世界とシャドウとの接触の苦しみの心の強烈な二面性、心全体の奥深さ、統合して前に進もうとする青春の疾走感と晴れやかさがよくあらわされていますね。すげーいいゲームなんだよ。でも神話覚醒は流してくれ

 

「ペルソナ」とジュブナイル

 そして肝心の「ペルソナ」という用語、作中では「外界に立ち向かっていくための仮面」や「心の鎧」と説明されています。言葉としてもまさしく「仮面」をあらわし、ユング心理学では「心(自己)が自分の外的側面として形成したもの」のようにいわれています。要は「他人との関わりの中でつける、『役柄』『キャラ』の仮面」てことだわな。

ペルソナの主な登場人物である高校生とか中学生とかの時期の少年たちってのは、自分が学校や家庭という社会の中で「キャラ」を演じていることがあると気付き、「ほんとうの自分」との乖離や、ほんとうの自分が一体どこにあるのか、自分はどんな自分になっていきたいのか……といったことに思い悩むようになる時期です。これこそがジュブナイルの本質であり、そしてそのへんの年頃の少年たちが主にペルソナ使いとなっていることの理由です。多くの少年たちは大人よりも「自分はどういう存在でありたい(どういうペルソナをつけたい)んだろう!?」と問うパッションと勢いのパワーを持っているのです。

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 そしてここからがジュブナイルとメガテンを結びつける本題です。

社会と関わるためのペルソナ=「こうありたい自分の仮面」を意識し、形成していく少年たちは、どこからその材料やレシピをとってくるのか?

それが、ペルソナシリーズでは「心の海」、ユング心理学では「集合無意識」と呼ばれる場所(?)です。

ペルソナシリーズの「我は汝の心の海より出でしもの」という言い方はかなりわかりやすくて、「集合無意識」とは人間の心の奥底にある広大な海のようなもの、ペルソナはそこから抽出されてきたものです。

人間の心は奥の奥~のほうにある集合無意識という「海」でみんなひとつにつながっていて、その「海」っていうのは、共同体の文化全体や人類全体に共通しているイメージの源泉(これを「元型」といいます)が溶け合っている人類の魂のデーターベースみたいなものです。

元型論

元型論

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 例をあげると、たとえば「英雄あるいは神の子を産む清らかな乙女」というイメージはキリスト教の聖母マリア様以外にも地球上のいろんなところの神話に登場します。それは直接マリア様の伝説が伝わってそうなったのではなく、ぜんぜん違う場所で、あるいは太古の共通の神話をもとにして枝分かれして、多発的に似た物語が成立したのです。長い時間他の大陸の生物と離れて進化してきたオーストラリアにも結果的に他の大陸の動物と似た進化をしていた種が多くいるように、人間の文化にいるものみんなが、そういう共通の「偉大なモデル」を心の中に持っているわけです。

現に生きているりっぱな人物にも「若者たちにとってロール(役割)モデルになるだろう」と言ったりするように、ペルソナの材料やレシピとしては集合無意識の中にあるそういった偉大なモデル、「優しいおかあさん」「厳しく強いおとうさん」「老賢者」「正義のヒーロー」等々といった元型が仮面として切り取られます。「神話」「元型」とかっていうと遠いイメージがあるかもしれないですけど、例えば「ディズニープリンセス」や「アイドル」、「特撮ヒーロー」や「ドラマの登場人物」の中に自分の憧れる人物像を見出すみたいなことも、基本はこれと同じです。

つまりペルソナとはユング心理学の用語からして「神話や物語のキャラクターイメージの力を借りて、外界と戦う」という心のはたらきなのです。その姿は神かもしれないし、悪魔かも妖精かもしれないし、単なる都市伝説的な妖怪かもしれないけれども、とにかく人類共通のベースの中から「なんか強そうな仮面」を拝借し、戦う力にする。完全にメガテンなんですよね。

 

心の旅路

 ペルソナシリーズは「社会の中での自分の『キャラ』『立ち位置』」や「ほんとうの自分」について強く意識する青春期の少年たちを主な主人公に据え、その「心の仮面」として神話や物語の元型の力を引き出しているために、ユング心理学の「集合無意識」「ペルソナ」という考え方が採用され、よく合致しているよ~、と、ここまで話してきました。

 ユング心理学がジュブナイル物語に向いている理由はさらにもうひとつあり、そちらもペルソナシリーズには意識して取り入れられています。ユング心理学の用語では「個性化の過程」と呼ばれる、心の成長のプロセスです。「成長」こそはジュブナイルのメインの軸ですよね。

「個性化の過程」という用語のほうは「ペルソナ」や「シャドウ」などとは違って言葉としては作中に出てきてないので耳慣れないとおもいます。

 ユング心理学における「個性化」あるいは「自己実現」というのは、いわゆる「ほんとうの自分になる」とか「悟り」とかに近い言葉です。ただし、ユング心理学においては「ほんとうの自分」ってのはどっかにあって探せばみつかる自分探しみたいなものではありません。

先ほどかるく「自我と無意識」の説明をしましたね。「個性化の過程」にはそのへんの用語が重要なのであらためて話しておきます。

物心ついた人間は「自分ってこういうものだ」「世界ってこういうものだ」という秩序意識をもち、広い心全体の一部にスポットライトを当ててその中で暮らしています。このスポットライト範囲のことを「自我」といいます。

しかし心が成長していけば「自我」の子供部屋は狭くなりますし、社会と接していけば「自我」の外にあるものと出くわすこともあります。スポットライトの外の暗く広大な「無意識」の世界の中には、触れるとひどく不快で認めがたい、心を乱してくるものも隠れています。これを「シャドウ」と呼びます。

「シャドウ」がなぜそんなに不快で認めがたいのかといえば、それが「自我がその範囲を決めるにあたって、『こういうものは自分ではない』と否定した、『生きられなかった自分』だからです。

例えば、本当は親密な恋人がほしい気持ちもあるのに「私は受験生だからそれどころではない、真面目に勉強に打ち込むのが自分だ」と意識し、「でも恋人とかもほしいナ」という気持ちを切り離す、みたいなことです。そして、このシャドウを抑圧しすぎると心は不均衡となります。「自分は本当はこういう望みもある」ということすら自覚できないと、心身のバランスを崩すことになったり、「あいつはやらなきゃならないことがあるのに恋人にうつつを抜かしてけしからん!!」とか「生きられなかった自分を生きている他人」に理不尽な感情の矛先を向けてしまったりするわけ。

『ペルソナ4』はこの個人の自我のシャドウとの直接対峙の形式をとっていました。老舗旅館を継ぐ次期女将として生まれてこの方期待されてきた雪子は「自分はずっとこの小さな町で、古い旅館で、窮屈な和服を着て伝統を守って生きていかなければならない」と自分を定義し、「本当は洋風のものにも憧れがある、はめもはずしたいし、王子様に鳥籠から連れ出してもらいたい」という気持ちを否定して抑圧しており、それがシャドウの姿や言動のベースとなりました。

 

 こういう「狭い自我の範囲」や「シャドウの抑圧」を解消していくのが、心の成長プロセス「個性化の過程」です。何をどうするのか?

当然ながら「認めがたい自分」であるシャドウは本人に強烈な苦痛や恥の気持ちを与えます。だから『ペルソナ4』では本人が苦しみながら「おまえなんか自分じゃない!!」と否定するのが定番の流れになっていました。そして、「おまえは自分じゃない」と否定され、完全に切り離されようとしたまさにそのときに、シャドウは手がつけられないほど肥大化し暴走してしまうのもまた定番の流れでした。現実の心の動きでも同じで、シャドウは抑圧されるほど、ないものとして扱われるほどに強烈なしっぺ返しとして心身のバランスに不具合をおこすのです。『ペルソナ4』では自分の影を否定し、その暴走に食われてしまった人はマジに死亡してしまいましたが、これは決して大げさな比喩というわけでもありません。自分の認めがたい側面に苦しむあまり命を失ってしまう人は、現実にも多くいるからです。

じゃあどうすればいいのか。

『ペルソナ4』のパーティーメンバーたちは最後には自分のシャドウに向き合い、「確かにあなたもまた自分である」「無視して否定して悪かった」とシャドウと一体化します。この、「自我とシャドウが葛藤のすえに統合されてひとつになり、『自分』の範囲が広がり、心の全体性に一歩近付く」というプロセスがユング心理学のいう「個性化の過程」です。

「個性化の過程」はペルソナ能力がなくても人間の一生の中で何度も起こる心の成長です。でも、大人になってしまうと、多くの人は暮らしの中で忙殺されて「そういうもんだ」とあきらめたり、「自分はこれでいいのか?」と問いかけることをサボッてしまいますよね。「自分が何者であるか、選ぼうとする」「ほんとうの自分になろうとする」ためのあてのない荒野の旅をするのは、若者たちの特権……ってわけじゃないですけど、少なくとも若者たちはみんなそのことを考えて生きています。ユング心理学と「ペルソナ」の概念はジュブナイルを描くのにピッタリな土台なのです。

↑ユング心理学の「自我と無意識」「個性化の過程」などの考え方はペルソナシリーズ以外にも多くのフィクションに影響を与えていて、アニメ『少女革命ウテナ』はそれらを代表する象徴的作品です。主人公の二人の少女はお互いに一人の人物の心の中の「生きなかった側面」をあらわし、最期には統合されて広い世界の荒野に歩き出していきます。

 

旅は道連れ

 このようにユング心理学の考え方をベースとして作られているペルソナシリーズですが、いくつかユング心理学の主要部分に独自の解釈を付け足してアレンジしている要素があります。その中でもテーマ的に重要なのが、「仲間」「『絆の力』がペルソナの力になる」という要素です。他者とのかかわりは確かにユング心理学でもだいじですがこういう青春なことは直接言ってないからな。いかにもジュブナイルだしメガテンシリーズとの差別化だなあ(メガテンシリーズでは「あなた」が重要で他の人間って基本思想を対立させる存在なので……)

 

 ペルソナとは自己が外界に対して身につける仮面なわけですが、若者にとっての「外界」とは往々にして「学校のクラスメート」や「家族」「地域の人たち」という、いやに近くて逃れづらいのに、ほとんど自分では選ぶことのできないなんかどうしようもないものです。若者は自分自身についても悩みますが、その悩みの発端の多くは「親にこうしろと言われた」「友達と自分はあまりにも違う」等の外界と接したときのストレスでしょう。

メガテンのダークさを引き継ぐペルソナシリーズには、この「若者たちといびつな『外界』とのつながりの、負の面」に積極的に注目していくという特徴があります。いじめや、スクールカーストの中でおかしくなっていく人たち、情報ネットワークの中で肥大する噂、親との距離感、機能不全家族、周りの人間へのコンプレックス……。

その運命の呪いみたいなつながりの中で、若者たちは身をよじりながら自分の心のあり方を模索していくことになります。ペルソナシリーズがその「心の呪い」を解くためにとっているのが、「『外界とのつながり』が人を苦しめ歪めるが、その苦しみと向き合う力になるのもまた『外界とのつながり』、仲間との絆である」という方針です。これがペルソナシリーズのユング心理学からの独自アレンジ要素です。

 

 このことの表現としてペルソナシリーズでしばしば現れるのが、「キャラクターのシャドウ」と「シャドウボス」との対峙です。

キャラのシャドウは本人が「本当は強く望んでいるけれど認めたくない願望」について露悪的に話し、本人をうろたえさせ否定されます。否定されるとシャドウは醜悪な怪物の姿となり暴走。ここで、本人の心は著しく弱ることになりますから、『ペルソナ4』で一人でその瞬間を迎えた人は死んでしまいます。そこで、「仲間」の出番です。仲間たちが弱りきった本人を介抱し、守り、戦って、シャドウボスの勢いを弱らせるのです。

このことは「自分のこんなに認めがたい、醜い面を見ても、離れていったりせず友達でいてくれる人がいる。自分は一人じゃない」という感覚を本人に与えます。「こんな自分は嫌だ」という強いこだわりは、「そういうことあるよな」と共感してもらえることもあるし、他人からしたら「よくわかんねーけど別にそれでいいんじゃね?」みたいになることも多いし、一人で「絶対引かれる……!」ってグルグルしているときに最も手が付けられなくなるからです。

そして、自分の影をなんとかするのは人任せにしていていいことでもありません。シャドウと向き合うのは並大抵のことではなく、ときに命がけのもので本来誰にでもできることではありません。しかし、ペルソナシリーズのパーティーメンバーたちは、別に並外れた人間でなくても、仲間がともに戦ってくれたことによって「認めがたい面があっても自分は一人じゃないんだ」という何よりの心パワーを得ます。それがあるからこそ仲間が弱らせてくれた自分の影と向き合い、認め、『ペルソナ4』ではそのシャドウの性質とパワーがそのまま、ペルソナ能力の性質とパワーに転化されるのです。

この「シャドウがペルソナになる」「シャドウとペルソナは互いに役割が違うだけの同じもの」という設定も、ユング心理学の言い回しとは少し違うペルソナシリーズでのアレンジです。これもまた「影を認め合い、ともに戦う仲間がいれば、心の闇を心の力に、自分だけの個性に変えていける」というジュブナイル的な力強いメッセージなのです。

 

調和する2つは、完全なる1つに勝る

 見出しは『ペルソナ3』において月光館学園高等部のエントランス奥に飾られた桐条家の理念をあらわす言葉です。桐条家は『女神異聞録ペルソナ』のなんじょうくんのおうち、南条コンツェルンの南条家から昔分家した家で、分家する際に当時の南条家からこの言葉を贈られたとされています。

ユング心理学の「個性化の過程」では自我とシャドウは苦痛をともないながら葛藤し、統合されてより大きな真の自己に近付いていくとされますが、それは白と黒があったのがみんな白に塗りつぶされるとか、間を取って灰色になるということではありません。白は白、黒は黒で異なったまま、対立したままで、ひとつの力になるのです。ちょうど、陰陽太極図のようなかんじで。

異なる対立したものが、異なったままで、ともにあること。これは一見めんどうくさいし、葛藤は続くし、みんな同質化したほうが効率がよく平和なんじゃないのかとも思えます。しかし、自分の中のもう一人の自分、黒い部分を否定し「完全」になろうとする魂にロクな未来はありません。テーゼには、アンチテーゼがあってこそ。

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異なるふたつが協働するとき、ひとつひとつは偏って不完全だったとしても、完全なひとつよりすばらしいのです。そして、3つでも、4つでも。それは人間というものがそもそも偏って不完全なものでしかありえないから仕方なくそうしてるのではなく、マジで、「違うこと」自体に意味があるのです。

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(上記事はアトラスじゃないけどP5S作ってる会社のそういうゲームの話です)

ペルソナシリーズにおいては「異質なふたつ」とは、「もうひとりの自分」だけでなく、自分が生きていたかもしれない別の人生――つまり、仲間たちという他者のことでもあります。他者とはもちろん助けになってくれるだけの都合のいい存在ではありえません。面倒だし、ときに悪気がなくても傷つけ合うことになるし、思いもしない価値観をもっています。それでも、ぜんぜん違うからこそ、いいということです。

ペルソナシリーズのパーティーメンバーには、しばしば「いろんな個性的なキャラがいたほうが彩りがあってエンタメだよね」の度を越した変人や特殊な家庭環境の人物が配置されており、実際かなりの割合でコミュニティから遠巻きにされています。そんな困った個性たちが、「みんな同じ」「完全」「平和」になるのではなく、永遠に葛藤しながら、不完全で異質なものたちが調和しあって、えっちらおっちら生きていく。それが本当の魂の成長で、苦しみの多い世界を生きていくわれわれ人間の戦略なのだ……というのが、ペルソナシリーズの理念です。

異聞録や罪罰はダークな雰囲気が目につきがちですが、とにかく最初からめちゃくちゃ「青春」というものに真面目に取り組んでる作品なんだよな。

ペルソナ - PSP

 

 というわけで、今回はユング心理学がどんなふうにペルソナシリーズのベースになっているのかの基礎編をお話ししてきました。

次回は「シャドウ」「ペルソナ」「フィレモン」「蝶」などのペルソナシリーズのキーワードがどういうモチーフなのか、それぞれの作中でどう描かれてきたのか……みたいなことと、各作品の設定の意味やテーマについてお話しする予定です。その後でタロットの話するわ(道が長い)

【追記】その2のキーワードモチーフ紹介かけたよ~~

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↓記事シリーズを順次更新してくので気になったらブクマとか読者登録とかしてコンゴトモヨロシク…

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ペルソナ好きやってて勉強してきたタロット知識で『ファイアーエムブレム風花雪月』のタロット要素も読解してるよ↓

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