湖底より愛とかこめて

ときおり転がります

「法王」アルカナのキャラモチーフ―ぺるたろ⑤

本稿はゲーム『ペルソナ』シリーズとユング心理学、タロットカードの世界観と同作の共通したテーマキャラクター造形とタロット大アルカナの対応について整理・紹介していく記事シリーズ、略して「ぺるたろ」の「法王(Ⅴ The Hierophant)」のアルカナの記事です。歴代の「法王」アルカナのキャラ、南条圭、荒垣真次郎、古本屋の老夫婦、堂島遼太郎、佐倉惣治郎の描写の中のタロットのモチーフを読み解きます。目次記事はこちら。

 

『女神異聞録ペルソナ』『ペルソナ2罪』『ペルソナ2罰』『ペルソナ3』『ペルソナ4』『ペルソナ5』およびこれらの派生タイトルのストーリーや設定のネタバレを含みます。今回の記事では『4』『5』で指定されたことのある公式のネタバレ禁止区域に関するネタバレは含みません。

ちなみに筆者はシリーズナンバリングタイトルはやってるけど派生作品はQとかUとかはやってない、くらいの感じのフンワリライト食感なプレイヤーです。

↓前置きにペルソナシリーズとユング心理学とタロットの関わりの話もしています↓

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2023年1月19日『ペルソナ3』『ペルソナ4』がリマスター発売しましたので、逆に(?)ペルソナ3「フェス」のほうの読解実況動画を配信完結しました(アイギス編含む)。よかったらチャンネル登録よろしくね。

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 以下、タロットとユング心理学の関わりや大アルカナの寓意についての記述は、辛島宜夫『タロット占いの秘密』(二見書房・1974年)、サリー・ニコルズ著 秋山さと子、若山隆良訳『ユングとタロット 元型の旅』(新思索社・2001年)、井上教子『タロットの歴史』(山川出版社・2014年)、レイチェル・ポラック著 伊泉龍一訳『タロットの書 叡智の78の段階』(フォーテュナ・2014年)、鏡リュウジ『タロットの秘密』(講談社・2017年)、鏡リュウジ『鏡リュウジの実践タロット・リーディング』(朝日新聞出版・2017年)、アンソニー・ルイス著 片桐晶訳『完全版 タロット事典』(朝日新聞出版・2018年)、鏡リュウジ責任編集『総特集*タロットの世界』(青土社・ユリイカ12月臨時増刊号第53巻14号・2021年)、アトラス『ペルソナ3』(2006年)、アトラス『ペルソナ3フェス』(2007年)、アトラス『ペルソナ4』(2009年)、アトラス『ペルソナ5』(2016年)、アトラス/コーエーテクモゲームス『ペルソナ5 スクランブル』(2020年)などを参考として当方が独自に解釈したものです。

風花雪月の紋章のタロット読解本、再販してます。

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『ペルソナ』シリーズの中の「法王」アルカナ

 ペルソナシリーズは第一作『女神異聞録ペルソナ』からタロット大アルカナになぞらえてキャラクターをデザインしてきました。特に一作で大アルカナすべてにキャラクターが当てられるようになったペルソナ3以降は「今回の〇〇アルカナ枠」みたいな「キャラ枠」の見方をすることができるようになってて、ある程度役割の文脈をみることができます。戦隊ヒーローで赤がリーダー主人公みたいなやつ。

その「役割の文脈」の中で、若者であるメインキャラクターたちから一歩引いた、あるいは少し高い位置から見守るスタンスをとるのが、「法王」アルカナのキャラクターです。

以降、当方が考える『ペルソナ』シリーズの作中で「法王」アルカナモチーフとして描写されてるっぽい重要なところ赤字で表記します。

 

 ペルソナシリーズにおいて「法王」アルカナのキャラクターは、大アルカナ序盤(1~7番)のキャラクター元型の強いカードの中ではやや通常のパーティーメンバーに配置されない寄りとなっています。「法王」は年長者をあらわし、家族の中であればおじいちゃんおばあちゃんや、子供から少し距離をとって見守る落ち着いた親にあたり、ペルソナシリーズは基本的に「若者の物語」だからです。

子供をよりよい存在へ導くのは、エネルギッシュなリーダー、果断な王者、厳しく評価する父親である「皇帝」だけではありません。受け入れるだけでも叱り飛ばすだけでもない、懐の深い優しい父の「心」の教え……それがあって、子供が「神様のような大人から教えてもらうこと」はやっとカリキュラムを終了し、自分で考える力を養っていけることになります。

ひな鳥に正しさだけではない優しさを教え、ついに巣立ちを見送る者。それが「法王」です。

 

「法王」の元型

 まずはカードを見てみましょう。

 左が一般的に「マルセイユ版」と呼ばれるもののひとつ、右が「ウェイト版(ライダー版)」と呼ばれるデッキの「法王」のカードです。

そして『ペルソナ3』『ペルソナ4』で使われたオリジナルデザインのカードがおおむねこんな感じ(ぼのぼのさんの作成。ゲームで使用されたデザインそのままではありません)。このオリジナルデザインのことを以降便宜的に「ペルソナ版タロット」と呼びますね。

『ペルソナ5』ではUI全体のデザインに合わせマルセイユ版をベースとしたカードに変わってますが、ペルソナ版タロットはかなり大胆にシンプル化するアレンジがされているので、制作側がカードの本質をどうとらえているのかがダイレクトに伝わっくる~~。

共通して描かれているモチーフはなんかトガッたかぶりものをした中央の偉大な人物、下部左右のよく似た小さな人物ふたりです。マルセイユ版とウェイト版は中央の人物が三本指をそろえるハンドサインを示しています。ウェイト版とペルソナ版には三重十字二本の鍵のモチーフも共通していますね。

双子のような小さな人物は頭頂部に僧侶の特徴があり、中央の大きな人物の「尖った冠」は高位の聖職者であることを表し、「三重冠」「三本指ハンドサイン」「三重十字」は三位一体的な神の権威を帯びていることをこれでもかと示しています。

 

 「皇帝」の項で、ヨーロッパの伝統的世界観には「戦う騎士である王侯貴族」と「キリスト教会組織」という、絡み合いつつも別の二系統の支配者がいたことを話しました。この「戦う騎士貴族」が「皇帝」、「宗教組織」が「法王」です。インドのカースト(ヴァルナ)でいうクシャトリヤ(武士王族層)とバラモン(聖職者層)、日本でいうなら中世以降の守護地頭や大名武家(実効支配層)と天皇家(祭祀王)の違いと似ています。つまり、「武力」や「世俗権力」、「勝つか負けるか」ということを担当している「皇帝」に対して、「法王」は暴力や数値や勝敗で黙らせるとかじゃない力で世を治め、力もつ王者を含めた万人に敬虔なきもちで敬われてきた者だということです。

これは実はけっこう難しい概念ですよ。特に現代の社会では、腕力や策略、カネの力、脅しの力、強い弁護士をつける力みたいな「皇帝」的なストロングパワーだけが力だと、意識もせず信じられていますからね。あるいは「女帝」の母なる愛の力か。

いまや見逃されがちになっている、しかし確かにずっとそこにある、「信仰」の力とは、根本的にはいったいどんなものなのでしょう?

 

老賢者

 タロット大アルカナの中でも「最初のほう」、つまり1番~7番くらいまでの段階のカードは特に誰でも覚えがある神話的な人物像(ユング心理学では「元型」と呼びます。ユング心理学や元型とペルソナシリーズの関わりについて詳しくはこちら)が描かれていてわかりやすく個性的なため、『ペルソナ』シリーズの仲間キャラクターは伝統的にこれらの神話的な元型から作られています。パンチがきいてて誰にでもわかりやすいからな。

そのユング心理学の元型でいうと、「法王」は「魔術師」「皇帝」からさらに進んだ「アニムス」、そして「皇帝」と分担して「老賢者」にあたります。

 この記事はユング心理学メインの記事じゃないのでサラッとやるのですが、「アニムス」とは一言で言うと「(女性の)心の中にある男性イメージ」のことです。逆のものは「アニマ」。

女性の心の中の、と定義されてはいますが、要は「男性ジェンダーらしい"よさ"ってこういうものだよな」とみんながイメージしている像のことです。「魔術師」アルカナには少年ヒーロー的な「力のアニムス」と「行為のアニムス」、「皇帝」アルカナには大人の男のマジェスティックさと責任感をおびた「力のアニムス」と「行為のアニムス」、そして論理性を司る「言葉のアニムス」が宿ります。「法王」アルカナは言葉で説明するだけではなく、そこに意味や意義を与える「意味のアニムス」を宿しています。

理屈をこねたり机上の空論をぶったり、ましてや議論で勝とうとして周囲の人の感情を損なうことなど、言葉を使う「意義」ではありませんが、力の剣をうまく操ろうとしているとついついそれを忘れてしまいます。なんのために言葉があり、なんのために生があるのか、あれとこれとの間にある抽象的な意味を考え、諭すことができる男性像が「意味のアニムス」。最も高次元のアニムスです。

まさに神の教えを人々に伝え、目に見えない人生の意義や救いについて説く聖職者の姿です。その姿はまだ即物的な子供たちに道徳を教えようとする立派な教師とも似ていて、実際前近代社会では教育は宗教施設や聖職者がすることでした。王様の家庭教師に高僧がついたりとかそういうの。

『FE風花雪月』でも士官学校は大修道院が管理しており、「先生として生徒たちと世を導く」役割のプレイヤーとカブらないために「法王」アルカナに対応する紋章のキャラクターはDLCでなかなか珍しい解釈の法王の姿をあらわしていました。

ふた昔くらい前まで教師を「聖職者」と呼んだりすることもあったのには、ちゃんと意味の符合があったのです。法王アルカナとはそういう偉大なる「せんせい」「恩師」「仰げば尊し」の姿です。

 

 『異聞録』と『罪罰』には主人公たちを導く集合無意識の元型存在として「フィレモン」というキャラクターが登場します。これはユングが夢に見た老賢者の元型につけた名前そのものです。ユングがそう名づけたのはギリシア神話の「心温かく、本当に大事なことを知っていた老夫婦が神に認められ、神官として仕えることになった」というお話のおじいさんの名前に由来します。だから『P5S』の善吉の「神官」アルカナもこのあたりの元型に属するかも。

ペルソナシリーズのフィレモンは老人の姿ではなく、ファン通称「肩幅さん」と呼ばれたような立派な紳士のポリゴン姿(PS版)をしていますが、「人間が高次の精神に至るための試行錯誤」を見守り応援する存在というわけで、しっかり「法王」的な老賢者元型です。『異聞録』の学校聖エルミン学園の中庭にはフィレモンの力と関連している「比麗文(ひれもん)石」があり、優しく立派な校長先生とともに若者の成長を見守っています。

 

 

『女神異聞録ペルソナ』南条圭

 南条圭(なんじょう・けい)、高校二年生で主人公のクラスメート。ペルソナ使いの仲間でパーティーの中でのあだ名は「なんじょうくん」です。

日本有数の旧財閥企業グループ・南条コンツェルンの宗家の御曹司。『ペルソナ3』の桐条グループももとは南条の分家であるようなスゲー家です。冷徹でいけすかない合理主義者であり、常に「一番になる」「日本一の男になる」ことを志向しておりマフラーとか何かしらに大変な「1」デザインをほどこしてきます。

その姿は一見すると「皇帝」アルカナの逆位置のようですが、『異聞録』で皇帝アルカナにあたるのはいちおう、リーダーである主人公。つまり南条君の君臨ぶりは「勝つためのリーダーシップをとる」こととは少し違っています。

 

高尚

 南条くんっぽいキャラ造形は『3』の小田桐に受け継がれていますが、小田桐の場合「何度、説明すればわかる? これだから無能な奴との会話は……」と言いながらも「いずれ彼らも僕が導いてみせる。信頼を得て、絶対的な指導者になって……」と無能な奴らを厳しく愛し導くリーダーになることを志向しています。

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でも南条君って小田桐とはちがって「おまえらには付き合いきれん、俺は一人で行く。さらばだ」みたいに言って単独で行っちゃうんですよね。俗物たちと同じ土俵でサル山のボスになる気はないんだ。

南条君はとにかく同級生どもを低俗だと見下してお高くとまっており、その能力の高さ以前に「貴様ら」とか「引導を渡してくれる」とか時代がかっているレベルで偉そうな言葉遣いからして明らかに尋常の高校生ではありません。「意識高いサマ」「お高尚サマ」です。

「法王」の逆位置的な意味であるお高尚サマぶりは『ファイアーエムブレム風花雪月』においても法王アルカナに対応するキャラクターが「貴族の家の権威と栄光に固執する高笑いお嬢様」だったことにあらわれていましたが、基本的に包容力を示す優しい年長者のアルカナとして扱われがちなので、なんだかんだこのタイプの法王って珍しいんですよね。アヤセの「魔術師」の表現といい、異聞録はシリーズの最初なのにアルカナの解釈のえぐりが深いんだなあ。

四字熟語とか慣用句をことあるごとに出してくるお高尚ぶり。

南条君はお高尚なので常にパーティーの目的を忘れずお説教してくれますし、難しい情報が入ってきたときにも講釈をたれてくれます。見ての通り語彙もお高くとまりまくり。「ペルソナ」という謎の言葉が突然もたらされたときにも瞬時に「ラテン語で仮面をあらわす言葉、英語のpersonalの語源だな」と教えてくれます。

ちなみに南条君は攻略的には悪魔交渉において無類の強さを誇るのですが、得意な交渉術は「物でつる」 「演説する」 「一喝する」 「皮肉を言う」といういけすかねえ見下し貴族の見本市。悪魔もいいのかよこれで(表と裏が逆の十円玉やサイン入りブロマイドには本当にお世話になりました)

 

 「法王」の君臨の仕方とは、「皇帝」のように民草のケツをたたいたり引っ張っていくのではなく、「女帝」のように物理的な財やゴハンや愛の抱擁で「かーちゃんにはかなわないわ」と思わせるのでもなく、自分の信じた正しいことをやってみせて超越的に輝くタイプの君臨です。その輝きを見た人がそのあとどうするかは勝手にすればいい。多くの人からは「あいつ一人で何やってんの? 必死すぎてウケる」とシリアスなギャグみたいに思われるとしても。

南条君が目指す「日本一の男になる」というのは「競争に勝つ」という意味ではなくもっと精神的な徳のこと、日本を背負って立ちあまねく徳を示してみせる人間になる、と言っているのです。

 

心の善の導きを

 南条君を語るうえで外すことができないのが「執事の山岡」です。

恵まれていて努力家で(対人関係以外は)完璧にも見える南条君ですが、実は仕事に忙しい家族から金銭のかたちでしか愛情を受け取ったことがなく、肉親の愛に飢えています。そのうえ生まれも意識も高すぎて同世代の人間たちになじむこともできず、友達らしい友達もいません。そんな南条君を慈しんでくれる、心を開ける人間は、幼少期から彼のお守り役をつとめている執事の山岡だけでした。いつもキバッて君臨している南条君も山岡の前ではポロッと「僕は…」とか言っちゃいます。

お高くとまっていけすかない南条君の顔が「法王」の逆位置とするなら、南条君に愛を注ぐ優しい老爺である山岡の顔が「法王」の正位置なのです。

 

 山岡はネタバレにもならないくらいの序盤で起こった事件によって早々に死んでしまいます。

「法王」のカードには「偉大な聖職者」と「小さな双子の僧侶」が描かれていると見てきました。南条君にとって山岡の与えてくれた愛は偉大で聖なる導きであり、心の柱を失って惑う弱い心は「おい! 頼むよ 返事してくれよぉ…… 山岡ぁぁぁぁ!」とすがりついて泣き崩れる気持ちと、事件の原因となった者への敵討ちにやっきになる気持ちのふたつに分かれて両立することになりました。どちらもまだ、よるべない子供のような気持ちです。

山岡を失って目覚めた南条君の専用初期ペルソナは法王アルカナの「アイゼンミョウオウ」、聖なる法を司るハマ系の鬼神ですが、その姿は南条君の普段の外面っぽい武装した堂々たる将とかではなく女性らしさを感じさせるたおやかでしなやかな情愛の女神のかたちをしていました。愛染明王は人の心を惑わせる情愛の煩悩を受け止め、むしろ悟りに向かう力に変える愛の守護神です。愛してくれる山岡を失って泣き惑う南条君と、愛する人を奪った者への復讐に燃える南条君の成長を暗示しています。

よるべのない子供の心はしかし、いつか与えられた愛の種をいつか芽吹かせ、愛をくれた人と同じように樹となって実を結びます。

『罰』での南条君はコンツェルンを継ぐ者として、

「大のために小を切り捨てない」
「家の力の単なる相続を良しとはできない」
「ただ表面上の栄光を存続させるのではだめで、命をかけてでも、栄光には倫理や道徳、”心”がなければならない」

と覚悟し動くことになりました。自分の未熟さと責任を飲み込んだうえでもまだ徳を目指して立ち上がる姿を見て、南条君の甘さを厳しく叱咤していた新しい南条家執事・松岡は「山岡さん、坊ちゃんは正しくご成長なされた」とつぶやきました。

汚職どころのさわぎではない、世界を滅ぼすような不正義にやすやすと力を貸していた南条コンツェルンは、南条君の命をかけた信念によって「心」ある企業として真実の命を吹き返すことでしょう。

南条君の専用後期ペルソナはシリーズ中唯一の作中人物がもとになったペルソナ、「ヤマオカ」。天使系の姿と能力なので『異聞録』では審判アルカナ扱いとなっていましたが『罰』では南条君のペルソナであることが優先されて法王アルカナです。「あいのムチ」や「こもりうた」などのスキルが涙をさそいます。

南条君は山岡という先人に与えられた偉大な愛を尊び、自分もそのような愛であろうとする道しるべを得たのです。

 

『ペルソナ3』古本屋の老夫婦

 文吉おじいさん&光子おばあさん、ペルソナとかそういうことは知らない一般人で「コミュニティ(通称「コミュ」)」キャラクターの一人です。主人公が通学に使う磐戸台の駅前商店街で小さな古本屋「本の虫」を営んでいます。

たまに認知症を感じるボケが入ることもあるけど、本人たちが困ってないからいっか……みたいな感じ。夫婦仲がよく、ひょうきんなおじいさんと優しいおばあさんはささやかに幸せに暮らしています。

 

本当の豊かさ

 老夫婦の古本屋はおせじにも流行っているとはいえず、整理もされていない本がうず高く積みあがっています。でも別に暮らしに困っているとか、土地開発の波に押し流されそうになっているとかでもない。ただただ、いつから置いてあるんだかわからない、いろいろな種類の本がのんびりと存在している。

「本の虫」の店構えは、話題の本をガッと見せてドッと売ることや見やすい検索性、あるいは本以外に耳目を楽しませる雑貨やサービスを提供している現代的な書店とはまったく違っています。古本屋でもいまどきこんな雰囲気のところはなくなっていますよね。「本の虫」は商業的にみるなら非効率で、「売れる」「勝つ」ためのつくりになっていません。でも、だからこそこういういまどき見ないような古書店では、静かな余裕と遊び心をもって本の世界の豊かさにひたることができます。

「売れる」ことを重視しない古書の群れというのは、無数の先人たちがそこにたたずんでいるのと同じです。「本の虫」みたいな古書店に入ったことががある方にはわかっていただけるかもしれません、こういう古本屋って「そこにいない人の気配」みたいなのがするんですよね。どんな古書にもそれを読もうと思った人がおり、なによりたとえヘタクソでも魂をこめてそれを書いた誰かの人生があるのですから。

「売れるから」「勝てるから」と効率化していくと失われてしまう世界の豊かさがそこにはあり、「本の虫」はさながら、使い道や価値がわからなくても神の恩寵として書物を保存していた西洋の教会や修道院のようです。

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古来の人間社会と「書物」のかかわりについては↑上の記事↑でもしゃべっています。

 老夫婦は今もほそぼそと店を営んではいるのですが、バリバリ稼いだり仕事で世の中に自分を押し出していくような「皇帝」めいたことからはすっかり引退、隠居ぐらしの状態です。

「世俗の勝負からおりる」ことで気付ける、人生で本当に大切なことはたくさんあります。そのことを知らなければよき人生の選択をすることはできません。

 

学び舎にある永遠

 老夫婦はだいぶ前に事故でひとり息子を亡くしており、その息子は当時主人公の通う月光館学園高等部で教師をしていました。本当に大切なことを知る夫婦と無数の古本に囲まれて育った息子さんは生徒たちによく慕われた先生だったようです。ある年の卒業生たちと植えた記念樹である柿の木が今も高等部の中庭にあって、なんかあたたかいオーラのようなものをおびています。その柿の木のことが老夫婦コミュの主な話題となります。

「恩師」「派手な花は咲かないが、長い時間をかけて育ち実をつける樹木」はどちらも法王アルカナらしい象徴です。巣立っていった生徒たちが大人になりそれぞれの人生を生きるようになったのと同じように、柿の木もゆっくりと育ちついに実をつけそうになっていました。

老夫婦は亡くなった息子の思い出のよすがとして柿の木を息子そのもののように愛していましたが、学校側にその木を切ってしまう計画があるらしいことを聞きつけて狼狽します。まあ「世俗の効率」にとっては地味な木に宿る思い出など無用の長物ですからね。おじいさんおばあさんも大人だしそれはわかっているので、年寄りふたりが切らないでくれって言ってもダメか……と落ち込みます。そんなとき、なんとかつて夫婦の息子さんが教えた生徒だった人たちが「先生の思い出の木をなくさないでほしい」と署名活動を始めたと知らせにきてくれたのです。10年近く前に卒業した生徒さんたちなのに……。老夫婦の育てた、失ったはずの息子が生徒に植えた愛の苗木は、ずっと彼らの心の中で生きていました。

栄光や目に見えるかたちがなくても、そこにあり続け、受け継がれていく真実の価値。それが教育によって与えられるべきものです。柿の木がその後どうなったのかは、老夫婦コミュを実際に見て確かめてください。

 

『ペルソナ3』荒垣真次郎

【注意】荒垣の項にはP3本編のネタバレが含まれます。気にする方は次の項まで飛ばしてください。

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 荒垣真次郎、高校三年生で主人公の学校の先輩。ペルソナ使いの仲間です。

真田とは幼馴染で同時期にシャドウと戦い始めましたが、今は脱退しておりほぼ学校にも来ていません。二年前……くらいに何かあったらしくて。それからずっとポートアイランド駅裏の不良の溜まり場になっている場所に何するでもなくじっとしていることが多いようです。

威圧感のある風貌や態度と裏腹に優しく思慮深い人のようなのに、その行動は傍から見たら意味不明です。真田にも無駄に腐っているだけみたいに言われています。じっさい、それで何が起こるでも、変わるでもない。

荒垣はそこで何を考えているのでしょう。その、まるで儀式に奉仕するような粛々とした背中には、なんの意味があるというのでしょう。

 

さまよえる魂の双子

 荒垣のペルソナは「カストール」。真田のペルソナ「ポリデュークス」とはいわゆる「ふたご座」の双子カストルとポルクスの関係です。デザインは見ての通り、姿は鏡に映したように似ていますが装いは白と黒・赤と青のコントラストになっています。南条君の項でも述べたように、「法王」は惑う心が対称で対照な「双子」に分かれたようになり、どう生きたらいいのかを神に問いかける段階をあらわしています。

 

 カストルとポルクスは、最もメジャーな話ではカストルは乗馬の名手、ポルクスは剣術や拳闘の名手であるスパルタの双子の王子でした。二人はとてもなかよしでいつもいっしょ。『少女革命ウテナ』でも姫宮アンシーと天上ウテナがカストルとポルックスになぞらえられることがありましたが、真田やウテナにあたるポルクスの「剣術や拳闘」が戦いや勝利や明快な強さをあらわす一方、カストルの「乗馬」は繊細な動植物たちや人の弱い心を受け入れ取り扱う複雑で微妙な力をあらわしているといえます。

真田と荒垣は同じ孤児院の出身で、親を亡くしてかなり塞いでいたアキ(真田)をシンジ(荒垣)が明るく励ましてくれてだんだんと真田は今の明朗な性格を得たという過去があります。「馬=心を扱える双子」荒垣によって真田の傷ついた心が庇護され育てられたのです。それから二人は一人のようにやってきた。そんな子供の世界があるとき終わり、二人は白と黒に分かたれました。

真田は一人だと完結して強さや勝利に邁進しているように見えますが、その裏では荒垣という「もう一つの心」を象徴・補完する存在と一体になっているということです。

 

 ペルソナのカストールのデザインにはみるからに不吉な象徴があしらわれています。御している馬は一本足で、胸にはギャグみたいに大きな槍のソケットが刺さっており、よく見ると顔についている仮面はポリデュークスのしらじらとした彫像の英雄の顔と違ってこけた骸骨のように見えます。これはカストルの、そして荒垣の死の運命を暗示するものです。

先述の有名な話の中ではカストルとポルクスは実は本当は双子ではなくて、カストルは人間の王を、ポルクスはゼウス神を父にもつぜんぜん性質の違う異父兄弟でした。でも二人でひとつだぜ!とタッグを組んで戦争に出て、カストルはバッチリ人間なもんだから矢が当たって死んでしまいます。自分の「繊細な心」をあたたかく抱えていてくれた兄貴を失ったポルクスは喪失に耐えられず自分も死んでいこうとしますが、神の血をひいているから死ぬことができず嘆きます。この願いと兄弟愛をうけたゼウスが二人を空の星座に召し上げたものがふたご座になったといわれます。

なんとも縁起の悪いデスマスクなカストール

ペルソナのカストールの馬の一本足は、英雄カストルが英雄ポルクスと双子に見えて神の力を受けていないこと、荒垣が家族として真田と一緒にいてやろうとしても力が足りず無理をおしたことをあらわしています。荒垣は普通にすごく強い人ではありますが、神の力――ペルソナ適性はまあまあ程度でした。しかし弟ポルクスこと真田は兄貴分が一緒に戦ってくれることをただ喜び、二人ならできないことなどない、妹を失ったとき誓った強さに手が届くと無邪気に信じていました。

それが、双子の運命を永遠に分ける――。

 

遺すもの

 無邪気な少年二人の運命を分けたのが二年前の事件、制御が不安定なのに無理した荒垣のペルソナが、シャドウ討伐の巻き添えに民家を一軒潰してしまったことでした。死者が一人出て、それで身寄りをなくしてしまった子供が一人……。

その死者じたいがイレギュラーシャドウの出所だった可能性もあり、ある程度仕方のないことでもあったので、真田は「犠牲になった命は戻らないのだから切り替えていこう、自分たちが強くなることがさらに多くの命を助けることにつながるはず!」みたいに合理的に考えましたが、荒垣はとてもそんなふうには思えませんでした。優しい人だから。力を封じるために命を削る薬まで飲んであえて隠居老人みたいになって、自分の罪の場所をじっと見つめるようになりました。

荒垣のやったことは真田の主張とは逆に、なんの合理性も生産性もない行動です。確かに「具体的な贖罪」をするのなら、真田が言うようにこれから十分気を付けてがんばるべきなんだから。でも、罪と向き合うっていうのはただ「贖う(買い戻す)」っていう問題ではないということです。

「切り替えよう」「働きで返すことが責任」みたいに言うのは、罪から目をそらしたいだけだったりしない?って話。 命は、心は、絆は、目に見えない大事な何かは、なくなってしまったら決して「返す」ことなんてできないのに……。実際、事件の遺族である天田に対して真田はどういう態度をとったらいいかわからず困り、わりと避けてしまいます。

荒垣は、真田が前に進むために見ないふりをしたそういう大事なものを、立ち止まって考えたのです。たとえ答えが出なくても、すぐに答えが出ないからこそ。罪を犯した人、勝つや負けるの人生からこぼれ落ち迷い疲れた人が「何か」を求めて世を捨てて、たどり着いた寺院や修道院で祈りの日々を送る……それも人の心の世界に必要な宗教というものの役割です。「いつまで腐っている」と真田が思っていた荒垣は、本人も知らないうちに、祈っていたのです。自分がどうして、なんのために生きるのかという答えの出ない問いを無言でこね続けていたのです。

 

 真田が強さや理屈をこねている間に実は罪と向き合い続け自分の命の意味をこねて熟成させていた荒垣は、いざ特別課外活動部に復帰してみればむしろ真田や美鶴よりずっと安定した態度で天田に接します。憎まれてるのに。傷ついた子供は、見守るべき、育てるべき大事なものだという当たり前のことを彼だけがよくわかっているから。

「母を殺してのうのうと生きていくつもりの仇を自分が殺してやるんだ」と思っていた天田は、その仇が罪の意識から自殺行為をはたらき天田が何もしなくてもそのうち死んでしまう運命にあると知り、目標を失って「目標を達成できないなら、生きてく意味なんてない」「せめてみんなの役に立つかたちで死ぬなら自分にも意味があるのかも」などと考えやがります。でも、命の意味や使い方ってそういうことじゃないんだよ。わからなくても自分で決めるものなんだよ。

天田に、真田に、皆に禅問答の難しい問いを投げかけるように、死ななくてもよかっただろうに死んでいく荒垣は満足げに「これでいい」と言いました。

『ペルソナ3』のテーマアルカナは「死神」ですが、ウェイト版の「死神」のカードの絵柄では「死」に向き合うことができているのは「法王」のあらわす宗教の力と子供だけです。死の恐怖を逃れるには宗教組織にすがらないといけないとかそういうことではなく、勝敗や生死を超越した「命のありよう」「意味」について考えることで死に向き合うことができるという意味です。荒垣が天田をかばい命の意味について教えるシーンは、このカードになぞらえられているように当方はおもいます。

 

『ペルソナ4』堂島遼太郎

 堂島遼太郎、ペルソナ使いの仲間ではありませんがストーリーの重要人物です。主人公にとっては叔父(母親の弟)にあたり、主人公を一年家に住まわせることになる保護者です。

連続怪奇殺人事件をめぐるサスペンスドラマである『ペルソナ4』のつくりの中では、「事件を追う担当刑事二人組」というサスペンスドラマお決まりの役どころでもあります。そういう刑事二人組は「強面で頼りがいがあるほう」と「柔和で人当たりがいいほう」の相棒で構成されていることが多いもので、堂島はその強面タイプ。職務に忠実で観察眼が鋭く、事件のそばでウロチョロする主人公たちに「余計なことに首を突っ込むな」と厳しく忠告してくる、身の引き締まる存在です。

主人公と陽介の相棒関係でも主人公が強面タイプにあたり、特捜隊のリーダーとしての主人公にとってのお手本的存在といったところです。

 

大義名分

 荒垣とはまた違った意味で、最も「法王」的な温かみのある心の生活から疎外されている「法王」キャラが堂島です。そのため、堂島のコミュは彼が「心と人生にとって一番大事なこと」との関わりを少しずつ再建していく過程になっています。

主人公を家に迎え入れたばかりの堂島は、実直な人ではあるんだろうけど印象が優しいわけではなく、小学一年生の超カワな娘を確かに愛してはいるようなんだけどひとり親のわりになんかちょっと距離があるし寂しい思いをさせている……という状況。妻をひき逃げした犯人を追い続ける、不器用な仕事人間です。

冷静に家庭の状況のことを考えたら「不器用な仕事人間です」とか言ってる場合ではないのですが、堂島は妻を亡くしてから壊れてしまった家族のかたちをどうしたらいいかわからず仕事に走ってしまっている面もあるのでした。こう言うと家庭生活から自己疎外しちゃう「皇帝」みたいですが、堂島が仕事に邁進しているマインドは皇帝的な「俺は家族を守るために勝って稼ぐんだ」ではありません。「俺は妻の仇に裁きを受けさせることで、家族のかたちを取り戻せるんじゃないか……と思う……んだ(ずーん)」的な。

内田樹『村上春樹にご用心』の中の家族論にこんな一節があります。

人々が集まったとき、ある人がいないことに欠落感を覚える人と、その人がいないことを特に気にとめない人がいる。その人がいないことを『欠落』として感じる人間、それがその人の『家族』である。その欠落感の存否は法律上の親等や血縁の有無とは関係がない。家族とは誰かの不在を悲しみのうちに回想する人々を結びつける制度である。

村上春樹にご用心

村上春樹にご用心

  • 作者:内田 樹
  • アルテスパブリッシング
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いわば、かつて家族を結んでくれていて欠落してしまった妻は堂島にとっての神様です。彼は世の中に忘れ去られようとする神に仕え、祈っています。菜々子はまだ小さくて母親のことを何年か経ったら忘れてしまうかもしれないから、自分だけは欠落を忘れず、家族をふたたび結ぶために。

心や人と人との関係や人生の意味をつなぐために「法王」のあらわす宗教性が果たせる役割は大きいですが、それはだいたいの場合直接的ではない迂遠な方法をとります。そりゃそうですよね、欠落を扱っているんだから。啓蒙主義がふきあれた時代には(現代でも)それが単なる無意味で愚昧な迷信だって言われたりしました。「Aを果たすためにAをする」のではなく、「Aを願ってBをする」みたいな感じ。

実際、そうやってクッションや間接性を入れることで人間の心は豊かな納得をえるものだから信仰行動には大きな意義があるんですけど、堂島が犯人確保に血道を上げたって現実的には家族のためになっていません。ときに「納得」に向かおうとする信仰の迷走は現実の大事なものをないがしろにしたり、自分の心身をも壊す大義名分化してしまいます。

 

「家族」のしるべ

 菜々子がしっかりしてるからいいようなもんの、当初の堂島家はわりと機能不全をきたしています。母親という問答無用の愛のつながりをなくした家族は、実際問題空中分解しないでいるのが難しいものです。しかし、問答無用の血と身体的な愛のつながりがなくても輝くからこそ、「家族」というものの本質が際立つのが「法王」アルカナです。

ペルソナシリーズの「法王」で表されているファミリーのかたちは「南条君と山岡、そしてコンツェルン」「老夫婦の息子と教え子」「真田と荒垣、天田」「惣治郎と養子の双葉と保護観察主人公」という、血のつながりを必要としない、模範的な家族の型通りでもない、しかし魂で結ばれた「家」です。「シスター」という言葉で知られるように、修道院では修道士たちは「兄弟」「姉妹」と呼び合います。堂島と菜々子は血はつながってますけど、男親だし不器用な男だからおなかを痛めた的なアレもないし常にスキンシップをとるわけでもありません。でも家族の愛って、抱きしめることばかりじゃないから。

 

 堂島はコミュの中で、「家の中でこれだけはやること」と結婚するときに妻の千里さんと約束した、と家族のためのお茶コーヒーを淹れてくれます。印象的で、家族らしいあたたかさの目立つシーンです。

「皇帝」的な強固な支配体制でも「女帝」的なラブラブパワーでもなくて、じゃあゆるく家族をつなぐ愛があるとしたらどんなものかって言ったら、またさっきの内田樹を引用しちゃうんですけど、「儀礼」だというのが「法王」の態度です。

現在、家族を形成している方々は総じてたいへん不満顔である。
家族間に理解がない、愛がない、共感がない、価値観が一致しない、美意識が一致しない、信教が一致しない、政治イデオロギーが一致しない・・・だから「ダメ」なんだと結論する。
そのような条件であれば、この世に幸福な家族がひとつとして存在しなくて当たり前である。
家族の条件というのは家族の儀礼を守ること、それだけである。
それがクリアーできていれば、もうオッケーである。
朝起きたら「おはようございます」と言い、誰かが出かけるときは「いってきます」「いってらっしゃい」と言い、誰かが帰ってきたら「ただいま」「おかえりなさい」と言い、ご飯を食べるときは「いただきます」「ごちそうさま」と言い、寝るときは「おやすみなさい」と言いかわす。
家族の儀礼のそれが全部である。

そろそろ春だけど - 内田樹の研究室

家族といえど、同じ社会を生きる同じ時代の人間といえど、親愛をもっている人といえど、結局のところ他人です。堂島にとって小学校低学年の娘は謎だらけで妻なしでは関わるのが怖いくらいだし、菜々子も堂島に「これからはおまえの父としても刑事としても自分に向き合ってやってく」と言われても真意が全部理解できるわけではありません。でも、それを受け入れたうえで、何を考えているのかよくわからなくてもいいから、お茶やコーヒーを淹れて、家族みんなで飲む時間をつくる。

不器用でいいから、言葉で言えなくていいから、毎日の暮らしの中で家族のルールを共有することで、助け合える。伝わる信頼があるのです。

「法王」はパッと見宗教的共同体をあらわしていますが、くり返される儀礼が日々婉曲的に他人どうしの心をつないでいくという意味では、家族も同じです。

 

『ペルソナ5』佐倉惣治郎

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 佐倉惣治郎、堂島と同様ペルソナ使いの仲間というわけではありませんが主人公の保護者としてストーリーの重要人物です。四軒茶屋の駅前の路地裏にある喫茶店「ルブラン」を一人で切り盛りするマスター。女好きで伊達者のチョイ悪オヤジです。おそらくミドフィフ。

堂島からさらに「法王」らしく、本格的に主人公とはまったく血縁がなく、無実の前科を負った主人公を保護観察する保護司です。主人公には最初突き放したような態度をとりますが、家にいる養子をたいへん優しくかわいがっている様子が序盤からうかがえます。

 

こだわりと伝統

 惣治郎のコープの中心となるのは「こだわりのコーヒーとカレー」の作り方を教わることです。いわば前科というケチがついてしまった俺がちゃんと社会に出られる足がかりになるよう、職業訓練してくれてるわけ。

事情があって社会からドロップした弱者をかくまい、屋根や働き口を与えるというのもまた、「法王」のあらわす宗教組織がはたしてきた社会的役割のひとつです。そして、宗教組織とはしばしば「労働を通して神仏に近付く」というような考え方をします。神や仏を置いといても、世界に捨てられてグレそうな人たちに、とりあえず黙々と働いてていねいに生活できる場をつくり、その繰り返しの中でだんだん精神を豊かに穏やかにしてもらうってことです。

これは日々の儀礼を通じて家族の絆が育まれていくっていう堂島で描かれたこととも似ていますね。惣治郎と養子の双葉、そして亡き双葉の母・若葉にとっての家族の儀礼こそがコーヒーとカレーです。惣治郎は最初主人公に冷ために見えますが、「グレないでちゃんと働いて、社会の一員になってほしい」「うちの労働をするならおまえとはだんだん家族になっていける」と言外に伝えてくれていたわけです。

 

 また、堂島のコーヒーの淹れ方でも触れられた言葉ですが、「こだわり」というのも「法王」の大事な要素です。特に惣治郎の場合、喫茶店という商売だからこそなおさらそれが際立ちます。「こだわりの」「伝統の」というのは、短期的で商業的な視点から見たら「えーっ、大差ないじゃん」「それ、やる意味あるの?」というような手間ひまを多分にふくんでいます。おまけにこだわりや伝統って、なんか小難しそうで敷居が高いし。ちょっとの違いでいい味になるのが確かだとしても、どうせ大衆はちょっとの違いなんてあんまりわからないのです、大量生産した均質な流行りものをポップにライトに薄利多売して頃合いをみて撤退!とかやったほうが短期利益としては勝てるはずです。いまタピオカの位置にいるのって何?

でも、惣治郎はそれを望まない。別にもうかんなくていいし、むしろテキトーにしてられる場所がほしいだけだから。確かに、「商売をやるならすごくもうけなければならない」「生きるなら勝者にならなければならない」なんてこと、全然ないですからね。そこにしかないこだわり、その人にしかない生き方の個性が「ただそこにある場」があり続ける、それだけでどんなに大きな意味があることか。

本当は、何をするにも、生産性や理屈や勝利でははかれない、そこにしかない複雑な意味があります。カレーの味は家庭によって個性が違います。それは客観的に見たら特に意味のないカレーだけど、家族にとってだけ意味のある、そこにしかない大事な味。『輪るピングドラム』も「カレーはともに生きることを決めた家族の愛を結ぶ料理」っていう話でしたね。そういうこと。

はたから見たら無駄な迷信だって、人の心の中で意味を結んでいる。人は日常生活の中に生きているんだから。それが合理性を突き詰める中にはない美しさや尊さであり、生きる意味です。

そういう、このスピード感の社会だと忘れがちなことを、「美学」として惣治郎は教えてくれます。

 

「大人」のいる意味

 物語の序盤、惣治郎は一見「事なかれ主義の、無気力でカビついた小うるさい大人」の代表のように主人公に接してきます。やれ秩序や権力には従えガキが世の中をひっくり返そうとしたってムダおとなしくいい子にしていないと人生終わり……。

言葉面は今作の校長のような「腐った大人」たちが言うこととソックリなのがよくできた仕掛けです。「惣治郎も最初は腐った大人だった」という意味ではありません。初期の惣治郎が事なかれ主義に走りぎみだったのは確かですが、その言葉の裏地には心配と教育的愛情と、「確かに理由ははっきりしなくても守らなきゃいけない線ってのはあるよな」という理があります。つまりこれは、同じように秩序や権威や伝統を口にする大人の言葉でも、意味が違うことがあるという警告です。「反逆」「打破」をテーマとしている『ペルソナ5』ですが、壊すべき古いものもあるが、壊すべきではない古いものある、そこに注意深くなるべきだと言っているのです。

 

 そんな「古い伝統や大人の小言には受け継がれてきたなりの理由があり、そこには心にとって大事なことが織り込まれている」という惣治郎の「法王」の意味の反対側に配置されているのが、『ペルソナ5』における人間社会上のラスボスである獅童です。惣治郎が「元官僚の保護司」という体制的お役所組織出身の人間であるのに対し、獅童は「官僚組織に対抗できる改革的な若手政治家」と目されています。

日本の政治は、表に見えるのは議員ですが実際にどうするかを計画し回しているのは各省庁の官僚といっていい状態です。その中には「腐った」利権や権力固定化の弊害があるのは確かですし、庶民感情からすると官僚のような「顔の見えないエリートたちが裏で国を回している」というのは反感を買いやすいものです。だから、20年前くらいの小泉内閣など「構造改革」「郵政民営化」「頭の固まった大きな政府をぶっ壊して自由に!」というような路線は普段政治に関心のない大衆にもたいへんキャッチーにうつります。「構造」を壊して再構築した先に何がどうなるのかということとは無関係に、「壊して自由に効率化する」という響きは魅力的なのです。特に若者や、金を儲けることや勝利することが最上だと無意識に思っている現代の多くの人々にとっては……。獅童の人気は裏工作で増幅されたものではありますが、基本の方向性はこういうポピュリズムです。

その頃無邪気に「これ壊したほうがいいでしょ」と片付けたものが、実は効率的でなくても大事なものを支えていたことは、20年とか経った今になって後の祭り的に響いてきているところです。郵便、高いだけじゃなくて届くのすごい遅くなったよね……。固定化した古いものをスクラップにしてリビルドした結果が、支援者に再構築の利権を回し黒字の出ない部分はずさんでいいやーって感じの収益回収装置を作ることでは、壊した意味がないどころか庶民にとっては悪化しています。これが獅童のパレスの中の「日本沈没」です。

たとえば家父長制とかイエが将来を決めることとかもそうですけど、もはや古臭くて悪い伝統として否定されたそういうものがなくなってきて、今は代わりに強火の自己責任論がはびこっています。かつてはイエの中に閉じ込められながらも守られていた女性がかえって搾取しやすいえじきになってしまうようなこともあります。

家父長制の世の中に戻った方がいいよとかじゃなくて、「善き家父長制(パターナリズム)」は本当は「強い家長は弱い家族構成員を庇護し教導すべき」っていうノブレスオブリージュ的なものだったはずなんですけど、長い時間の中でその大事な芯が腐っちゃって、「特に理由はなく夫や長男は偉い」みたいなガワだけが残っちゃったってことなんです。だから腐った伝統ってガワの無意味さを打破して変えても、社会の変化とともに外側が変わっても変わらない大事なことは大切に守らなければいけないんですよ。

「反逆」と「自由」をもたらす「変化の風」として腐った世界のハリボテを壊す者という意味では、怪盗団と獅童は実は同じです。そこに違いがあるとしたら、惣治郎の「法王」の心と美学です。

政治ってのは、親ってのは、大人ってのは、偉いから君臨しているのではないし、勝って君臨すれば偉いわけでもありません。

効率的じゃなくても、利益や人気になんてならなくても、弱者や心豊かな生き方を守らなきゃならないってこと。それが、政治や大人が上に立ってああだこうだ言ったり、尊敬を集めたりすることができる、本当の意味です。

 

 

ペルソナ5ロイヤルを読解実況中です。再生リストからアーカイブが見られます。

↓おもしろかったらブクマもらえると今後の記事のはげみになるです。今後もswitch版のプレイによって参考画像とか引用とか加筆充実してくかなっておもいます。

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