湖底より愛とかこめて

ときおり転がります

褪せぬ秋の日(メルセデス・ローレンツ)―FE風花雪月と中世の食⑬

本稿は2021年6月に発行しました『いただき! ガルグ=マクめし副読本 -フォドラ食物語-』が完売してだいぶ経ったため、SNSフォロワー限定オマケをWeb再録するものです。『いただき! ガルグ=マクめし』の中の関連キャラクターの項と、二次創作小説をセットでどうぞ。

※『褪せぬ秋の日』は照二朗の書いた小説となります。挿絵イラストは表紙と同様マルオ先生によります。末尾にはWeb再録にあたって解説コラムコメントを書きなおしています。※

booth.pm

www.homeshika.work

 

11/23の新刊では『いただき! ガルグ=マクめし』の延長戦的にフォドラ各地域の「気候」と「特産物」の話をたっぷりしますよ!

 

 

キャラクターの食の好み

ローレンツの好み、および紋章の特性についてはこちら

www.homeshika.work

www.homeshika.work

 

メルセデスの好み、および紋章の特性についてはこちら

www.homeshika.work

www.homeshika.work

 

褪せぬ秋の日

 

 角弓の節の風が夏の終わりを告げてのち、フォドラは葡萄の実りと冬の準備へと向かうための季節を迎えていた。

 

 家督を譲られて初めての領都の葡萄酒祭を無事に終わらせたローレンツは、飛竜の節の下旬、ガルグ=マク大修道院を訪れた。消えてしまった元・盟主からの密書を携え、恩師と今後の旧同盟領のゆくべき道を相談するためだった。師は困った元・盟主(あの生徒)のやっていることをおおむね察していたようで、いつも通りローレンツばかりが彼に振り回されて悩み惑っている心のうちを一人で話してしまった。

 師は最後に静かに「クロードはローレンツを信頼している。自分もローレンツの判断は信じられると思う」と言っただけだったが、聞いてもらううちになぜか不思議と考えはまとまった。今は師の勧めを受けて、懐かしい学び舎でもある大修道院をゆったりと散策しているところだった。主だった場所の補修は終わり、外壁の崩れに対してもさかんに職人たちが仕事をしていて活気がある。

 

 最近再開したガルグ=マク士官学校の生徒たちの、かつてローレンツも着ていた制服とすれ違う。視界に入れるだけでローレンツを名家の貴族であろうと察した貴族の男子が上品な仕草で礼をとってくれ、ローレンツは好感を覚えた。少しばかりあわてた様子なのは、彼が後ろ手に隠すようにした花が原因であろう。大輪の薔薇などではなく、ささやかな花のついたほとんど草のようなものだったが、小さな花束のようにリボン飾りで結ばれていた。星辰の節の舞踏会まではそう時間がない。意中の女性に贈るのだろうか。

 あの小さな草の花を贈るということは、相手は気取らない平民の女性であるのかもしれない、とローレンツは思いを巡らす。しかし、士官学校が再開したばかりの今の世情でここに学びに来る平民の女性とはいかなるものであろう、それはレオニーのように稼ぐ戦士になろうという強烈な女性か、あるいは箔と人脈を作って貴族と結ばれることを親に望まれている女性か……。などと、思い巡らせているあいだに、草花の爽やかな香りを残して彼はゆき過ぎていった。

 

 学生たちが駆け込んでいく昼時の食堂の脇、中庭の薔薇園は変わらずみごとなものだった。いや、戦争が始まって大修道院に人が戻ってくるまでの数年は荒れていたのだから、変わらずというのはおかしい。薔薇は手がかかる植物だとグロスタール家の庭師からの報告にも聞く。変わらないかたちに戻した人の手があるのだ。
今まさに薔薇の垣根に手をかけている修道士にローレンツは声をかけた。

「もし、薔薇の修道女どの。お仕事を手伝わせていただけるかな?」

 修道女は咲き終えた薔薇の実を摘んでいた。やわらかな白いヴェールが透け、薔薇の木の深い緑と、黄から真紅までとりどりの薔薇の実が映えて、花弁はほぼ死に絶えているのに花どきと同じほど美しく見えた。腰をかがめて作業している後ろ姿はゆったりとふくらんだ袖や裾とあいまって白パンのようにまあるく見えたが、不思議と田舎の婦人のようでなくしんとした清らかさがあった。きっと老女になっても同じようであろうと思われた。

 と、ローレンツは彼女が少し動きの遅い方なのを知っていたので、そのように考えるあいだ一拍二拍待っていたのだが、振り向かれないまま六拍めほどを迎えた。

「メルセデスさん、お仕事を手伝うよ」

 気まずいながらにローレンツがもう一度はっきりと声をかけると、今度は修道女は一拍だけで振り向いた。

「あら、あら~。ローレンツじゃない。驚いてしまったわ。もしかして、さっき私を呼んだの?」

 メルセデスはしゃがんだまま前髪をはらいながら振り向いた。心から喜ばしげな柔和な笑顔に、細いうす亜麻色の髪が少し張り付いていた。涼しい秋の空気の中でも汗ばんでいる、働き者の園芸用手袋から枯れ藁の切れ端がひとすじその前髪に絡んだ。ローレンツはそれをつまみ取って髪を整えたいとも思ったが、紳士として適切なときと行動を見計らうことにして我慢した。

「久しぶりだね。もちろん君を呼んだんだが、無視されてしまったのかと思ったよ」

「無視なんて、しないわ。私じゃなく、行儀見習いで来ているもっと若い女の子がいるのかと思ったのよ。薔薇の、なんて柄ではないもの~」

 確かにメルセデスはローレンツの好んで飾る紅薔薇のように生気とみずみずしさにあふれた女性ではなかった。美しい顔かたちに匂いやかに化粧をしているのに、たとえば、咲く薔薇ではなくて今ちょうど彼女が世話しているような、霜から守られるために足元を乾いた藁で温められ、亜麻をなった紐で固定された冬の薔薇の木のような。

 

 冬薔薇の修道女は、その通り冬のために乾かされたものの扱いの達人でもあった。すなわち、大修道院で育てられている香草類への乾燥などの処理を担っていた。「香辛料や香草のことならメルセデスに相談するといい。菓子の専門家だから、もうアッシュと同じくらい詳しい」と恩師に言われてローレンツは彼女をたずねたのだった。

 薔薇の実を摘み終えたメルセデスは、非力な腕でよいしょよいしょと麻袋を荷車に載せようとし、ローレンツは積極的に手伝った。

「ふう、これでいいな。メルセデスさん、もう仕事は終わったのかな」

「手伝ってくれてありがとうローレンツ。ええとね、この後は香草の畑に藁をしいて、それがひとつ終わったら、厨房の仕込みのお手伝いをしようと思っているの~」

 荷車を別の修道士に渡し、優雅に話を切り出そうとしたローレンツはこれは待っていてもだめだとあわてた。そういえば、「メルセデスちゃんは放っとくと際限なく奉仕活動をしちゃうのよー! みんな気を付けてあげて」と、人にものを頼んでやまないあのヒルダさえ戦慄していたのだった。

「メルセデスさん、念のために聞くんだが、それはぜひに今日、君でなければできない仕事なのかな?」

「そうねえ~、まだ霜は降りないだろうから、藁は無理に今日でなくてもいいわ。厨房も、特別忙しいとは聞いていないし~。もしかして、ローレンツが私に何か頼んでくれるの?」

「そう、そうなんだ。頼まれてくれるかい」

 ローレンツは何やら、考えていたよりずっとほっとした気持ちになった。香草について話を聞いて相談に乗ってほしいと伝えて、流れでメルセデスが香草茶をふるまってくれることになった。茶会のような席なら自分も安らげるが、メルセデスも少し休憩ができることだろう。

 


「お待たせ~。いくつか摘んできたわね」

 昼食休みが終わり静かになった中庭にメルセデスは茶器と香草の入った篭を持ってきた。取り落とさないようローレンツが香草の篭をひきとると、頭が冴えるような鮮烈な香りがした。執務をしている部屋にこうして草花を飾れたら仕事がはかどるかもしれないと思う。

「待っていて、今、飲み物を淹れるから。苦手な香りじゃないといいのだけど~。いくつかあるから、遠慮せず言ってね」

「お気遣いありがとう」

 ローレンツは作法として、急がず、飲み物が供されるまで相談を待った。メルセデスが香草茶に使ったのは摘んできた生の香草ではなく、栓のついた壺に入った乾燥した葉だった。茶出しに入れる際、メルセデスの瞳のような青紫色が見え、愁いをおびて清麗な印象であった。

「どうぞ」

「ああ、なんの香草かは言わないでおくれ。……良い香りだ、ありがとう。いただくよ」

 紅茶とは異なる薄い水色(すいしょく)の入った茶器が差し出され、ローレンツは出された香草茶の香りをきいた。どうやら、二つ以上の香草が混合されているようだった。

「ひとつは、ラヴァンドラだね。柔らかで甘い香りだ」

「そうよ~。さすがね。胃痛とか、頭痛とかを鎮めて、心が少し軽くなる香りなの」

「ふむ、他にも、香辛料のような香りがしているが……なんだい?」

「マジョラムよ。知っているかしら」

「品目としては知っているね。料理によく使われているものだろう?」

「そう。食欲が出たり、筋肉が凝って痛いのや攣(つ)るのをよくしてくれる香りよ~」

 効能を聞いてローレンツは内心舌を巻いた。机仕事で胃や肩をやられているのを見抜かれて気遣われているのだ。

 

 メルセデスも香草茶をひと口飲むのを待って、ローレンツは話しだした。

「君は香草や香辛料の効能を知って、よく役立てているのだね。
 知っているかもしれないが、僕は旧同盟領を通る交易を調整する立場にある。香草や香辛料を含めた、ね。しかし僕自身は、そんなに多種多様な香辛料を日常的に口にするほうではなくてね……。もちろん客人の饗応となれば料理人にとりどりのものを作らせるように用意するし、消化や健康のためにとる香草も好きさ。それは貴族として示すべき栄華だからね。ただ、あまり物珍しいものをたくさん、なんでも使ってみようというのは品がないだろう?」

「ふふ。クロードの話をしてるのかしら~?」

「……どのクロードの話か思い出せないな。なにしろ平凡な名前だから。まあそのどこかのクロードとやらの馬の骨がいるとしよう、慎みというものを知らないそいつの持ちかける取引に、唯々諾々と乗るわけにはいかないんだ、僕は。
 値や量を規制するなり、関税やなにかしらの管理を加えていかなければならないのだよ。もっと取引内容について知らねば。当家にももちろん詳しい執政官はいるが、方策を指示するのは僕だからね」

 メルセデスはふわふわと相槌をうちながらほほえんで聞いていた。昔は、いくら気持ちよく話を聞いてくれる人だとはいえ、平民の立場である彼女に何かを求めたり弱みを見せたりするのは好ましくないと避けていた。メルセデスが専門知識のある修道士という俗社会とは一線切り離された人間になったことはローレンツにとって新鮮で、喜ばしい面もあることだった。

「そうなのね。ローレンツは今、昔だったら同盟の盟主様みたいな立場だもの。大変な判断も多いのね~。どんな感じのことが困りごとなの?」

「一番の問題は香辛料の相場だね。需要の変化や流通している量によって値が常に動いているのは当然のことだとしても、香辛料の種類によって単位……というか、一樽(ひとたる)あたりいくら、一定の重さあたりいくらという相場の基準自体が異なっていて非常に管理が難しい。まして今は、これまでフォドラで一般に流通したことがないようなものが次々入ってこようとしているんだ。前例に頼ってばかりでいられないのが難題だ」

「へえ。大修道院や大きな教会ならダグザや東方の珍しい作物も育てているけれど、それがたくさん、街のみんなのための市場でも売られるようになるのね~。きっと混合調味料(シーズニング)もいろいろ作られるわ。お買い物をする側としては楽しいけれど……」

「そうなんだ。僕としても、平民たちの取引が盛り上がるのを止めたいわけではない。ただ、香辛料には皆が求める危険な魅力がある。市場に任せきりで何かあったときに値動きや流通を管理するすべがないのでは、貴族としてあまりにも無責任というものだろう? 事実、同じ品目の香辛料でも不可解なほどの高値と安値があることがあって、既に市場に混乱を呼んでいるんだ」

「まあ。それは、どんな違いがあるの~?」

 眉間が重くなってきた。困りごとの話が盛り上がってきて知らず知らずにまた肩が緊張してきていることに気付いて、ローレンツは香草茶を飲んで一呼吸おいた。

「どんな違い、か……。確かに、根拠になる違いがあるのかもしれないな。調子に乗った商人が、暴利のためや薄利多売のために行き過ぎた値をつけてしまっているのかと決めつけてしまっていたようだよ。どんな違いが考えられるか、君ならわかるだろうか?」

 学生時代に令嬢たちに声をかけて回っていたような、試すような高圧的な聞き方をしてしまっただろうかとローレンツは少し心配になったが、メルセデスはローレンツのぴりぴりした緊張を意に介さず、しばしおっとりと考える仕草をみせた。

「政治やお商売のことは私にはわからないけれど、そうね~。同じ植物からとれる香辛料でも、品質が大きく違うのかもしれないわよ~」

「すまないね。答えてくれてありがとう。……品質、とは、小麦の袋に別の麦や石や虫が混ざりこんでいないかの度合いだとか、加工品が作られる過程や輸送や保管のあいだに劣化していないかどうかとか、あるいは材料自体の格によって決まるものだと理解しているが、そのことかい? 東方で同じ植物を乾燥させた香辛料なら、輸送中の劣化があるくらいかと思っていたのだが……」

「そうね~、たとえば、これを見てちょうだい」

 メルセデスは香草を入れてきた篭から棒状のものを取り出した。ローレンツもよく知っている、よく料理のソースに削り入れたり、茶をかき混ぜて香りを移したりする肉桂(シナモン)であった。フォドラ貴族にとってはごく定番の香辛料だ。

「この、シナモンはよくお菓子やお料理に使うわよね~。これには、実は二種類があるの。これと、これよ」

 メルセデスが示した二本は見た目同じように見えた。しかし、手に取って香りをきいてみると、確かに若干の違いがあった。

 茶や料理の風味に敏感な者なら気付く程度の違いなので、おそらく裕福な貴族の家には両方仕入れられて料理によって使い分けられているのだろう。食べる側は、味の違いには気が付いてもそれが厨房で使い分けられている二種のシナモンによるものだと知ることはないが。

「ほう。ひとつの品目でもいくつかの名前が挙がることが確かにある。多くは特別な品だと思わせようとする無根拠な名づけなので、それをさばくのに神経を使っていたが、こんなふうに繊細な違いがあるものもあるのだね。そして誰にでも判断がつくわけではない」

「ローレンツはさすがね~。この二つはね、かなりお値段が違うと聞いたことがあるわ~。なんでも、こっちのほうはモルフィスよりももっともっと東で南の、妖精の国で作られているんですって」

「イグナーツくんが好みそうな話だ。それほどの産地の違いがあれば、なるほど、似た植物にも違いが出るのかもしれないね。フォドラでいう葡萄の品種の違いのようなものということか……。それは確かに品質が異なる。だがきっと、東方人にフォドラの葡萄の違いは細かくわからないだろうね」

「香辛料の場合は、すごく乾燥していたり、粉のようになっていたりすることもあるんだから、なおさらのことよね~。あとは、そうね~、この三日月茶は……」

 メルセデスは茶壺の栓を抜いてそっとローレンツに差し出した。香りをきくと、三日月茶を特徴づける南国の種子の、あたたかい夜のようなやわらかで甘い香りがした。茶葉の中にもその黒い種子や莢(さや)のかけらが混ざっているのが見えた。

 もう一つメルセデスが差し出した茶壷に身を乗り出すと、ローレンツは同じ三日月茶の香りをより鮮烈により華やかに感じた。香りが強ければいいというものではないが、明らかに品質の異なる茶葉だった。茶壷の中の見た目も少し異なっていた。色が深く、均一だ。「ごみ」のようなものが徹底してないのだった。ローレンツの家の茶棚にあるものもこちらに近い。

「なるほど。学生時代には、一つめのような安価な茶葉をよく見かけたものだ。これはきっと価値がずいぶん異なるのだろうね?」

「ローレンツは、きっとお家では二つめみたいなお茶しか飲まないわよね~。街のみんなは、三日月茶というと一つめみたいな感じのものを飲むわ。お値段は倍以上違ってきちゃうんじゃないかしら~」

「三日月茶の香りづけになっている香辛料にも茶葉のように、銘柄や何番摘みというのによる品質があるのかい?」

「う~ん、それも、ないとは言わないけれど……。一番は、どんなふうに加工するのか……っていうのかしら~?」

 ええっと~、と言いながらメルセデスはまた香草の篭を探った。青々と生の葉の茂った房と、袋をふたつ、小瓶をひとつ並べた。

「これはね~、辛薄荷(ペパーミント)よ。臭みのつよいお肉やお魚を焼くときや、お菓子にも使うスッとした辛い香りのものよね~」

「ああ、これだね。知っているよ。爽やかで怜悧で好きな香草だ。乾燥させていないものはこんなふうに生えているのか」

「生のものも、お酒や夏の飲み物に入れて使うわ~。帝国の氷菓子にもよく使われていたかしら。でも、一番よく使われているのは乾燥のものよね~? この二つの袋がそうよ」

 香り袋を手に取ってみると、先程の三日月茶と同様にひとつは強く鮮烈な香りであった。促されてローレンツは中身も見てみた。比べてみると、やはり香りが弱い方が見た目が均一でない印象だった。

「なんだろうか、香りが弱い方がごちゃついているのだね。混ぜものをしてあるということかい?」

「混ぜもの、というよりはね、混ざってしまうのよね~。ペパーミントの香りが出てくるのは、葉のほんの一部からなの。でも、まとめて収穫をして乾かして……という作業を簡単にすると、茎の部分とか、刈るときに混ざった少しの雑草とかも入ってしまうでしょう? この、香りの強い方は、それを手作業で除いてつくったものなのよ~」

 ローレンツは感心した。確かに、麦の袋にしろ茶葉にしろ、不純物をよく除いたものが良質とされるが、それはほぼ人の手によって検品されているのだ。多くの香辛料は夢物語の楽園のように語られるほどの遠方から仕入れられており、加えて今までは香りを利用することは貴族の栄華の主張の面が強かったために、その品質や純度を高める仕事について想像が及んでいなかったのだった。

「よいことを教わったよ。つまり、この二つは品質が異なるだけでなく、重さや嵩(かさ)あたりの価値が全く違ってきてしまうということになるのだね? 純度を増すほどに軽く、小さくなってしまうわけだから」

「ああ、そういえばそうね~。ローレンツは取引の基準を作りたいんだから、そこが気になるんだったわね。大変なことだわ~。それなら、これもね」

 メルセデスは最後に残った小瓶の蓋を開き、ローレンツに向かって手を伸べた。

「手を貸してくれるかしら~? 香油を塗ってもいい?」
 ローレンツは言われるまま、ちょうど踊りに誘われて応じたご婦人のようにメルセデスの手に手を重ねた。メルセデスの両手はローレンツのてのひらを上向かせ、手袋と袖の間にあいた素肌に小瓶の中身を一滴垂らし、布に染みないようすばやくなじませた。すると、鮮烈だと思った香り袋よりさらに鮮やかで目の覚めるような香りが鼻腔に届きローレンツは驚いた。

「ああ、なんて……体の中で鐘が鳴るように響く香りだね。頭が冴えるよ。これはペパーミントの精油ということかな? いや、ラヴァンドラも混ざっているかな……」

「ええ。ペパーミントとラヴァンドラを合わせて、これでも、精油を希釈してあるの~。今の一滴が、そうねえ~、アンみたいに正確な計算じゃないのだけど、ちょうどさっきの香り袋三つくらい、この生の葉の束だったら十倍からできるくらいになるのかしら~?」

「……なんだって? 嵩が減るどころの騒ぎではないね……!」

 死んだ植物たちを凝縮し、変わらない永遠の本質だけを薫らせる乾燥香草や精油の神秘性は、なにやら目の前の女性にも似ていた。ローレンツは今更に、途方もないものを相手にしているという気がじわじわとしだした。

「ほとんどの香辛料は今まで貴族の嗜好品としてやみくもに高値で取引されていたが、今後流通が増える以上、品質水準のようなものを定めねばならないようだ……」

「そうね~。特に精油は薬みたいなものだし、品質によって使い方が限られてしまう危ないものもあるから、そういうことになると、教会や領主様からみんなに指導してあげないといけないかもしれないわね~。今みたいに使うときどのくらい薄めるのかとか、塗ってはいけない精油とかもあるし……。今までは、街のみんなには手に入らないものだったから、かえってよかったのかもしれないけれど~……」

「しかし、そのためにはメルセデスさんのように香辛料や香草や加工について知識をもっている役人をたくさん雇わなければならない。可能なのだろうか……? もちろん基準についてはっきりと制定しなければならないし……、先生とも相談をして……」

「ローレンツ」

 声とともにふっとペパーミントとラヴァンドラの香が薫った。すっきりと冴えた中に、甘く穏やかにけぶるような優しさの混じった香り。眉間にしわが寄っていたことに気付く。頭痛の感が和らぐ香りであった。自分の中の思考に沈んでいた目を前に向けると、メルセデスが先程ローレンツの手首につけたのと同じ香油を庭仕事に少し荒れた指にまとわせていた。

「私が役に立てるのは、ひとまずこのくらいかしら~?」

「あ、ああ。すまない。とても助かったよ。みっともないところをお見せしたね。忘れてくれたまえ」

「いいえ、なんにも~。お散歩でもしましょう? 植物園を見てもらいたいわ」

 

 

 石畳を下り、土を靴の裏に踏んで歩きながら、伸びた香草の枝を摘む修道女のヴェールが昼下がりの西日に照らされるのを見る。ローレンツはしばし放心してその背中についていった。陽の色はのどかで香草はおだやかに香り、ローレンツの頭痛は癒された。植物園は霜が降りるまでの準備が進められつつも、まだ青々としていた。

 特に常緑のローズマリーの繁茂ぶりはガルグ=マクじゅうにふるまう肉料理に添えても尽きそうにないほどだった。生命力にあふれた花の姿が減っていく季節にあって、ローズマリーは花を咲かせはじめたばかりのようだった。花は華やかな紫みが生のラヴァンドラより少ない、青に近い薄紫だった。乾燥されて香草茶に入っていたラヴァンドラの花にも似た色だ。

 ローズマリーの枝を摘むメルセデスを見ながら、ああ、さっきすれ違った男子学生が持っていた草の花はローズマリーだったのか、とローレンツは思い出した。こんな高い空の彼方のような、静かで深い青紫の似合う誰かに捧げるのだろうか。

「改めて今日はありがとう、メルセデスさん。なんとかやってみせよう。僕の活躍を音に聞いてくれたまえ」

「ええ。元気な消息を聞けるのを楽しみにしているわ~。少し休めたといいけれど」

 メルセデスはあまり噛み合わないような返事をした。関わった人みなが安らかであることを願うこの人は、政治上の栄達には興味がないのだったとローレンツは少し反省したが、言い直すのもおかしく、自分にできることは貴族として広く人を安んじることであろうとも思ってそのままにした。

「続いていた軽い頭痛がすっかりよくなったようだ。まだまだ香辛料の利用や加工のことは勉強せねばなるまいね。また聞いてもいいかい? 君に手紙を書いて」

「もちろんよ。私は、ずっとここにいるから~」

 別の修道院に移ることはあるかもしれないけれど、そうしたら手紙を転送してもらえばいいわね……と、のんびりと言うメルセデスを金色の風が撫ぜていった。遠回しに、どんな男の求婚も受けることはないと言っているようなのをどうとらえればいいのか、ローレンツは複雑な気持ちになった。この人は、苦手だ。見つめていると、俗世を生きる気力を奮い立たせている自分が馬鹿者のように思えてくるから。

 

 淡く輝くこっくりとした真珠の白さのように、植物が傷つけられて流れる透明な血が精油になるように、流転する運命に芳しくほほえんで、彼女はただそこにたたずんだ。手首で温められたラヴァンドラとミントの香が、菜園にさす秋の陽に長く、長く薫った。

 

 

コラムーエッセンシャルオイル

 植物の発する香りは、虫を避けるためや逆に誘引するため、あるいは植物体内の代謝の過程で産生される芳香性の化合物(フェノール)が混合したものです。いわば、動物のように動いて環境を変えることのない植物の生存戦略の結果です。

 現代は人工香料が発達したため安価なアロマオイルが流通していますが、本物の精油は植物の体のほ~んのわずかな部分にだけある芳香腺を蒸留して得られるものです。だからほんと大量の草木からちょっとしか精製されないの。ミントの和名「薄荷」は、大量でも精油にすると小さな瓶に収まってしまいかさばらない(荷が薄い)ことに由来するともいわれています。

 精油にした植物の香りは、揮発することはあっても老いず腐らず、魂の永遠を示す聖なるものと考えられました。キリスト教では病や臨終の床において施される秘跡「病者の塗油」でオリーブ油や香油を用います。

香辛料の交易は同盟やエーギル領の得意とするところで、そのへんのことを11/23の新刊でいっぱいしゃべってます。

 

小説裏話

 いきなり地の文がローレンツの詩(マヌエラ先生に勝手に歌われたやつ)のパロから始まったの気付きました? からかってます。

 シルヴァンと同じく頭の中でグルグル考えながら、よりストイックで内省的なローレンツ視点です。本ではこの話が佐治つや子先生のシルヴァンとレオニーの話の後に収録されているので、はからずもそこの違いが見えるような本になったかな。フォドラ食物語は四貴族(フェルディナント・シルヴァン・ローレンツ・コンスタンツェ)全部盛り!

 ストイックで内省的で自分そのものを追求するプライドをもったローレンツの性質はグロスタールの紋章と「隠者」アルカナの対応記事でも話していますが、今回はメルセデスの紋章の意味を主題に置きました。メルセデスのもつラミーヌの紋章が対応するのは「審判」のアルカナ、主人公先生に対応する「世界」のアルカナを除けば最後の結末のカードです。永遠、天命のゆきつく先、季節でいえば葡萄や夏麦などの収穫後の晩秋から冬……タイトルの『褪せぬ秋の日』を表します。

 ラストはほんのりローレンツ→メルセデス風味です。今後ローレンツがアタックするのかもしれないしずっとほんのりと引け目みたいな憧れを引きずるのかもしれない。どこ吹く風でメルセデスが西部に引っ越しちゃうかも。

 

 『いただき! ガルグ=マクめし』のメルセデスの項でも話したのですが、教会で多く扱われたハチミツや香油や小麦粉などといった保存のきく食材はたんに貯蔵に向いているからではなく、その腐らないしそれ以上枯れたりすることもない不変性を魂の永遠と結びつけたからです。俗世や生きている肉体は時間によって栄枯盛衰したり美しくなったり老いさらばえたり忙しいですが、聖なる世界に向いた魂の真実は時によって変わることなく、永遠の安らぎにつながる。これは仏教の「生老病死」の考え方とも同じところがありますね。

 乾燥させたハーブや香油にはそういう聖性と関係があります。しかし、「時間が経っても腐らない」ということは多くの場合、「もう死んでる」からであることもあります。キリスト教では俗世の肉の体を捨て永遠に近付いた聖なるものとして白い骨を地下の壁に飾りまくってることがありますからね(日本だって即身仏をありがてえ~!ってしますけどね)。生き物の体が老いたり腐ったりするのも、市場の交易品がごちゃごちゃ値動きするのも、ローレンツが俗世に振り回されるのも、みんな一生懸命生きているからです。メルセデスはそれを受け入れて見守り、みんなが一生懸命生きたということを覚えておく……。

 

 さっきのミニコラムのエッセンシャルオイルについての説明で、植物の芳香は「いわば動物のように動いて環境を変えることのない植物の生存戦略の結果」と書きましたが、これはメルセデスの話をしているのでもあります。メルセデスはある種エーデルガルトと対照的に、自分や自分と似た無数の人たちの過酷な運命に対して「受け入れて流される」という姿勢をとってきました。それは一見弱さですが、外から見た行動としては受け入れて流されているメルセデスの心は見れば見るほど堅牢で輝きを失わないマイペースなものなのですよね。

 ちなみにこれは今回の本と関係ない話なのですが、メルセデスとエーデルガルトを対照的な女性だと今言いましたけど、実はこの二人の紋章の対応する「審判」と「女教皇」は(エーデルガルトの生まれ持った紋章と同じレアからもわかるように)どちらも「聖女」的な人物像を意味しています。そのへんの違いはラミーヌの紋章の記事と、紋章タロット本に書き下ろしのセイロスの紋章の内容でですね。

www.homeshika.work

 

全キャラクターと各地域の食分析本の読みやす版、頒布してますよ

booth.pm

 

↓おもしろかったらブクマもらえるととてもハッピーです

このエントリーをはてなブックマークに追加

 

 

note.com

こちらのブログに載せる記事未満のネタや語りは↑こちら↑のメンバーシップでサブスク配信しています。

www.homeshika.work

↑ブログ主のお勉強用の本代を15円から応援できます

 

あわせて読んでよ

www.homeshika.work

www.homeshika.work