基本的にはよいドラマの見せ方って、
最序盤でテーマを暗示することからはじまると思うんですけど
(『E.T.』の開始10分ぐらいの彼らが出会う前のシーンで「E.T.が仲間に取り残され異郷で追われる存在になった」こと、「エリオットが子供だと馬鹿にされ、ばらばらになりそうな家族の中で疎外感をおぼえている」ことを示し、彼らが「お互いの孤独によって繋がり合い、エリオットが大事なものとの別れを受け入れる成長を得る」というテーマを暗示しているみたいな感じ)
それ考えるとドラクエ11におけるイシの村でのオープニングってかなりデカいしメッセージ性が強いな~ってなったんですよね。
成人の儀式
いうまでもなくドラクエ11は主人公(とエマ)のイシの村での成人の儀式をチュートリアルとした感じで始まるわけですけども。
このイシの村の成人の儀式について整理しておきましょう。
●イシの村は地図に載ってない感じの小さな・どこの勢力にも属さない村で、赤ん坊の主人公が流れ着いた
●イシの村では、村人は全員、この世界の標準成人年齢とされる16歳になる誕生日に、成人の儀式を行う
●成人の儀式では大地の精霊が宿るといわれる「神の岩」に登って頂上で祈りを捧げ、頂上で見えたものを村長に報告する
●頂上から見えるものはロトゼタシア(世界)の広大な景色であり、それを見て戻って来ることがしきたりの目的ではないかとエマは言う
『E.T.』とか『千と千尋の神隠し』とかの序盤では主人公の少年少女の未熟な面が示され、それが成長を得るであろうことが暗示されてますが、
「成人の儀式」が丹念に描かれて物語が始まるということは、この作品が最終的に目指す「成熟」とはどういうものなのかを暗示していることになります。
このショットだけでなく、見下ろしたロトゼタシアの描写がヤバい。景色がいいとかそういうレベルではない。ハチャメチャに丹念。何を考えているんだよ。
せっかく丹念なのでこっちもちゃんと考えてみます。
大人の条件
ドラクエ11では、激しく大人げなく見えたり幼女かというようなピュアさだったりの某36歳子供部屋おじさん×2が盛大なケンカを繰り広げてくれるわけで、別に彼らが悪いわけじゃないんですが、じゃあどんなだったらいい感じの大人になれるのかというのは重要な課題です。
イシの村の成人の儀のルールから、ドラクエ11のいい感じの大人を洗い出してみましょう。
まず「16の誕生日に」というところは過去作品のオマージュであるにしても、勇者となる主人公だけでなく村長の娘であるエマでも誕生日が主人公と違ったら一人で行かなければならなかったと言っていることから、「村人は(たぶん天候不順とかでない限り)例外なく全員16の誕生日に儀式を行っている」ことがわかります。また、村の年長者たちは皆成人の儀の経験があるようです。
特別な存在だけが一人前の大人になるのではないし、一人前の大人になることに誰にもなんの特別扱いもなく、力のない女だから、あるいは逆に村長の娘というちょっとした権力者だから、免除されたり代行がきいたりもしないということがわかります。ドラクエ8のサザンビークでチャゴったのとは大きな違いといえます。
しかしそれだと脚や目などの能力が山登りに向いてないフレンズがどうしているのかというのが気になるところです。その描写はありませんが、次のルールがそこを解消できるものかもしれません。
次の興味深い特徴として、「一人で行かなければならないというルールは存在しない」ということがあります。誕生日がズレてたら一緒に行けなかったとは言ってますが、「本来一人きりで成し遂げなければならないところをどうにか曲げて今回だけは二人でやってもいいよ」みたいなことは誰も言っていないし、ダメ押しにかなり強ぇわんこ・ルキさんに先導までされているのです。
どこかに行って戻ってくるタイプの通過儀礼の多くは、一人で行ってくる(集団を離れても自立できる強さを示す)ことが大人になるために重要だとされるので、これは注目すべきルールです。イシの村の一人前の大人は他人の力を借りても問題ないということです。
そしてエマのように物理的に弱くても問題はないし、しかし、常に近くで応援をする。ひとりでなんでもできることではなく、多様な社会参画、丸投げではない協力関係が望まれているらしいです。
ペルラママやベロニカ先輩もそうですが、エマさんも戦う力がないぶん、如実にこの世界において目指すべき人間像を示す立ち位置にいます。敏腕復興マネージャーエマさん。
大人とは何をする者か
最後に一人前の大人であることの内容です。これが一番重要ですよね。
現代社会では何をもって「大人」とするのでしょうか?
経済力などのチカラにおいて自分で自分の身を守れること、自分の意思を自分で決めて責任を負うこと、それまで庇護してくれたもののもとから離れること……など、
人によっていろいろな定義があることでしょう。
また、時代や社会階層をイシの村の村人に近づけてみれば、たとえば中世~近世の一般村人には大人も子供もありません。これも「国家」のイメージと同じく現代のわたしたちが自明のものだと誤解しやすい新しい概念なんだよって話なのですが、「子供」というのは世界的にもけっこう新しく発明された概念です。
(1762年にルソーが著書『エミール』の中で「子どもの発見」を説いています。それ以前には人間の「子ども時代」という段階は考えられておらず、子供は小さいだけで大人と同じに考えられていました。「子供服」のような概念もこの後生まれました)
武家や貴族階級には元服(初冠)・裳着、西洋であれば従騎士や騎士に任ぜられることや社交界デビューして官職を受けること…などの成人式的な通過儀礼がありましたが、農民などの労働者階級にとって若年者とは小さな労働力なのであって、よほど幼児でもなければ大人との境目はありません。
日本語の「大人(おとな)」とは「乙名」という言葉を由来とし、乙名は村の代表者・指導者、つまりイシの村であればエマの父ちゃんだけをさす言葉だったのです。武家であっても、江戸時代には「武士の子」を卒業して本物の「武士」になれるのは長男、惣領息子だけだったほどで、「年齢が基準に達すれば誰でも一人前の大人として扱われる」などという現代の感覚はかなり新しく、奇抜なものなのです。
このような時代一般の、いまで言う「大人」とは人に指図する権力をもった特権階級のことでした。労働者階級は「大人」になる必要がないとされていたともいえます。
というところでイシの村の成人の儀式のふり返りに戻りますけど。
エマは「このしきたりを考えた人…きっとこの景色を見せたかったんだね」て言います。つまり「広大な世界を眼下に見はるかす」ことが成人の儀式の目的、そのような大人になるべしとドラクエ11では語られていることになるのですが。
おかしくない?
いやいやいや、
農村(しかも外との交流がほとんどない)のいち村人ふぜいが、
広い世界なんて見はるかして何になんのよと。
「大人」になる必要すらなかったっつってんのに。
主人公はこれからこの広い大地に出ていく勇者になる予定になってるからなんか予習になったし、プレイヤー的にも「この美しい世界を救うんだ…!」みたくなったからよかったけど、
90%くらいの村をほぼ出ていかない村人もみんなこれやってるのになんの意味があんのよ。
意味があるんですよ。
イシの村の成人の儀式が養成している大人とは、ドラクエ11が目指すべきとしている人間像とは、
観(かん)の目を持った村人なのです。
上と下、星と石ころ
観の目っていうのは宮本武蔵の『五輪の書』に出てくる言葉を引っ張ってきたのですが、
その話の前にドラクエ11のテーマとなる対立を整理しておきます。
ドラクエ11は「勇者の星」がテーマに重要なキーワードとなっており、成人の儀式に続いて最序盤で語られます。
邪悪なるものを倒した勇者が星になったものと伝えられる赤い星は人々に希望を与えており、デルカダールでは『双頭の鷲 ふたりの英雄』的な本が著されて将軍たちが市民の心の支えや子供の目標となり、またサマディーでは「騎士たる者!」から始まる騎士道がロマンある規範となっています。星とは人を導く希望の指針のことです。
しかし、「皆の理想像であるために嘘をつき続ける王子」「孤児院を救うために裏で魔の手先をするチャンピオン」「惑わされ依存する者を取り込む幸運の壁画」など、世界の各地で「星を仰ぎ見て頼るものたち」と「祭り上げられた星」との間の相互不理解がやべー事態を生んでいました。ことに、壁画の件などは幸福を叶えてくれる「何か」に依存する民草の愚かさが深刻でした。
上で支配する奴(星)がいて~ 下で動いてる奴(人)がいる~
(ダンシングサムライ/かにみそP)
この星と人との断絶は、愚かなドブネズミどもだけが悪いのかというとそういうわけでもなく、
同じように断絶が起こってたせいでエグい悲劇が起こったホムラの村では、「星」である村の指導者の秘密に気付いた村人が処されそうになっており、ホムラだけでなくどこでも、そしてさまざまな意味で、支配者側もちゃんと支配を敷くためにはよけいなことを知られたら困るという面もあります。
「ヤツらは批評的な思考回路を持つ市民を求めない。ヤツらは情報に通じていて教養があり批評的な思考回路を持った人達は求めない。ヤツらにはなんの足しにもならない」
「ヤツらが欲しいのは素直な労働者」
そういうわけなので、「神の岩の村」とかだったらカッコいいのにあえてそうしない、とるに足らぬただの小石(北米版でも敷石に使う小さな丸石)を表す「イシ」の村の村人が「高いところに登って」「広い世界を知る」というのは完全によけいなことであり、
「上で輝く星」と「下で見上げる石ころたち」の断絶をド破壊する行為なのです。
『五輪の書 水の書』によると、兵法において「目の前の相手の剣を見る目」のことを「見(けん)の目」、「大きく相手の状況などを含めた全体を見る目」のことを「観(かん)の目」といいます。
目の付けようは、大きに広く付くる目也。
観見二つの事、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見る事、兵法の専也。
――宮本武蔵『五輪の書』
これは兵法に限ったことではありません。
こないだFate/Grand Orderで『徳川廻天迷宮 大奥』ってイベントがありました。そこでもこのワードが出てきます。
江戸時代初期にやってきた未来人である主人公たちに現地人であるかの春日局が先の世の徳川のことをいろいろ興味をもって聞くのですが、当然徳川にも悲しい未来はありますし「のちの世のことをみだりに知らせるのは良くないので」という言い訳で話さない判断をすることもあります。それに対し春日局は気を悪くしたり混乱することもなく、
「まあ。なるほど、先のコトを知っていると、"全体の予定が狂う"ということですね? わかりました」
と平然と答えます。それに対しサーヴァントの一人が
(……全体の予定、ときましたか……。
魔術的な知識も、近代の知識もなく、過去と現在と未来が一つの帯であると感じ取れる……まさに全体を俯瞰する観の目。
これほどの方ならば、なるほど――歴史に名を遺す女傑というのも頷けます)
と心の中で評するのです。
ふつう、モブ村人というのは自分の周りの生活のことしか見えていません。「広い世界を知る」ことは観の目に相当します。
五輪の書は兵法書なので戦いのことを言っていますが、目の前の見えるものしか見えなくなるのはグレイグおじさんの悪いクセ(友人談)であるだけでなくふつうの人間誰しものクセです。
別にそれでもぜんぜん生きていけますし、広い視野をもち遠いところも近くのように考えるなんて難しいというよりもすげーめんどくさいことです。たとえば世界中で起こっている差別や紛争や環境やなんやかんやの問題を、自分に関係ない限り視界に入れないほうが快適ですよね。広い世界なんて知らないほうが頭がラクな単純な生活ができるってわけです。
しかし、そのめんどくさいコストを払えとイシの村の成人の儀式は突きつけてくるわけです。
広い広い世界の社会成員である自分を知り、
「ただ日々を生きている無力な村人」ではない視点を持つことで、
この世界のフルメンバーとなれというのです。
人間世界で最後の砦
成人の儀とドラクエ11がなれとエンカレッジしてくるところの大人の話はここでひと段落なのですが、
イシの村は成人の儀を終えて出ていったあとも(村焼かれに興奮する以外にも)もうひとつ重要な役割をもつスポットとなります。「最後の砦」です。
大樹がウルノーガの手によってドーンしたのち、デルカダール城下住民の生き残りとデルカダール城に収容されていたイシの村人たちがかつてのイシの村を簡易要塞化し、生き残った人々を救い集め、魔物たちから守る拠点としたものが、最後の砦です。
最後の砦は英雄グレイグが救助活動の指揮を執っていることもあり、わりと「人間世界に残った最後の希望」みたいな描写のされ方をしています。
のちにほかの街もわりと生き残りまくってるじゃねーか(よかったね)ということがわかるのですが、とにかくお魚世界からあがってきたばかりの勇者=プレイヤーにはそのように見えるように描写されていますし、なにより砦にいるデルカダールの生き残りたちがそういうノリでいます。彼らの感覚を考えれば、世界一の大国デルカダールの崩壊は世界の崩壊にほぼ等しく、最も秩序だった繁栄を謳歌していた人間たちが突然混沌に突き落されたということになりますからね。
しかし問題は「なんでそれ(最後の砦)がよりによってイシの村なのか」ってことです。
こんがり焼けてんだぜ!? てめーんちの元将軍の指示でよ!
家屋すらこんがりして機能しづらくなってるとこが砦として有利なわけねーだろ!
まあ作中の状況で「成り立ちうる理屈として」は、あの村は大地の精霊の加護を受けているので、今までどこの勢力からの保護も必要としてこなかったほど周りの魔物も弱くて地勢がいい…みたいなことは考えられるのですが、そうじゃなく「意味合いとして」です。「イシの村は人類世界最後の砦である」という字面のおもしろさ。いや笑い事ではない。
ここで、イシの村とその成人の儀式の、この世界における特殊性に気付くのです。
この村には「英雄的指導者」がいない。
この世界に(そして現実にも)よく見られ、デルカダールに特に顕著である、社会階層で住む場所が高低・内外に分かれるような村の構造もありません。勇者であるという主人公にも過剰な期待を寄せたりせず、よってなんか主人公のせいみたいに言われて自分たちが苦境に陥っても恨みもせず、「愛すべき村の兄ちゃんが旅に出た、ご安全に」ぐらいにしか思っていません。
そしてひとつひとつの石ころであるひとりひとりの村人が、
「高く大きく広い視野をもて」という成人の儀式で大人になる、
いわば断絶した孤独な「星」はなく、
同時に全員が輝く「星」であれる村なのです。
つまり、英雄的指導者の権威が他を寄せ付けず、また固定された「上と下」に安住する人々で栄えた(ウルノーガがさらにその性質を強め「名君」と呼ばれた)大国デルカダールとは、テーマ上真逆の共同体だったのです。
ここからは妄想タイムになりますが(ほわんほわんほわんほわん)
大樹が落ち権威の象徴である城が破壊されるのを見たデルカダール住民たちは、信じて盲従してきた圧倒的な「星」がなくなったことでこの世界のどこの民よりも途方にくれ、自分の頭で考えることが難しかったのではないかと思うのです。ことに最後の砦に貴族らしき生き残りは少なく、兵士たち以外には中下層民が目立ちます。「星」に従っていれば安泰だと思っている人間は逃げ遅れがちだったでしょう。
非常時のためかどさくさに紛れてなのか、そのタイミングでイシの村人らは囚われの身から解放されました。イシの村人は誰かに盲従せず、大人はみな少しは視野を広く持つことができ、ヨコの関係で協力し合えるので、そういった無秩序に絶望せずにサバイヴする能力が高いわけです。ペルラ母さんがデルカダールの住民も恨むことなく手をひいてたくましく走っているようすが目に浮かぶようです。
その結果として、イシの村人らは生き残ったのではと。焼け跡のくせに砦になったのではと。
イシの村の表している人間の力こそが、(わたしたちのこの世界を含む)人間世界の最後の砦であると、
イシの村は語っているように思われるのです。
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