湖底より愛とかこめて

ときおり転がります

スキに心臓をひらく『夜明け告げるルーのうた』

 本稿では、映画『夜明け告げるルーのうた』における「人魚」「音楽」「傘」「御陰岩」などの象徴的表現をよみとく考察・感想をのべていきます。

 

「夜明け告げるルーのうた」 Blu-ray 初回生産限定版

「夜明け告げるルーのうた」 Blu-ray 初回生産限定版

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • 発売日: 2017/10/18
  • メディア: Blu-ray
 

 

 恥ずかしながらぜんっぜん見たことも聞いたこともなくて、きのうNHKで湯浅監督?の監督次回作『映像研には手を出すな!』の番宣を兼ねて放送していたのをはじめて見てホアーッとなったので、忘れないうちに感想を書いていくものです。

2017年5月公開の映画なのでこの時点で二年半ぐらい経ってるわけですが、まだ「この時代」的に普遍性のあるテーマを取り扱ってるとおもうのです。

 

なぜ「ルーのうた」が「夜明け告げる」のか

 『夜明け告げるルーのうた』のあらすじを昨日見たかぎりで思い出しておきます。

 

(起)

かつて「人魚の町」として観光客にもてはやされたこともあったが、現在はさびれ、フカヒレ、ブリなどの海産物の水揚げ、質の良いづくりで生計を立てる田舎の漁村「日無し町」

東京生まれの主人公「カイ」は打ち込み音楽の才をもち動画サイトに投稿したりしているが、それをみつけたクラスメイト「遊歩」と「国男」にバンドに誘われても「音楽はただの暇つぶし」と乗り気でなく、感情を表に出さずボソボソと正論ばかり言う。そこに、彼らの音楽にひかれ、人魚がやってきていっしょに歌う

(承1)

人魚は音楽を奏でるカイたちに友好的であり、カイが音楽を奏でると家にまで落としたスマホを届けにくる。幼女くらいの姿をしたその人魚は「ルー」と名乗り、人語を解しカタコトでしゃべることもできる。音楽が鳴っているあいだはヒレが脚のかたちになり、地上も歩けるし実に楽しそうに踊る。

カイたちとルーは仲良くなり、ルーは「なかよし」を願う。しかし人魚は直射光に弱く、太陽光を浴びると燃えてしまうため、巨大な岩壁「御陰岩」のつくる日陰や夜の中しか出歩くことができない。

(承2)

町の夏祭りで演奏を披露することになったカイたちのバンド「セイレーン」はボーカルとしてルーをアイスボックスとパラソルに隠して連れていく。ルーが歌い出すと老若男女みな体が勝手に踊ってしまい、楽しくなったルーはパラソルで日光を防ぎながら皆の前で踊る。祭りは大盛り上がり、ルーが踊るさまは動画で大拡散される。

(転1)

ルーの動画が話題となったことで、遊歩の祖父である水産会社の会長が人魚伝説の再来に商機を見出しアミューズメントパーク「人魚ランド」の再建を企図。「人魚はいる」「人魚などいない、現状を維持したい」「人魚は人を食う、近付くな」などさまざまな大人たちの思惑が絡み合う場に、カイたちはルーを引き渡したくない。町は人魚を歓迎する勢力と排除する勢力との対立で緊張状態となる。カイはふたたび心を閉ざし、音楽やルーを避ける。

そうこうしているあいだに「人魚ランド」開園記念イベントでバンドが歌う日がやってくる。カイは出演しないが、ルーはやってきてフラッシュ撮影に苦しみながらも場をおおいに盛り上げる。遊歩が演奏を中断しても保険として雇われたプロのバンドが演奏を続け、観客はルーしか見ておらず、遊歩は傷つく。

(転2)

遊歩が「人魚に食われる」といった旨のつぶやきをSNSに残して行方不明となる。水産会社の一人娘である遊歩をほとんど町総出で探すが、遊歩はルーに嫉妬して腹いせにツイートし家出しただけであった。遊歩の父親である水産会社の社長は半狂乱となりルーを捕らえ、日光に当てて焼こうとする。巨大なサメのかたちをした人魚のルーの「パパ」は人間たちと友好関係を築いていたが、ルーの悲鳴をききつけて激しく日光に焼かれながらルーのもとに駆け付ける。社長は大きな鉄釜を彼らに被せて捕獲。

日が落ち、町にふしぎな海水がせり上がってくる。人魚を焼いた人間への「御陰様のたたり」である。ルーを助けてほしいと乞う遊歩らの呼びかけに、カイ、カイの父テルオは同時に扉をぶち破って外に出る。釜から助け出されたルーとパパは人魚たちを率い、水没していく町から逃げ遅れた人たちを救出していく。

(結)

かつて恋人を奪った人魚を殺さんとするタコ婆、海女だった母親を食い殺した人魚を憎むカイの祖父は海に出て、死にかけていた大切な人たちが人魚に救われて人魚になっていたことを知る。さまざまな妄執は浄化される。人間たちを救出し疲れ果てた人魚たちにカイの全力の歌が力を与え、夜が明けようとする日の光からカイの祖父の放出した売り物の傘で身を守りながら人魚たちは「御陰様のたたり」の水を押し返して町を守った。

人間と人魚たちは音楽を奏で、友好の踊りを踊るが、「御陰岩がなくなってしまっては人魚たちはもうここには住めまい」という宮司の言葉どおり、一瞬で忽然と姿を消してしまう。

そして、岩の影のかわりに商店街の頭上に無数の傘が美しく吊られるようになり、明るくなった日無し町で、行きたい高校なんてなかったカイは「向こう」の高校に進学することを決める。人魚が住んでいる場所を探して。そしていつか、この町に帰ってこようと。

 

 ……というようなことが起こっていたのですが、このような「人魚」の性質を考えると『夜明け告げるルーのうた』という何も知らないと特になんでもないタイトルに厚みが浮き上がってきます。

なぜ「日光に弱い」はずの人魚ルーのうたが、「夜明け告げる」のでしょうか?

人魚ルーのうたは事実ベースでいえばどちらかというと「夜のみに響く」ものであるはずです。

そこには今作の中で「ルーのうた」と「夜明け」のもつ象徴的な意味がかかわってきます。今作の中の代表的な象徴表現をよみといていきます。

 

強情なカイだ

 主人公カイの家「足元家」の食卓あるいは父が持ってくる食事の盆には、すべてアサリの汁物が出ています。日無し町が水産資源ばっかりの町であることもわかりますが、「砂を吐ききってない」「(カラが開かないアサリに対して)強情な貝だ」というセリフはそのときのカイの心の状況を印象づけてもいます。つまりこの物語は「カイ」の心を「開く」、「砂を吐き出させる」ものだと暗示されています。

 

この世と異界

 カイが「開く」プロセスにあるのは、「ふたつの世界」の行き来です。それは人間の暮らす日無し町やそれを含む日本などの「この世」側と、ルーたち人魚の生きる謎の海の世界「異界」側です。

この「ふたつの世界」は地理的な陸と海であるにとどまらず、さまざまなものの描写がこのふたつの対立に符合して表現されています。

 

ヒトと人魚

  当然ヒトは「この世」側に生きるもの、人魚は「異界」側に生きるものです。

今作はたぶん『崖の上のポニョ』と比較されて語られることが多いとおもうんですが、「人間にははかりしれない海そのものの分身」であったポニョたちおさかなの姉妹たちとは違った細かい性質が今作の人魚には付与されています。しかも一般的に人魚伝説で語られているイメージにはない性質もあり、これらの性質は今作において「人魚」「異界」が何を意味しているのかをみるヒントになります。

今作における人魚は、

・音楽を好む(一般イメージ通り)

・水を操る(一般イメージ通り)

・不老(一般イメージ通り)

・音楽を聴くと脚が生える(一般的でない)

・日陰に住み、日光に当たると燃える(一般的でない)

・噛んだ者を人魚にできる(一般的でない)

という特徴をもっています。最後の特徴は吸血鬼伝説のようですが、人魚たちはそれとは異なり、作中では明確に「そのままだと死すべき運命の命」しか人魚にしていません。活〆用のブリ、保健所の檻の中の犬たち、溺れて死ぬところのタコ婆の恋人やカイの曾祖母たちです。これらは作中事実としては「人魚になって生き延びた」ともいえますが、「異界に行ってしまった」という意味で象徴的には「死者の魂」をあらわしてもいます。

いままでの歴史で出たたくさんの海難事故の死者、津波で失われた命たちです。人魚の住む「異界」とは「失われたもの」の側であるともいうことができます。

それでは人魚のすみかである「海」という名をもつカイはすでに死者であるのでしょうか? そういうわけではありません。「異界」側はもうひとつの意味をもっています。

 

現状と本心

 ヒトと人魚という二分だけでなく、ヒトの中にもいわば「反・人魚派」「親・人魚派」とでもいうべき極が存在します。

反・人魚派にいるのは遊歩の父である水産会社社長と漁業組合の人たち、カイの祖父、タコ婆など。

親・人魚派にいるのは遊歩やクニオ、ルーを見て喜ぶ子供たち、遊歩の祖父である水産会社会長、観光客たちです。

このふたつの派閥を見比べると、いっけん親・人魚派は自由と夢と希望と友好を意味するいいやつらで、反・人魚派が悪いやつらのように見えてきます。作中でも遊歩の父がルーに日光を当てようとするシーンはめっちゃ怖く描かれており、撃退すべき悪いやつがいるとすれば遊歩の父のようにさえ見えます。しかし、今作に「悪いやつ」はいませんし、誰にも制裁が下ったりはしません。しいていえばアワビ密猟者が悪いやつですが、彼らにすら町の水没時に人助けをして「ありがとう」を言われるシーンが用意されています。

 遊歩の父は悪人や愚者ではありません。ただ遊歩ちゃんが大好きで、家族や社員を確実に食わせていくためにリスクばかりが大きい事業に反対しているだけです。「現実的に生活を守る」ということはそういうことです。

中学のOBとして学校で講義した養殖業者の人も「東京に出て夢を追ったけど、地元で天才だと思ったぐらいのやつが東京にはゴロゴロおり、現実は厳しい。地元に戻ってきて養殖の仕事を始めてよかった」と語っており、現実的な将来を考えることや、夢を追うことの難しさを強調しています。そして彼はすぐさま「現実」と「夢」の対立を強調するように、カイの父母の道が「現実」的な町のサラリーマン「夢」をかなえた都会のダンサーに分かたれてしまったことを話すのです。

 

 つまり「この世」側の人間は「現実的に、堅実に、安定した幸福のために」がんばっている正論的な存在であり、何も悪いことはありません。これも必要な視点でしょう。かえって「異界」側の人間は広い視野をもったことのない子供だったり、一発当てることしか考えていなかったり、無責任だったりするから夢みたいなことを言ってられるのです。

カイは「この世」的な父親の「受験生なんだししっかり勉強しろよ」、祖父の「海には近寄るな」という言葉に陰気に「わかってる」と言います。受験生として正しい姿ではあります。しかし、ひそかに動画は投稿するし、単純明快なルーの「スキ!」「なかよし!」という表現に鬱屈をかかえた心を解放され、笑うようになります。

カイは心の檻から夢の力を解放することを望んでいたのです。

 

光と水

 今作の代表的な映像表現の要素として「光」と「水」があります。ここまで見てくるともちろん「光」が「この世」側のもの、「水」が「異界」側のものだとわかるでしょう。

 さきほと人間の中にも反・人魚派と親・人魚派がいることを述べましたが、同じように地上にも光部分と影部分があります。今作では「日陰」の多さ……というかそれによる序盤の昼間画面の暗さが印象的に作られています。「御陰岩」というこの町の特殊な地形がつくるのはかなり強い影で、見ていて最初に絵について感じられるのはカイが日陰と日向の境目を越えるときの陰影の鮮やかさです。

反・人魚派(「この世」側)が悪者で親・人魚派(「異界」側)がいいやつという単純なはなしではないということをさきほど言いましたが、では光と影のどちらがこの世でどちらが異界なのでしょうか? それはルーの反応でわかります。

「異界」「夢」「自由な心」の存在であるルーは日陰の中でしか生きられません。「光と陸地」は「この世」側「影と水」は「異界」側をあらわすフィールドです。

 

 「夢」や「自由」という輝かしいものが「影」の存在であるというのはいっけんアレッとなる表現かもれません。

しかし、「影」のほかにもうひとつ「異界」側のフィールドである「水」、「海」というものは、人間の心理をあらわす象徴としては「無意識の世界」をあらわしています。

フロイト、ユングからの心理学における「無意識」とは広大な心全体の中で「これが自分だぞ!」と規定してスポットライトを当てている規範である「意識」の部分以外ぜーんぶのことを意味しています。まるで地球上で3割の陸地以外はぜーんぶ海で、海の底のことを人間はほとんどわかってないように。

海の中を探索するのは危険なことです。だから人間の心は、とりあえずよくわかっている規範の中に自分を囲って「こういうのが自分で、ああいうのとかそういうのは自分じゃありません」と規定することで安全な自意識を保っているわけです。この「意識」のようなはたらきをしているのが「この世」側の大人の言うことです。

じゃあ「意識」のいうことだけを聞いていれば、「水」や「海」があらわす「無意識」は無視していていいのかというと、そうではありません。小さい子供は大人のいうことを聞いて「規範」を学習していくものですし、いいかげん年をとったら自分の信じている生き方をガンコに貫いていってもある程度支障はないかもしれませんが、少年、青年期にはそれではいけません

「大人が言うから、こういうふうに生きなければ」という小さな意識の外側に、無意識の中に、「自分が本当にほしいもの」「したいこと」「好きな気持ち」はあるからです。無意識は意識のように安全な「正しさ」でできているわけではないけれど、海のように無限に豊かであり、大海を知らなければ本当に大人になることはできないのです。

また、「御陰様のたたり」は、「無意識」である人魚を「意識」である人間が痛めつけてしまったときにおこるものです。たたりのきっかけとなる人魚への決定的加害は「意識」つまり「この世」側代表である遊歩の父によって行われました。ユング心理学では「無意識」の声(シャドウ)を「意識」がおさえつけ無視し続けるといずれ無意識のシャドウは暴走し、人格によろしくない崩壊をもたらすといわれます。

そのプロセスは『ペルソナ4』などでもわかりやすく描かれていますね。無意識の報復は意思で止めることができない膨大なパワーなので、「御陰様」は「無意識の影」そのものです。

ペルソナ4 ザ・ゴールデン PlayStation (R) Vita the Best - PS Vita

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  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: アトラス
  • 発売日: 2015/02/05
  • メディア: Video Game
 

 

隔てるもの

 ヒトと人魚、現実と気持ち、光と影、陸と海は「同じになる」ということはありえませんし、またあっても困ります。サンは森で私はタタラ場で共に生きないといけないわけです。

ふたつの世界はそのままだとただ隣接しているだけですが、それらを「隔絶させているもの」と「架け橋となるもの」があります。

 

トラウマ

 一枚岩ではぜんぜんないんですけど、反・人魚派の主張には実は共通点をみいだすことができます。

社長:人魚ランドの失敗で苦労させられたから、現状維持したい

漁協の人:人魚島まわりの漁では船がたくさん沈んだから、安全に養殖で食べていきたい

タコ婆:恋人を人魚に食われたから、人魚を排除したい

カイ祖父:母親を(自分のせいで)人魚に食われたから、人魚と関わりたくない

どれも、過去のつらい経験をもとにして、「異界」の侵入を拒否している状態です。「この世」側、「現実」に強く振り切っている人というのはなんらかのかたちで「夢」に打ちのめされた経験によって現実志向になっていることがほとんどでしょう。

多くの人が僕にも、「お前は無理だよ」と言った。
彼らは君に成功してほしくないんだ。

なぜなら、彼らは成功できなかったから。
だから、君にもその夢をあきらめてほしいんだ。
不幸な人は、不幸な人を友達にしたいんだ。

――マジック・ジョンソン

こう言われるように、「夢」に傷ついたがゆえに後に続く人に「現実」を押しつけすぎる人は周りの夢を潰してしまうでしょう。でも彼らだって周りの人の不幸を自覚的に望んでいるわけではないのです。幸せになりたいし、幸せになってほしい。でも、進むことを受け入れられない。このように過去の傷によって現在の心の状況から動くことができない状態のことをトラウマといいます。

 

 同じように、人魚たちの方も今まで人間たちに積極的に進み寄ってきませんでした。タコ婆の恋人や、カイの祖父の母などは、会って事情を話せていたら彼らの大事な人は憎しみと後悔のうちに長い年月を過ごさなくて済んだのです。この裏にもトラウマというか、大きな傷があります。

人間は昔人魚にたいへんな危害をくわえました。ある女の人魚――おそらく、ルーのママ――を海に返さず、日に当てて焼き殺してしまったのです。そんなことがあったうえ、現在の近海は網に埋め尽くされているので、人間に人魚が近寄ってきたとばれたら捕まって焼き殺されてしまうとして近寄れなくても無理もないことです。誤解は解けず、人間と人魚は隔絶され続けます。しかもこの「昔」というのは宮司の話しぶりや神社の規模からしてなんかもう鎌倉時代とかそのレベルの昔であり、誰かに与えた傷や恐怖というのはけっして消えてなくなることはないということもあらわしています。

 

 では、人間が人魚と関わって傷付いたことが「夢に破れて現実的につらい思いをした」ことだとするなら、人魚が人間と関わって傷付いたことは何を意味するのでしょうか?

人魚は日光に弱く、白日にさらされると焼けて死んでしまいます。ルーも日光だけでなくカメラのフラッシュなどにも弱いことが描写されます。これは「夢」が「現実」の強い光のもとに連れ出されると致命的に傷ついてしまうこと、すなわち心の中に抱いているやわらかな思いや感性は外の評価や無遠慮な視線に弱くてすぐにしおれてしまうことを表しています。冒頭でカイは「marman」すなわち人魚というハンドルネームで音楽動画を投稿し、現実のクラスメイトたちに捕捉されて動画を消します。カイの音楽をしたい心という人魚は現実の光に触れてやけどをし、また無意識の海に戻ったのです。

アンデルセン童話 にんぎょ姫

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  • 発売日: 2017/03/24
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 「現実」と「夢」が触れ合うのはかくも難しいことです。傷ついた過去があるならばなおさらです。カイは人魚たちの歴史とまるで同じく、「現実」の白日と「夢」の人魚との摩擦による火で母親と離れてしまっているのですから。

 

祟りか、恩寵か

 「隔絶」の象徴として描かれている物体としては「御陰岩」があります。御陰岩はめっちゃ壁のかたちをしており、日無し町と人魚島の間を隔て、しかも祟りを恐れた人間たちの手によって壁の穴が塞がれた歴史があったりなどしてもはやベルリンの壁です。

 このベルリンの壁はヒトと人魚の住む世界を区別する以外にも、複数の効果を人間世界にもたらしています。

まず御陰岩があることによって町の大部分は日中日陰に包まれ、それが町名の由来にもなっています。ふつうでっかい日陰というのは人間にとってありがたくないもので、日照量が少ないことはシンプルに自殺率の増加など人間の精神の幸福度を下げる効果があります。

しかもこの御陰岩は人魚が人間に焼き殺されたいにしえの事件の際に岩と同じくらいの高さの高潮に町を呑み込んだと伝わっており、人魚たちを守護してるというか、人魚たちにひどいことをしたら報復する仕様です。作中でも似たようなことで町がやられそうになっていました。演出的にも「御陰様」と畏怖されていることからもこの巨大な岩壁は常に町民を見下ろし監視する大怨霊的な性質をもった神様で、怖い。

 しかし、御陰岩がつくる湾の地形はたいへん豊かな漁場を形成しており、その水産業がなければ町はたちゆきません。町にはほとんど遊歩のうちの水産業と傘づくりの仕事しかなく、その意味でこの町は「御陰岩の御陰様」で回っているものです。昔はもっとフカヒレがとれて栄えたことが町のさびれた装飾でわかります。フカヒレはサメのヒレであり、ルーのパパはサメのかたちをした人魚です。日無し町は人魚のおかげで栄えたのに、人間の都合で人魚はいるだとかいらないだとか言っているのです。

 人間は夢や、自然や、美しいものを消費して生きています。そのパワーによって躍進します。しかし接し方を誤り非道を行えば報復が返ってきますし、夢のパワーがあるところには災いも隣りあわせなのは当たり前で、その同じものを「たたり」と過敏に恐れたり「恩寵」ともてはやしたりするのはいつも、人間の勝手な解釈と態度なのだということです。

 

敗北か、転機か

 「光」と「水」、「現実」と「夢」が摩擦をおこしたとき、人間にはふたつの道があります。それは実は「現実」に生きるか、「夢」に生きるか、ではないということを今作は示しているようにおもわれます。

「現実」に沿って「夢」をあきらめるか「夢」を追って「現実」に戻ってくるかです。

結局どっちも現実なんかーいって感じかもしれませんが、そりゃそうですよ、生きてるんですから。カイは人魚にならなければ(=現実において死ななければ)水の中で生きていくことはできません。カイの母のように「夢」に生きているように余人からは見える人であっても、どこかで夢と現実の摩擦にあって現実的な着地点をみつけています。

 「夢」を追って「現実」に戻ってきた人のモデルが今作では繰り返し示されています。

まず最初に遊歩が慕う「イサキ先輩」。細身で長身の美女であり、「絶対東京でモデルやると思ってたのに」現在は町内放送のお姉さんをしています。傍から見たら「東京で活躍するモデル」からすると町内放送のお姉さんというのはガッカリな進路であると遊歩の反応で示されています。

次に中学のOBで養殖事業をしている「フグタ」。ダンサーを目指して東京に出たがプロになって食べていく厳しさを知って地元に戻り、結果的に手堅く稼いでいます。

そしてカイの父親「テルオ」。昔バンド活動をしており同級生で恋人のカイの母親ナオコと東京に出るが、音楽をやめ、離婚して地元に戻って遊歩んちの水産会社のサラリーマンをしています。序盤の印象はあんまりさえない感じです。

彼らはみんな夢破れてみじめに田舎にひっこんできた、しみったれた現実にしがみついているだけの敗者なのでしょうか?

そうではないということが繰り返されています。

イサキ先輩は民家を観光客向けのカフェ・宿泊施設に改装して営む夢のために動いており、放送のお姉さんの仕事にもプロ意識をもち町民の安全に責任をもってカッコよく行動します。フグタさんは終始明るく、さびれた町の地域振興のため人があんまり来なくてもワークショップとか開いています。

そして父テルオは息子と同時に本音の心を開き、「父さんはこの町に戻ってよかったと思ってる」「カイ、好きなことをしていい、思ったことを言っていいんだ」的なことを言ってカイの背中を押します。

「外からこの町を見れたのはよかった」

フグタさんだかイサキ先輩だかが言っていました。夢が全部かなわなくても、全部あきらめてどこへも走り出さなければ、今いる場所がどんなところなのかさえわからないままです。

「好き」を叫び、夢を追って走り出すことは、やわらかい心が現実にさらされてやけどを負うリスクをともないますが、たとえ夢がかなわなかったとしても、無駄であるはずがないのです。

 

橋をかけるもの

 「橋をかけるもの」、つまり「この世」と「異界」、「現実」と「夢」をつないでくれる鍵であると今作が描写しているものは、実はわかりやすくジャケ絵に描かれていました!

夜明け告げるルーのうた

夜明け告げるルーのうた

  • 発売日: 2018/04/02
  • メディア: Prime Video
 

ここにあるのは「傘」と「ギター」です。

つまりカイが「つないだ」ことは、祖父の子どものころから継いでやっと実ったものでもあります。 

 

傘と赦し

  ジャケ絵にも描かれているキーアイテムの「傘」は、「この世」側と「異界」側に橋を架けるものです。傘があれば人魚は日の光の下でも燃えずに動くことができます。

日無し町は天候が変わりやすく、昔から「弁当忘れても傘忘れるな」と言われたほどガチの雨が降るとのこと。この「弁当忘れても」という言い回しには「死活問題である」という深刻さがあらわれています。雨に濡れるくらい…と現代人は思っちゃいますが、水に濡れて体温が低下することは人間の生命をヤバくする要素です。

「傘」が「死活問題」であると見ると、それは人魚にとっての昼間の傘の存在と似ています。すなわち「傘で日光焼けを防ぐ人魚」と同じように「傘で水濡れを防ぐ人間」というものがあるわけです。

人魚が光の中で生きられないのと同じように、人間は水の中では生きられない。「傘」というキーアイテムはこの相似関係をつなぐナイスな象徴です。夢は現実にさらされると死に、現実は夢に溺れると死に、ふたつは同じにならないけれど、どちらとも交流して生きていくためには「傘」が必要だということです。

「傘」程度の面積でも大丈夫だということなのです。完全防備の隔壁で、ふたつを遮る必要などない。

 

 そして、「報復」の力である御陰様は人魚を傷つけたたたりとして人間の町を呑み込もうとしましたが、傷つけられ、御陰様に守られている側であるはずの人魚たちは陸の人間たちを助けます。やぶれた無数の夢、傷ついた心、棄てられた死者たちが、生者を助けます。これが「夢や思い出を忘れて現実を生きていく罪」を「赦す」ものであることは、ワン魚が新しい犬を飼うため自分を保健所に棄てたクソヤローとみられる飼い主を助けたことからもわかります。

失われた夢、死んでいったひとたちに悪いような気がしていても、われわれは好きなものを好きだと叫んでいいのです。失われたものたちの住む「異界」「人魚」の側はそんなわれわれを赦し、愛しているのだと、かつての飼い主に愛らしく手を振るワン魚が示しています。

妄執と後悔と懺悔に固まった「現実」から解放されて、タコ婆やカイの祖父は愛する人のいる海に還っていきます。

 

心からの歌

 もうひとつの「橋をかけるもの」、それはカイのもつギター、つまり「音楽」です。

音楽が鳴るとルーのヒレは人間のような脚に変わります。ルーが歌い出すと町中の人が手を取り合っていっしょに踊り出します。音楽が、われわれと異界を、理解しがたい他者どうしを同じ土俵に結び、「なかよし」にさせてくれるということです。それが心からの歌であればなおさらです。ルーの歌は本当に心から出て、なんのひっかかりも雑念もありません。

ルーは特にカイの奏でる音楽に惹かれました。それは、彼の音楽が特に心の内から響くものだったからかもしれません。

しかし述べてきたように、むきだしの心を外に発するのは恐ろしいことです。「人魚」が「日光」に焼かれてしまうようなめにあうかもしれず、取り扱いには慎重を要します。「歌」というのはシンプルで自分の体を楽器にして奏でる、心を思いきり吐き出すような音楽です。

 かつてカイの祖父は船の上でギターを弾いて歌いながら母を待っていて、それが人魚を呼び寄せてしまい母は食い殺されたのだと思い込んでいました。実際は事故で死にかけていた母を人魚が人魚化して救ってくれたので、むしろ祖父のギターと歌のおかげで母は本当に死なずにすんだのかもしれないのですが、とにかく不幸な誤解によって祖父は音楽を、好きなものを好きだと言うことを憎むようになりました。

そしてカイの父は音楽を愛し、踊る人魚のごときカイの母を愛しましたが、二人はいつしか「人間」と「人魚」のように相容れるのがむずかしい存在になってしまったのでしょう。ふたりは離れました。

カイは祖父の懺悔と憎しみ、父の挫折を背負ってここにいます。これはあるいは一人の人間の人生の旅路のことでもあるかもしれません。長い時間をかけて、好きなものを好きだと叫ぶ、それだけのことがやりきれずに人間はもがきます。

嗚呼 唄うことは

難しいことじゃない

その胸の目隠しをそっと外せばいい

カイはルーに伝えるため、「好きなもの」「好きの気持ち」を歌で吐き出します。

隠した心の夜の中から、あたらしい陽の光のもとへと、橋をかける歌。

 

人魚はどこへ行ったか

 そうして「カイ」は歌いたいことを吐き出し、最後の朝食シーンのアサリの味噌汁はよく砂が吐けてうまい。

御陰岩が崩れたため外は朝の光がさしてまぶしく、日無し町にまったく新しい「夜明け」がやってきたことがわかります。「ルーのうた」は「現実」と「夢」「自由な心」との葛藤がスキの心を影に閉じ込める世界がもう終わることを告げていたのです。もうカイは、本当に好きなことを無理矢理隠すことはありません。

しかし、日陰の中でしか生きられない人魚たちはどこへ行ってしまったのでしょうか?

カイが好きなことを好きだと言ったら、ルーたちは消えてしまうのが正しいさだめだったのでしょうか?

このことをしばらく考えてたのですが、当方としては、「人魚は消えていない」とおもっています。

 カイは「向こう」の高校に進学して、人魚の住んでいる場所を探し、またこの町に帰ってくるつもりだと言いました。これは何を意味するのかと考えたのです。

人魚は「無意識」の海に住む存在だとお話しましたね。御陰岩が崩壊し町に日がさすようになったことは、ユング心理学的にいうと「意識」が否定していた「無意識」の一部を認め、「それもまた自分である」と統合して意識の領域が広がった状態、つまり心がひとまわり大きく成長した状態を意味しています。「明るい部分」とは意識であり、人間はこうして「それもまた自分である」という明るい部分を拡大して深みのある人格に成長していくのです。

だから広がった心にとってこの町の近海はもはや否定したい無意識ではなく、よって人魚の住む海でもなくなりました。では人魚の住む無意識はどこにあるのか? ――もっと遠くにあります。

さきほどの、人間が「これは自分じゃない!」と認めがたい本心と葛藤して「それもまた自分である」と統合していく成長は「個性化の過程」と呼ばれます。「心全体」はいうなれば「地球の海のすべて」のように広く、人間は一生成長を続けてもこれで終わりということはありません。終わりがないから個性化(本当の自己に向かうこと)の「過程」と呼ばれるのです。どんなに矛盾を克服した!好きなものと現実とのバランスをとった!と思っても、とどまらず進んでいけば、いつかまた自分で決めた枠が狭くなって、日無し町のような世界のドンづまりに出会います。ちょっと困ってしまうような自分のスキの気持ちと出会います。

カイが好きなことを追いかけて、成長して、挫折して、また顔を上げて、進んでも足が止まってしまったとき。

きっとそこにだけ人魚はいて、変わらぬ姿で、また遠慮なく「スキ!」「なかよし!」って歌ってくれるのでしょう。

 

↓おもしろかったらブクマもらえるととてもハッピーです

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