湖底より愛とかこめて

ときおり転がります

【ⅩⅤ 悪魔】獣の紋章―FE風花雪月とアルカナの元型②

本稿では、『ファイアーエムブレム 風花雪月』の「獣の紋章」とタロット大アルカナ「ⅩⅤ 悪魔」のカード、キャラクター「マリアンヌ=フォン=エドマンド」との対応について考察していきます。全紋章とタロット大アルカナの対応、および目次はこちら。

以下、めっちゃめっちゃネタバレを含みます。

 

 

 『風花雪月』の紋章がタロット大アルカナ22枚のカードに対応している作中の根拠とざっくりしたタロットの説明、各アルカナへの目次はこちら↓です。

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 ツイッターで最初に詳細解説する紋章を

「リーガンの紋章」

「ゴネリルの紋章」

「グロスタールの紋章」

「獣の紋章」

から(まだ教会と同盟しかクリアしてないので!!)どれにしよう?とアンケートとったところ獣の紋章が最多票を獲得したため、この紋章から記事を書いていくものです。

 

 獣の紋章はトップバッターにするにはいささか特殊な来歴の紋章ですが、アルカナの意味するところは作中でたいへん明確に示されているので、書くことめっちゃあります。一番書くこと多いんじゃないのかこれ

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対応するアルカナは悪魔

対応するキャラはマリアンヌ=フォン=エドマンドです。

物静かな彼女のどこが「悪魔」なのでしょう?

 

 

「悪魔」の元型

 まず「獣の紋章」と対応する「悪魔」のアルカナのカードの中心的意味を拾ってみましょう。

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 「ⅩⅤ 悪魔」のカードです。

(ウェイト版の絵がグーグル先生に「コラ!裸の画像は貼っちゃダメですよ!」て怒られたかもしれないので版変えて失礼します)

カードに象徴として書いてあるモチーフは、「逆五芒星」をもつ「半人半山羊の悪魔」「なんか片手を挙げてる」「人間の男女」「首輪と鎖」がついているが「手足は自由」で、「獣の耳としっぽ」が生えている、です。

タロット大アルカナでは「死神」と争う怖いカードですが、このカードは何を警告しているのでしょう?

 

 「悪魔」のアルカナが中心的に表すのは、

「現実を直視せず偽物のカミサマを妄信し、

 みずからすすんで自由を売り渡す」

という精神状態です。つまり「悪魔」のカードが示すのは悪魔そのものではなく、悪魔に囚われる人間の問題の方です。マリアンヌはこのカードの人間のほうです。獣の紋章は怖い悪魔のほうだと世間では(そしてマリアンヌは)思ってるみたいですけど。

 なんとなくわかったけど、はっきり「ああ~」納得するのはちょっとむずかしい概念ですね。

それでは、作中でどのように描かれたかをふりかえっていきましょう。マリアンヌで描かれた「悪魔」のカードの意味の大事なところは赤字で示していきます。テストに出ます。

 

マリアンヌの「悪魔」―家畜の安寧

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 シルヴァンも自分の紋章がどうたらこうたら大変ですが、マリアンヌほど自分の紋章の「性質」について話しまくるキャラクターは逆にいないのではないでしょうか? ハサミを折るディミトリくらい?

マリアンヌは獣の紋章を「関わると不幸になる」「忌まわしい」紋章だと言います。確かに「悪魔」っつったら忌まわしいし関わってもいいことないでしょうね。

しかしこの「関わると不幸になる」「忌まわしい」という紋章の性質はリンハルト支援や彼女の外伝で「人間たちがそう言っているだけで、そういう事実はない、ただの思い込みの偏見」であると否定されます。

現実にも、「悪魔」のカードに描かれているようなキリスト教でいう悪魔というのは実際に「いる」というよりも、欲望やあれやこれやに負ける弱い人間の心が呼び寄せてしまうものとされます。仏教における悪魔、マーラもこれと同様です。

「悪魔」は実際には「いません」。

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↑これは肉眼で確認できるマーラ様です。↑

さっきマリアンヌは悪魔のカードの悪魔ではなく人間のほうだと言いましたが、弱い人間の心=マリアンヌが実際には存在しない悪魔を呼び寄せているという意味では、悪魔の本体はマリアンヌ自身ともいえるのかもしれませんね。

 ではマリアンヌは、人間はなぜ、何に悪魔を見てしまうのでしょうか?

 

囚われの令嬢

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 マリアンヌの支援では、たびたび「養父から修道院から出ないように言われている」という旨が示されます。

いい婿と結婚させる用のキャリアのために親の意向で士官学校に入れられたのは他にベルナデッタ(まあこいつは外に出す方が大変ですが…)やメルセデスもいますし、他にも「不用意に外出して危険な目に遭んじゃない」と親や保護者が言ってもおかしくない令息・令嬢(たとえば親が権威主義的でうるさいローレンツ、野生児だが人質として命を守るべきペトラ)には事欠かないはずですが、そういう話が出るのはマリアンヌだけです。みんな自由だー!

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 悪魔のアルカナは「囚われの身」を意味します。カードの中で人は悪魔の鎖につながれています。つまりここではマリアンヌにとって養父エドマンド辺境伯がカードに描かれた悪魔のように強大で権力をもった存在であるということです。実際、支援会話の中で彼女が養父を「自分とは正反対」で"強い"人間であると言っているシーンが多く出てきます。

ただし重要なのは、カードに描かれた男女の人間が首輪と鎖はつけられていても、手足は全然戒められていないというところです。そこには物理的に動けない状態である「吊られた男」の囚われとは違う意味があります。

レオニーとの支援でも「(修道院から外出したって、養父には)そんなのわかりゃしないって」と言われている通り、マリアンヌにはきつい監視がつけられているわけでも、実際にひどい罰を下されたわけでもありません。嫌いではない級友に外に誘われ、現実的にはなんの枷もなくても、マリアンヌは「養父に言われている」と断ります。マリアンヌが囚われの令嬢なのは強い外因からではなく、ただ自分が心から外に出ようとしないからだということです。

 強大でときに邪知暴虐みたいに思われている養父エドマンド伯ですが、やり手の政治家である彼が多額のカネとともに大修道院に特に頼んだのは「マリアンヌの紋章を調べないこと」だけであり、それは世間体を考えれば当然のことで、本気でマリアンヌの行動を制限してどうしても縁談カードとして利用したいと思うならば彼にはもっとなんでもできたはずです。エドマンド伯はメルセデスの養父があの手この手で圧力をかけて教会からメルセデスを引き取ったようには強硬に義娘をモノとして利用しようとはしていません

事実、マリアンヌは多くのエンディングで養父に才覚を認められて縁談カードとしてではなく領主としての再教育を受けています。同盟ルートのエンディング絵の諸侯の中にもマリアンヌらしき姿がみとめられることからも、これはマリアンヌの基本の進路です。でも才覚を認められたといったって、マリアンヌにはたとえばクロードやリンハルトのような人並外れた賢さがあるわけではありません。つまりエドマンド伯は「おっこいつなかなかやる気あるみたいじゃん」くらいでマリアンヌのことを認めてくれたということで、マリアンヌは養父を必要以上に恐れ、過剰に服従ポーズをとっていることになります。「悪魔」アルカナの表す「囚われの身」とはそういう、ない檻を勝手に見ているという意味でのものです。

 ではなぜマリアンヌはそんなシリアスなギャグみたいな初手ジャンピング土下座をしてしまっているのでしょうか?

 

どうせ何もできない

 第一部のマリアンヌが養父の強大さを過剰に恐れ、完全服従し、なにごとにも自発的やる気を見せない理由は、現代的には学習性無力感とよばれるものです。

マギ(3) (少年サンデーコミックス)

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 漫画『マギ』に登場する奴隷の少女モルジアナさんについてのエピソードでも出てくる有名な例なのですが、サーカスの象さんはなぜ人間たちを振り払って逃げ出さないのか? という問題の答えが学習性無力感です。モルジアナさんはヒトより圧倒的に優れた身体能力をもった種族として力をふるっているにもかかわらず、自分よりぜんぜん弱い横柄な主人に従っていました。

象さんは仔象のときに重い鉄球をつけて不自由に育てられると、「暴れても無駄」「逃げられない」という経験を重ねて人間に対する自分の無力さを世界の法則として学習する、その結果大人の象の力を手に入れても「自由に動けるわけない」というのが象さんの中では常識になるのです。

 人間はこのお話の象さんを客観的に見て「ばかだなあ」ぐらいに思えますが、この学習性無力感はばかなものでもなんでもなく、我々の生活のいたるところに入り込んでいます。

たとえば、「無力感」とは少し違いますが我々は「スイッチ」みたいなでっぱりを見て「押してもへこまない(光ったりもしない)」場合「これは動作するなんかのスイッチじゃないんだな」と判断するでしょう。これは「押したらへこむスイッチで何かが操作できる」「押してもへこまないものを押しても何も起こらない」という無数の「学習」によって獲得された感覚です。この感覚は正しい学習でしたが、マリアンヌの学習性無力感もしくみとしては同じように「自分が動いてもいいことは起こらないんだな」としっかり学習してしまった状態だといえるのです。

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 「悪魔」のカードの人間が手足は自由なのに悪魔の支配に甘んじている理由その①は、「動いても何も変えられない(と思い込んで諦めている)から」です。

マリアンヌの少女期までの人生は、小領主の娘として愛する父母と暮らしながらも、父と自分には世間では忌み嫌われる紋章が宿っていると教えられ、それに難癖をつけてくる人間も何人もいたという、不自由があるわけではないのに暗いものでした。人生には不運や悪いできごとくらい誰にだって起こるのですが、世間の目に苛まれ、隠しながら、マリアンヌと父は不幸がおこるたびに「自分の紋章のせいで…」と落ち込んできました。

人生が全体的に幸運か不運かというのは、よほど極端でなければほぼ本人の受け取り方の問題です。「俺は運が強くて」と言っている人はとびぬけて運がいいのではなく、めぐってきた運をつかまえるやる気が高いだけであることが多いのです。情報収集でも「これはこうなのだ」という固定観念があるとそれを強化する情報ばかり入ってきてしまうように、マリアンヌは「自分の紋章は忌まわしく不幸を呼ぶのだ」という強力な結論ありきでものごとを解釈し、学習を重ねてしまいました。しかも悪いことに、実際に父母が失踪してしまった。もう絶対自分の紋章が不幸を呼ぶという統計結果が出てしまった状態です(マリアンヌの中では)。

 これは……私に誰も関わるべきではない……みんなのために……"(-""-)"

 

その信仰はなんのため

 「悪魔」のカードで人間(マリアンヌ)が手足は自由なのに悪魔の支配に甘んじている理由その②は、マリアンヌの得意技能でもある「信仰」と関りがあります。

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 マリアンヌと先生の支援会話は「祈りの内容に対して言葉を濁すマリアンヌ」に始まり「何を祈っていたのか告白するマリアンヌ」のシーンに終わります。「信仰」というのは食の好み解説のローレンツの項でも話したように各人にとってじつに多様な意味をもつものですが、アッシュとの支援会話や落とし物、本人の告白からみるにマリアンヌにとっての信仰とは懺悔であり、もっというと「なるべくすみやかに安らかに主の御許に召されたい」というぶっちゃけ「もう死にたい…」「楽になりたい…」といった願いのはけ口だったのです。

 そんでここで、タロット大アルカナの中でも「信仰」を表す「Ⅴ 法王」のカードを見てほしいんですけど。

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これじゃ。下部中央に「クロスした二本の鍵」すなわち地上と天上に通ずるローマ教皇の権能をあらわす聖ペテロの鍵があるので、これは「女教皇」とかとちがってガチの正式な信仰、ちゃんとした精神修養をさずけてくれる導き手としての宗教や哲学をあらわします。

わかります?

「悪魔」も同じポーズをして、

同じように小さな二人の人間を両側に連れているんですよね。

 

 「悪魔」と「法王」なんて正反対すぎるものが構図を似せられているのは一見するとおかしなことなのですが、考えてもみてください。現代においてもスピリチュアル系を模した「この教えを信じれば幸せになれるよ」という詐欺はたくさんあり、精神的に不安定な人をいまも食い物にしています。傷つき、何もかも信じられず、心のやすらぎを求める人にとっては「教えにすがって、自分の生活のつらいことを考えずにすむ」という意味で伝統宗教もカルトも高価な壺もネトウヨ思想も資本主義も同じようなもので、「自分を導いてくれる偽物のかみさま」なのです。

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自分の送っている人生が苦痛である人にとって「かみさま」はどのみち鎮痛剤、モルヒネとして作用してくれます。でもマリアンヌが「早く苦痛に満ちた自分の人生から逃げて楽になりたいとだけ祈って死ぬことをソティスは喜ばないでしょう。ほんものの信仰とは少なくともそういうものではありません。しかし、祈る姿と一心さは、どちらなのか一見区別がつきません。

 

卑屈という傲慢

 それでは、マリアンヌが「私なんて」「早く消えてなくなりたい」と思っていることは、不安定な人間が「悪魔」にすがってしまうことは、単に「マリアンヌがかわいそうで不幸せ」だけで終わる話なのでしょうか?

そうではありません。

VS.レオニーくん

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 特にマリアンヌの卑屈のやりすぎぶりが描かれるのがレオニーとの支援会話ですが、レオニーが明るく簡潔に手伝いを頼んでいるのに、マリアンヌはどこまでも「私なんて」「私なんかが」「何をやってもダメ」と言い連ねます。効率主義者のレオニーでなくてもうんざりします。何言ってんのかまったくわかりません。

このような過剰な謙遜、ひたすらの懺悔モード陰キャには覚えのあるものではないでしょうか?

「俺みたいなゴミはすみっこにいればいいってことだろ、ハイハイわかってますよ」だとか、

「どこまで償っても許されない…この† Etarnal Guilt †…」だとかのことです。

「自分は何をしてもダメな底辺のゴミで、許されない」という断定はある種の安心です。何をしてもダメなら何もしなくても同じだし、ずっと許されないのだからずっと「ごめんなさい」だけ言ってればいいからです。それで自分をもののわかった人間のように思えるからです。

 しかしマリアンヌの「自分は何をしてもダメで」「ごめんなさいごめんなさい」が仲間としてのレオニーの頼みを不条理に拒否するものであるように、卑屈な人間は本人が不幸なだけでなく実は無駄な迷惑をふりまきます。レオニーさんは仕事を手伝ってくれっていう正当な頼みを言いにきただけの級友であって、マリアンヌの懺悔を聞きにきたプロの司祭なんかではありません。それなのにレオニーにカウンセリングを押しつけるかたちで卑屈な自己評価トークを爆発させるマリアンヌは自分のつらさのことしか見えておらず、自己中心的であるということです。「悪魔」のカードはそういった自分ばかりがラクな視野狭窄に甘んじる傲慢さを表しています。

 

VS.フェルディナントくん

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 このマリアンヌの「悪魔」の傲慢な思考停止はフェルディナントにもああだこうだうるさく言われます。

見てください、この開き直った陰キャぶりを。マリアンヌも、恵まれた貴族として自分は無責任な傲慢人間かもしれないことはうすうすわかっています。けれども、無力感を学習しているので、どうしたらいいか周りから言われたって皆目ピンとこない。フェルディナント=フォン=エー↑ギル!!のテンションで言われてついていけるわけがない。

 これはメットライフ生命かどっかの営業員さんで実際に統計をとって研究されたことなのですが、就職試験で落ちるはずだったのを受からせてみた楽観的な性格の営業員さんたちはふつうに受かっていた悲観的な営業員さんたちの集合よりも離職率が低く成績もよかったんですって。たしかに生命保険の営業という「Noと言われるのが普通」みたいな仕事って悲観ぎみの人間からするとめっちゃストレスフルですし学習性無力感モノですよね。当方は絶対やりたくないですよ。尊敬します。

このことの分析として、悲観的な人間は「私の性格に問題があるんだ」「こんな私が何をやってもだめなんだ」と失敗の理由を「自分の存在」に結びつけてしまい、自己否定におちいってしまうのだということです。「私には忌まわしい紋章があるから…」です。「自分の存在」の本質は変えようがないし具体的でもないので、さきほどの「『悪魔』の傲慢な思考停止」のとおりそのまま改善に向かうことなく、ただただストレスが悲観的な人をさいなみます。

では楽観的な人間はどうかというと、「たまたま機嫌が悪い日だったのかな」「〇〇って言い方をしたのがまずかったのかな」と、失敗を「自分」の敗北だとはとらえず「やり方」の敗北だと考えるのです。「やり方」は自分ではないので自己否定感はありませんし、小分けにしていくらでも変えようがありますから、分析していろいろ試しているあいだにいずれ勝てるでしょう。これはまさにいろんな人に突進しては否定され、いちいち真に受けるがあきらめず、ふるまいを改めてトライアンドエラーしまくるフェルディナントの姿です。これは彼のキッホルの紋章=「正義」のアルカナの意味にも通じています。

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  つまり「悪魔」の呪縛状態というのは、悲観や自己憐憫の苦痛に囚われることで自分の現実を直視し自分の責任で改善していくことからは逃げていることです。そのつもりがなくても、「私ってこんなにダメ」ということばかりを嘆いてぜんぜん改善しないのは甘えであり怠惰であり、しかもその嘆きは悲劇に「酔ってる」という言葉が示すとおりアルコールや麻薬のような中毒性のある一種の快感でさえあります。

「悪魔」のカードには「欲望」という意味もありますが、その欲望はエネルギッシュなものではなく、人間の何かに支配されていたいという欲望見なくてはならないものから逃げるための欲望のことです。

 

無軌道の獣

 ところで「欲望」のことを、タロットというかキリスト教的世界観では「獣性」、つまり四つ足とかの動物のかたちであらわします。知性や理性とは人間のものであり、自然の獣とは反対のものだというわけです。

獣の紋章が「獣」なのは、英雄モーリスが魔獣化してしまった事実だけでなく、「悪魔」カードに描かれた「獣性」にもかかわりがあります。

 「悪魔」カードに描かれた人間の男女は服を着ておらず、獣の耳とかしっぽが生えてリラ~ックスしています。これは人間が人間らしい理性の光を捨てて野の獣になろうとしているところだと示しています。日本の昔話じゃ狐女房とか鶴女房とかそんなん日常茶飯事ですが、ダーウィンの進化論があんだけ叩かれたキリスト教世界ですからこれはかなりヤバいおおごとです。俺は人間をやめるぞジョジョーッ

先述のフェルディナントがもっていたような問題解決力、自分の運命をかきわけて進んでいく力こそが人間の理性であり、理性と責任を自ら放棄しようとする「悪魔」状態の人間は人間をやめようとしているのです。こういった「獣性」との付き合い方の意味で獣の紋章の「悪魔」アルカナはブレーダッドの紋章(ディミトリ)の「力」アルカナとよく似たテーマを扱っており、案の定彼らには支援会話があると小耳にはさみました。青獅子の学級もプレイしたらそれについても追記したいところです。

 ただ、よく言えばこういう「獣」に寄ってしまう「心の弱さ」をよく知っているマリアンヌのような人間は、つねに理性的で強くはあれないやわらかな心や、臆病な動植物たちの心に近しいといえます。

これと似たキャラクター造形はアニメ『少女革命ウテナ』のヒロインである姫宮アンシーにもみられます。アンシーは少女の心の奥深くで眠る謎めいた本当の心を象徴するキャラクターで、友達は作らず、気難しい植物である薔薇の世話や、たくさんの動物たちといっしょに暮らすことを趣味としています。このアンシーも実は自分を規定する「世界の果て」と呼ばれる心の呪縛から出ていくことができず、永遠のような苦しみを受けている「悪魔」アルカナ的な状態にありました。彼女の「弱いほんとうの心」はいっしょにいる小さなおサル「チュチュ」に象徴され、彼女は人語を話さないチュチュと会話することができます。

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 ところで、アンシーは淑やかでおとなしく従順な「お姫様らしさ」の具現のように振る舞っているわりに、案外料理とかの家事は苦手です。マリアンヌも「整理整頓が苦手」という、キャラの味付けにしてはようわからん個性(しかもマヌエラ先生とじゃっかんかぶっとる)を付与されていますが、これも「悪魔」のカードの性質に関係あります。

マリアンヌはフェルディナント支援Aではおいしい料理を作れていましたが、料理だけでなく家事は、ことに部屋や物の整理整頓というのには、明確な目的意識広い視野、それをもとにした段取り力迷いのない実行力が必要です!!

人生がときめく魔法の片づけノート

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近年「こんまり」さんの人生がときめくお片付け的なアレが世を席巻しましたが、よきお片付けのためには収納とかの前にそもそも「部屋やものをどのように使おう!」というはっきりしたビジョンが必要なのです。マリアンヌは学習性無力感と思考停止におちいりがちで、自分の意思を決めることを放棄してきましたから、もうまず「こういうふうにしよう」というビジョンを描くことができません

おまけにアッシュとの支援でも指摘されているように上を向かず視野狭窄状態にあるのですから、目の前のこと手元のことしか見えない、場当たり的になるのは当然です。市街の庶民ごはんの記事でも述べたように、アッシュは今日食べるもの明日飢えないことだけを考えていた視野の狭さから星を見上げるように教養や理想を得て見える世界を広げた人間ですから、持てる者が下を向いていたらそりゃあ励ますでしょう。先の見通しがない人間が目の前のものをどかしたり入れたりしても整理整頓なんてできるわけありませんよ。これは当方の部屋のことです。

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 すみません。

 そんな見通しのきかないマリアンヌを偶然にも天上ウテナと同じピンク髪のヒルダちゃんが救ってくれて(当方のことも救ってほしい)ペアエンドなわけです。このとおり、暗くて「私なんて…」みたいにしてる人間は真面目で几帳面みたいに思われがちですが、自分がダメなことに気付いても現実と向き合って改善しないとなんの意味もないわけです。

ちなみに、ヒルダのゴネリルの紋章=「運命の輪」のアルカナも、悪魔と似てまた少し違った「自分ががんばってもムダ」を意味するアルカナとして共通点があります。ただヒルダには全体が見えています。詳しくは「運命の輪」の項で。

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呪縛解けて前へ

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 ハンネマンとマリアンヌとの支援では、「紋章をもって生まれたことには意味がある」「どんな紋章でも力になる」「紋章をどう使うかは本人が決めること」とハンネマンが繰り返しマリアンヌに訴えかけます。紋章は「貴族であること」や「男性であること」や「白人であること」のように、「何かの力をもって生まれてしまったこと」です。

↓紋章と「性別」などの生得的属性による差別との類似点についての記事です↓

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マリアンヌが最初ハンネマンの言葉を受け入れがたかったのは、自分の忌まわしい紋章に「力があるとは思えなかった」というよりも、「自分にできることがあると思いたくなかった」からです。この点フェルディナント支援のテーマとも似たことをリフレインしています。

「自分には意味がある」「力をもっている」「力の使い方は自分が決める」というのは一見いいことでしかないようにみえますが、それは自分で自分のことを決定し、行動しなければならないという新しい苦痛であり、人間の脳はとかく現状維持を好むものです。たとえそれが自己否定のどうどう巡りの現状であったとしても。

マリアンヌが「忌まわしい紋章が」「養父が」「不幸が」「私には何もなくて」という、自分で強化してきた「世界の果て」の呪縛を越えて自由な荒野に飛び出せば、そこにあるのは絶え間ない「私はどうしたいの?」「どうすると決めるの?」「何を覚悟するの?」「どう責任をとるの?」「どうやって幸せになるの?」という意思決定の嵐です。それは心細く、何も確かなことがなくて、すべては自分のせいかもしれず、でも、そこにしか自分が生きているということの、自分にとっての意味はありえません。

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 5年後のマリアンヌは、別に誰との支援が進んでいても進んでいなくても、養父にも何も変わりがないのに、顔を上げ、前を見られるようになっています。それはマリアンヌの呪縛の鍵はマリアンヌ自身がずっと持っていたということです。

彼女は戦争がはじまり秩序が壊れて動乱する世を見ました。自分と同じところもあったはずのかつての級友たちが何かを選んでいくのを見ました。長く家畜の安寧にあって耳と目を塞いでいた彼女は、「自分も何かを成すべきなのではないか?」と、心の奥から響くか細い声をやっと聴いたのです。人間として、立ち上がったのです。

 「マリアンヌ」はフランス革命・フランス共和制を象徴する「自由の女神」の名とされます。それが世界を革命する力です。

 

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