本稿では『ファイアーエムブレム 風花雪月』の「黒鷲(帝国)ルート」「紅花の章」のテーマ、関連して「解放王ネメシス」「アイムール」「紋章石」などについて考察します。
今回は予想考察じゃなくてちゃんと紅花クリアしてますよ。今までの序盤の予想で好き勝手言った記事たちはこちら↓
わりと合ってるいい言語化だと評判!!
現在、青獅子ルートをいったん休止してダウンロートコンテンツの煤闇の章をプレイし始めてます。それというのも次かその次あたり、ちょっと前に書いてた『FE風花雪月と中世の爵位』シリーズあるじゃないですか、
このシリーズのラストとして実際のフォドラ史における徳川セイロス家康の支配構想のあゆみの記事『天下分け目のタルティーンヶ原』を書こうと思ってるので、その前に歴史的事実はなるべく拾っておこうと思って。
【追記】徳川セイロス家康かけたよ
というわけでタルティーンヶ原の前に、黒鷲・紅花ルートでは(視点に反セイロス的な偏りがあるとはいえ)けっこうな歴史に隠された秘密がテーマと大きく関わって明らかになったので、今回は作品全体、世界観全体の中での紅花ルートのキーポイントとテーマについて話していきます。
当然めちゃめちゃネタバレを含みます。
炎の王、鉄の王
プレイヤーがゲームを開始していちばん最初に認識する人物名は「セイロス」と「ネメシス」です。
この古ギリシャ語的な雰囲気をもつふたつの名前は、一瞬モブ兵に呼ばれるだけの「セイロス様……!」よりも、すごく強くて悪そうな野蛮なおっさんで、井上喜久子声のきれいなお姉さんに殴り倒され「〇ね! 〇ねッ!!」て執拗に刺されたほうの「赤き谷を覚えているか、ネメシス!」のほうが明らかにインパクトをもって印象に残るようになっています。当方なんかセイロスの名前のこと、「こ、この人サイトで見た大司教の人と同じ顔と声しとる! ウオオ殴ったー!?」ということに紛れて忘れてましたからね。
「ネメシス」この、プレイヤーに最初に残る固有名詞の意味は、「復讐」。
さまざまなフィクションでギリシャ神話の「復讐」の概念神ネメシスの名前は有名です。ネメシスのおっさんはオープニングムービーの場面では復讐「される側」だったらしいと見えますが、「この物語の幹には『復讐』が関わってくるのかもしれない?」という線がなんとなーく張られます。
しかも、この復讐のネメシス(音速のソニックみたいなこと言うな)(閃光のフラッシュ)はギリシャ神話の神格としては女神であり、復讐は復讐でも私怨みたいなニュアンスのものではなく、「神による正義の裁き」「当然の報い」みたいな性質のものをさしているんですよね。だから、これは制作側が意図したことかはわかんないですけど、名前が出てくるたびに違和感がモゴモゴし、頭は考えだし、疑問が浮かび上がってくる……。
「正しき復讐」ってなんなのだろうか?
「解放王」ネメシスってなんなんだ?
「復讐」すれば「解放」されるような気がなんとなくしているけれど、
それは何から?……
”解放王”ネメシスとは何か
ネメシスが「伝説の王」でありもとは「盗賊」であったというのは、ファイアーエムブレムシリーズ最初期作の世界の帝国的存在「アカネイア王国」の古の初代王アドラ1世が実は竜族(風花雪月でいう眷属)の聖武器を奪った盗賊であったというシリーズネタを踏襲しています。
今作はそのシリーズ最初期のネタに、さらに精密にテーマを描写する世界観設定が描きこまれているぜという感じになっています。
紅花ルート(及び翠風ルート)で明らかになった、「セイロス以前」の世界、ネメシスの世やソティス生前、さらにそれより昔に推測されることまで、ざっくり流れを確認しておきましょう。
ソティス降臨
フォドラ外生命体ソティスが青海の星のほうから飛来する。ソティスは眷属を生みだしつつ、おそらく科学文明の濫用で荒廃してたフォドラの自然サイクルを復帰させる。
ソティスと眷属たちの支援によって、北斗の拳世紀末だった人類の大多数は部族社会くらいまで回復、ソティスたちとわりとうまくやって地上では持続可能な文明の穏やかな時間が流れる。少数の科学者っぽいものたちがソティスの世界バランスから逃れ地下に隠れ住み、科学文明を保持する(アガルタの民)。
ネメシス台頭
フォドラの大地を癒し、最後の眷属セイロスを生みだしてからしばらく後ソティスは役目を終えたとばかりに亡くなる。
科学文明の光をソティスに阻害されたと恨むアガルタの民に後援っていうかそそのかしを受けて、盗賊ネメシスが眷属の居住区ザナドからソティスの遺骸を盗み出す。アガルタ民がソティスの遺骸から抽出した炎の紋章と天帝の剣にネメシスは適合。
このへん前後関係はわからんが、ともあれアガルタ民とネメシスはザナドに生きている眷属も殺して遺骸を集め、死体から作った武器(現在英雄の遺産と呼ばれているもの)とそれを制御する紋章をアガルタから手近なフォドラ北東部の部族に配る。あるいはアガルタ民からもちかけられた取引に乗って適合実験に生き残った者たちがその力で部族の長となる。この部族長たちが古の十傑(と獣の紋章のモーリス)。
眷属の血に直接適合したネメシスと十傑たちは超人の身となり(作中でいうジェラルト状態)、数百年を生きて部族を繁栄させる。この間に、通常の生殖によって紋章の遺伝子を継承した一族の者たちも生まれてくる。フォドラ北東部、アガルタ民とネメシスを中心とした連合が繁栄。
セイロス奮闘
お母さまのお墓を荒らされ家族を皆殺しにされたザナドの惨劇を生き残った幼いセイロスは、「おぬしがなんとかするんじゃ」とか聞いた気がして立ち上がる。たぶんだけどアガルタ-ネメシス政権に奴隷化されてたのかもしれないフォドラ南西部でレジスタンス活動をはじめる。水道をはじめとした知恵と技術を与えて人々の暮らしを豊かにし、散り散りに生き残っていた眷属を集め、アンヴァルの街を築いて指導者となる。
アドラステア帝国を成立させ、兵力を集めてセイロスはタルティーン会戦に臨む。人数がいても十傑たちとの力の差はヤバかったが、一騎打ちに持ち込んでネメシスを討ちとって勝利する。フォドラ全土はアドラステア帝国とセイロス聖教会の支配するところとなる。セイロス聖教会はネメシスを「邪神から人々を解放した」が「邪神の力に呑まれた」という設定にし、支配を正当化する。
……とまあこんな感じのことが、セイロス聖教会の秩序以前にはおこっていたらしいのです。つまり「解放王」ネメシスが「邪神の支配から人々を解放した」というのは教会が作ったウソ設定であり、実際は邪神とかそういうファンタジックなやつはいなかった。じゃあエーデルガルトが「解放王ネメシス……!(⁰v⁰)」ってちょっと憧れてるようすなのはウソに憧れてしまっているんか?
↑ウソストーリーを語る寓話作りおじさん↑
エーデルガルトは「教会に敵対した」けれども「人々を解放するため戦って勝った王者」として解放王ネメシスにシンパシーを抱いています。今確認したように、「ネメシスは邪神から人々を解放した」というのはウソなわけですが、「ネメシスは人々を解放した」というのは、実はウソであるとは限りません。ここが面白いところです。
ネメシスは「女神から」炎を盗み出し、技術の力という炎を奪われ管理された状況から「人々を解放した」のです。
それが女神を憎むアガルタの民に利用されてやったことだとはいえ、エーデルガルトがネメシスに共感する象徴としての意味はそこにあります。
盗賊コスタス
「シリーズ古来の伝統を踏襲」した「盗賊」といえば、ネメシス以外に序盤に襲撃してくる盗賊コスタス兄貴がいます。
コスタス兄貴いつもお世話になってま~す(チクチク)
序盤の経験や周囲の有力者からの後援稼ぎとして、根城にこもった盗賊団のおかしらをボスチクボスチク討伐するというのはFEシリーズのお約束であり、ふつうはそこに大した意味はありません。盗賊が跋扈する困った世の中なんだなあくらいで。でも風花雪月ではこれもネメシスと同じように、ネタを踏襲しつつもよくできた伏線を張っています。
コスタス兄貴のパラをよく見てもらうと、配下に連れている自分の盗賊団、名前が表示されているんですね。盗賊団チーム名が。”鉄の王”と書かれています。
鉄というのは世界各地の神話の鍛冶神、日本でいうとオオクニヌシの出雲の製鉄などにみられるように「技術」「進んだものづくり」の象徴です。また製鉄には非常に高温のすごい炎の力を要することはよく知られてますね。紅花ルートがヨーロッパ四大元素の「火」、小アルカナの「棒」に相当すると↓この記事↓で述べましたが、鉄は「棒(ワンド)」のあらわす「炎、科学技術、人間の知恵が上に進もうとする力」のド真ん中をいくキーワードなのです。
だからエーデルガルトにそそのかされた盗賊”鉄の王”のコスタス兄貴が赤き谷ザナドにいることは、アガルタの民にそそのかされた盗賊であり”炎の王”のネメシスがザナドを襲撃したことの再話、リフレインとして機能しているのです。
さらにこれは「聖墓の戦い」で配下に紋章石を盗ませようとする炎の皇帝エーデルガルトまでリフレインします。その符合は解放王ネメシスに憧れる炎のエーデルガルトや、同じく炎の紋章をもつ主人公、「紅花」の赤の物語に進むものたちもまた、「神から火を盗んだ盗賊」なのではないか?と示唆しています。
「私たちは相容れない正義をもつ相手を、排除して進んでいくしかないのよ」
生きるために戦い、望みの道を奪取し、相手の道を閉ざす。
エーデルガルトはコスタス兄貴にこんなん言うけれども、「覇道」とは結局、「盗賊」と同じなのではないか?と。
アイムール
エーデルガルトの専用武器「アイムール」はパッと見「破裂の槍」とかの英雄の遺産みたいな見た目(オレンジ色に禍々しく光る、異形の生体材料っぽい、脈動している)に見えますけど、武器説明はこれ独自の「紋章石改造武器」となっています。事実これは英雄の遺産とも眷属の神聖武器とも来歴がちがっています。
英雄の遺産はさきほど歴史の整理でのべたように、ソティスの眷属の死体と紋章石を材料にして古の十傑の時代にアガルタ民が作り出したものです。一方眷属の神聖武器(アッサルの槍やカドゥケウスの杖、ベガルタ・モラルタの剣など)は眷属の生前に当人の力とリンクできる専用の武器として聖マクイルが作った武器で、こっちは別に死体は使ってません。
で、アイムールはというと見た目的に明らかに眷属あるいは魔獣の死体の骨を原料にしており、かつてアガルタの民が英雄の遺産を作ったように最近のアガルタの民が最高傑作・エーデルガルトのためにチューニングしたものと考えられます。しかし、こういった眷属の力を利用した武器の核となる紋章石穴にはなぜか「獣の紋章」の紋章石がセットされているのです。
これはどういうことか?
このことを考えるためには、まず「紋章石って何?」かを確認する必要があります。
作中ではっきり言われたんだかは忘れましたが、使われ方や象徴性からして、紋章石とは竜(眷属)の心臓です。FEシリーズの伝統では「マムクート(竜人)」のもつ「石」といえば人間形態から竜形態に変身するための制御石のことですが、今作では竜の紋章石は竜が死んだ後に残ります。「竜が死ぬと心臓などが絶大な魔力をもった貴重な石に変わる」というのはヨーロッパの伝説でよくあるパターンですし、日本でもこれが『リダーロイス・シリーズ』などのドラゴンファンタジーに描かれています。
レア「おやめなさい!(><) あなたたちはその石を! なんだと思っているのです!!(;Д;)」
答え:家族の心臓
つまり紋章石を核とした武器は竜が死なないと絶対に作れないのですね。心臓なんだからよ。
エーデルガルトのもつ紋章は「聖セイロスの紋章」と「炎の紋章」ですが、炎の紋章のソティス製の武器と紋章石は先生が持っているし、聖セイロスの紋章は本人生きてるんで、紋章石があるわきゃない。女神再誕の儀襲撃戦のあと炎帝(つまりエーデルガルト)とアランデル公が「セイロスの棺に遺骸なかったのかー(´・ω・`)」「天帝の剣あったけど紋章石なかったのかー(´・ω・`)」と話していた、あれはエーデルガルト用の武器の材料が手に入るといいナ、と思っていたのでしょう。ないで~す。
じゃあなぜ獣の紋章の紋章石が(モーリスの英雄の遺産以外に)あるか? それはたぶん、獣の紋章の継承者はマリアンヌの父が失踪したみたいなことが今までにも何回かあって、モーリスのように魔獣化していたのでしょうね。その心臓でしょう。そういう貴重鉱石(紋章石)ゲットチャンスがあるのは獣の紋章だけですから、アガルタ民に回収されて材料になったのだと考えられます。
(余談ですが、なんで違う紋章の武器を使いこなせてるかは、アガルタ民のチューニングのおかげだけではなく炎の紋章が「すべて」を司っているからだと考えられますね)
エーデルガルトは本来レアの持ち物であるフランベルジェ型の剣(神聖武器セイロスの剣)↑を振るうこともありますが、これだってほんとは生きてるレアに所有権があるはずのものだし、専用武器は死体から奪った材料を寄せ集めて不自然に作ったものだし、全部盗んだものなん。帝都アンヴァルのインフラもアドラステア帝国の基礎制度も帝国の技術的繁栄もセイロスが作ったのに恩を仇で返すし全部全部ぜ~~~んぶ。
でもさ。
わたしたち人間が文明社会で生きてて、自然から、世界から「盗んで」ないものなんて、そんなにある?
原罪を抱きしめて
われわれは現代社会でふつうに生きているというだけで、何かを「盗んで」いる。これは普段目をそらしている、でも厳然たる、事実です。食べるために食べ物の命を奪わなければならない、ということはペトラとベルナデッタの支援会話の話題になりますが、そういう生きるために最低限必要な範疇を超えて「盗む」。
古くは森を切り倒して農耕や製鉄をし、ちょっと前には無軌道に公害やらゴルフ場開発やらで自然の浄化能力に甘え、今も地下資源を吸い上げ続けている。
環境問題だけじゃありません。発展途上国の労働力や安全を搾取し、貧困層から搾取し、経済的な問題じゃなくても思想や文化的な少数者をそれと知らずに踏みつけて、それが「ふつう」に生きているということです。わかりやすい「悪人」なんかじゃなくても、近現代的な文明社会で生きている限りそういう罪から逃れることはできない。
現代の文明が頼りきりの化石燃料なんて古代の生き物の死骸なんですからある意味英雄の遺産みたいなもんですよ。灯油ファンヒーターないとこの記事も書けませんよ。
われわれは本当はみんな、盗賊なのです。何も見えない知らないではすまされない。なぜなら文明の炎の光を持っているから。
ファンヒーターを持っているから当方も記事を書く義務がある(?)。
プロメテウス
ヒトの文明が「盗んでいる」ということについては、以前予想で考察した「プロメテウスの炎」の神話がずっと昔から示しています。
ギリシャ神話のプロメテウス神は「人間に(神に背くような)知恵を授ける神」で、
「人間なんて邪なアホに火あげてもろくなことになんないよ、あいつら絶対火使って傷つけあうし」
という主神ゼウスに背いて天上から火を盗み出して人間に与えました。結果人間は技術と知恵の炎を手に入れましたが、完全にゼウスの言った通りに愚かにドンパチ戦争しはじめました。炎を盗んだプロメテウスは山に磔にされて毎日肝臓をハゲワシにつつかれる永遠(約3万年)の痛苦を課せられます。いいことなしかよ。
物語を理屈で考えるといいことなしみたいに思えますが、当然今の人間の文明があるのは「プロメテウスが火を盗んでくれたから」ということになります。
有名なこの神話には前日譚があります。ゼウスが「わしら神への捧げものと人間の食べるものが同じっていうのもアレだよね、分けない?」と言い出し、親ヒト派のプロメテウスが一計を案じます。牛をさばき、人のためには栄養豊富な内臓や肉の赤身、神用に骨ゴミを取り分けて、ゼウスが骨ゴミのほうを選ぶように内臓と肉をまずそうな皮で包み、骨ゴミをおいしそうな脂身でコーティングしてどうぞお好きなほうを選んでください!って出したのです。「ゼウス、脂身大好き~!」と選んでから騙されたことに気付き、もとはといえばこの詐欺への罰としてゼウスは人間から火を取り上げたのでした。すごい、詐欺! 窃盗! ヘルメースもビックリ!
そしてこの神話は、日本神話の「ニニギノミコトとコノハナサクヤビメ」と同じように「人間の命がなぜ有限で儚いものなのか」の説明物語ともなっています。ニニギノミコトとその子孫(天皇家)が儚く死すべき命なのは「美しい一瞬の花」である妹コノハナサクヤビメを娶り「美しくない永遠の岩盤」である姉イワナガヒメを拒否したからだと説明されます。プロメテウスの神話での説明は、「骨や脂身といった半永久的で保存のきくものではなく、内臓や赤身肉のようにすぐに傷んで腐ってしまうものが人間の取り分になったから」です。
しかし、内臓や赤身肉は、人間にとって栄養豊富だとプロメテウスが与えたものなのです。炎の技術や知恵のように……。
ヒトは神をだまして炎を盗んだから、知恵を得、よく育ち、そして死すべき運命の呪いをかけられたのです。それは文明と遺伝子に刻まれた呪いです。
イブとアダム
神に背いた罪の罰として、死すべき運命の呪いが遺伝子に刻まれているといえば、世界で最も有名な例は、そう、
この人類最初のご夫婦ですね。
ご存知、アダムとイブの楽園追放のだいたいの筋書きです。神に見守られて永遠の楽園エデンのシムシティに暮らしていたアダムとイブが「これだけは食べないでね」と神に言いつけられていた木の実を蛇にそそのかされて食べちゃって、その木の実っていうのが「善悪」とか「知恵」とかをつける実でさ、その罪によってふたりは子孫までずーっと続く原罪と呪いをうけて、楽園から追放されたんですよね。
この「自我」をもち自分の判断をすることによって「大人になる」と同時に「罪を背負う」というのは、聖書の中でも最も有名なこのエピソードを下敷きにしていろんな作品に描かれています。『少女革命ウテナ』のモチーフになっているヘルマン・ヘッセの『デミアン』では主人公の明るい幼年時代が「りんごを盗む」ことによって暗転し居心地のいい生活が失われます。郷ひろみと樹木希林がかつて「ア~~~ダムとイブ~が~~リ~~ンゴを食べてから~~ フニフニフニフニあとをたたない~~」と「林檎殺人事件」を歌ったように、個人の自我や知恵を獲得することは「あとをたたない」人類の罪とセット売りなのです。
『美食探偵 明智五郎』『輪るピングドラム』など最近の作品でもこの「赤いリンゴ」を人類が盗んで食べたことにまつわる切り分けえない愛と文化と罪と罰、生と死は描かれ続けています。帝国ルートにおいてこういう「個人の自我」「知恵」が特に重視されていることはアダムとイブを象徴とする「恋人たち」アルカナ=聖セスリーンの紋章の記事でももうちょっと詳しく書いてますよ。
人が生きているということと、この「盗んだ」罪は分離できない。盗んだ罪の罰として、人は有限で儚い命となり、知恵の光があるので、何やっても罪を負うことから目をそらせず、苦しみから逃げられない。誰かを傷つけ、自分も傷つき、血を流しながら進んでいくしかない。
そしてもうひとつ、神が人に与えた呪いがあります。
それは、「イブとその娘たちは血を流して苦しみ子を産まなければならない」という呪いです。
上記事にも引用しましたが、呪い(curse)とは英語などにおける月経の別称なんだって。
母と娘
詳しくは紋章とタロット大アルカナの対応個別読解でまた書くんですけど、エーデルガルト(そしてセイロス=レア)のもつ「聖セイロスの紋章」は大アルカナの「女教皇」に対応しています。
この対応は一見たんに「女性大司教であるレア」のことをそのまま言っているみたいですが、「女教皇」のカードには複雑な意味があります。このカードは「母と娘」を意味するのです。
女教皇のイメージは「聖母マリアの出産」みたいな感じです。「神の子」みたいなわけわからん概念を女教皇はかたちあるものとして世に産み落とすことができるんですよね。レアがなんやかんややった修道女シトリーと聖セイロスの紋章に適合したジェラルトによって主人公は生まれてきました。これは人間の命だけじゃなくて、セイロスがソティスの「おぬしがなんとかするんじゃ」みたいな声によって新しい世のかたちを具体化したこともそうです。
女教皇は(処女でありながら)「出産」し、そしてこどもたちを正しい方向に教え導きます。これは「教師」という風花雪月全体のテーマのベースにもなっており、指導しているといちいちセイロス印のハンコが押されますよね。みましたポン!
心臓がはじまったとき
さっきもアイムールの話をしたように、紅花ルートはそんな「おかあさん」であり「せんせい」であるセイロスに恩を仇で返す戦いといっていいでしょう。
レアがエーデルガルトに滔々と説くように、エーデルガルトの祖先、つまりアドラステ皇家はレアに協力し、協力したから皇家になったのです。セイロスが戴冠してあげたのに、その権力をもって戦争をおこしてくるエーデルガルト。
そしてレアは主人公に何度も「返しなさい」「私の責任で回収します」「なかったことにします」といいます。確かに、レアの意思で与えられたとはいえ主人公は天帝の剣とかいろいろ着服していますし、それでレアに斬りかかるのはまさしく盗人猛々しい感あります。セテスに預けられたアッサルの槍でフレン殺したりとか筆舌に尽くしがたい恩知らずです(やった)(ごめん)。
まあアッサルの槍とか天帝の剣そのものは返還できるかもしんないですけど、主人公の力は「返せ」と言われてもホイよと返せないのです。だって、ソティスの紋章石が心臓のペースメーカーになってんだから。レアに「返す」としたら死んで心臓をえぐり抜くしかないので、それは聞けないお願いです。
しかし、このレアの無理な「返して」「失敗作」「なかったことにする」「私の責任で回収します」「あなたみたいなの作るんじゃなかった」という叫び、なんだか聞いたことがあるんです。
これは、病んだ母親が、思い通りにならない子供に「出産の返還」を要求している叫びそのものではないですか。「こんなことなら産まなければよかった」と。「体に戻って、産む前に戻して」と。子供からしたら「あんたが勝手に産んだ」のに、主人公からしたら「あんたの勝手でお母様練成してた」のにですよ。
そのように聞いてみると、「返して」と泣くレアに告げてあげるべき、別れの言葉が静かに浮かんできます。
「返ってあげられないよ。もう生きているから」と。
もう生きている。最初は母からもらった血肉でも、もう自分の命を生きているのです。
母や、周囲の大人から「奪う」ことをしない命はありません。まともに愛されなかった命であれ、必ず与えられ、それを返さない。すべての子どもは「盗んで」います。母から命をまるごともらわなければ主人公は生まれてすぐ死んでいました。それは主人公だけではなく、みんなそうだということです。
帝国という社会のしくみや、紋章、英雄の遺産、全部そうです。最初は貸し与えられたものや、盗んで奪ったものでしたが、それを持ってヒトは何代も生き、それぞれの歴史を刻んできたのです。もう、人間のものです。人間の社会です。レアは返還を要求することはできないのです。かつて奪われたものであっても。レアには、「おかあさん」には気の毒なことですが。
そして盗んだものを、もとあったように「返す」ことはそもそもできない。それなしで生きていけるようになっても、自力で心臓が動き出しても、レアの求める「昔のお母さま」「あの幸せな暮らしのすべて」は二度と帰ってくることはない。
紅花の少女
ところで、体細胞分裂がおこるとき、分裂前の細胞を「母細胞」、分裂後のふたつのちいさい細胞のことを「娘細胞」っていいます。もともとのことを「母」というのはいいとして、なんで「娘」細胞なの?と思ったことがあります。「子」細胞じゃないんだ。
なんで?
それは、「娘」はいずれ「母」になって、また「娘」を産む運命だからです。
セイロスは女神ソティスの末の娘でした。幼かった彼女は血を流し血を浴びながらフォドラの新しい秩序を産み、フォドラの母となりました。
そして今フォドラにはエーデルガルトという「セイロスの末娘」が生まれ、また新しい世を産むために苦しみ、大量の真っ赤な血を流している。
この赤い花のごとき流血は、母から娘へ、女から女へ、いや、それが象徴する、原罪あるすべてのヒトからヒトへ、ずーーーーっと受け渡され続けている祝福であり、呪いなのです。血を流し、身を引き裂かれ、すさまじい苦しみを受け、次の何かを命がけで産むという流血の呪い!
エーデルガルトが盗んだ武器でセイロスの秩序に反旗をひるがえしたように、セイロスもまた、エーデルガルトからすれば「人が作り出した武器である英雄の遺産を十傑を殺して集めた」。さらにそれより前には女神から奪われたと思ったアガルタの民がザナドから奪い、さらにもっと前には……。
「アダムとイブが林檎を食べ」たときまで、この呪いはさかのぼれてしまいます。みんなずっと、呪いにもがき解放されようと「復讐」をし続けている。復讐に復讐を重ねつづけている。母が娘を産み娘がまた娘を産むようにです。だから紅花の物語の終幕は、母と娘の物語の行く末でもあります。
ひとり娘が自分の人生を生きていこうとするとき、母がそれをあらゆる手で阻害し足を引っ張り、家から離さないようにしてしまう……という現代の問題が「毒親」とかのジャンルでよく言及されています。さっきのレアの「返して」みたいなメンタリティが母の中で爆裂しちゃうんですね。
たいていの善良な娘は母が憎いわけではないので、エーデルガルトもレア個人とかセイロス教そのものが憎いわけではないので、なんとか穏便にやっていけないかな…とも考えるのですが、穏便で行儀よく親に対する敬意を保って…とかやってるとぜんぜん逃げられねえんだなコレが、だからね、「お母さん、私は私の人生を生きていきます! テメーを傷つけても!!」「このクソ娘ええええ」と関係をぶった切ってお互いハデに苦しまないとムリだったりするし、その痛みは場合によっては二度目の出産のように、流すべき血、切らないと二人の個人になれないへその緒だったりするかもしれないんですよ。
性別とか実の母であることとか親子関係にも限らないのですが、「育ててくれた親」が「こっちに戻ってこい」って泣いても、本気でそう思っていても、「戻らずに歩いていく」のが「育ててもらった子」が育ててもらったお礼として本当にすべきことじゃないですかね。だって、生きていくために育ててもらったんだ。たとえ親的な人の望みがずーっといっしょにいることだったとしてもです。それは関係ない。
そして「娘」はまた「母」になり、たとえ自分も「娘」に傷つけられて去られても、もはや後を追うべきではないのです。
この支配からの卒業
さきほど、「『おかあさん』『せんせい』を表す女教皇アルカナの聖セイロスの紋章は指導パートのハンコとして、『教え導く』という今作のテーマのベースになっている」みたいなこと言いました。前半の主人公は確かにレアに導かれ、「子供たちを頼みます」「あの子たちを導いてあげてください」と言われ、生徒たちを導くことで自分の人生の実感をも得ます。
人が人を教え導くということは双方にとってすばらしいことです。自分の頭で考えない人間が育ちやすい現代日本ではレアみたいな「正しい秩序を守らせるおかあさん」の教育はよくないって言われがちですけど、それでも「人を殴ってはいけません」とか「赤信号では止まりましょう」とか「困っている人を助けましょう」とかそういう基礎ルールを知らなかったらなんもかんもどうしようもないですから、まず枠の中で基本の規範を学ぶって思うよりずっと大切なんですよ。だからレアは間違っているわけではありません。
でも、卒業の時期ってのはくるんだな。寂しいけど。
当方も教育系の仕事をしてるのですが、この春にも教え子が巣立っていきます。分数の足し算教えてた子が、大学に行ったり。ほんと全然危なっかしくて自分で自分の勉強管理できそうにもない子とかもいてハァーおまえが一人暮らしとか大丈夫なわけないだろ?!と思ったりもします。ゼウスが「人間に火はまだ早いんじゃないの……」て言ったのまったくその通りだよ的な気分にもなります。
でも、心配が的中したって、あの子たちは一人で火でも刃物でも使って失敗して怪我してケンカして生きていくべきなんです。なんにも、もう、安全じゃなくていいし、せんせいに許しを得る必要はない。親から借りパクした知恵を振り回し、先生からいつの間にか盗んだバイク(概念)で走り出せばいい。
子どもは、子どもだったとき親から「盗んだ」なにかを、かじったスネを、もらった祝福を、返さなくていい。
信じられぬ大人との争いの中で
許しあい いったい何 解りあえただろう
うんざりしながら それでも過ごした
ひとつだけ 解っていたこと
この支配からの 卒業――尾崎豊『卒業』
その紋章石(バイク)でどこまでも走っていくのです!
いつか、「母」となり、「娘」に後ろ足で砂をかけられる、その日をも祝福して。
おわりに
ところで風花雪月の第二部の散策システムの変化、いいですよね。大好きです。何がって第一部では「教員研修」として修道院職員の大人としかできなかったコマンドが、「高度教練」として生徒たちみんなとできるようになってるところですよ。
というかもうこの子たちは「大人」なんだなって、それでわかって。当方より優れてる技能を逆に教えてくれるようになって、あ、ここ、一方的に教える権力関係じゃなくて、教え合う大人どうしの関係になったんだなって。
個人として責任ある人間と人間、ともだちになれる関係になれたんだなって思って。それがすごくうれしかったんですよね。そうじゃなきゃそもそも生徒と結婚なんかできないし。
母と娘が分離するのも、寂しいことばっかりじゃないと思うんですよね。ともだちができるんだから。レアがつらくて狂っていったのも、フォドラの子どもたちは庇護対象であってともだちじゃなかったからなんじゃないですかね。神様ってそういうところがつらいんだと思うんですよ。民を守り導く「皇帝」もそうです。
だから、手遅れだったかもしれないけど、人が神様から自立しようとして立ち向かうっていうのは、皇帝という「母」として民を導くしかないと思っていたエーデルガルトが師という「ともだち」を得て示した、ある意味「私たちはあなたとも対等なともだちになれる!」っていう……ある種の「神への愛」でもあるんだと思うんですよね。
卒業おめでとう。何かから卒業したみなさん。あなたは今心臓が動き出したのと同じ。
卒業された何かを代表して、あなたとともだちになれるのが楽しみです。
↓おもしろかったらブクマもらえるととてもハッピーです