本稿はゲーム『ファイアーエムブレム風花雪月』を中心に、中世・近世ヨーロッパ風ファンタジーにおける「生活の舞台裏」について、現実の中世・近世ヨーロッパの歴史的事情をふまえて考察・推測する与太話シリーズの「本(書物や記録媒体)」編です。2月12日の同人誌即売イベントで頒布した『フォドラの舞台裏学業編』の前半の簡易バージョンです。
あくまで世界史赤点野郎の推測お遊びですので「公式の設定」や「正確な歴史的事実」として扱わないようお願い申し上げます。また、ヨーロッパの中世・近世と一言にいってもメチャメチャ広いし長うござんす、地域差や時代差の幅が大きいため、場所や時代を絞った実際の例を知りたい際はちゃんとした学術的な論説をご覧ください。今回は作中の描写から、中世っぽいファーガス神聖王国の文化をおおむね中世後期の北フランス周辺地域として考えています。
また、物語の舞台裏部分は受け手それぞれが自由に想像したり、ぼかしたりしていいものです。当方の推測もあくまで「その可能性が考えられる」一例にすぎませんので、どうぞ想像の翼を閉じ込めたりせず、当方の推測をガイド線にでもして自由で楽しいゲームライフ、創作ライフをお送りください。
あと『ファイアーエムブレム風花雪月』および他の作品の地理・歴史に関する設定のネタバレは含みます(ストーリー展開に関するネタバレはしないように気を付けています)。ご注意ください。
「こんなテーマについてはどうだったのかな?」など興味ある話題がありましたら、Twitterアカウントをお持ちの方は記事シェアツイートついでに書いていただけると拾えるかもしれません。
以下、現実世界の歴史や事実に関しては主に以下の書籍を参照しています。これらの書籍を本文中で引用する場合、著者名または書名のみ表記しています。
ハンス・ヴェルナー・ゲッツ著『中世の日常生活』(中央公論社・1989年)、J.ギース/F.ギース著 栗原泉訳『中世ヨーロッパの城の生活』(講談社・2005年)、J.ギース/F.ギース著 青島淑子訳『中世ヨーロッパの農村の生活』(講談社・2008年)、J.ギース/F.ギース著 栗原泉訳『大聖堂・製鉄・水車』(講談社・2012年)、堀越宏一、甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ 中世ヨーロッパ史』(ミネルヴァ書房・2013年)、ロベール・ドロール著 桐野泰次訳『中世ヨーロッパ生活誌』(論創社・2014年)、池上正太著『図解 中世の生活』(新紀元社・2017年電子書籍版)、河原温・池上俊一著『都市から見るヨーロッパ史』(放送大学教育振興会・2021年)、菊池雄太編著『図説|中世ヨーロッパの商人』(河出書房・2022年)
書物古今東西
現代は書物という観点からいうとメチャクチャいい時代になり、学者でも特別な地位にあるわけでもない当方も同人誌のような「丈夫な紙の本を」「安価で」「数日で何十冊も」複製するこができます。いまや世界に本と呼べるものはほとんど無限数あり、チラシや雑誌を含めれば「文字の書かれた紙の束」が存在しない家庭はほぼないでしょう。しかも日々大量に捨てられ、何度も再生紙としてよみがえっています。
スマートフォンなどの電気・電波による情報機器に比べれば書物はオールドメディアのように感じられますが、この書物の氾濫状態はほんの(?)六百年前からすると信じられないことでした。ご存じの方も多いように、大量生産的な本の印刷……「活版印刷」が始まったのは十五世紀なかごろから。それまでは多くの書物は現代の「身内用同人誌」ほどにも複製されず、いっそ「一点もの」であったのです。
ここでみなさん、何かしらの印刷物は手近にある(これ自体がすごい)と思いますので、よく見てみてくださいよ。
なめらかで薄い紙やプラスチックの地に、自由自在のフォントや図形が精彩に印刷され、ほとんどかすれもないはずです。素晴らしすぎる。この記事を読んでいるパソコンやスマホの画面にしても情報伝達・記録媒体といえます。電子情報はいつでもどこでも無限かつスピーディに複製され、必要とする人の手元に届けられます。
本を作る方もいつも読む方も、上記のようなことはごく普通だろと思うかもしれませんし、実際現代では一般的なことです。
しかし、四十年も前、昭和終期の本を見てみると、紙の質はさして変わらないまでも、かなりの数の「インクだまり」を観測することができます。昭和の終わりなんてバリバリ現代ですけど、印刷技術が違うことがわかります。印刷の「インクだまり」や「かすれ」のムラは物理的にインクをつけた金属のフチにインクが寄ることでおこる、つまり、現在のデジタルデータどおりにインクをジェットしたりトナーを吹きつけたりする印刷法ではなく、金属の「でっかいハンコ」にインクをつけて紙にペッタンペッタンしていく「活版印刷」によるものです。
現代でも「おなまえハンコ」ってありますよね。枠にひらがなのゴム印を一文字ずつはめて作るやつ。活版印刷とはあれのもっと大きな金属版です。日本を含む漢字文化圏の場合は文字の種類が膨大で金型の文字セット(活字)を作るのが一苦労ですが、アルファベットなどの表音文字文化圏では数十の文字の金型をそれぞれ数十個ずつ持っておくだけでどんな文章でもバカスカ作れます。アルファベットを区別さえできれば、学がなく内容の意味はわからない労働者でも活字をプチプチとセットして版型を作ることができます。先述のとおり十五世紀なかごろに発明されてから、データ印刷が一般的になるまで数百年書物の歴史をリードしてきました。活版印刷が登場するまでは実質「本の印刷」という概念はなく、活版印刷以前と現代では本というものの価値や意味がまるで違うのです。
じゃあ活版印刷以前に本はどうやって複製していたのかといえば、やっぱ「筆写」ですよ。
中世ヨーロッパではそもそも本は一般に流通させるものという概念はなくて「貴族用の職人謹製一点もの豪華本」または「学術書」でした。主な学問の場である修道院や大学では夜を徹して学術書の筆写にはげんでいました。のちに、写本のための工房も商売になりました。もちろん、一点もののカラー豪華本は芸術作品の塊、工房製の単なる写本であっても人が手書きで書き写す人件費の塊です。
街の本屋に行けば数えきれないほどの本がすし詰めになり、最低時給に満たないお金でも文庫本が買える現代日本とは、恐ろしく相場が違う世界……。そういうつもりでガルグ=マクの図書室や生徒の部屋の本を見てみませんか?
リンハルトの部屋、こわ……貴重品を床に散乱さすな……
日本の歴史との比較
『風花雪月』での世界観アレンジがどう影響してくるのかの細かい話の前に、現実の中世・近世ヨーロッパの書物事情について概観しておきましょう。われわれの無意識の前提を意識するためにも、日本の事情とも比較していきます。
ヨーロッパでは先述のとおり十五世紀に活版印刷が登場し、本の複製がさかんになります。『風花雪月』の時点でのフォドラは歴史のかんじとしてはそのくらいの時代感にさしかかっている地方もあるのですが、どうやらこの活版印刷は流通せず、その前の段階「木版印刷」の段階までにとどまっているようです。あるいは筆写ですね。それがなぜなのかはまた現実とフォドラの詳細比較でお話しします。
さらに、「本を刷る・複製する方法」以前に、記録するためには「記録媒体」がないとしょうがないです。現代だったらスマホのメモ帳であったり、ツイッターにメモ書きを投稿したり。今でも最もメジャーな媒体が「紙」であり、この話も「紙の本」を前提に進めています、ところがこの紙は超古代から安定して作られていたわけではないですからね。紙作るの超大変だからな! 布の方が簡単!
超大変なので、西洋にまともに紙が流通するようになったのは十五世紀の活版印刷とセットくらいでした。「じょうぶな、ちゃんとした記録媒体」としては羊皮紙が使われていました。
羊皮紙、中世ヨーロッパものやオカルトの世界ではよく聞く言葉ではありますが、羊の皮なんですよ⁉ 品質のよい皮はすべての羊からとれるわけでもなく、また皮は毛と違って羊を殺さなければ手に入りません。まとまった本のかたちにするためには一冊に対して羊の群れがいくつも必要とされることもありました。途方もない話です。もちろんめちゃくちゃ高価です。現代にまで残っている貴族向けの豪華本はこの羊皮紙にフルカラー絵ですね。いい着物の仕立てから高級車くらいの価格感かな……。
この絵の載った羊皮紙製の超豪華本『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』は中世ヨーロッパ王族の家門に家宝のごとく継承されました。借金のカタになることなどもあったれっきとした宝物。本一冊が借金の担保になるなんて今じゃ考えづらいですよね。
一方、日本は「おトイレ事情」のときと同様、ヨーロッパよりも自然の条件が本づくりに向いていました。その点でもわれわれの本に対する感覚は中世ヨーロッパと距離があると考えなければなりません。
だってけっこう時代物の中にも書物出てきません? 江戸時代の時代劇では町人の子供でも手習い用の教本や半紙の束を持ってますし、もっと前の室町時代や平安時代のお話でさえ、庶民向けではないもののホイホイ和綴じの本や巻物型の書物が出てきます。仏教の経文もいっぱいある。その時点で紙がかなり流通してるわけですよ。これはだいぶ常識が違っています。
まず日本には「和紙」があります。書物を作るためどころか障子やふすまなどの建具、ちり紙などの使い捨てにすら使われており、文字の読み書きができない人々にとっても紙はデイリーなものでした。
日本に紙が伝えられたのは七世紀初頭、飛鳥時代のことです。仏教ブームとともに写経需要が高まりました。日本には紙の材料となる植物や紙漉きに適した土地が多く、百年もしないうちに日本各地に和紙の名産地が登場。もちろん墨も木簡竹簡の時代から使われており、なんと奈良時代には安定して紙と墨による経文や写本がたくさん生産されるようになったのです。経文だけではなく、下級貴族でも歌集や源氏物語を筆写して読み、文化娯楽の豊かさにも寄与しました。さらには絵草子や瓦版を木版でペッタンペッタン刷って庶民も楽しむようになり、も~数が違うんだ数が。
というわけで、現代日本人が活版印刷以前のヨーロッパの書物事情を考えるときには、常識の違い要素として
- 思ってるよりずっと原料が高価
- 貴族や学者、聖職者しか本を持ってないし読まない
- 思ってるよりずっと世の中に存在する「紙+文字」の絶対数が少ない
ということを意識する必要がありそうです。
そのうえでフォドラ独特のファクターも考えられそうなので、そろそろ具体的なようすを考えていきましょう。
状況別 現実とフォドラの書物
このシリーズで扱うような「舞台裏」は身分の高低や戦時平時問わず必ず存在するものですが、暮らしのようすというのは身分やシチュエーションによってそれぞれ変わってくるのがおもしろいところです。
違いがおもしろいだけじゃなくて、「こういうときってどうしてたの!?」「カルチャーショックとかあるのかな!?」という疑問湧きドコロでもあるとおもいます。今回は場所というより文化や経済状況の問題なので、『風花雪月』のストーリーやキャラの5つの出身階層、「帝国的貴族」「王国的貴族」「教会」「中産階級」「庶民」に分け、かつ「in現実(現実)」を知ってから「inフォドラ(推測)」の可能性を探る、という構成にしました。
それでは舞台裏を覗いていきましょう。
帝国的貴族(近世の貴族)
『風花雪月』でいう、帝国貴族の宮廷や帝国かぶれの同盟貴族たちの暮らしにあたります。
in現実
現実の近世にはすでに活版印刷術があり、また裕福でもある貴族たちは美しい一点ものの豪華本も最新知識の印刷本も読むことができました。近世になると貴族は競って屋敷に図書室をもち、子弟の教育にも本を用意しました。本のカタチとしても、現代のわれわれがイメージするハードカバーやソフトカバーの本と基本的には似たような、紙の束にページ番号や章をつけて糊付けでまとめた様式になっていました。
宮廷や貴族の邸宅などで開かれる社交サロンで楽しまれる主な話題は知的なものでした。やはり高度な娯楽といえば知的遊戯ですし、自分たちが庶民とは違う特別な存在であることを誇りたい層にとって喜ばしいという側面もあります。そういうわけでサロンには学者や詩人や作家が招かれていました。「わたくし、あなたの本を読みましてすっかりファンですのよ」みたいなことがあったわけです。『ベルサイユのばら』に描かれているようにときには貴族が貴族制を否定する市民活動家の著作を読むことさえあり、市民革命や啓蒙主義の力が育っていきました。
もちろん、フォドラでこんなことは起こっていません。おトイレ事情とはうって変わって、書物事情においてはフォドラのほうが現実より遅れて?いるわけです。
それはなぜなのか?
inフォドラ
フォドラには活版印刷術が普及していません。だから現実の近世とはかなり事情が異なることになります。
本編アビス書庫にある、「レアがフォドラの発展を制御するために禁止した技術」の目録と思われるものがおさめられている『フォドラの虫大全』によれば、
・金属製の字型を使用した書物の制作機
当初、木版に代わる有用な発明として歓迎されたが、熟考を重ねた結果、多くの理由により禁忌となった。
大司教は以下の理由を特に挙げた。「誤った情報や悪意のある噂が流布される危険」「字の読めない平民にとって無益」「教会同士の対立が激化する恐れ」
ここで言われている「金属製の字型を使用した書物の制作機」というのは、完全に活版印刷機のことですね。
現実の歴史では、この技術によって白黒本の大量生産が可能になり、聖書などの基本的な重要書物が口語訳され爆刷りされたのはもちろん、学問上の発見や思想的ビラをすばやくバラ撒くことで市民運動の力が爆発的に増しました。その結果おこった社会の変化のひとつがキリスト教の「宗教改革」、カトリック教会組織の批判とプロテスタント新教の勃興でした。ルターなどの神学者によって「教会のあの発言もこのルールも聖書に書いてないじゃん!」と聖職者の腐敗を批判するビラがペッタンペッタン刷られたわけです。それぞれの教会で状況に合わせて口伝えでお触れを出してごまかしごまかしやっていたことも、印刷された聖書が中産階級の家にまでいちいちあってしまうと「確かに違うな……?」みたいな話にもなってしまいます。まさしく「教会同士の対立が激化する恐れ」ですね。
レアは旧人類(闇に蠢くものたちの前身が地上の支配者だったころ=われわれのような科学文明?)がどのような歴史をたどって猛発展し自然を破壊するようになったのか知っている様子なので、先のことを考えると確かに活版印刷はいろいろとヤバな技術として禁じるでしょう。木版印刷ならば新しい内容をホイホイ印刷することはできませんし、職人ギルドを管理することで経典や教会からのお触れ、教会が認可した書物のみを量産することができます。
活版印刷が禁じられていても裕福な貴族なら「書物」を手に入れられることは手に入れられるでしょうし、実際帝国的貴族は最新の学問や文芸にもよく親しんでいて流行のトピックなどもあります。学問用か貴族の知的娯楽用のもの、戦術や統治や社交のハウツー本など内容はまあまあ充実していると思われます。しかし市井の学者や作家の書いたものがみんなに届くということはなく、ハンネマンのような学者貴族および詩人貴族が内輪で作品を回し読みしたり筆写したり教会や貴族宅に収蔵されたり……という程度のはずです。「貴族のサロンに市井の知識人が招かれる」ということは現実の近世より少ないのではないでしょうか。市井の知識人自体が少ないことになりますし、身分制度を安定させるために教会にとっても好都合です。
「水回り編」でも推測したとおり、現実のヨーロッパよりも紙は広く多く流通しているようすなので原料は現実ほど高価ではないと考えられますが、教会に認可された木版以外は手書きで作るしかないため、結局だいたいの本は人件費の塊です。
『無双』で観光することができるアンヴァルの宮城マップには、回廊の一部にでっけえ豪華本を山ほど収めたエリアがあります。あれは高価な一点もの芸術品を飾りまくっているようなもので皇帝の栄華と威信を象徴するヤバスペースなんですね。もちろんガルグ=マクの書庫だって教会のすごさを知らしめるNASA宇宙センターみたいなものです。
帝国貴族はハンネマンはじめ多くの学者を輩出しており、エーデルガルトとフェルディナントも民に学を授けることを構想しています。帝国の政情と書物事情と学問とのかかわりについても同人誌版(2023年6月に通販予定)では詳しく語っています。
王国的貴族(中世後期の貴族)の場合
『風花雪月』でいう、王国貴族あるいは帝国文化にかぶれていない昔ながらの貴族の暮らしにあたります。
in現実
中世後期の貴族と書物との関わりにはけっこう幅があります。近世貴族が邸に図書室を作ることのはしりとなったヴァロア朝のシャルル五世のような君主もいます。詩や物語文学などの娯楽を好む中世貴族もまあまあいました。
一方で領主であっても読み書きを必要としない人もいました。娯楽読書を趣味にしてるわけじゃなければ、実は中世領主としての資質に読み書きは必要ってわけでもなかったのです。
ゲルマン民族はギリシャ・ローマ文明を追いやったときにも文字をもちませんでした。領主に必要な能力は政治の采配、戦闘指揮、武芸、弁論術といったところ。武芸にはもちろんテキストより実践ですし、政治や軍略を学ぶのにも一人で黙々と本を読んでる必要などなく、家庭教師や親から口伝えで学べばいいのです。貴族の子は外で遊び、実践で学ぶもの。
本は読まなくてもいいかもしれないけどさすがに貴族なんだから読み書きは必要だろと思うかもしれませんが、かえって貴族だから読んだり書いたりする必要ないという、日本人のわれわれからすると不思議なファクターもあります。日本では和紙という記録媒体がそこらじゅうにあふれているので貴族が一人で仕事してるときにカジュアルにメモを書きつけたり偶然のぞき見した女性に一目惚れしてその場でサラサラとラブレターを書いて届けたりしますが、中世ヨーロッパにそういう機会はあまりありません。
領主が執務をするときには、戦場にあるときにも、常に聖職者だの大学出の学者などのアドバイザー知識人だの、手紙や書類を作る代筆係だの、記憶力のいい補佐役だの、計算担当だのがセットでついているので、領主はその者たちの言を聞いて総合的に判断し、決定を告げる仕事をすればいいのです。
また、「俗語」「ラテン語」「フランス語」といった使用言語の問題もかなり大きいです。
これまた現代日本は恵まれているので感覚がわかりづらいことに、学問には通常「学問用の言語」というものが存在します。現代ではそれは英語とラテン語であり、ふつう研究者は少なくとも英語をしっかり読めなければ学術論文にまともにアクセスすることもできません。(日本は日本語の学術論文多めの特異な国です)
中世ヨーロッパの場合「俗語」と「本の言葉」の離れっぷりはもっと激しく、詩や伝説、民話などの口承文学をそのままの言葉で書き留めた俗語本以外の本という本はみんなラテン語で書かれていました。そういうもんだったのです。フランス語やドイツ語を話す当時の人々にとってのラテン語は、そうですね、現代日本語を話すわれわれにとっての『古事記』くらいの上代古語みたいなもので、学者や聖職者しか読み書きできませんでした。
というわけで、中世ヨーロッパ貴族が「本で学ぶ」ためにはまず古文書みたいなものをどうにかして読める言葉に訳す必要があり、学者を雇って時間をかけて訳本を作るところからでした。そりゃ一応可能ではあるのですがハードルが高いですし、口承文学だって吟遊詩人や芸人に実際に歌ってもらえばそれでじゅうぶん楽しいじゃん。本を読むのは一部のもの好きの趣味だと認識している貴族も中世には多かったろうとおもいます。
本がそのように少なく特別なものであった時代と場所では、ちゃんとした本は一冊一冊を大切に朗々と声に出して読み、頭だけでなく体全身で味わわれていました。いわば本はレコードであり、言語とは文字であるよりまず音であり、人間の体で「再生」するのが基本だったのです。だからなおさら「メディアプレイヤー」を持つような感覚で、「吟遊詩人の歌聴いたほうがいいじゃん」「お雇い学者が俗語で解説してくれたらいい話じゃん」というふうに思ったのでしょう。
きょうび「読書」ときいて思い浮かべる像のように黙読で書いてある内容を理解するのが一般的になったのは、読む人が使う言葉で書かれた本の数が増えてから。まだ五百年あるかないかの文化なのは驚きですね。
inフォドラ
そういうわけなので、フォドラの王国貴族を考えるときにも帝国貴族よりも書物文化に対する前提を低めに見積もっておいたほうが味わいやすいかもしれません。
少なくとも、士官学校に入学する程度の王国貴族の子弟は読み書きができているようですし下級貴族の養子となったアッシュも読み書きを教えられ読書を好んでいます。しかし、フェリクスがこうも言っています。
「俺は筆よりも先に剣を手にして育ち、物心ついた頃にはすでに剣を振るっていた。
無論、それは俺だけではない。 あの国に生まれれば皆、そう育てられる。
たとえ強力な紋章の力を持とうとも、 剣を振るえぬ者は戦で役に立たんからな」
フェリクスのようなバリバリ最上級貴族の子弟でさえ、ファーガスではやはり「筆よりも剣」なのです。書を好むことじたいは問題なくとも、武勇よりもそれが優先されるのは軟弱な役立たずである……という気風が王国貴族にはあるということです。
このように考えると、シルヴァンはイングリットやアッシュの好きな英雄物語だけではなくさまざまな本を読み、スレンの書物を学んで戦いより和平の道がないか考え、洗練された帝国的文化にも明るい知的な人間である……という、現代の価値観からすると美点にしか思えないところを含めてマイクランらに「お嬢さん」と揶揄されていた可能性も考えられます。このガリ勉のパソコンくんがよ!みたいな。ファーガス神聖マッチョ王国。
また、帝国的貴族と王国貴族では、読まれている本の内容にもけっこう違いがあるかもしれません。それはさきほど述べた現実の状況から類推した妄想なんですけど、王国でふつうに使われている俗語は教会や帝国の使う公用語とはちょっと違うかもしれない、つまりファーガスはなまってるかもしれないからです。
まず前提として、現実では王国貴族にあたるフランス語を話す中世貴族たちはラテン語で書かれた本をそのまま読めなかったとお話ししました。ラテン語はローマ帝国で使われていた言葉であり、フォドラにおいてローマ帝国的な存在は滅びずアドラステア帝国として存続しています。つまり、ラテン語にあたる帝国語の書き言葉を読める人間は古くからある学術書を大きな問題なく読むことができるでしょう。現実で教会がラテン語を扱ったように、アドラステア帝国を成立させたセイロス教会も当然ラテン語にあたる帝国と同じ形式の言葉を使っているはずです。
しかし、ファーガス貴族や帝国にかぶれていないレスター貴族たちはアドラステア帝国と対立したネメシス率いる部族社会の末裔です。現実で言えば帝国系はラテン人、王国系はゲルマン語派や古フランス語から形成された言葉を話すゲルマン人にあたります。極言するとファーガスは秋田県みたいなものであり、ゲーム上では都合上みんな標準語を話していますが、俗語本としてわかりやすいものは秋田弁の音そのままでつづられているかもしれないのです。秋田神聖王国。
風花雪月はかなり中世・近世ヨーロッパ文化を織り交ぜて作られていますがテーマ表現は日本的なので、ファーガスのことは雪が多くて日照時間が少なくて素朴だが閉鎖的保守的なとうほぐ地方だとイメージすると、いろいろと理解が深まるかもしれません(雪国並感)。
現代日本でも多くの民話がその土地の方言や古い言葉で書かれているように、イングリットやアッシュが好む土着の英雄物語や叙事詩の本はおそらく、彼らにとって平易な口承文学をそのままファーガス弁で書いたものが騎士道精神や愛国心を育むため出回っているのだと考えられます。
また、セイロス教は危険な十傑の特徴を色濃く残す戦士の国ファーガスを飼い馴らすため、教典や説法を熱心にファーガス弁に訳し木版ペッタンペッタンして貴族たちに配っているはずです。この「ファーガス弁訳」を作る際に土着信仰と融合したり中央と違う解釈を付加したりしたことで、西方教会は異端に成長していった可能性もあります。別のことばで書くときには、どうしても内容をまったくそのままに訳すことはできません。ことばとは文化であり、思考の歴史そのものだからです。
ともかく、ファーガスは神聖王国の名を冠しセイロス教の布教に協力しているので、貴族の邸や城には礼拝堂と教典、説話集、典礼用の本などが「プレイヤー」である聖職者とともにひとそろいしているでしょう。たとえ城主がそれを自分では読んだことがなくても。
逆に言えば、ファーガスには自国の民話や騎士道精神をフェリクスに嫌がられるほど盛り上げる英雄伝説、教会の教え以外の書物……すなわち、帝国や同盟の最新の学問やハウツーや流行に関するトピックスが入ってくるのには常にめんどくさいラグがあり、じわじわと遅れていっている……のかもしれません。
この「ファーガス弁」「帝国や同盟の進んだ社会からの遅れ」に関しては、同人誌版の「学問」についての章でも引き続き関連したことをお話ししています。
教会の場合
『風花雪月』でいう、セイロス聖教会の修道院などの聖職者の暮らしにあたります。
in現実
中世ヨーロッパでも近世になっても、もっとも書物と近い関係であったのが教会です。聖職者たちは神について学び同輩と神学議論を交わすだけでなく、さまざまな背景の信徒たちに状況に合った説教をしなければなりません。聖書は平易なようで難解なので、学のない素朴な民草に神の教えのよさみをわかってもらったり、困りごとを解決に導いたりするには、聖書をそのまま口語訳するのではなく「たとえ話」が有効です。イエス自身やブッダもそのように民衆に説教しています。
『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』によれば、
説教者は、聖書のなかのたとえ話を用い説教をしたので、「語義注解」は聖書で使われる語句の様々な意味を即座に知ることができる道具としてきわめて有用であった。一三世紀に、民衆への説教を主たる任務とする托鉢修道会が創設されると、ドミニコ会など托鉢修道会の修道士が聖書の「語義注解」を数多く作成するようになった。
要は、「先生のおはなし」のネタ本のものすごいやつをそれぞれの修道士たちは持っていたのです。多くの書物はこのように、聖職者が神と人とをつなぐことばのサポートツールを受け継ぐために作られました。
領主の仕事や職人の仕事は膨大な言語の記録がなくとも口承や実地で覚えられますが、積み重ねられてきた聖典の解釈は膨大でそういうわけにいきません。しかもラテン語できないといけないし。自然、書き言葉を学びキリスト教関連以外にも写本を作るのは聖職者たちの担う仕事となりました。これは現代でもそうですが、書物は(デジタルアーカイブでさえ)定期的にメンテし新しい媒体に移さなければ朽ちて永遠に失われてしまいます。これまで人間が積み重ねてきた叡智を神の恩寵として保存するのは、祈ることとともに教会の栄誉ある仕事で、ギリシャ文明から伝わる意味のよくわからない異教の書物もとりあえず筆写筆写しました。
しかし、なにしろコピー機じゃなくてにんげんだものでテクストや注釈は写本が作られるたびホイホイ変化しました。誤字があれば直そうともするし、エーッそれは解釈違いですみたいなことを曲げて書くかもしれません。しかもその当時の写本はまとまった内容を一冊にしているのではなく重要なところの書き抜きで、しかも章番号がないこともザラ。すごく……勉強しづらいです……。これも書物が広がりづらかった理由のひとつではないでしょうか。
しかし、勉強しづらいのは教会の計算通りというか、都合のいい流れだったともいえます。
ラテン語は神聖なことを記述するにふさわしい言葉とされ、儀式典礼の作法はもちろん、法律や裁判に関すること、神学書や説教用の用語集などもラテン語で書かれました。と、なると、俗界の領主たちが王家の正統性や統治の理念を示そうとするとき、領地や権利をめぐって訴訟するとき、教会が神聖なるラテン語を独占していれば、政治にいちいちいっちょかみができるという寸法だったのです。
かくしてキリスト教は中世の王侯の胃袋ならぬ「文字」「文書」をつかみ、聖職者なしには統治がままならぬようにしました。
inフォドラ
いうまでもなく、ガルグ=マク大修道院には立派な図書室があります。イングリットとアッシュが騎士物語トークに花を咲かせ、教養深いリンハルトやイグナーツも大興奮していることからも、あそこにはフォドラ世界の「まともな本」と呼べるようなものの写しがほぼすべてそろっているのではないでしょうか(まともでない本が紛れ込むとセテスが定期的にアビス送りにしている)。
ガルグ=マクは帝国歴の初期からずっと存続し資料を保存してきたという蓄積も大きいです。個人の財産だと散逸しやすいし、ガルグ=マクなら適切な手入れをする知識も人手も常に確保できますから。貴重な知識の塊である書物は女神の恩寵をあらわすものでもあります。
しかし、修道院や教会ならばどこでもあんなに多くの書物を収蔵しているとか、バリバリ写本を作る学士修道士がいっぱいいるかというと別にそんなことはないでしょう。そこはピンキリで、ガルグ=マクほかいくつかの大きな修道院にだけ多くの本が収蔵されていると思われます。ずっとファーガスの小さな教会で暮らしていたメルセデスの部屋には一冊も本がありません。
また、セイロス聖教会は活版印刷術を禁忌にし、木版印刷までを用いるように言っています。木版を作るには職人の手がいるので、木版ギルドに依頼する書物は教会の検閲を受けるように定めている可能性もある……とさきほど述べました。逆に教会には木版を作れる修道士くらいいくらでも育成できますしチェックすんのも自分ですから、木版で大量の書物や触れ書きを流通させることができるはずです。(修道院の掲示板に張ってある連絡事項などがそれです)
活版印刷機がいちど発明されてしまったことでレアは警戒を強めてふええ……しているはずですから、そのくらいの情報統制をしていても無理もないかなとおもいます。少なくともレアは十傑たちの末裔から「統治のための文字」を独占したりまではしていないように見えます。
中産階級の場合
『風花雪月』でいう、イグナーツやラファエルんちのような商家や安定したいい感じの仕事をもった町人層、非貴族の知識人たちの暮らしにあたります。
in現実
中産階級には書物と読み書きを専門とする職業の人々もいました。法律家、公証人、計算技師、大学の教師などです。こういう人々は教科書が仕事道具なので、複製して手元に置いていなければなりません。教科書複製の需要により都市には本の筆写工房が登場しました。現代でも大学の教科書って分厚くて高いのに、工房にものすごい人件費払って時間もかかってやっと手に入るなんて大変ですね。大学での学問やそれを用いて就く市民の職業については同人誌の「学問」の項でまた詳しく突っ込んでます。
それ以外のシチュエーションにおいては、何度も言うようですが手作りの書物は絶対数が少なくお高いぜいたく品だし、書物って基本ラテン語なんだろ? というわけで、活版印刷術以前には基本的に中産階級と書物とは縁がありませんでした。上流市民であっても祈祷書や好きな物語の本をいくつか持っているくらいで、多くの本を所有することはまれだったでしょう。
活版印刷が普及すると、中産階級に多くの書物が出回るようになりました。ラテン語は無理でも俗語の読み書きができる中産階級に聖書やその解釈が届き、宗教改革や市民運動のパワーが大爆発となったことは先に述べたとおりです。
活版印刷によって書物の「著者」の範囲が中産階級まで広がったのも重要です。作品を俗語書籍のかたちで発表する詩人や作家、思想家が増え、印刷機のおかげで手作り本と比べ物にならないほど安価なそれらを都市の多くの人びとが買い求めました。書物の概念が変わり知にアクセスできる人がグンと増えたのです。
inフォドラ
これまでにも述べているように現実の中世とフォドラとの違いは「活版印刷術が禁止」「紙はけっこう流通」の二点なので、一勝一敗といったところ、結局書物は手に入らんレベルではないもののけっこう高価です。
アッシュとの支援会話では市民向けのアンナさんのお店から物語の写本が盗まれ、「あの本を盗られたら大損」「すっごく高い」と言われています。市民向けに市場で売られる高額商品、子供の病気の薬代としてまとまったお金になる程度、やりくり上手なアッシュがしばらくお金に困った程度の代金と考えると、現代日本の貨幣価値だと十数万円くらい……?
大きめな商家の子弟であるイグナーツやラファエルは読み書きを教えられており、特にイグナーツは芸術品や自分の見たことのない景色への関心が強く多くの本を読んでいます。イグナーツのようなタイプの子が関心のあることについて本をたくさん読むのは現代のわれわれからすると当然のことのようですが、ここまで読んだならこれがけっこうぜいたくなおおごとだとわかっていただけるでしょう。
イグナーツが士官学校入学以前から好んで読んだと考えられるのは、女神や聖人たちの絵物語、高名な芸術品の目録のようなものや、辺境やフォドラ外の紀行文です。
現代であればそのあたりの本は市民図書館にでもヒョイと行けば無料で借りられますし、全部で二万円も出して通販すれば3日以内に届くし、おまけにカラー写真入りですよ。しかしフォドラではそれらは手書きの写本で、もちろん写真なんかなくて絵も写実的ではなく、断片的だし、高価!
これらの本はおそらくイグナーツが個人的に買って買って~したものではなく、豪商のヴィクター家だからこそ目利きを養い国際情勢を知るために所蔵していた貴重なおうちの本や、貴族向けの商材だったのでしょう。そういう環境でもなければ平民がイグナーツほどの幅広い美的教養や知的好奇心を身につけるのは無理っつうもので、いやーローレンツがイグナーツを文化的な騎士としてリクルートしようとするのは正しいよ。
庶民の場合
『風花雪月』でいう、ドロテアやアッシュ、ユーリスの生まれのような中下層都市民や、レオニーの故郷のような村の人々、ヒラの兵士や傭兵たちの暮らしにあたります。人口の九割以上がここに属します。
in現実
そもそも中世の庶民のほとんどは読み書きができないし仕事にもまったく必要ないので書物なんてぜんぜん縁がありません。それは日本の中世でも同じです。聖職者が持っているのを目にしたことはあっても、「触ったこともない、なんか高価なありがてえ宝物」というイメージで一生が終わります。高価なジュエリーとかと同じ扱い。
農民は領主や上級農民の指示に従ってひたすら農作業をし、自給自足とたまに簡単な取引だけして生きていますから人生に書物の入る余地はありません。職人の徒弟や商家の丁稚、良家に奉公に出てる家事使用人などにも文書は必要というほどではありません。
活版印刷が普及してしばらくすると、都市の庶民にも読み書きと書物がじわじわ広がりはじめます。
inフォドラ
フォドラの庶民と書とのかかわりぐあいは本編のドロテア支援、アッシュ支援、ユーリス支援などから現実と大差ないことがわかります。
都市の中下層民は簡単な読み書きもおぼつかず、幸運に後ろ盾を得なければ知にアクセスすることはありません。『無双』でわかったように傭兵の中でも読み書きができる者はわずかなようですし、その程度もピンキリ、シェズはかなり賢い部類です。それでも現実に比べればましな状況ですね。
もちろん、書物とはみんな縁がありませんでした。弟たちを養っていくのに困ったアッシュにとっては美しい装丁の書物は自分が使えるものではなく、「すごく高価なもの」でした。それでもその本を読むことに憧れてアッシュは読み書きができるようにがんばり、今では本を読むことが大好きなわけですが、そんなシンデレラストーリーはなかなかあるものではないでしょう。また、庶民オブ庶民といえる階層のレオニーさんがなぜガルグ=マクに入れるほど読み書きが達者なのか……の謎については、同人誌版の『学問』の章にわたって妥当そうな推測を書いています。
シェズとアッシュの支援会話にはこのようなくだりがありました。
「……だったらさ、調べてみようよ。僕も手伝うからさ」
「調べるって、母さんについてか?いきなりだな……」
「僕の両親は、僕や弟たちが小さい頃に流行り病で亡くなったんだ。家族の思い出や、作ってくれた料理のことは、今でも思い出せるんだけど……両親について知ってるのは、それだけだ。調べてみても、ほとんどわからなかった。それが僕にとってはすごく寂しくて。君を見ていると、自分と重なっちゃってさ。(中略)
まず村に手紙でも書いてみたらいいかもね。もし誰も文字を読めなかったら……その時は自分の足で向かうしかなさそうだけど」
この支援会話では、「読み書きのできない庶民は記録や日記を残すことも手紙を送受信することもないので、生きている人の記憶以外はその人生がどんなものだったのかわからなくなってしまう」という、常に戦記物語の影に埋もれる庶民たちの「記録に残らなさ」がテーマになっていました。読み書きができない庶民は下層生活から抜け出すことが難しいだけでなく、過去や未来との接続方法も限られる、ということでもあったのです。
もちろん、文字をもたない社会にはそれは当たり前のことで、たとえばアイヌの文化では先人を物語にして語り継ぐといいます。しかし文字もつ強いものたちの伝説が刻まれた書物の影で砂の上の足跡のように霧消していくささやかな人生の記憶を、アッシュは寂しい……と感じたのでした。
他に話す予定のある中世・近世の舞台裏としては「交通」、「死んだら」などがあります。どれに興味があるとか、このほかにこういうこともしゃべってみてよというようなことがありましたら、積極的にこの記事をシェアついでにツイートしてください。見に行きます。
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