本稿では『ファイアーエムブレム 風花雪月』の第一部6月とか7月時点での「青獅子(王国)ルート」「蒼月の章」「中世」に関するテーマ予想考察を展開します。
銀雪→翠風→紅花ときて、最後にだいじにとっておいた蒼月ルート……青獅子の学級をプレイし始めました。
なんでここを最後にとっておいたのかっていうといまいち好きなキャラがいないからでも、またすごい好きなキャラがいるからでもありません。三つの学級の中で一番物語の結末がもの悲しく、最も微妙なものであるだろうと予感したからです。
もちろんもの悲しさの風情、誰をも選ばず自分の道を進んできた寂寞の美しさにかけては銀雪ルートにまさるものはなかろうと思うのですが、そういうのとはまたちがって、「いろいろ取り返しがつかないことになっちゃった」「守りたかったものも壊れちゃった」「これからよくなっていくとも限らない」という惨憺たる死屍累々の状況で、「それでも…」と投げかけて終わるような、そういう苦いエンディングの気配がディミトリにはしたということです。
その予感にすぎなかったものが、プレイしてみて序盤からけっこう当たっている感じをバリバリに見せてくるので、「こういうとこなんだよー! コレコレ! みてみてママ」と思ったことを書き留めておくものです。
以下、全ルートのネタバレ(青獅子は6月まで)を含みます。
【追記】この記事を踏まえた蒼月ルート全体の話もあります
イングリット=ブランドル=ガラテアの葛藤
『シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエの繊細』と対句
これはジェンダー・イクオリティ記事的な問題でもあるのですが、イングリットはルートを問わず父親から縁談をハイペースで持って来られており、「主君を守る騎士になりたいが、親には結婚して家を盛りたてることを非常に期待されている」という、一見してフェミニズム的問題に見える個人テーマをもっています。
しかし、これは広く言えばフェニミズム的問題ともいえますが、よく見るとイングリットは「無力な女だから」「結婚して子を産むしかできない」と抑圧されているのではなく、「有力な紋章持ちだから」「夢をあきらめて領主貴族の家を継がねばならない」という強制にさらされています。「結婚しろ」と言われているところは現実世界の女性への抑圧っぽく見えますが、「弱いんだから結婚しろ」ではなく「強いんだから結婚しろ」と言われているのです。
すなわちイングリットは現実世界における「田舎の大きな農家の本家の長男」のような存在であり、都会に出て夢を叶えたいが「お家存続」のために「家父長制」ならぬ「家紋章長制」とでもいえるものに組み込まれて苦しんでいる、シルヴァンと似た状況にあるのだといえます。
古き良き規範
家父長制がそうであるように、「家長でない人間には自由がない」そして「権力をもつと決められた家長がすべての権利と責任をもつ」というのは、主に女性である「家父長でない人間」にとってのみ不自由なのではなく、「家長」側にとっても
「自分が絶対この家を継がねばならない」
「この家の人間のすべての権利を自分に集中させなければならない」
「いつも強く、正しく支配せねばならない」
「この家のありよう、行く先がすべて自分の肩にかかっている」
「絶対に世継ぎを残さなければならない」
……といった、ひとりの人間の人生をぺしゃんこに潰してあまりある重責がのしかかってくるのです。シルヴァンが兄からすべてを奪ってしまったこと、女性からの種馬扱いに気付いてしまったこと、そしてそれをイヤと言えないことにずっと苦しんでいるようにです。
フェミニズムの文脈の中にもあるメンズリブ(男性を男性規範から解放する論)では、女性が抑圧されているのと同時に男性(風花雪月の貴族の社会においては紋章持ち)が強いられているこうした重責を、解体、みんなで分担しようとします。王国ルートに象徴される「古きよき時代」の規範には当然そういう不自由さがあり、かつての不自由な社会ではカースト弱者だけでなく、強者にもまたそこから逃れられない苦しみがあった、ということを青獅子の学級の生徒たちは全体的にあらわしています。
現代に生きるわれわれは、こういったいにしえの「不自由」「逃れられない苦しみ」の話を聞くと、「そんなものからは自由になっていいんだぜ!」とすぐ考えてしまいますが、その不自由さを破壊せず、向き合い続けるのが青獅子ルートだと感じられます。
不自由なのは、もろ手を挙げて歓迎できる善いことではないにしても、「ただただ遅れている悪しきこと」でしかないのでしょうか? 「古き良き」とは、本当は何が「良い」のでしょうか?
普段センセーショナルな「自由」や「進歩」の光を浴びている現代のわれわれに、青獅子ルートはそういう見えにくい微妙~なことをそっと示してくるのです。
「中世」という時代
「古き良き時代」ということで、『風花雪月』の世界観の中で王国は時代感・テーマ的に「中世」の社会をあらわしています。中世っつっても長いんだけどさ。帝国は近世・近代に近い社会状況とテーマ、同盟は文化レベルとしては近世ですが社会状況的なテーマとしては現代的です。
特に王国と帝国の社会の時代感の違いは顕著で、王国はその「食糧事情や流通、技術における貧しさ」、「領主騎士層による各地の分国支配とその代表者にすぎない王家」という特徴で旧来のFEシリーズでおなじみの中世ヨーロッパ的社会となっています。
じゃあ帝国の社会情勢はどうかっていうと「気候だけでなく技術力の高さや流通に裏打ちされた豊かさ」、「帝政と貴族の中央貴族(官僚)化」という近世・近代ヨーロッパ的な特徴を呈しています。イメージはフランスのブルボン朝(ルイ何世ってやつ)です。これはFEシリーズの中ではかなり珍しく新しい時代感です。FEシリーズの社会の状態は基本的に古代から中世のあいだをずーっと描写してきましたからね。
この近世・近代(そして現代へ)っぽい社会のパワーやエーデルガルトの思想が「フレスベルグの少女」というメインテーマがさすとおり『風花雪月』の物語を牽引していくわけで、フォドラ人としては特異に現代的に柔軟な思想をもつクロードはまだしもディミトリらは物語が動いた時点ですでに彼女に大きく遅れており、基本どのルートでも後手に回らざるを得なくなっています。たぶん王国ルートでもそうでしょう。
古代から中世、中世から近世・近代
長い長い、FEシリーズでも延々と描かれてきた、JRPGでもつねに憧憬される、中世ヨーロッパっていうのがどういう時代かっていうのを考えるには、その前の古代からどういう変化があったのかをみなければなりません。
最近はだいぶ文明的な価値が再評価されていますが、ふた昔くらい前まではヨーロッパ中世は暗黒時代ともよばれ、輝ける古代ローマ帝国が消えてしまってからルネサンスでふたたび科学的文明の光を思い出す(近世)までの長い間、飢えや病、無秩序に続く戦乱に人々はなすすべもなく、ただただカトリック教会の教えにすがるほかなく、教会が知識を独占していた時代といわれました。ファ、ファーガス神聖王国~~!
古代ローマ帝国の広域支配がゆきとどかなくなると、流通のための街道や海路を守る秩序がなくなり、人々は単純にお外に出かけられなくなります。わかりやすく言えば、マイクランのエピソードやファーガス関連の外伝で日常的なまでに出てくる野盗の存在です。
今まさに、野盗ならぬ新型肺炎への警戒によってみんながお外に出づらくなっていることで、どれだけの文化イベントが中止され、どれだけの商業的損失が出ているでしょう? 流通の停滞は文化経済の衰退とイコールであり、アマゾンプライムもない時代では人々は村の中でただ畑を耕しおびえていることしかできないのでした。そうして貧しい社会は必然的にかつてのアッシュなどの盗人や無法者を生みつづけ、悪循環です。
まるで慢性的な血行不良によって臓器のはたらきが悪くなり、その苦しさでますます病状が悪化するように。そういうジリ貧だけどなんとかかんとかやってるのが、ざっくり言うと中世という長ーい時代です。
国という「からだ」
いま、中世のジリ貧状態を人間の体の慢性的体調不良にたとえましたが、実際そうやって追いつめられたときって今回の『新型コロナウイルス感染症対策の基本方針』みたいなもので
国や地方自治体、医療関係者、事業者、そして国民が一丸となって、
新型コロナウイルス感染症対策を更に進めていく(新型コロナウイルス感染症対策の基本方針 - 厚生労働省 https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000599698.pdf より)
とか
進め一億火の玉だ
みたいな感じで共同体がひとつの生き物であるかのように一体となっていきがちです。それがいいことなのかは別として(現代的にはあんまよくないことですけど)人間の共同体はしばしばそういうふうに危機を乗り切ろうとするということです。
日本でいうと頻繁に氾濫して多数の人命を奪う川とか昔はいっぺぇことあったんですけど、そういうとこでは大規模かつ長期の村人たちの献身による堤防工事、ときにはそこに人柱を埋めることなどが行われてきました。
記録を読むと、いくらみんなの命がかかってるからとはいえ今こんな条件でこんな工事しても誰も続かないし人柱にも納得しないよというムチャさであったりします。それを見ていると、「中世」みたいな昔には、「個人の意思」なんてたいしたものではなかった、ひとつの生き物のような共同体に属していなければ、生きていけない過酷な時代だったんだ……と思われるのです。
過酷な生を変えることができず、その道を生きていかなければならない人間には、悪く言えば麻酔のための、よく(?)言えば自分を共同体というひとつの巨人に融合させるための「物語」が必要です。
物語っていうのはつまり、自分のためには痛いのは怖くて耐えがたくても、「愛する友達を守るためならば」命を投げ出せる、痛くないと思える、みたいなものです。それが「愛国心」であり、「宗教」であり、「家」や「騎士道」や「正義」や「友情」……。青獅子の異端児であるフェリクスが反発してやまない「無駄死にを生むだけの無用な束縛」こそはまさに王国を定義しているもので、それが王国には必要なのです。苦しみに自分一人で向き合うのは、大半の人間にとってあまりにもむごいことだからです。
ファーガスにたくさんの英雄物語があるのは、セイロス聖教会に最も親和的なのは、それが個人の意思を捨てて「国」の一部となってつらい生を戦わねばならないモルヒネ、特攻していく若者たちの「聖戦(ジハード)」「お国のために」という叫びでもあるからなのです。
”機能的”人間
「国」というひとつの生き物の一部となって生きていくしかない……と当たり前に思ういわば中世的な人間は、そのひとつの生き物の生理現象と自分の思いが食い違っても、「仕方のないことだけど……」と悲しみ諦め、「こんな仕組みの世の中が悪いに決まってんだろゴラァ!!」とはなりません。腸内細菌ひとつが何を思ってても人間ひとりに影響はありえないし、人間が腸内細菌に人権や決定権を与えてないのと同じです。
だから中世的な人間は腸内細菌のように、貴族であれば体の中のひとつの臓器のように、細胞として生まれたときから運命づけられたものになり、期待されたとおりの機能を専門的にはたしていくのが正しいのです。それが、シルヴァンなら「破裂の槍が使える」こと、イングリットやメルセデスなら「紋章を持っているので有利な婚姻ができる」ことで、紋章を引き継ぐ機能はいわゆる「種馬」です。それ以外の本人の意思など、必要ありません。
そういう「体細胞」「臓器」としての機能を果たすことが人間に期待される社会で、昔は今ほどみんな「我」を大事にしてなかったんでしょうが、人間は生きてれば人生計画も意思も感情も生まれてくる。マイクランは「おまえは肝臓になるんだ」と育ってきたのに、ある日シルヴァンが紋章持ちとして生まれたとたん「やっぱおまえの進路は赤血球あたりだな」と言い渡されてしまったのです。そんなもん我の強いマイクランとしては齟齬が生じてゴーティエ家こと肝臓を爆発させようとしてもおかしくありません。また、これは帝国で起きたことですが紋章貴族制の生む悲劇としてはハンネマンの妹が「紋章をもつ子を産める可能性が高い」と産む機械扱いを受けたあげくにその「機能」をはたすことができずいびられて死んでいった、ということも、王国にはもっとざらにあるはずです。
そういう悲劇も押し込めて耐えていくのが、共同体がひとつの体となって生きていくということです。
レアが教会の敵対者に対してこのように言うことを、現代のわれわれは「なんかこの人ヤベェな……」と思いますが、「共同体の民草がひとつの生き物として統制される」中世の秩序を思えば、これはガン細胞が排除されたぐらいのことにすぎず、教会という脳の統制や全体の平穏に反して動く部位があったら「治療」してやるのがむしろ正しいやさしさとさえいえてしまうのです。
そんなのおかしいよ、と思うのはわれわれが現代に生きていて、個人が個人として生きていくことをタテマエとしては保証されることのできる豊かな時代をそうと知らずに享受しているからにすぎません。近世・近代的に豊かな帝国の貴族出身の生徒たちが個人主義なのと同じです。中世のような非常時ともなれば、個人の考えなんてすぐ排除されて当然って流れになるかもしれません。
その証拠に、ロナート卿と彼を慕う民たちが「ガン細胞」として立ってしまったのを見た心優しいディミトリも
こうやってすごい悲しみ怒ってるのに
これだよ。わりと冷静に手術を決行。
ディミトリは「こんなの絶対おかしいよー!」と心が叫んでも、それが社会の秩序を守ることなら堪え、ロナート卿やエーデルガルトなどの「今ある正しきものを壊さんとする」者を殺します。
エーデルガルトは彼が気付いたときには既に余罪が多すぎたから冷静になれなくて当然ですが、ロナート卿にも「貴公の悲憤にとりあわない教会は間違っている!!」とか、言わない。
無辜の民を守るということ
なんでディミトリが「こんなのおかしいよ」の思いに従わず、秩序を優先するのか。今あるものをなるべく変えないことを選ぶのか。こんな個人の気持ちを切り捨てる「古き良き世」の何がいったいいいっていうのか。
それは、「弱いものが傷つくのを最小限にとどめる」ことができるからです。
当方はしばしば三国志系の友達に「赤いのが曹操で青いのが劉備」と言って『風花雪月』をすすめているのですが、ディミトリは三國無双の劉備のような「仁君」であり、無辜の民の犠牲をなによりも悲しみ、(漢室の)理想政治の復興をめざし、であるからこそ大事なものを壊されると我を忘れて苛烈壮絶に怒ります(夷陵)。
劉備の言う仁とは心や力が弱く惑う民草を守り導き、理想的には敵であったものをさえ愛し手を差し伸べることです。三國無双の曹操と劉備も「覇道」と「王道」と描写されますが、「覇道」は理にかなって早期の抜本的解決を目指せるけれども、その嵐に巻き込まれて傷つく者は多く、「仁」ではありません。エーデルガルトの覇道が決定的に戦争を起こし多くの人命を奪った直接の原因となったことは間違いありません。紅花ルートでディミトリはそれを「畜生の道」であると言って非難しました。
この違い。
そして進歩主義的で現代個人主義的なエーデルガルトの覇道の問題点は、人の「命」だけにとどまりません。弱くて、何かの一部となることでしか平穏に生きていけない人間は、彼女の歩みについていくことができないのです。それを闇うごやエーデルガルトは「獣」だって言うのかもしれませんが、そういう人は実際いっぱいいて、その弱さは悪というほどのものではないはずです。エーデルガルトが目指すように人間として進歩しよう、あるいは自由な個人として自己決定して生きていこうとすることには摩擦がともないます。
現代社会でも、「自由」という理想に追いつけず、やりたいことをもてないで苦しんだり、自分で交友する人を選べなくて孤独になったりする人がいかに多いことか。
ディミトリが「彼らは騎士でも兵士でもない!」と言うように、「自分の望みのために戦う覚悟」を決めた人間ばかりがこの世にいるわけではありません。それができない弱い人間は、覚悟を決めた人間同士の争いに轢き潰されるしかないのでしょうか?
そんなむごいことが起こるくらいならば、国というひとつのいきものの中の秩序だった役割に皆が割り当てられ、静かに、平穏にくらしていけないものだろうか?
たとえ胸の傷が痛んでも(アンパンマンマーチ)……
いつか遠い日の君へ
ディミトリもたぶん気付いてはいるのです。胸の傷が痛むということは、幼馴染たちが苦しそうな顔をしているということは、ドゥドゥーやアッシュが個人としてこんなに大事だということは、もしかしたら、自分たちは「臓器」であることを卒業すべきときに来ているのかもしれないって。
でも、エーデルガルトが
「私たちは相容れない正義を持つ相手を排除して進むしかないのよ」
っていうのは、本当にそれしかないだなんて思いたくない。そんなものは弱肉強食の「獣」のすることで、人間の道ではないから。人間にはそうではない道があると、どんな道かはわからないけれど、探したいから。
ロナート卿は利用されて負け戦に挑んだのだとはいえ、戦った動機としてはミニ・エーデルガルトです。実際エーデルガルトも彼のしたことに共感を示しています。
エーデルガルトとロナート卿の違いは、勝てるように現実的に状況を整えたかどうかだけ。当然出た被害の多さやディミトリの肉親の死が関わってるかというところは違うのでディミトリは怒り狂うことが確定しているわけですけど、そういう感情の暴風を置いておいたならば、ディミトリはエーデルガルトにも同じことを思っているということです。それが序盤に前もって描写されているのだとおもいました。
何か別の方法で理解し合えたのではないか?…
ディミトリも「何か」と言っているように、それがどんな方法なのか、このときのディミトリには見当もつかないし、われわれにもわからない。
4つのルートがある『風花雪月』において、青獅子ルートは四大元素の「風」、現実から離れた理想や言葉と理性による対話の力に対応しているのではないかと考えています。日本には古くから「和を以て貴しとなす」とか「広く会議を興し」とか言うけれども、話し合いですべてが解決することはないし、解決したと思ったら別の誰かが踏み潰されることになってたりする。
致命的に傷つけあわず愛し合えるように、傷ついたとしてもそれが癒えるようにだなんて理想、人がそれぞれに心をもって生きていくこととは矛盾するのかもしれない。自分が生きているあいだには、もしかしたら永遠に答えは見つからないのかもしれない。しかし、それでも……。
しかしそれでも、と敵に向かって届かぬ愛の手を差し伸べた、『真・三國無双7』の劉備ifルートを引用して青獅子ルートへの感慨の整理をひとまず終わりたいとおもいます。
曹操:
つくづく……邪魔な男よ……
仁などで……人を導けるか……
理を示し……力で律さねば、人は……(劉備を指差す)劉備:
(曹操の指差した手をそっと包む)
そうかもしれぬ
だが、私はそれでも、人を信じたいのだ曹操:
ふ…… ならば、やってみるがいい
さらばだ、劉備
(倒れ伏し、劉備の差し出した手が中空に残される)
(カッコ書きのト書きは引用者による)
当方のいちばん好きな三國無双のエンディングです。
【追記】この記事を踏まえた蒼月ルート全体の話もかけたよ
↓おもしろかったらブクマもらえるととてもハッピーです