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ゲーム『ペルソナ』シリーズとユング心理学②

本稿は、ゲーム『ペルソナ』シリーズとユング心理学タロットカードの世界観と同作の共通したテーマキャラクター造形とタロット大アルカナの対応について整理・紹介していく記事シリーズの第2弾です。

今回はタロットの話の前の長い前置きの2つめ、「『ペルソナ』シリーズで描かれた心理学的モチーフ」について紹介していきたいとおもいます。当たり前ですが作中で描かれたことや公式で直接言われてることだけでなく、筆者の解釈もばりばり入っていますよ。

『女神異聞録ペルソナ』『ペルソナ2罪』『ペルソナ2罰』『ペルソナ3』『ペルソナ4』『ペルソナ5』およびこれらの派生タイトルのネタバレを含みます。

ちなみに筆者はシリーズナンバリングタイトルはやってるけど派生作品はQとかウルトラスープレックスホールドとかはやってない、くらいの感じのフンワリライト食感なプレイヤーです。

 

 

 

前回のあらすじ―ペルソナとユング心理学

 前回はまず「なんでペルソナシリーズはユング心理学をモチーフにしてるのか? どういう効果をねらってるのか?」という話をしました。

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 ペルソナシリーズは「神話・オカルト伝奇終末RPGであるメガテンシリーズの派生作品である、ジュブナイル(青春物語)RPG」として生まれました。その「神話・オカルト伝奇要素」と「ジュブナイル要素」を結びつけるために、タイトルである「ペルソナ」という用語を含むユング心理学は適していましたっちゅう話。

というのもユング心理学の「ペルソナ」とは「外界に接する際に心(自己)が自分の外的側面として形成するもの」のような意味で、そのモデルや材料としてメガテンシリーズに登場するような神や悪魔、神話や伝説の中に登場する元型的人物像が使われるものだからです。

中高生くらいのアイデンティティの確立に悩む青春なボーイズ&ガールズは、学校や家庭の中で「キャラ」として仮面をつけて求められる自分を演じたり、嫌われないよう無理な役割を演じようとしたり、それらと自分の気持ちとの乖離に苦しんだりします。そうして仮面と本心との間でもがき苦しみ、やがて光と影を統合して新しい自分になっていくという青春の成長は、ユング心理学で目指される「個性化の過程」と呼ばれる真の自己実現です。

そんで、そのユング心理学の要素に加えてペルソナシリーズではさらにジュブナイルらしく、「自分と向き合うためには、不自由のもとにもなる他者との関わり、『友情』『絆』が必要」というまとめ方をしているわけです。

てな感じのことを前回はお話ししました。


ペルソナシリーズに登場する用語

 前回の記事でも「ペルソナ」「シャドウ」あたりについてはお話ししましたが、今回はペルソナシリーズ内に登場している心理学とかとかモチーフのキーワードの元ネタ?と作中でのアレンジについて紹介していきます。

 

ペルソナ

語義

 いわずとしれたタイトルです。ラテン語の「persona(ペルソーナ)」を語源とする、ユング心理学では「自己(心)が外界に接したときに形成する外的側面」を意味する用語。

ラテン語のペルソーナは演劇において役者の頭部を覆うタイプの仮面を原義とします。そこから転じて俳優が演じる登場人物、役割の概念……つまりは「人格」をあらわす言葉として使われました。ラテン語族の他の言語でもそのように使われてて、たとえば英語の「person(パーソン=人物)」「personal(パーソナル=個人の、私的な)」「personality(パーソナリティ=性格)」の語源となっています。

作中での扱い

 登場人物である学生たち個人個人が「仮面」を通してみずからの人格について問い、確立させていくテーマの話なんだぜと示されてるわけですね。「ペルソナ」がそういう語源の言葉であることは、実は一作目『女神異聞録ペルソナ』で再序盤になんじょうくんが教えてくれています。当時小学生の当方はひとつかしこくなった。

 

 ここで注意したいのが、「仮面」とは「仮面夫婦」しかり「表面上の、にせの」を意味することもある言葉である点です。「表面上の」ものであるはずの仮面が、どうして「人格」「自己実現」をあらわすテーマ・ワードになっているのか? と。

確かに、特に『異聞録』『罪/罰』のジャケ絵などにはお決まりに能面のように美しくしらじらとした「表の顔」とダブッって、やや邪悪で不敵な笑みを浮かべる「裏の顔」が描かれています。「表の顔は実は仮面で、その下に本性である素顔があり、それはあなたの知らない恐ろしいものであるかも……」という絵の演出に従えば、「仮面」でない「裏の顔」のほうが「本当のその人」であるといえます。

嘘くさいきれいごとに懐疑的なヤングたちに響く構成ですし、そして事実でもあります。

しかし、「仮面を脱いだ素顔が本当のその人である」という事実は、事実ではあっても「真実」ではないという、二重入れ子構造をペルソナシリーズは描いています。ペルソナシリーズが「ペルソナ」というキーワードを通して語っているのは「素顔そのものではなく、その素顔の上に身につける『どのような自分になっていきたいのか』という意志こそが、人の真価や他者との関係性を形成していく」というテーマです。

つまり、「ありたいと思う自分」「自分と向き合い生きていく意志」ってヤツ、それがペルソナシリーズの鍵です。「仮面」は自分そのものではなく、当然外れることもあるアタッチメントなのですが、一方で「仮面や役柄を身につけたときのほうが、素顔でいるときよりも自分の感情を解放できる」というのも心理的に真です。仮面をつけたり演劇をしたりの経験がない人でも、化粧や特別な服装、あるいは組織での役割によっていつもと違った自分としてふるまえた……とか、そういうのはあると理解できるのではないでしょうか? 「突然思ってもみない立場につかされ、ふるまいを演じさせられ、カンベンしてくれよと思っていたが、やっていくうちに最初は嘘だったふるまいが『板について』きて、気付けば自分の一部になっていく」というような物語は古今東西テッパンハートフルです。

 このことから、ペルソナシリーズでは登場人物たちやペルソナのデザインにおける服飾ファッションの要素が常に重視されています。中高生のヤングなボーイズ&ガールズが興味津々な「服」こそは、「自分が何者でありたいかを、他者に見せる外的側面」、つまり「ペルソナ」そのものだからです。現実世界の登場キャラクターにおいては制服のそれぞれ違う着こなしや私服のセンスに「どう見せたいか」の意識が出ていますし、ペルソナのデザインもちゃんと「服」「コスチューム」として、より内的な問題を描き出すアヴァンギャルドファッションに作られています。

そもそもメガテンからの悪魔デザインや初期キャラクターデザインを担当している金子一馬氏が、悪魔デザインにおいてかなり前衛ファッションにインスパイアされてるんですよね。神や悪魔の姿もペルソナと同様に人間の内面から描き出される強烈な役割イメージであり、コスチュームとかかわりがあるというわけです。

 

シャドウ

語義

 「影」ともいいます。もちろん影=日の当たる側面と逆側にできる暗い像を語源とします。ユング心理学では「生きられなかった自分」、それがゆえに「認めがたい自分の側面」を象徴する言葉として使われます。影がまるで鏡に映った像のように目に見えるものであるのと同じように、シャドウは人間みんなの人生や想像の中に共通したイメージ(元型)としてしばしば姿をあらわしてきます。普段は絶対しないようなことをしている夢の中の自分や、なんかしらんがムカつく認めがたい他者として。

古今東西の物語の中にも、主人公と姿や立場などが類似しているが逆の行動をする人物や、対照的な人物、はたまた本体の人間と切り離されてトラブルをおこす体の影そのものがよく登場します。これらはまったく別の人格をあらわしているのではなく、その人の「外/明るい世界に向けている面」の逆側にあるその人自身の心の一部です。いわば自己(心)の外的側面である「ペルソナ」とそこに光が当たったときにできる強い影である「シャドウ」は同じものの表面と裏面のようなものです。

作中での扱い

 「ペルソナ」と「シャドウ」は同じもの(心)の表面と裏面である、ということが、ペルソナシリーズでは視覚的デザインに取り入れられています。シャドウは「影」「普段光の当たっていない面」であることから、ペルソナシリーズだけでなくさまざまな物語の中で「黒っぽい、暗い色」で表されます。特にペルソナ3以降のエネミーとしてのシャドウデザインは真っ黒なベースに不気味な(しばしばタロットのアルカナを示す)仮面がついているのが基本です。ちなみに、本人の影面をあらわす精神体として人型をとっているときにはきまって「金色の目」であらわされる慣例になっています。

メインペルソナのデザインにも同様に、「真っ黒い素体を個性的な仮面や服で覆っている」というデザインのルールがあります。これは「中にシャドウが入っていて、その力を意志ある仮面によって制御している」からです。ペルソナ能力とはシャドウという心の中の危険なエネルギーを飼い慣らして使う能力であるといえます。

 一方ペルソナ使いでない一般の人間はそこまで自分のシャドウと向き合う根性をみせるに至らないので、シャドウにさまざまな問題が起こり、作品の原動力となる都市伝説的な事件をひきおこしていきます。これらは現実の世界で自分の影の側面を認められないがためにおこる実際の人生の問題や、社会問題を戯画化したものですね。ナンバリングごとに名前や起こることは違っていますが、中心は常にそんな感じです。以下、それぞれのナンバリングでのシャドウ問題です。

影人間(2罪)

 「影人間」はペルソナ2(罪)に登場する都市伝説です。いわく、「自分の携帯電話番号に電話するとジョーカー様にかかる。そこでジョーカー様に自分の夢や理想を告げれば叶えてくれるが、それが言えない者は影人間にされる」というもの。都市部の高校生に携帯電話が普及してきた当時ならではの、いかにもありそうな都市伝説で技アリです。

「影人間にされる」とは他の都市伝説にもある「呪われる」のように不気味だけど具体的にはどういうことかはっきりしない言葉です。具体的にはジョーカー様に理想を告げられなかった者は「イデアルエナジー」と呼ばれる未来への夢や展望、それによって生きていこうとする気力を根こそぎ奪われてしまい、無気力になって身動きが取れない状態となります。それどころか、黒っぽい影のような姿となり、徐々に付き合いの薄かった周囲の人の認識や記憶からぼやけて消えていきます。「死ぬ」わけではないのですが、「生きてもないし、他者に見えることも影響を与えることもない、忘れ去られた者」となるのです。

影人間と同じようにペルソナ2罪の中で「呪い」として扱われている状態がもう一つあります。「呪われた七姉妹学園の校章を身につけていると、顔がなくなる」という噂の呪いです。学生たち顔のパーツがデロンと溶けだしてのっぺらぼうとなるシーンはすごい気持ちわるショッキングで動揺しちゃうのですが、これもまた「自分が何者であるかを失い、他人に認識してもらえなくなる」という呪いであるといえます。

ペルソナ2罪は「主人公が進路希望調査を避けている」というシーンから始まります。女神異聞録でも再序盤の名前入力シーンでフィレモンが「ここに来て自分が誰であるか語れる者は多くない」と称えてペルソナ能力を授けてくるように、「自分が何者でありたいか他者に宣言する」のは難しいというか、勇気のいることです。なぜなら、それは自分と向き合うこと、普段光の当たる世界での生活の中でまあいいかで済ませている心の中の本当の望みであるシャドウとがっぷり四つに組んで相撲を取ることだからです。

自分の影と向き合って相撲を取り、本当の望みを見つめようとする覚悟のないものは、シャドウを含む心のエネルギーを失い自分が何者であるかをなくしてしまい、生きていても影のような人間となる。それがペルソナ2の「影人間」です。作中で「夢など持たないほうが彼らにとっては幸せ」ともいわれているように、夢を持ち続けることはすなわち自分の不都合な本心であるシャドウと向き合い続ける苦しみと同じことなのです。

 

JOKER(2罰)

 ペルソナ2罪の世界から枝分かれ?つーか移動?したパラレルワールドである2罰の世界では「ジョーカー様」の噂が「JOKER様に電話すると気に入らない人を殺してくれる」という身も蓋もないやつに変わっています。表記も変わり、似て非なるものであると示されています。この「JOKER」が2罰における特殊なシャドウのような役割です。

「JOKER様」を名乗り、紙袋の無貌の仮面(?)をかぶって嘱託殺人をやっていた人物がいたのですが、それは発端にすぎず、彼が退場してからもJOKER騒ぎは続きむしろ悪化していきます。なぜならJOKER様に殺しを依頼した人間が次々にJOKERという概念にとりつかれ、「アイツを殺したい」という「負の本心」とでもいうべきものに支配されてしまうからです。

このJOKERの側面は「ペルソナと同じようなもの」と作中で説明されます。人を殺したい心が仮面となって顔に張り付くと、その人は実際に殺人者になってしまう……というわけです。この作品のみならず呪いとはえてしてそういうものです。そして、悪意は悪意を呼び、呪いが社会の魂をむしばむのです。

そして一時はそれを無意識の海に沈められたとしても、それをまた浮かび上がらせないようにできるかは本人次第、とも言われました。これもシャドウのもつネガティブな力をいかに飼い慣らすかということです。

 

無気力症/影人間(3)

 ペルソナ2罪と同じ「影人間」の用語も関連する、ペルソナ3の「無気力症」とは作品冒頭の数年前からにわかに増えてきた謎の病気(?)です。読んで字のごとく「ある日突然なんもする気が起きなくなり、ほぼ廃人のようになってしまうこともある」という症状です。これに罹患(?)した人のことを影人間とも呼びます。無気力症患者への支援やお世話をする周囲の人たちの負担が深刻な経済活動や労働力の低下の問題につながることも懸念されており、病んだ社会構造がうつ病の人を増やしてしまう実際の社会問題ともリンクしていました。

「他者から忘れ去られる」という要素以外はペルソナ2の影人間と似ていますね。実はその機序も同じです。無気力症は「心の中からシャドウを失うことでおこる」らしいと作中で直接言われています。2罪と違って「奪われている」のではなく、なんらかの原因(作中で明らかになります)で「抜け出ている」状況です。主人公たちは基本的にシャドウを討伐することで「抜け出た」シャドウを人間の心に戻し無気力症患者を復調させることを目的とします。

無気力症には「なりかけ」、つまり「シャドウが抜け出かかっている」ような状態も存在します。さきほど述べた「なんらかの原因」がシャドウを引っぱる引力になっているにしても、しっかりシャドウを心の中に入れておく力を保持できてるなら問題ないんですよ。「自分の心の中の不都合な部分や、人生と向き合うことを放棄しかけている」人からシャドウはニュルンとコンニチワ。うつ病は脳機能障害なのでそういう系の精神論じゃ治りませんが、ストレスが脳機能障害に至るまでにはそういう心の基礎体力の低下や、過酷で希望のない生活、低下した体力を周りに支えてもらえないことなどが大きな要因になってしまうことは事実です。そういう生への慢性的絶望の積み重なりが、心がシャドウを放棄することにつながるというのがペルソナ3の無気力症です。

ゲーム終盤には「無気力症だけど出歩いて活動しており、終末思想を支持する人」というのもみられるようになります。これは「シャドウをなくして自分と向き合うことを放棄したらラクになった、どうせ世界は終わってみんないっしょにド派手に死ぬんだから怖くもないぜヒャッハー」状態になった人をあらわしています。もちろんこれはよい悟りではありません。後述しますが、ペルソナ3のテーマは「死の恐怖と向き合うこと=真に生きること」だからです。

 

連続不審死(4)

 ペルソナ4は町で起こっている連続不審死事件の真相を追うことを目的としています。この不審死、確定してしまっている最初の二件に関しては、主人公たちしか知らない事実ですが、「テレビの中の世界で、自分のシャドウに殺された」というものです。

テレビの中の世界はシャドウが実体化する世界で、テレビの中に落ちたペルソナ使い以外の人間は自分のシャドウに出会い、認めがたい自分を突きつけられて苛まれることになります。一人ではとても自分のシャドウに立ち向かって受け入れることはできず、やがてそのまま「街に雨が続き、そののちに濃霧が出る」とシャドウの暴走に食われて死んでしまいます。マヨナカテレビが移るのが雨の日の深夜であること、雨の日になると出現するエネミーとしてのシャドウが強力になることから考えて、これは「雨の日や霧の日は人の心がどうしても自分の内面や人の噂について不安になり、深く考えざるを得ないし、視界も悪く、悪い方に混迷する」というしくみでしょう。

 ペルソナ4はシャドウとペルソナが一体のものであるというシリーズ共通の設定や、シャドウを否定すると自分の心を害するというユング心理学の要素がわかりやすく表示された作品です。

ペルソナ4ならではのヒネリとしては、テレビの中の世界に現れるシャドウが純粋に本人の心からのみ出たものではなく、「人々がエンタメとして見たい像」にも影響されているというところです。不安や混迷は真実そのものではなくわかりやすくて刺激的な姿を望みます。自分の中の葛藤を「天使と悪魔の言い合い」でイメージするように、自分自身の心もまた、シャドウに戯画化した悪魔的イメージをかぶせて理解しようとするのです。

 

パレスの主

 ペルソナ5のシャドウは「強い欲望やこだわりによって歪んだ認知の自分像」としてあらわれます。

パレスの主やメメントスシャドウボスの本体である人間は普段はそれを自覚して隠してまともな人間であるかのように振る舞っており(金城はまともでもないけど)、ある意味では「ペルソナ」を使いこなしているともいえます。しかし実際は、「正常な認知においては向き合うべき自分の問題や罪を、他人を食い物にすることによってごまかし逃げ続けている」という姿が、ペルソナ5のシャドウです。

よってペルソナ5のパレスボスのシャドウはみな滑稽なまでに「強そう」「偉そう」な姿をとっています。強い人は強さを誇示する必要などなく、じっさい現実世界の彼らは社会的強者らしくいつも余裕そうに振る舞っています。しかし心の中では「自分は強いのだ、自分は偉いのだ、だからどんなに欲望を振りかざしてもいい」と常に思わずにはいられません。そのように歪めなければ、自分の罪を反省しなければならないからです。歪んだ心の力であったパレスボスのシャドウは、自己正当化のよりどころであった「オタカラ」を盗まれると無力化され、シャドウが「やっぱ悪いことしてたよな……」と反省せざるを得なくなると人は本心から深~~く反省したことになります。

しかし、これまでの作品の流れからも察せられるように、シャドウをもっていることはいちがいに悪いことではなく、というかむしろ良いことで、のちのち「シャドウ(本心の欲望の力)をあらかじめ牢獄に囚われた多くの人」が登場します。確かに、他人を食い物にして歪んだ欲望を叶えている人もいれば、逆にその何百倍も最初から野望を持つこと自体あきらめて奴隷根性に浸かりきってしまっている人もいることでしょう。格差社会はそうやって人の心から欲望というシャドウのエネルギーを奪います。

パレスボスたちに関してはやり方がスゲー悪かったにしても、「他者を押しのけてでも、社会に逆らってでも叶えたい欲望」という「罪」を、シャドウを抱いて生きろ、心の中の反骨の炎を消すな、おまえのオールをまかせるな(宙船)、というのがペルソナ5のシャドウの描き方です。

 

ジェイル/ネガイを奪われた人(5S)

 ペルソナ5スクランブルではパレスの主の代わりに「ジェイルの王(キング)」と、彼らに「ネガイを奪われた人」が登場します。

ジェイルの王はパレスの主と同様本人の普段は隠している心のエネルギーをあらわすシャドウです。彼らは現実世界のSNS機能つきAIアプリで「トモダチ」になることで他人を虜にし、知らず知らずのうちに自分に都合のいい行動を起こさせることができます。この「他人を虜にする」しくみというのが、ジェイルの世界でその人から「ネガイを奪う」ことです。ネガイは人の胸部から美しい宝石のようなカタチで取り出され、王のもとに集められます。普段はボンヤリときらめく霧のような姿をしています。

ここまでくると察しがつくとおもうのですが、この「ネガイ」というのは2の「イデアルエナジー」や5の「オタカラ」とほぼ同じ、「心のエネルギーとなる、シャドウ(本心)の願いや欲望の力」です。それを奪われただけでなく王に握られているので、心が望むものを操られた状態となるわけです。

そしてネガイを奪われた人もまた、2や3の「影人間」たちと同じように「そのほうがラクで幸せかもしれない」というふうに描かれています。「自分の望みや人生と向き合って苦しまなくて済む」のみならず、「何をいいと思うのか、何を欲望するのか、他人に決めてもらう人生のほうがラク」という心の問題が描かれているのです。人気のものや良質なものだといって自分で探さずとも次々と情報がサジェストされてくる現代の時代性に即したヒヤリハットといえるでしょう。

 

集合的無意識

語義

 ユング心理学でいう「無意識」とは、心(自己)全体の中で「意識」のスポットライトの当たっていない広大な部分すべてのことです。こう言うと「ペルソナ」の影にできる「シャドウ」と同じようにも聞こえますが、無意識はシャドウよりもーっと広い海のようなスペースです。無意識の中に、特に向き合うべき認めがたい課題としてのシャドウが出現してくるって感じですね。心(自己)は、自分自身で意識しているよりずっと広く、現在の意識ではわからない謎をたくさん隠しているということです。

集合的無意識(普遍的無意識)は、その暗く広大な海のような心の無意識が奥底でつながっている「みんなの心の枝葉の根っこ」「みんなの心の川が流れ込む海」のようなものであるとされます。

ペルソナシリーズでも取り上げられている「オルフェウスの冥府下り」と「イザナギの黄泉下り」の神話の類似のように、人類はまったく違う場所で生まれた物語や神話体系なのに似ている筋書きやキャラクターを共有していることが多々あります。こういう共有イメージを「元型」といい、元型が集合的無意識の中にあるから、それの派生作品がいろんなところで生まれるというわけです。

イメージの型を共有しているだけでなく、人の心や世界のできごとは集合的無意識でのつながりを介して相互に影響を及ぼしあっているといいます。「虫の知らせ」とか「思えば叶う」とかも、集合的無意識のはたらきによるものともいえます。

作中での扱い

 3からははっきりと用語として出てこないかな。しかし、メガテンシリーズが扱う「神話」もペルソナシリーズが一貫して扱う「都市伝説」「噂」も、すべて集合的無意識が大きく関わるものです。2罰ではトリフネで克哉がユング心理学における自我と普遍的無意識について長セリフで説明してくれる。

神話が集合的無意識の中の元型を共有していたり、その物語が人の心や生活に影響を及ぼし続けるのと同じように、「都市伝説」や「噂」もまた「人の心の想念が無意識を介して集合して神話のようになり、ときに現実のできごとにも影響を及ぼす」ものです。

ペルソナ2罪において「噂が即時に現実になる」のは集合的無意識の世界が現実世界にメチャクチャ接近してきてるからですし、ペルソナ3の「タルタロス」や「時の狭間」、ペルソナ4の「テレビの中」「霧深き虚ろの森」、ペルソナ5の「メメントス」などはみんなの集合的無意識(の一部のあらわれ)を表しているダンジョンです。

ちなみに、ベルベットルームは「夢と現実、精神と物質のはざまにある場所」と言われていますね。夢もまた無意識の領分で集合的無意識とつながっており、これは現実世界と集合的無意識の間にあるということもあらわしています。だから集合的無意識の「元型」を汲み出してペルソナを作ることができるんですね。

【追記】Aimさんのコメント「ベルベットルームがなぜ青いか」について

ベルベットルームのイメージカラーである「暗くて深い青」は、鎮静や内向、深層心理の世界への沈降を示す色です。作中で集合的無意識が「心の海」とたとえられていることからも暗い青は「深海」のようなイメージではたらいています。もしベルベットルームが明るくてライトオレンジ色とかの壁してたらとてもじゃないけど無意識に潜っていけないですよね。

また、「ベルベット」というのも毛足のあるシルクの「なめらかで神秘的な手触りの織物」であり、通常暗く深い青やワインレッド、黒などの落ち着いた色で織られます。

 

フィレモン/ニャルラトホテプ

語義

 「フィレモン」とはユングが夢の中で出会った翼ある賢者、「老賢者」や「アニムス(理想的男性像)」の元型をあらわす存在です。一方「ニャルラトホテプ(ナイアーラトテップ)」とはいまや当時よりさらに高名となった、クトゥルー神話の代表的な神格です。

当然もともとは同じ話の中に登場する人物ではありません。なんで突然ニャルラトホテプ出てきたんよといえば、かの神格のもつ「暗黒」という性格と、「顔がなく、よって千の仮面をもつ」という性質によるものでしょう。

作中での扱い

 ペルソナシリーズのフィレモンはユングの夢の中に現れたのと同じように、人々の心の成長を見守り、導き、支援する存在です。その正体は人の心の海(集合的無意識)の中の元型、人類の魂の善なる成長をめざす「ポジティブマインド」の化身でした。仮面をかぶった紳士の姿で現れ、その素顔は見る人の心によって変わります。見る人自身の顔をしていたこともありました。

3以降は直接出会うことはなくなりましたが、ベルベットルームの主人イゴールは彼の部下であり、運命にいどむ若者たちを常に間接的に助け見守っています。「心」をあらわす動物である蝶そのものの姿で現れることもあり、ペルソナシリーズにキラキラした美しい抽象的な蝶が描かれたら、それはフィレモン様がみてるってことです。

 その逆に、2にあらわれたニャルラトホテプは人類の魂を悪意と破滅にいざなう「ネガティブマインド」の化身であり、フィレモンと表裏一体の関係です。

ある意味、フィレモンと共同作業で人類に試練を与えたり助けたり励ましたり突き落したりで人類を育てているような感じですね。ネガティブマインドは容赦がないのでヘタすると育てるどころかふつうに人類滅ぶんですけど。

フィレモンについても同じですが、元型に本来特定の真名はないはずです。だから暗黒神であり、無貌にして千の顔をもつトリックスターであるニャルラトホテプの名を「そのときは」名乗っているというだけです。人に肯定的可能性と意志力を与える存在と否定的な悪意と破滅を与える存在は、たとえば「神とサタン」と呼ばれたり、「お釈迦様とマーラ」と呼ばれたり、どこにでも普遍的にいて人類の魂の葛藤を見守っているのです。

 

胡蝶の夢/異界

荘子原文

昔者莊周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志與。不知周也。俄然覺、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與。
周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。

(書き下し

昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩々然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。)

――荘子

 これはユング心理学じゃないのですが、異聞録から重視されている要素なので書き置きます。

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PS版女神異聞録ペルソナのオープニングデモムービーはいわゆる「胡蝶の夢」、上で紹介した荘子の文が紹介されたあとに、前述の通りフィレモンであり我々の心の象徴である蝶がものさびしく不気味ですらある静かな街を飛び回り、物語の真相を暗示する意味ありげなカットで静かッ……に終わります。なんだこのオープニングムービーは(大好き)。

「胡蝶の夢」は要約すると、「蝶になった夢を私が見ていたのか、それともこの私が蝶の見ている夢なのか、そこに絶対的な違いはない、どちらも私である」という意味です。つまり、「いろんな自分」であるペルソナや、「いろんな世界」ともいうべきものの見え方は、違うものでありながら同時に存在しておりどれかが真実という事はない、ということです。

 

現実界・象徴界・想像界

 この見出しじたいはジャック・ラカンの精神分析理論の考え方ですが、ほかの考え方、たとえば物語や神話の読み方に関することなどでも、世界にはいわゆる「現実に存在する確固たる世界」だけでなくいくつもの「界」や「層」が重なって同時に存在していると理解することができ、自分がどのような世界に生きているかは認知のしかた次第です。ペルソナ5の最後の方でも「我々は一人一人が違う認知の世界を生きているのと同じ」的なやつありましたね。

ラカンによれば、「現実界」におこったことを理解したり語ったりする際に人間は言語を使わざるをえないが、言語は現実そのものではない象徴的なものであり、その理解や語る言葉自体がすでに現実界のものではなく「象徴界」のものだということです。要は人間が理性で理解してる世界ってのはホンモノの誰にとっても客観的事実な世界ではなく、個人個人の言葉による理解のフィルターを通したバーチャルなものだってことですね。これは3以外のタイトルには全部直接関連してるようなことですが特に4のマヨナカテレビと5のパレスに顕著ですね。

一方、想像、頭の中に思い浮かべるイメージの世界であってぜんぜん現実ではない層「想像界」も、これを共有したり詳しく考えたりする際に言葉を使います。つまりわれわれが主に生きている世界、言葉の世界である「象徴界」は現実界と想像界の間にある世界なんですね。ペルソナ2で「噂が現実になる」のは、言葉という象徴界の代表的な力が想像界にも現実界にも影響を及ぼすさまを描いてたってわけです。

【追記】これに関連して「ペルソナシリーズは象徴界が機能しているからセカイ系ではない?」というコメントをいただいたので、「セカイ系」と象徴界とペルソナシリーズについて付録記事つけました。

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 ペルソナシリーズには必ず何かしらの、心の力がものを言う「異界」があらわれます。これは決して荒唐無稽な話でも無関係な異世界の話でもなく、実際にこの世界に重なって存在している、違った世界のとらえ方の層を戯画化して描いたものです。物理的な世界として移動できなくても、心の問題の世界では普段の「現実」の力ではなく、心じたいや人間同士の関係性がものを言うのはマジの事実なのですから。

 

 

 ほかにもとりあげるとよさそうなキーワードあったら記事引用とかコメとかでリクエストよろしくです。よさげだったら追記して増やします。

 次回はいよいよ(今回の記事に本当は入れたかった)各ナンバリングの仕掛けやテーマの描き方の概観とか、もしくは本題のタロットのアルカナの話しますよ。お待たせしております。

 

↓おもしろかったらブクマもらえるととてもハッピーです

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