湖底より愛とかこめて

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付録・『ペルソナ』シリーズはセカイ系なのか?

本稿は、ゲーム『ペルソナ』シリーズとユング心理学タロットカードの世界観と同作の共通したテーマキャラクター造形とタロット大アルカナの対応について整理・紹介していく記事シリーズの補足記事です。

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ペルソナシリーズの用語における心理学的モチーフの扱われ方を紹介した前回の記事↑に有意義なブクマコメをいただいたので、今回はそれについて独立した記事にしました。

ゲーム『ペルソナ』シリーズとユング心理学② - 湖底より愛とかこめて

想像界・象徴界・現実界ってムズいよなー。『ペルソナ』では象徴界が機能しているから、『ペルソナ』はセカイ系じゃないって事になるのかい??

2022/01/11 22:00  - amaikahlua のブックマーク / はてなブックマーク

前回の記事では「ほかに紹介するとよさげな用語あったら言ってね、追記で書くから」と言っていたのですが、この「セカイ系」の話題に関しては作中での心理学の取り扱われ方の前提知識っちゅーより時代性や社会性のある作品批評のはなしなので「記事を書く際あらかじめ外した話題」だったんですよね。せっかくコメもらったので書きます。あざす。

 

 

「セカイ系」とは何か

 まずブクマコメで話題にあげてもらった「セカイ系」という用語がもはやかなり昔に流行った言葉なんでおさらいしておきます。

もとは『新世紀エヴァンゲリオン』の大流行の影響を受けた90年代末~ゼロ年代のオタク文化的作品に流行った特徴を、やや揶揄的に示す言葉です。代表的な作品はエヴァのほかに『最終兵器彼女』『ほしのこえ』などがよく挙げられますが、定義があいまいだし揶揄的な言葉だったこともあって何をセカイ系とするのかは人により、『涼宮ハルヒの憂鬱』とかも代表例として含まれることもあります。

作品例を挙げるだけだと若い子にはなんもわからんので特徴を言いますと、「青少年主人公とヒロインである少女、その周りのごく個人的な人間関係と個人的な悩みの『きみとぼくのセカイ』をナイーブに描く、男性自意識の私小説的な内容」という純文学みたいな話が、「世界全体の存亡」にいきなり直結する、というような感じのものです。エヴァはまさにシンジくんの自意識や個人的人間関係を中心としながらそれと連動するかたちで世界規模のヤバがおこります。従来の戦記物とかの「世界規模の大事の中でもがく個人を描く」のとはフォーカスとか順序が逆で、テーマもまったく違ってきます。

この「セカイ系」を読み解く際に、前回紹介したジャック・ラカンの「現実界・象徴界・想像界」という考え方が使われた経緯があるので、今回いただいたamaikahluaさんのブクマコメにいたるというわけです。エヴァとかみたいなセカイ系の物事のおこりかたは主人公の内面の問題という「想像界」からほとんど象徴界をスッとばして「現実界」に大破壊をおこしたり逆にクライシスから世界を救ったりしているのが特徴とされるのです。

さて、ここで、ペルソナシリーズは「個人の心の問題に端を発し、荒唐無稽に世界が破滅しかける」のはセカイ系に似ているが、一方で「噂が現実になる」など「象徴界がすごく機能している」のはセカイ系とは異なり、何?というズレ感が生じてきます。

まあなんでもかんでもセカイ系か否かに分けなきゃいけないわけじゃないんですけど、ペルソナシリーズ(特に罪罰)がまさにセカイ系流行ってたころの作品の流れだから時代的にね。

 

「社会」の存在

 「象徴界」がスッ飛ばされて「想像界(=個人の自意識やイメージ)」の問題が「現実界(物理的世界のできごと)」に直接大きな変動をおこすというサイコキネシス的展開がラカンの用語からみた「セカイ系」の特徴だと述べてきました。この「3つの世界の真ん中を飛ばす」ということはほかにも「近景・中景・遠景」と呼ばれたり、わかりやすい言葉では「きみとぼく・社会・世界」と呼ぶこともできます。「きみとぼく」のセカイの問題が、世界の問題に直結しており、その間にあるはずの「社会」を飛ばしているということです。意図的な方法として消去しているのか、それとも作者や読者に社会と関わる気がないからそうなっているのかを問わず。

少なくともわれわれが生きる現実と似た世界ならば、個人の問題と世界全体の間には具体的な社会が存在します。たとえば、エヴァの世界にも「シンジくん(自意識)」「学校やネルフの人たち(近い人間)」「ゼーレ(陰謀)」「使徒(世界規模の災害)」だけではなく、ふつ~に政治家や一般の行政やさまざまな思惑でネルフに資金を提供している企業の人たちなどがいるはずです。でもそういうのはほぼ描かれないしじっさい劇場版の後半では死んでる(そして特に話に大きな影響はない)んだな。

そして、社会は個人と世界全体の間に「必ず存在している」だけではなく、個人が世界にはたらきかけ「世界を変える」ためには「必ず通らなければいけない道」です。個人がこんなのおかしいよと思った世界のありようを変えるには、言論を発して同じ志をもった人を集めたり議論をおこしたり、署名運動やロビー活動など政治活動をしたり、次の世代の教育を支援したりと、具体的に身近からやらねばならんことがたくさんあります。さすがに物語作品の中ではそういう地道なことだけやってるわけがないとしても、あまりにも「社会」の道をまるまるとばして気持ちの問題だけでガチの実世界をどうにかできると思ってんのは怠惰でイタいんじゃねーの? 自意識ヒロイックに肥大しすぎか? ……というのが、「セカイ系」に向けられた批判や揶揄であったわけです。

もちろん、「プライベートな悩みや自意識の問題を世界の危機として感じる」とか「悩みが晴れると世界が生まれ変わったように感じる」とかの、心と世界のリンク感じたいはあるあるだし、思春期のヤングたちの心にバーンと訪れる必要な成長過程の過渡的な状態です。別におれぁ嫌いじゃないよ。そこのリンクそのものに問題(?)があるわけではありません。

(余談ですが、だから低年齢層や少年向け作品なら特に揶揄されるモンでもないものの、セカイ系と呼ばれる作品群は美少女エロゲーなどの成人男性向けオタクカルチャーの文脈と結びついていたため大の大人が無責任ナイーブすぎるぜェみたいに言われてたんですね)

 

ペルソナ=社会的接点の模索

 セカイ系が「具体的社会との関わりの不在」に特徴づけられているという見方を確認しましたが、そういう話だとペルソナシリーズはかなり「社会」です。むしろセカイ系から意図して脱色されている「社会の微妙に嫌なとこ面倒くさいとこ」よくばりアンハッピーセットとさえいえます。

ペルソナ能力はセカイ系っぽいワード「心の力」ではありますが、「心の中の力」というより「心が外界に接してできる外的側面の力」なわけですから、いわば「社会に対するソトヅラの力」で戦うんですよね。「外界との境界面に形成される力」といえばエヴァの「ATフィールド(心の壁)(上のやつ)」と類似してますが、ATフィールドが基本的に「他者の侵入を拒む硬いバリアの力」であるのに対しペルソナは「他者とうまく社会を作っていくために多様に変化する力」です。ペルソナは自意識の力ではなく、自己が社会との接点を模索していくこと自体の力なのです。

ペルソナシリーズには特徴として、セカイ系的な自意識に関係の深い「親との関係」「特別な親友や恋愛対象との関係」だけでない多様で微妙で同時並行的なたくさんの人間関係のしがらみのめんどくささがかなり描かれています。たくさんの「つながり」「絆」の網の中に抱きとめられているといえばそりゃ聞こえはいいですが、現実問題としてその「絡みつく人間関係のしがらみ」によって学校では妬みそねみが渦巻き、必要以上にキャラを演じることになり、根も葉もない噂や誤解や中傷があり、いじめが起き、誰も「ほんとうのわたし」を理解してくれないという孤独をみんなが抱えていて特に解決もしない、というのがペルソナシリーズに描かれている「社会」です。こうして書くとひどい。

ペルソナシリーズに描かれているキャラクターが独特なリアリティの魅力を持っているのは、そこに描かれている学校社会や大人の社会がイヤな意味でちゃんと社会しているからです。セカイ系はたった一人の大事な人が理解者になってくれればよくて、自意識が変われば世界も変わり、「自意識天動説」みたいな感じですが、ペルソナシリーズは地動説です。自分は世界の中心ではなく、いろんな問題の中にからめとられている小さな一部にすぎない。

 

世論という社会

 ペルソナシリーズでは一貫して「都市伝説」「噂」が扱われています。ペルソナ2で「噂が現実になる」ことは現実界・象徴界・想像界の中で「象徴界」の力が肥大することで人の想像界のイメージが現実界にもマジモンの影響を及ぼしてしまうってことだ、と前回の記事でお話ししました。セカイ系では「想像界」から「現実界」へ話がスッ飛んでしまうことが特徴なので、象徴界の力が重視されているペルソナシリーズはあんまセカイ系でもないということになります。

実はこのペルソナシリーズで扱われてる「象徴界」ってのは「社会全体でよく口にされるようになった考え方や空気」、いわゆる「世論」ってやつなのです。人々の不安により陰謀論の嵐が巻き起これば大規模なノーマスクデモも起こる。すごく社会。

心の力は世界に大きな影響を及ぼしますが、ペルソナシリーズでは「個々人の心」と「世界」との間にその「社会全体で話されている空気」が介在しまくっている、と描かれています。

セカイ系よりだんぜん「現実的」な描写ではあるのですが、だからといって起こることがマイルドだということではないのでそこんとこ注意が必要ではあります。個人の自意識のクライシスと世界のクライシスを直結させてしまうセカイ系と違ってペルソナシリーズの世界には「社会」というクッションがあるかのように見えて、その「クッション」は個人の不安や悪意を無尽蔵に増殖させる恐ろしい仕組みでもあるのですから……。

 

仲間という社会

 また、小難しくテーマを考えなくとも、げんにペルソナシリーズには多くの「仲間」あるいは協力者たちという社会が存在しています。

セカイ系の主人公にも友達や周囲の人間くらいいますし、RPGである以上パーティーを組む仲間たちがいるのは普通ですけど、ペルソナシリーズの仲間あるいは協力者たちにはけっこう特徴的な社会性があります。セカイ系では多くの場合、主人公の周囲の人間関係は主人公を中心とした天動説的なもの、あるいは「背景のモブ」です。しかしペルソナシリーズのパーティーメンバーは「個性的」というより同質性があまりにも低くてヘンな集団、それぞれ家族や学校、仕事でのつながりに問題を抱えていることが個性の源になっており、非パーティーメンバーを含めて(それこそお店の人なども)皆異なる社会的目的をもって動いています。

自意識の行き着く点に向かってすべてが動いていくというか、その軌道にあるものを描写することにしているのがセカイ系の方法ですが、ペルソナシリーズでは意図的にすべての星がてんでばらばらに動いていること、それこそが重要なのだとということが描かれています。

みんな完全には理解し合えず、同じにはなれず、違いからすれ違い憎しみ合うこともあっても、違うものだからこそお互いを映し合う多面の鏡になり、助け合い高め合うことができる……というのが、人間の社会のポジティブな機能です。

 

「寓話」としてのセカイ系

 「社会」の存在感を意図的にメチャクチャ強くされてることからいえばペルソナは「セカイ系」ではなく、むしろセカイ系であえて捨てられた社会のメンドさを大盛でお出しする二郎系の店だった、と述べてきました。しかし一方で、「心の問題がマジの世界クライシスをおこす超常的なトンデモ展開」という特徴はセカイ系と共通しています。

まあ確かに、個人の心の問題が社会や世論を動かしたからって、いくらなんでも噂が一瞬で現実にはならんし世界の危機に元気玉も発生せんわな。実際問題。ゲームなんだから当たり前だけどこういうところには現実以上の大幅な出来事の拡大がされています。

ここには、セカイ系作品のもつ「寓話」性がかかわってきます。

 

『少女革命ウテナ』および幾原邦彦作品の場合

 ペルソナ2とかと同じセカイ系の時期に生まれ、セカイ系であると言われたり違うと言われたりする作品のひとつにアニメ『少女革命ウテナ』があります。

『ウテナ』は上のビジュアルを見ての通り確かに「きみとぼく」の絶対的な二者関係を主軸にしており、二人の心の問題が結末の大きなクライシスをひきおこします。しかも舞台は「社会」から隔絶された寮制の学園で、二人の心の問題に関わる少数の人物たちしか描写されません。「セカイ系」の要件は満たしているふうに見えます。

しかし、物語を読み解くと、実は「社会から隔絶された学園」とは主人公の一人の閉じた心そのものを象徴する世界であり、物語は人物の心の中(想像界と象徴界)でおこっていた葛藤の比喩であってマジの現実というわけでもない話、つまり寓話のようなものであったことがわかります。そしてラストシーンで彼女は「外界と接しない、閉じていた心」であった学園を出ていくのです。

このように、『ウテナ』以下幾原邦彦作品アニメには「セカイ」的な心と現実を直接つなぐ描写がありますが、その現実もあくまで象徴的現実であり、「心によって現実が変わった」ことを意味しない……という寓話的構造があります。心によって変わるのは心の問題であり、現実のできごとそのものではないのですが、映像的には象徴として現実の容シーンが描かれるのです。

 

四つの層

 そりゃフィクションなんだからフィクションの中の「現実」は現実じゃないのは当たり前なんですが、表現する側や受け取る側がある描写を「物語の中の現実」と意識しているか、それとも「何かの比喩表現」と意識しているかっていうのはけっこう違いがあります。そして物語の中には「物語の中の現実」のストーリーラインの上に「比喩」「作者の自伝」「時事」などのいろんな要素が入れ代わり立ち代わり登場し、ときには同時に重なって語られているものです。

亀山郁夫はドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を読解するにあたって、物語作品は「物語層」「自伝層」「歴史層」「象徴層」の4つの層から読むことができる、と述べています。こまけえことは上の100分de名著を読んでくれなんですが、つまり物語で描写されているできごとのプロット(物語層)が作品のすべてではなく、それを語ることによって歴史的事実との関連を示唆してることもあるし、象徴的な原理の対立を描いてることもあるよ、というわけです。

そのため、物語でなんか荒唐無稽なトンデモ展開入ったな、と思ったら、それが「マジで『不思議なパワーでこうなりました』と描こうとしている」のか「何かの比喩の層が強いパートに入った」のか、ちょっと焦点を調整して見る必要があります。

ペルソナシリーズの作品のクライマックスの展開はいつもこの「比喩の層が強いパートへの突入」です。例えば、2は全体に「噂が社会の空気を左右し、やがては現実になってしまう」ということの寓話的表現強めですが、『罪』のシバルバーに入ったあとの「考えたこと、口にしたことがすぐ現実になってしまう」という高レベルの超常現象は、「人はなりたいものになれる」という作品の大テーマのまとめに向かうための比喩強めの表現です。

「セカイ系」的な表現が本当に自意識に世界を収束させていく物語の表現なのか、それとも現実のわれわれに対して比喩的に「現実でいうこういうことについて描いてますよ」と語りかけている表現なのか。ペルソナシリーズは明らかに後者が意識されてますが、作り手が特別意識していない場合もあり、ひとつの作品の中でさえ入り混じっていることがあります。セカイ系の祖的な存在であるエヴァに関しても、新劇場版のほうが現実のわれわれの社会の比喩としての描き方が強めに意識されてるなーっておもいます。

 

ペルソナシリーズの生存戦略

 てな感じで、ペルソナシリーズはセカイ系とはパッと見似ているけど根本的にはむしろ正反対のこともしているっぽい、と話してきましたが、「セカイ系」が「社会」という「もはやわれわれを救ってはくれないもの」をあえて捨てたところに生まれた流れだったことを考えると、ペルソナシリーズってめんどくせーんですよね。社会、やはりめんどくさい。

でも、現代哲学全体のベースであるヘーゲルとかによれば、人間の自意識や自己というのは「それ単体で確立するものではない」んですよ。

簡ッ単にまとめると、「ほんとうのわたし」が「どういうものであるのか」が最初からあって部屋にこもって内面を探求していくとみつかる、なんてことはなくて、「何者であろうとするか」「何をなすか」が他者や社会との関係の中で外から評価されることによって、人は鏡を見るように「わたし」について知る、ということです。気付いたとおもうんですが、これってペルソナシリーズのテーマですよね。

 

 今紹介したヘーゲルやマルクスによる人間自己と社会とのかかわりに関する思想は、19世紀から現代にいたるまでわりと有効に生き続けてるんですけど、20世紀末にいたってそれに疑問が生じてきて「もはや社会に所属するタイプの自己実現はオワコン、やっぱ社会より内面の探求だよ!!」となった動きのひとつがセカイ系です。

確かに20世紀末の日本社会では経済成長に翳りが見え始め、「がんばって働けば夢が叶って幸せになれる」という希望がいまいち失われたまま学歴や仕事の成績の競争ばかりが激化し、「社会によって敷かれたレールを走っていてもコースアウトするか、そのまま何者にもなれないのではないか」という不安が「社会の空気」として蔓延していました。それまでの巨大ロボものの正統派主人公は父的な社会にロボに乗りなよと言われて乗り、なんやかんやで英雄になりましたが、シンジくんはエヴァに乗れって言われてもムリだよぉイヤだよぉ自分の中に閉じこもってたいよぉって言う。そんなことして何になるの?と疑問をもったからです。

しかも、この動きはなにも引きこもりがちなオタクにだけ起こったことではありませんでした。同時代のすべての若者たちにも、「自分探し」「占い」「癒し」などの内面に真実を求めるような考え方がトレンディーになったのです。

 

 ここがおもしろい構造なんですが、ペルソナシリーズがヒットしたのもこのような「(社会に所属することの中にではなく)自分の内面に真実を求める」というトレンドがあったからです。

「心の力」「自分の中のもう一人の自分」「オカルト」等の要素は内向的な方向性にぴったりですよね。しかし、ある意味そういうセカイな感じのエサで釣っといて、「心の力」を実現するにはやっぱ「社会の中の自分」が不可欠なんだよ、という正統派マジレスにいつの間にか連れていくというニクい仕掛けがあるのがペルソナシリーズなんですわ。実際1作目の異聞録がもう……あの二人のセカイ系絶望に引導を渡す的な話だったんだな……。

そういう意味で、ペルソナシリーズって一見前衛的というか若者ポップカルチャー的に見えて実はかなり地に足のついた王道な自己実現物語なんですよ。古風。

しかしやはり、若者がこれからの世界をどっこい生きていくためには、この古風な生存戦略が結局のところいちばん有効だし、そしてまだまだ言い足りないんじゃないでしょうか。

「何者でありたいかを示し、他者という社会に対して何かをなせ。他者がそれを評価してくれて、そこからしか『自分』は得られない」

「何者かであろうとし、何かをなしたところに、人との絆は生まれるだろう」

と。

 

 

 付録なのにいろいろめんどい話にしちゃったよ。次こそはタロットの話したいですね

 

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