本稿ではドラゴンクエスト11、「ナギムナー村」の漁師キナイ、キナイ・ユキと人魚ロミアの恋のイベントの意味あいについて考察していきます。
前回のキャラ紋章の記事
で、先送りした、デルカダール国章の話をしようと思ってるのですが、その前にちょっと別の話を……。
ドラクエ11のテーマを「星と一般人の断絶」であるとたびたび話しているのですが、
ナギムナー村の「人魚の悲恋」イベントはなんだかそういうテーマの中で意味合いがはっきりせず、これだけは「もしかして自分ぜんぜんテーマ読み違えてるんかな?」とずっと思っていたものです。
しかも、選択肢の正解もはっきりしない、いずれにしても美しくも悲しい結末を迎える、ドラクエにしてはけっこうパッキリと明るいドラクエ11の中では、逆にやや異彩を放っているエピソードです。
しかも過ぎ去りし時を求めたあとのロミアの運命の変化など、不可解なことも多く、「えっ?」という後味を残してくる。だからこう、ある意味旧来のドラクエらしいともいえるエピソードでもあるわけです。
「人魚の悲恋」イベント経緯
プレイヤーが目にする順を追って「人魚の悲恋」イベントをふりかえってみます。
・プレイヤー一行は不思議な海域「白の入り江」に乗り上げ、そこで海底王国へ行くためのキーアイテムと引きかえに「人魚ロミア」の頼みを聞くことになる。ロミアと結婚の約束をした人間の腕のいい漁師「キナイ」が戻らないので様子を見てきてほしいという。
↓
・キナイがいるという「ナギムナー村」に着いたプレイヤー一行は、村の者たちがそののどかな明るさに反して人魚に対する恐怖心や敵愾心をもっていること、それは村に住む老婆の「人魚に魂を食われた漁師」の紙芝居によって強化され伝承されているらしいことを知る。
↓
・プレイヤーは腕のいい漁師である「キナイという青年」に会うことができるが、彼も人魚を嫌っており、暗い雰囲気で、何やら話がかみ合わない。
↓
・キナイに連れられて村のはずれの「しじまヶ浜」に行くと、小屋が寂しく一軒だけ建っている。人魚ロミアと恋をした「人魚に魂を食われた漁師」とは彼の祖父「キナイ・ユキ」のことであり、彼はロミアと恋をして村長の娘との婚約を破棄したことから村八分となり船も奪われてその小屋で暮らし、すでに他界していた。
↓
・プレイヤーはその事実をロミアに「知らせず、キナイは迎えに来ると言う」か、「知らせ、キナイ・ユキの死を確認させる」かという選択をする。真実を知らせなければロミアは幸せそうに待ち続ける。
↓
・真実を知らせた場合、ロミアをナギムナー村まで連れて行き、孫キナイの説明やキナイ・ユキの墓を示すことになる。ロミアはキナイ・ユキの用意した花嫁のヴェールをまとってキナイ・ユキの墓にくちづけをすると、海の泡となってみずから死んでしまう。
↓
・その後、小屋の中に残されたものによって、キナイ・ユキが村八分にされロミアに会いに行く船を焼かれ、いわれのない罪を被せられても、かつての許嫁と他の男との赤ん坊を守ろうとしたこと、その赤ん坊こそが紙芝居の老婆=キナイの母で、「この子には俺が必要だ」とロミアとの結婚を断念したこと、それでもロミアをずっと愛し続けたことがわかる。孫キナイは「今ならじいさんの気持ちがわかる気がする」「恋をしてしまいそうだった」と言う。
↓
・過ぎ去りし時を求めた後の白の入り江では、真実を知らせる選択をしてもなぜか生きてキナイを待っているロミアを、キナイ・ユキのように白の入り江に流れ着いたらしい孫キナイがマーマンの群れから守っている。プレイヤー一行がマーマンの群れを倒した後、孫キナイは人魚への印象をいくぶん好転させ、ロミアは彼がキナイ・ユキの孫だと知らずやはりキナイを待ち続けると言う。
とまあこんな感じのエピソードでした。はっきりしねえ……後味……ドラクエ……。
ドラクエ11の中でのナギムナーの異質性
ドラクエ11のテーマを一言で表すと「星と一般人との断絶」であると当方はよくしゃべっているのですが、
このナギムナー村の人魚の悲恋エピソードはそれに単純にはまりません。
例外的なイシの村を除き、ドラクエ11の他の共同体を見てみると、
【デルカダール】
身分差による明確な居住地の高低差、「世界一の名君」である王の異常に気付かない貴族たち、「英雄」と祭り上げられるグレイグは王が黒と言えば白でも黒!
⇒ウルノーガが正体を現し、すべてが転覆する
【ホムラの里】
里の英雄にして絶対的指導者であるヤヤクの苦悩は里に明かされない
⇒勇者たちに助けを乞い、協力によって息子を取り戻すことができる
【サマディー】
周囲の多大な期待を叶えようとする王子は従者らの手柄を奪い、嘘をつき続ける
⇒国民たちのために真の姿と勇気を示すようになる
【グロッタ】
慕ってくれる孤児院の子どもたちを養う金のため、ハンフリーは陰で悪とドーピングに手を染める
⇒皆にたいしたことない本当の実力を明かし、それでも応援される。ドーピングがなくとも悪に立ち向かう勇気を見せる。
【プチャラオ村】
幸福を叶えてくれるという壁画を頼ってくる浅はかな者を食べてしまう壁画の美女
⇒壁画の真実がわかり、「願いを叶える」でない売り出しでもたくましく観光名所化
【クレイモラン】
女王として政務を行う苦悩を近くの誰にも明かせないシャール
⇒リーズレットに捕らわれた本の中でたっぷり愚痴り、二人は守り合い支え合う関係となる
このようにドラクエ11では「①その共同体における星」と「②断絶エピソード」、そして「③断絶の回復」がさまざまに繰り返されているのですが、その枠組みで見るとナギムナー村はいまいちパッとあてはめられません。
というより、この枠組みで見たら「断絶が回復した」がゆえにロミアは死んだんじゃねーか?というBADなことになってしまうのです。
ロミアが真実を知って愛する男に殉じて死んだってことをBADであるとはいちがいに言えないですけど。まあ他のとこに比べて手放しのGOODではないですよね少なくとも。見せ方として。
ドラクエ6の「異類婚姻譚の挫折」
ここで、文脈を拾うため、ドラクエ旧作の中にあった「人間と人魚(異類)の恋」についても振り返ってみます。ドラクエ6にはアンデルセンの『人魚姫』めいた人間と人魚の恋物語があり、ファンサービス的にはこれを拾っているエピソードだからです。
ちなみに、「かなわぬ結婚」にまつわる「真実を知らせるか・知らせないか」というのはスーパーファミコン版ドラクエ3の冒頭の性格診断でも正解のない問いとしてもうけられており、これもファンサ感があります。
天空シリーズの骨子
ドラクエ4~6、いわゆる『天空』シリーズを通底するモチーフは「異類婚」であるというこちらの記事があります。
異類婚(異類婚姻譚)というのは、人間と、人間以外のものの結婚物語のことです。世界各地の神話、民話に登場するモチーフです。人間と神様のあいだに出来た子どもが英雄になるとか、王様になるとか。そんなお話が典型的ですね。
助けた鶴が嫁入りしてきて機を織ってくれるというのも、それです。ドラクエの天空シリーズは、重要な設定のほとんどが、この「異類婚」によって構成されています。
例えばドラクエ4は、天女の羽衣伝説のモチーフです。天空の城から降りてきた天空人の美女と、地上の木こりが恋をして、子どもが生まれる。天空人の女は神様の怒りに触れて天空城に連れ戻される。生まれた子どもはやがて超能力を備えた「人類の勇者」となって、世界を救います。
ドラクエ5は、二重の異類婚によって成り立っています。
ドラクエ5の主人公は、「魔界と通じることのできる超人」エルヘブンの民と、人間の王様のあいだにできた子どもです。
いわば、普通の人類と、魔界側の人類とのあいだにできた子どもです。
そして作中で、主人公は結婚するのですが、お嫁さんは天空人の血をひいていました。
つまり、魔界と人間の異類婚によってできた子が、さらに天界との異類婚をして、天界・魔界・人間界のみっつをまたぐ存在になっていくのです。
この異類婚のモチーフは古来より物語類型として一般的であり、JRPGでも『俺の屍を越えてゆけ』とかいろんなので反復されています。当方はこの「天空シリーズ異類婚譚説」を支持しています。なぜなら、天空シリーズは4からして「他者のさまざまな価値観と出会い、そのうえで自らが何者なのかを選択する」というテーマを貫いていて、それは異類との関係というシナリオと合ってるからです。
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モンスターと人間の「デビルズライン」
今年2019年、番外編を含めたマンガ作品『デビルズライン』が完結しました。
「悪魔の境界」とでも読めるこの作品は「人」と「鬼」なるヒトの中の異族との間の境界、「人間的なるもの」とそうでないものとの境界や、ひいては「最初から最後までけっきょく別物である他者」との、容易に越えられない「線」を挟んだ関わり合いを描いていました。
そのように、「人」と「異類(異種族、魔物、神霊や天空人など)」との「ライン」はドラクエシリーズにおいてはいちがいに生まれで決まるものではない、揺らぎうるものとして描かれています。
人間になりたいと望むホイミンや、実際スライム系の魔物が人間化したものではないかと推察できるチャモロたちゲント族、逆に邪悪にとらわれた人間やその残留思念が魔物と化すことはシリーズ通してざらにあります。
人間と異類は明確に「他者」でありながらも、つねに紙一重のものであり、運命が交わることもある。
そこには危険もあるが、大きな可能性や希望がある。
ちなみにもうすぐ映画が公開のドラクエ5は、「他者」と出会って自我を育て、他者代表である個性ある「花嫁」を自らの意思で「選ぶ」という構成をもっています。
そして魔物使いの異類の力を持った主人公と、さらに天空人の末裔という異類である花嫁が結ばれることで、世界に勇者が誕生するのです。
人間と異類(他者)は結ばれることができるか?
ここまで盛り上げたら「いや、できるやろ」というところなのですが、やはり異類婚はふつうに考えて珍しくて難しい問題なので、ドラクエの中での先例を拾ってみます。
ドラクエ6は冒頭から主人公らがラスボス的存在にカチ殺されるという「限界への直面」からスタートします。異類、他者とは一種の「常識の死」、自分の限界であり、ドラクエ6には人間と異類が対面したことでお互いの運命が変わる話が多く用意されています。
たとえば
・ドランゴはテリーを気に入ってついていく
・フォーン王と二次元の住人カガミ姫が結婚する こと、
それにキナイとロミアの繰り返し元とみられる、「腕のいい漁師ロブとそれを助けた人魚ディーネ」は、ロブが脚とか不自由になったとはいえ、わりと結婚できんじゃね?みたいな感じに描かれています。
それらが最終的には、上で引用した論のように「主人公とバーバラ」という異類の絆に収れんしていきます。
しかし、論文とかでテーマを伝えようとするとき、ずーっと「これはいいものなんですよ!」と言い続けるだけではなく「でもこういう悪いとこもあるんじゃないか?」という逆説の段落を挟んだほうが読者の考えをより深めてもらえる…というテクニックがあるように、
ドラクエ6も「人間と異類(他者)が出会うとは、大変だけど素晴らしいことなのかもなあ」とテーマを進めていったときひとつの「しかし」が現れます。
ゴランと雪女
ドラクエ6の雪国「マウントスノー」では「人間と異類が出会った」結果として好ましからざることが起こっています。
雪女・ユリナは日本の伝説の雪女よろしく若い男ゴランの命を気まぐれに・自分のことは誰にも秘密だという約束で助けるのですが、ゴランのヤツが酒やって口を滑らせてしまい、ブチキレたユリナはマウントスノーの町中をゴラン一人残して凍らせてしまうのです(このあたりのイメージはクレイモランのリーズレットにも引き継がれています)。
プレイヤーはユリナから「ゴランという若者」の話を聞くのですが、プレイヤーがマウントスノーで出会ったのは老人ひとりであり、50年の年月を経たゴランはすっかりじいさんになっているということを異類であるユリナはポンと忘れていたのでした。
↑ポンと忘れていた異類のロミアさんです。
なのでこれは「考えたくなかった」というより、雪女ユリナと同様に「異類との常識感覚の違い」を表しているのでしょう。
老人ゴランは言います。
「なあ、旅の人よ。若い頃のあやまちは誰にもあるものだといわれておろう。
だからこそおそれずに信じた道を進むべきじゃと…。そして人は成長すると…。
ならば、わしのおかしたあやまちも、
わしの人生にとって意味のある事だったのじゃろうか?
わしにはよくわからん。50年の月日は……あまりにも長すぎた」
なんちゅうことが起こってしまったんじゃ……orz
ゴランさん~そんな酒の勢いで口が滑ることなんて誰にでもあるよ! つまり、人間と異類が出会ったという「あやまち」のせいで、なんちゅうことが起こってしまったんじゃ~!という悲しさを胸に刻みつけるこのテキスト。
人間と異類(他者)は、出会うべきではないのではないか?
その不安と疑問を越えて、結局主人公とバーバラの絆はあるってことになるのですが、
ドラクエ6のマウントスノーのエピソードはそういう「逆説の段落」として、テーマを深く描くために作用しているのです。
「逆説の段落」としてのナギムナー村
何が言いたいのかっちゅうと、ナギムナー村が一見ドラクエ11のテーマの枠組みに合わない共同体エピソードのように思えるのは、
ドラクエ6のマウントスノーのように「逆説の段落」だからなんじゃないの? と考えたわけです。つまり、考えを深めるため一度「テーマの挫折」を提示しているのではと。
運命の固定、人への期待
ドラクエ11のおおむねのお話が「①その共同体における星」「②断絶エピソード」「③断絶の回復」を枠組みとして反復していると言いましたが、ナギムナー村にもそれらは存在しないわけではありません。
ただドラクエ6の「人間と異類」という枠組みで見ることができる「ゴランと雪女」のように、結末を「しかし」に変えてあるのです。
ナギムナー村には大きな力をもつ指導者はいませんが、キナイ・ユキも孫キナイも村で特に腕ききの漁師として人から期待を集めています。
期待は当然、キナイ・ユキが村長から婿養子になるよう要請されたように、「共同体の発展のためにがんばってくれ」という意味になります。生まれた村から出ず……結婚する相手も決められ……それを名誉で幸せなことだと思って生きていく……。キナイ・ユキは「ちょっとした星」として運命にはりつけられていましたが、別段そのことを不幸だとかつらいとか思ったわけではなかったでしょう。
しかし、ロミアに出会って、恋をしてしまった。違う運命に、自分の心に、出会ってしまった。
ロミアもキナイ・ユキに「結婚しましょう、いつまでも待っているから」という期待をかけて、約束を星のように頼りにして生きています。どの期待に応えるか、応えないかを自分の意思で選べるということが人間の尊厳であり、周りもそれと折り合っていく勇気をもつべきです。しかし……、
「抗った者」の末路
ドラクエ11の各共同体の「②断絶エピソード」は、「固定的な運命、人々の無責任な期待に従った者の末路」を表しています。
たとえば嘘の果てに追いつめられるファーリスであり、いよいよ悪事を重ねるハンフリーであり、壁画に喰われる人間たちです。
それらを見てテーマは
「やっぱ輝いて見えるものへのあこがれに盲目的に従っちゃならんのだな~」
とか
「上に立つ人ももっと周りに本当の心を出していけるようにしなきゃだな~」
とかの方向に行きます。
しかし、ナギムナー村のキナイ・ユキのエピソードは、
「上に立って輝くべきだった人が、運命に抗って自分の本当の心を生きようとした」
という、テーマ上好ましいことのすえに、
今度は反対に「運命に抗った者の末路」とでも言うべき痛ましい結果が残ってしまった……ことを示しているのです。
キナイ・ユキがロミアに恋をしても結婚したい気持ちを貫いたりせずに、ロミアに約束なんかせず、村に帰って村長の婿養子に入っていれば、誰も悲しまなかったのではないか?
キナイの母やキナイのように、村中から微妙な目で見られて苦しむ次世代を生み出さずにすんだのではないか?
約束がなければロミアもいつまでも待っていないで、別の恋をして幸せになれたのではないか?
個人の心なんかなければ、
共同体の求めに従って役割を守っていれば、
誰も苦しまなくて済んだのではないか?……
それでも、「役割」という断絶から、個人の心を解放することを選べるのか?
ナギムナー村のエピソードは、テーマに対してそういう反論を示してきます。
それでも……。
キナイ
「個人の心なんか無視すべきでは?」「役割を守らなければみんな不幸になるのでは?」という、過酷な――非常に現代日本社会的な――問いに対応していくドラクエ11の中のふたりを、改めて見てみます。
孫キナイは、祖父と人魚の恋を憎々しく思っています。彼にとっては生まれるずっと前のことなのに、母はずっとそれに苦しんできたのですから、複雑だけど、悪しきものです。
キナイの母は自分を苦しめた偏見をさらに流布・強化することで小銭を稼いでいます。これもまた、現代社会の被差別者の痛々しいサバイブ(たとえば、容姿でバカにされることで傷ついてきた人が、容姿いじられで笑いをとるようになることや、弾圧されてきたBL好きが、「同性愛は一般の人には理解されない」と言ってしまうこと)、「差別されたから差別に加担してしまう」「被害を受けたから加害者になってしまう」という、絵面上はたいしたことは起こっていないようですがたいへんな不幸を煮詰めたやつを描いています。
キナイが日々、これを苦々しく思わないはずがありません。それは無口にもなるし友達も作れないよ。たとえ村の大半の人が祖父のことをほとんど忘れていて、自分にはそんなに偏見なく接してくれるとしても。母が広める紙芝居の筋では、母と自分は恐ろしい罪と不幸のすえに生まれ育った命なのですから。
キナイは、自分たちの運命に暗い影をおとした「個人の自由な心」ってヤツに、フタをしているだけなのです。
「異国の空き瓶を集めている」
先日ドラゴンクエスト11キャラクターブックが発売されました~。
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この表紙がいい。アップでCGアートを見るとカミュの服の糸や織りが荒くて薄くて麻みたいにカッスカスしていることがわかるんですよね! グレイグおじさんのカラシ色パツパツインナーも編み布(ニット)、つまり伸縮性のある布だということがわかりますし。わかりやすく言うとヒートテックのインナーハイネックみたいな……そりゃパツパツだわ。他にもキャラの服の仕立てまで作り込まれていることがわかります。
まあそれはいいとして、これにはキナイのページもあるのですが。キナイに趣味をインタビューすると、「異国の空き瓶を集めている」と答えるのです。漁をしているとたまに網にかかり、いろんな形や色を眺めていると飽きることがないと……。
キナイには、異国のいろいろな美にあこがれ、愛でる、そういう個人の心が確かにあるのです。
網にかかった異国のきれいな瓶とは、キナイ・ユキが出会った異類のロミアと本質的には同じであり、キナイは無意識で受け身ながらも、祖父に似て、ささやかにそういうものに恋をしている男なのです。
同じ手をしている
「祖父に似て」って書きましたけど、もちろん物語を読むとキナイとキナイ・ユキには血縁関係がないことがわかります。帽子が同じなのでいでたちは似てるようにも見えますが顔とか表情とか服すらも似ても似つきません。ロミアが恋したキナイ・ユキはもっと明るくさわやかなイイヤツの顔をしています。
ロミアも、数十年たったというのに、
「あなた、キナイじゃないわ……」
と言います。しかし、つい腕をつかんで引き留めてきた彼の手を見て、
「手は……同じなのね」 と、言います。
キナイは、キナイ・ユキではない。生まれ変わりとかではない。同じ運命は戻らない。顔が似ていないので、呪われたとか、運命のとかの、血筋ではない。
でも、「手」が同じなのです。手とはその人の生まれ持った運命ではなく、その人がどのように生きてきたか、どのような心根で生きているのか、どのように生きていきたいと思っているのかという、「意思」を表すパーツです。そしてドラクエ11においては、他者とつながりあい、助けあい、許しあい、運命を共有するためにつながれる象徴として強調されています。
キナイは、キナイ・ユキではない。でも。だから……
ロミア
ロミアはどの選択肢を選んでも、過ぎ去りし時を求めても、わかりやすく「幸せにする」ということが難しい、数少ないキャラクターです。
なぜ二人の運命は変わったのか
冒頭でも書いたのですが過ぎ去りし時を求めた後ロミアは「過ぎ去りし時を求めたあとの世界問題」とでもいえる議論のさい、解消すべき矛盾点としてよく挙げられる不可解な点です。プレイヤーが海の泡になって死んでしまう選択をした場合にもなんか生きてて、それだけでなくキナイと白の入り江で出会うというイベントが追加されているのです。
当方は過ぎ去りし時を求めたあとの世界について、「できごとは巻き戻った(あるいは複数の並行世界が収れんした)が、世界の命たちの『大樹の葉』に刻み込まれた記憶は魂に残っており、ちょっとずつ事態が変化したり好転した」という立場をとっています。たとえば「ブギーが支配しなかったはずのグロッタになんでカジノがあんの問題」も、グロッタのみなさんの記憶に「カジノっていいな」が刻まれた結果といえます。
それで考えると、わりかし希望の持てる感じの「白の入り江でキナイがロミアを助けるイベント」は、ナギムナー村のみなさんやキナイ母子の心持ちがちょびっと変化したことによって、クリア前世界の「デッドオア嘘」みたいな悲愴さが緩和したのではないかと考えられるのです。
相変わらずキナイ・ユキは死んでるので状況はなんも変わってないようですが、ひとつ、大きく違うことは、「キナイとロミアが出会っている」ということです。いやクリア前世界で真実を伝えるルートでもキナイとロミアは出会うのですが、あれはもういかんともしがたい出会いですよね。また、クリア前世界で真実を伝えず、あのまま待つロミアにキナイがいつか出会ったとしたら、キナイは人魚に憎しみをぶつけていたでしょう。
キナイがロミアを助けることができるためは、ただロミアが生きているだけではなく、キナイの心がすこし変わっていなければならないはずです。
いつか―ネルセンとセレン
過ぎ去りし時を求めた後の世界が「少しずつ好転した世界」なのだとしても、ロミアはべつにキナイに新しい恋をする♡~Happy End~とかいうことはなく、
「私はこれからもキナイを待ち続けます」
てニコニコ言います。
ただキナイは人魚に対する見方を好意的なものにあらためており、キナイの船は祖父の船のように燃やされず、いつでも、ロミアに会いにくることだってできます。
いつか、
キナイでなかったとしても、誰かが、何かが、
ロミアとまた心を通わせるかもしれない。
いつか……。
ホメロスの部屋だかグレイグの部屋だかの本棚にある、昔ホメロス少年がグレイグ少年に読んでやったであろう『英雄王のヨロイ』という本があります。
そこには英雄王ネルセンが当時の人魚の姫君、現在の人魚の女王セレンに妻問いし、なんか彼自身のこだわりによって結婚しないで海底を去ったという、ちょっと悲しい「異類婚姻譚・不成立話」が描かれています。
セレン女王はロミアと人間の男の結婚をとても親身に見守っています。「ネルセンとセレン」からすると、「キナイとロミア」は前に進んだのです。500年くらいのスパンですが。
心をつらぬき、役割を抜け出し、自分の檻を壊して、つかみたい手をつかむ、そしてハッピーエンドを得るということは、簡単ではありません。キナイ・ユキどころか、ウルノーガやホメロスのようになってしまうかもしれない。
500年かかるかもしれない。自分ではないずっと先の世の誰かが、やっとゆびさきを触れるくらいかもしれない。
それでも私たちは異国の空き瓶を美しく思うのです。
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