人類が心を『少女革命ウテナ』に革命されるようになって、既に四半世紀が過ぎていた――――。
これは、生まれて初めてガンダム作品をまともに観ることになった『ウテナ』オタクの、感動の読解覚書きである。
(『機動戦士ガンダム 水星の魔女』6話までのネタバレ、および今後の展開の予想、『少女革命ウテナ』全編のネタバレを含みます)
『ウテナ』見てない人にも伝わるように書いてるけど水星見てウテナに興味わいたから見ようと思ってる~という人は先に見よう。
ぼくとガンダムとウテナ
まず自分の話をするが、前世はたぶん四角いコンテナか何かに頭をぶつけて死亡したのだとおもう。
当方は角張った固そうな機械がメインを張るフィクションが大の苦手であり、巨大ロボものはまさにそれだった。原因は自分でもマジでわからない。
中学の修学旅行の夜などは、クラスのイケてないほう仲間のオタク友達らがファ……ファーストガンダム?っつうの?について盛り上がっている中、女性向けシミュレーションゲーム『アンジェリーク』の通販が届いているか家に確認の電話を入れていたのである。往年の名作である以外合っていない。四角くて硬いロボやガジェットにときめくことができず、華やかで味の濃い女性たちが丸っこいSDロボに乗って霊力で戦う『サクラ大戦』とかまでしか楽しめない自分に「男らしくないよな……」と地味にコンプレックスを感じ続けてきた。
ばかばかしいことだ。そんな「ロボが好きじゃなくてキャラものが好きだから軟弱」とかでジェンダーロールに悩むなんて。しかし、きっとガンダムは日本のフィクション史にとってメチャンコ重要な存在であり、いつかおいしく食えるようになりてえなあと願い続けてきた。
一方、当方がもっぱら美味い!と感じて摂取する作品といえば、人間の心や社会構造、時代性の問題をヒロイックなキャラクターをメインにして戯画的・寓話的に表現するやつだ。当ブログで読解を扱っているゲーム『ペルソナ』シリーズや『ファイアーエムブレム風花雪月』、『ドラゴンクエスト11』もそれにあたるだろう。そういう感じの作品の中でも特に秀逸なものとして一般に知られているのが、『少女革命ウテナ』をはじめとする幾原邦彦監督のアニメーション作品だ。
ありがたいことに、当方はこのフィクション作品のテーマ読解ブログをそれなりに読んでいただけているわけだが、その読解力は他のどの作品より『ウテナ』を読むことで鍛えられたものだとおもっている。それだけ『ウテナ』は読み解きがいがあり、読み解くためのフックや示唆が豊富で、そして多くの若者向け作品に通じる普遍的なテーマをあつかっている。それこそ先ほどばかばかしい悩み方をした「ジェンダーロール」の問題、「本当に大人になるとはどういうことか」「心の葛藤と成長」そして――「運命の呪縛を越えて進むこと」。
そんな『少女革命ウテナ』が25周年を迎えている今年2022年秋からスタートした『機動戦士ガンダム』新シリーズ『水星の魔女』。風のうわさで聞こえてくる「魔女」「花嫁」「婚約者」などのキーワードは四角くて硬い巨大ロボ宇宙世界へのイメージとはずいぶん異質であり、『ウテナ』という声も皆から聞かれた。風のうわさをよく聞いてみると脚本はセガサターンのゲーム『少女革命ウテナ いつか革命される物語』脚本やウテナのノベライズを手掛けた大河内氏だというではないか。
25年といったら人が生まれて親になるほどの時間だ。『ウテナ』の力によって、「ロボを見られない」という運命の呪縛を越えるときが、ついに自分にも来たのかもしれないとおもった。そしてその予感は当たっていた。ウェーイオタクくん(友達)見てる~!? 元気に楽しくガンダム見られていま~す!
というわけでこれからオタクくんも見てる水星の魔女を少女革命ウテナ目線から読解してる記録残ししちゃいま~す ゴメンね~(?)
『少女革命ウテナ』からみる『水星の魔女』
【ガンダムシリーズ TVアニメーション最新作】
— 【UCE】機動戦士ガンダム U.C. ENGAGE (@gundam_uce) 2022年9月30日
『機動戦士ガンダム 水星の魔女』が
2022/10/2 より毎週日曜午後5時~ MBS/TBS系全国28局ネットにて放送開始!
ぜひご覧ください!#ガンダムUCE pic.twitter.com/AqXNE0ZQa8
もうメインビジュアルからして『ウテナ』であり「『少女革命ウテナ』的なテーマ表現を前提・オマージュしたうえで作っている」ことは明らかに示されてるので、読み解きのベースとしてどのへんが共通部分なのか、何が類似のキーワードやテーマなのか整理しておく。
(ちなみにこのメインビジュアルの「お互いにめいっぱい手を伸ばし合う対照的な容姿の少女ふたり」というのは『少女革命ウテナ』最終回のクライマックスシーンのモチーフ)
プロット
「転校生である主人公の少女は、学園都市という鳥籠に閉じ込められているお姫様に出会う。お姫様は強大な権力者の血縁であるが、役にも立たない植物の世話ばかりしている変わり者とみなされている。
お姫様の婚約者・所有者を名乗るマッチョな暴君的男がお姫様をトロフィー扱いし、他者の尊厳を傷つけている場を目にした主人公は、自分の信念からそれに立ち向かい止めようとする。
マッチョ暴君と決闘で雌雄を決することになった主人公はみごと勝利。そんなつもりはなかったがお姫様の婚約者・所有者となる。
主人公は婚約・所有制度に乗り気でなく、決闘をしたいわけでもないが、信念のために戦いお姫様と友情を育んでいくことになる。
また、さまざまな価値観や過去の事情から力を求める個性的なライバルたちが、手に入れれば大きな権力を得られるお姫様の婚約者、すなわち決闘の勝利者の座を狙っている」
以上すべてが、『少女革命ウテナ』と『機動戦士ガンダム 水星の魔女』に共通している序盤の基本プロットだ。特に第一話『薔薇の花嫁』と『魔女と花嫁』の後半の骨子はほぼ同じ流れなので、「どこが違うのか」を明確に比較できるようになっている。
「違い」についてはキャラ雑感のところでまた。
キーワード
『ウテナ』および周辺作品と、『水星の魔女』とに共通・類似しているキーワードやテーマを挙げておく。
花嫁
『ウテナ』では「薔薇の花嫁」、『水星の魔女』ではミオリネが学園で最も決闘ランクの高い者と結婚することになっているというシステムのこと。
どちらも「権力者の血縁の娘を、権力と接続するためのトロフィーとして与える」という旨のシステムで、そこには「パワーゲームに明け暮れる者たち(マチズモ)によってモノ扱いされて搾取される弱き者(特に女性)」「一見華やかで大事にされているようだが、個人の意思や尊厳を無視される立場」が表現されている。
「あれもしなくていい、これも与えられて恵まれてる」「玉の輿うらやましいなあ」「おとなしく受け身でかわいくしてればいいんだから人生イージーモード」というような、特に女性に対する揶揄は、『ウテナ』から25年経っても依然悪意もなしにちまたにあふれている。それは「呪い」とも呼ばれる。
魔女
『ウテナ』では薔薇の花嫁であるアンシーの暗い側面が、『水星の魔女』ではGUND-ARM(ガンダム)技術を秘匿研究している者がそう呼ばれる。そしてタイトルからするに、『水星の魔女』とはスレッタ・マーキュリーとその母のことをさしている。
アンシーはウテナと対置するもう一人の主人公でありながら、物語の最終盤まで考えていることが読めず、視聴者に底知れぬ恐怖を与える。その底なし沼のような受け身に強者たちは翻弄され自滅していき、「王子様を堕落させる魔女」と呼ばれる。
スレッタの母は自分の研究が世間に「魔女」と呼ばれていることを知っており、スレッタに与えたモビルスーツが学園で問題になるであろうことを織り込み済みながらも、「お母さん、スレッタを魔女に育てた覚えはないんだけどな」と言う。
ここに共通しているのは、「魔女」は自分で魔女らしい悪しき行いをしたのではなく、周りが勝手に恐れてそのように呼んだだけだということだ。昔々の男性的価値観では、女性はしばしば「崇敬すべき聖母」と「唾棄すべき娼婦」とに二分された。これは「花嫁」と「魔女」の二面と相似である。どちらもその女性の本質を見ることなく、都合よく利用できる面と都合の悪い面に切り分けて押し付けた呼び名だ。ちやほやされていた女性芸能人が政治的自覚をうながすような発言をすると「ブスのくせに」「ババアはもういらない」などの罵倒がドカンと増加する、というのも現代の「魔女」現象といえる。
つまり「魔女」とは、マイノリティがマジョリティにとって都合の悪い力をもったときに振りかざされる呪いの烙印なのだ。力もつ者は力を持っていないとマチズモ世界から排除されてしまうが、力が弱く無害で従順に働くとみなされていた者がマチズモ世界を脅かすような力をもつとそれは奪われ、迫害され、黙らされる。
「アーシアンが余計なことに首を突っ込むな。勉強だけしてりゃいいんだ」……。
決闘
『ウテナ』では薔薇の花嫁という「なんでも叶う力」への鍵をめぐって、『水星の魔女』では花嫁以外にもお互いの望みを賭けて、学生同士の決闘が行われる。
結局のところ、どちらも「決闘の勝者はすべてを手にする」「敗者は勝者に従う」ということだ。「自分の運命を自分で決めるために戦う」というヒロイックさと、少年少女の世界らしく単純で、かつ野蛮で無法な決裁法であることが同居している。大人にはいろんな意味でこんなことは許されないというか、大人がこれをやるとつまるところ戦争となってしまいややこしい話になるので、「学園での決闘」がまず舞台となってくれると抽象的なテーマがわかりやすくて良い。
決闘のルールには類似点も相違点もある。類似点は、「相手の胸の薔薇/モビルスーツのツノを落としたほうが勝ち」という勝利条件だ。『ウテナ』においては「胸の薔薇」「薔薇の棘」「心の剣」はつながったモチーフで、「ときに自他を苦しめる、心にある誇り」を意味している。
『ウテナ』では「生徒会」、『水星の魔女』では「決闘委員会」というとりまとめ組織が存在しているのも類似点だ。しかし、「薔薇の刻印」という指輪を支配者から授けられた者しか参加できない『ウテナ』の決闘に対して、『水星の魔女』では学園の誰でも決闘をすることができることになっている。
そう比較すると、『水星の魔女』のほうが運命を自分で決める機会が「選ばれた者たち」だけでなく皆に自由に開かれているということができる。だが、それは本当に「自由」なのだろうか? 『ウテナ』と比較することでその問題提起が浮かび上がってくる。
体と剣のみの試合である『ウテナ』の決闘と違い『水星の魔女』の決闘はモビルスーツどうしの試合である。そんなのはガンダムなので当然なのだが、ここで先ほどの「自由」の問いが鳴り響いてくる。参加資格が不問だったところで、決闘できるのは基本的にパイロット科の「エリート」だけであり、実質的に「自前のモビルスーツやサポートメンバーを用意できる、実家や後ろ盾の力」が必要不可欠だということになる。
たかが学生同士のプライドを賭けたケンカのために、巨大なロボが巨大な施設でメンテされ広大なフィールドに射出されるさまを見ていると、そのために用意されたマンパワーや電力や資源の膨大さを考えざるをえない。そのリソースがあればどれだけの貧困を救えることだろう。そういう膨大な「最低限の力」を持つ者以外は、「自分の運命を決める戦い」に参加することすらできないのだ。
誰にでも開かれているようでいてまったく公平ではない、自己責任論的な力と力の戦いは、ここ十数年世界を席巻する新自由主義の問題点を思わせるし、おそらくこの作品が越えるべき「世界の果て」はそういう感じのものだ。
力があればなんでもできる
『ウテナ』のキーワード「世界の果て」の話をした。『ウテナ』での「世界の果て」と呼ばれる絶望と運命の呪縛の擬人化=「アンシーの兄・鳳暁生」にあたるのは、『水星の魔女』では「ミオリネの父・デリング総裁」(と、「スレッタの母・プロスペラ」も重なった存在だが、ここでは「力」である側面デリングにスポットを当てる)だ。
デリングは「軍人上がり」ではあるが、従来の宇宙戦争もののラスボスと違い軍国主義の軍部のお偉いさんとかではない。巨大経済グループの総裁である。『ウテナ』の暁生は学園=牢獄に囚われた心の中を支配する力、なんでも叶う無限大のマッチョな力を志向していたが、デリングが「私には力がある、おまえにはない」と語る力はもっと具体的になった。突き詰めていえば「経済の力」だ。
これは初代『機動戦士ガンダム』の世界と比較するとさらに解像度が上がる。初代(宇宙世紀)での人類の宇宙植民の歴史は、「増えすぎた人口を地球で養えなくなったので移民させた」「地球人には『移民しなくてすんだ』特権階級が多く、宇宙生まれを差別し確執が深まった」というものだったが、『水星の魔女』では逆に地球生まれ(アーシアン)が差別を受けている。宇宙に商業資源が発見され、それを求めて巨大経済圏が宇宙に移動したからだ。
誰もが縛り付けられてるみたいだ
きっと重力に引かれてるせいだろって
仕方ないって 生きてく理由を殺してる
エンディングテーマのこの歌い出しは宇宙世紀のキーワード「地球の重力に魂を引かれた者たち」を下敷きにしている感がある。それは宇宙への移民を差別し母なる地球の環境を搾取する地球の特権階級人類を呼んだ言葉だったが、「アーシアン」と「スペーシアン」の立場が逆転?した今回はどこ住みかは関係なくより本質的なところを示している。経済格差や後ろ盾となる強者に強制された生き方という重力は、誰の上にものしかかる。
経済圏におけるカネ権力は技術の軍事転用と利用し合いながら、やがて軍や国家をはるかに超えた巨大な「力」となっていく。経済や技術の革新は人類を幸せにするためにあったはずなのに、その「力」に力を持つ者も持たない者も誰もが呪縛されていく。これはまったく他人事ではなく現代社会の状況を宇宙規模にしただけで、ダイレクトに時代性のあるテーマだ。
世界の果て/呪い/祝福
もう呪縛は解いて 定められたフィクションから今
飛び出すんだ 飛び立つんだ誰にも追いつけないスピードで地面蹴り上げ空を舞う
呪い呪われた未来は 君がその手で変えていくんだ(中略)
この星に生まれたこと この世界で生き続けること
そのすべてを愛せるように
目一杯の ああ 祝福を君に
『ウテナ』で乗り越えるべき概念は「世界の果て」「呪い」と呼ばれる。『水星の魔女』でも「呪い」「呪縛」という言葉がそこここに登場する。
『ウテナ』での「世界の果て」「呪い」は若者がぶち当たる限界、「大人の男/女とはしょせんこういうものだ」「力には従うしかなく、大人の世界に個人の意思や尊厳なんて甘っちょろいもんはないんだ」と足を絡めとってくる体制の圧であり、内面化された固定観念だ。その呪いを越えるものは「友情」と「気高さ」であった。
君よ 気高くあれ
迷うな 少しずつでいいんだ
宿命を超えて 再び進め――シユイ『君よ 気高くあれ』(2022年)
『水星の魔女』のエンディングテーマでもこうして「気高さ」がデッカくフィーチャーされている。
一方、『水星の魔女』での「呪い」「呪縛」は今のところこのふたつの意味で使われている。
- ガンドフォーマットを搭載したモビルスーツが搭乗者を害すること
- 人が望まない運命を与えられ、縛り付けられること
ところで、『ウテナ』ではない幾原邦彦作品(大河内氏とは直接関係ないが)の話題を経由しておく。『輪るピングドラム』だ。
『輪るピングドラム』でもやはり「呪い」というキーワードが登場するが、それは「祝福」と同根の言葉として扱われている。「祝福」もまた『水星の魔女』においてオープニングテーマのタイトルやハッピーバースデーの歌などで重要なキーワードとして表現されている。
『輪るピングドラム』は「家族」についての物語であった。「親ガチャ」というつらみのある言葉が近年流行したように、またカルト宗教二世の問題が昨今明るみになってきているように、どのような家族、どのような親のもとに、どういう遺伝形質をもって生まれるかはかなりの頻度で人を「呪う」。しかし家族や親が子に与えたり願ったりするものは「祝福」でもあり、呪いと祝いは表裏一体となって切り離すことができない。そもそも日本語における「呪」と「祝」の字義も、同じものがマイナスとプラスに使い分けられたものにすぎない。
例えば親が生まれた子に与える最初の贈り物である「名前」は親にとってはたいがい祝福だが、子にとっては呪いになりうる。「たくましい男に育ってほしい」と「猛男」とかつけられた子がなよやかに繊細に育ち、「どうして自分は親の望んだように強くなれないんだろう」と思い悩むこともある。そこにあるのが善意の祝福でも人は運命を呪われてしまう。
『ウテナ』でも主人公・天上ウテナは小さいころに父母をなくして絶望していたところ、「王子様」から「その気高さを大きくなっても決して失わないで」と祝福を受けた。その結果、「王子様のように気高くなろう」とウテナは男の子のような話し方や服装をするようになり、はっきりした人生指針を得たのはいいが明らかに変な女の子になってしまった。これを他人が「王子様の幻影に縛られている」と見れば呪いだと言うだろう。
ここで『水星の魔女』での話に戻ると、スレッタが母親から受けた「戻れば一つ、進めば二つ」という薫陶にも、祝福と呪いの両面が見えてくる。これはスレッタの心に寄り添い、人生全体によい指針を与えているが、この「祝福」はプロスペラママがヴァナディース機関の作るガンドの未来と仲間を奪われた復讐にスレッタを使うために授けた心性である可能性が高い。そういった意味で『水星の魔女』における「世界の果て」役はデリング総裁とプロスペラママの二人一役である。そのことがオープニングアニメで二人の顔がオーバーラップする構成にも表現されているとおもう。
ガンドフォーマットもそうだ。もともとは宇宙に出ていく人間に「赤子が服を着るように」祝福として授けられるべきだったガンド技術、人体へのパーメットの流入が、経済支援を受けるため軍事転用されて使用者の神経を侵し死に至らしめる呪いとなってしまった。
しかし、『ウテナ』で「世界の果て」からの手紙がウテナと若者たちを成長のための戦いへと誘ったように、呪いであり祝福でもあるその鎖は途中まで子らを導いてくれる。人は生まれ、既にそこにあった世界に何かを授けられ呪われることでしか人生を始めることはできない。
祝福の鎖にからめとられて潰れるか、それをジャンピングボードとして高く空を舞うかはその子次第だし、環境やタイミングや支えてくれる絆次第でもある。
『ウテナ』と『水星の魔女』のおおむねのところの比較読み覚書きはこのくらいにしておいて、次は登場人物の構造をやっぱり『ウテナ』から読んでるのを覚書きにまとめたいとおもう。
↓おもしろかったらブクマもらえると今後の記事のはげみになるです。
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あわせて読んでよ
↑『ウテナ』の下敷きになってるユング心理学の話とか
↑親が子に与える呪いとか祝福とかについて